イッセはなんの飾り気もないベッドに仰向けに横たわると、灯りを遮るように額に右腕を乗せた。

「大切なのは血なんかじゃない……か」

 いつまでも蝕んでいる胸の痛みに、心のどこかで期待していたんだなと苦々しく思う。

 伯父夫婦とサクラを失って苦しさを覚えていたのは自分だけだった。この気持ちは一生神代には理解できないのだと思うと、失望よりもショックが大きい。決して慰めてほしかったわけじゃない。けれど……

 兄さんの言葉を思い出す。

 『俺はツイてるよ。こんな時代だけど親がいて、サクラやイッセと楽しく暮らしている。イッセ、俺たちの血は普通の兄弟より薄いかもしれない。それでも絆は誰よりも強い。だから遠慮するなよ。俺たちに対しても、自分に対しても』

 そうだ。あれは確か家族を題材にした作文を書いた次の日だった。

 先生に指名されてイッセは自信満々に発表した。そうしたら放課後になって、親が役人だと威張っていたクラスの同級生数人に校舎裏に呼び出され、袋叩きに遭ったのだ。

 それだけならまだなんとか大事にはならずに済んだはずだった。しかし運悪くゴミ捨てに来た少年がその現