第一章-1

 学院の昇降口。

他に使っている者などほとんどいない箒置き場に立ち寄るカリムの姿は、多くの生徒が登校している中ではよく目立つ。

もうすっかり慣れた、チラリと送られる視線にあくびをひとつ。

相変わらずな日常がそこにはある。


 ポケットの振動もそうだ。またぞろ友人の誰かがしょうもない用事でコールを寄越してきたか、はたまた宮古が伝え忘れたことでも連絡してきたのか。


そう思い取り出した通し手鏡ワイズミラーの鏡面に表示された名前を見た瞬間、カリムは思わず立ち止まっていた。


「……っ」


 樫宮かしみや揺月ゆづき


 指先が固い。

このまま鏡面にタップしたら双方ともに割れ砕けてしまうのではないかと、馬鹿な考えが一瞬頭を過ぎる。


 立ち止まり、通し手鏡をジッと見つめるカリムは、自身に送られる訝しげな視線にも気が付かない。

遠のいた現実感の中、手の中で震え続ける手鏡と、コールに答えよと責め続ける名前をただ凝視し続けるのみだ。


 見つめる鏡の向こう側に彼女の相貌が透けて見えるようだった。

アッシュグレーの髪に、ゾッとするほど白い肌、そして色素の薄い灰色の瞳がカリムの胸中を冷たく覗き見る。


 全部知ってるから。

そう告げる言葉などどこからも聞こえてこないのに、あの冷たく甘い声でそう囁かれたような気がした。


「ちゃお」


「!?!?!?」


 尻を蹴り飛ばされたのかと思った。驚くカリムと一緒に通し手鏡も飛び上がる。カタンと落ちるその音が、朝の喧騒の中で妙に耳に響いた。


「え、驚きすぎじゃない?大丈夫?」


 拾われ差し出される通し手鏡の表面に、もう彼女の名前は表示されていない。

しかし、コールのアイコンに刻まれた『1』という数字に無機質な重さを感じるのは確かだ。


「ねえ、本当にどうかしたの?」


「え、ああ。何でもないですよ。ちょっと、ボーッとしてただけです」


 ようやく通し手鏡と彼女の存在感から顔を上げたカリムの前には、オレンジブロンドの髪も鮮やかなひとりの少女が立っている。


「それより何か用ですか、レイシャ先輩」


「ううん、別に。見かけたから声をかけただけ。ダメだった?」


 そうして小首を傾げる花のある姿に、青く澄んだ瞳。いつだって変わらない曇り空とは無縁の明るい立ち居振る舞いに、先ほどとはまた別の視線がカリムたちへ向けられる。

 なぜなら、レイシャ・クリエはいつだって朗らかに話すから。

変な遠慮も、妙な躊躇いも生じないその距離感は、誰もが自然と言葉を交わしたくなるものだ。


 カリムが揺月に対して抱く距離感とは反対に。


「で、何?彼女からコールでも来てた?」


「そもそもいない存在からのコールなんて来たら、確かにそりゃ飛び上がりますね」


「あら、そのうち来るかもしれないじゃない。カリムって結構人気あるのよ、知らなかった?」


「そんなん知ってどうするんですか。いつ告白されてもいいように寝癖は直しておけって話ですか?」


「寝癖って……。ま、君らしいか」


 呆れた、そう呟き歩き出すレイシャと並んでカリムも一歩を踏み出した。

ポケットの中で震えた通し手鏡のことは、努めて考えないようにしながら。


「でもホント、あんまりぼんやりしてると危ないよ。特に箒に乗ってる時とか。落ちてケガでもしたら大変じゃない」


「あー、まあ気をつけます、はい」


「いくら防護魔法があるって言っても、精霊が少ないと、どれだけ頼りになるかわからないもの、気をつけなきゃ」


「はは、まあそうっすね。ていうかレイシャ先輩、いきなりプレッシャーかけてくるのは勘弁してくださいよ。オレ、今日飛ぶんですから」


「プレッシャーなんて微塵も感じてないくせに」


 そう言うレイシャはおどけたふうに肩をすくめてみせる。

彼女がカバンに付けたアクセサリが揺れる音が、安っぽくも気楽な雰囲気を共有させてくれる。


「いや、さすがに少しは感じますよ。

ほら、グラオベーゼンが始まる前とか、『あー、オレ今アリステル中の人間に中継されてるんだなー』って思うと、中々にプレッシャーですよ」


「君のグラオベーゼンを見てると、とてもじゃないけどそうは思えないけどね。

あんな飛び方するヘクセなんて見たことないって、いろんな人が言ってるのは知ってるくせに」


「だからっすよ。いろんな人が見てくれるから、その人らを楽しませようと思ってあんな飛び方をしてるんです」


「そんな気を使うなら、ちゃんとダスト層雲を払えーって言われそうだけどね」


「それは言いっこなしで」


 そうしてクスクスと笑い合うカリムたちの横を通り過ぎる生徒が、また視線を向けてきた。

それは目を引くレイシャに向けてのことなのか、それとも学内にふたりしかいないヘクセが揃っていることへの好奇の視線なのかはわからない。

 学院に来る途中、カリムが何気なく話しかけられ、不躾に注目されていたのは、彼の三枚目な性格や高校生にもなって箒に乗っているからだけではない。


 カリム・カンデラがヘクセだから。これが最も大きな理由だろう。


 アリステルの空を覆い、人々が生活するのに不可欠な精霊が都市へ降りてくるのを阻害するダスト層雲。

その邪魔っけな雲を払い、精霊を呼び込むのがカリムやレイシャたちヘクセであり、彼らヘクセが精霊を呼ぶのに行う一連の儀式をグラオベーゼンと呼ぶのだ。


「ま、私も君のグラオベーゼンは好きだけどね。見てて楽しいし」


「先輩のパッとしない飛び方に比べればそうでしょうね」


「えーえー、どうせ私はパッとしない二流のヘクセですよ。でも、じゃあよかったじゃない。三流ヘクセの君に相応しい催しものがあって」


 含みのある物言いにカリムは眉根を寄せる。

「なんかありましたっけ? そんな愉快なの」


「ミラー・ツリーのオープニングセレモニー。

あれ、連絡いってない?飛んでセレモニーを盛り上げてくれないかーってやつ」


「や、来てないですね」


「え、ホントに? だってこういう見世物こそカリムの真骨頂じゃない。

君のグラオベーゼン中なんて、みんなして机の下で通し手鏡を見てるのに、授業そっちのけで」


 それはそれでどうなのだろうと思わなくもない。

しかし、カリムにしたところで、授業なんて聞いたり聞かなかったり、ノートを取ることもあれば寝てることもあったりと、レイシャを注意出来るほど真面目でもなかった。

 問題は、授業中に通し手鏡を弄れる環境があることか、グラオベーゼンを日中に行うことのどちらかだ。


「今日向こうに行ったら宮古にでも聞きますよ。

どうせ、三流ヘクセをセレモニーなんかで飛ばすわけにはいかないとかなんとかってことじゃないんですかね?」


「それはそれでどうかと思うけど……。というかカリム、今日は授業午前中で終わり?」


「そりゃまあ、午後は箒に乗って精霊たちとお空のお掃除ですし」


 グラオベーゼンをやる日は午前で早退。

これもまた、学院内でヘクセが目立つ理由のひとつでもある。


「私、今日の午後一発目が小テストなんだよね。しかも苦手教科の」


「だからなんですか。変われって言われたって無理っすよ」


「わかってる。わかってるけど、こういう時にヘクセの特権使えないのはもったいない」


「グラオベーゼンで授業抜けたって、どうせ後日補修とか言われるんだから、関係ないじゃないですか」


「そうだけどさ、テストまで時間があればなんとかなるじゃない。問題回してもらったり」


「セコイっすね、先輩」


「いいでしょ別に。この寒空の下飛んで、みんなの生活を良くしようとしてるんだから、少しぐらいお目こぼしがあっても罰は当たらない」


 そう断言するレイシャに賛同する気持ちがないかと言われれば、嘘になる。


 グラオベーゼンは夏暑く、冬は寒い。

ダスト層雲の量と精霊指数次第では雨だろうが雪だろうが飛んで精霊を呼べとお達しが来る。

そうしてグラオベーゼンを行うのだから、ヘクセに対して多少の見返りがあってもいい気はする。

どうせ補修があるのだから、授業を堂々とサボれたところで特に意味はない。


「とまあ、そんな風にこの間ゴネてはみたんだけど、物の見事に聞く耳持たずでヤんなっちゃったのよね」


「オレも今度宮古になんかねだろう」


 カリムがそう言ったところで学院中にチャイムの音が響き渡る。

気が付けば随分とレイシャと話し込んでいた。周りにはすでに生徒の姿は少なく、代わりに教室に入るよう促す教師の声がどこかから聞こえてくる。


「では、また」


「うん。ちゃお」



 レイシャと別れたカリムもまた、教室に入っていく。

席に着いていくクラスメイトたちに紛れてカバンを置いたカリムは、何の気なしに通し手鏡を手に取った。


『見にいくから』


 揺月から届いた短い文面に、カリムは凍りつく。



 チャイムの残響を聞きながら、カリムは授業があるからグラオベーゼンをサボれないかどうかをふと考えた。

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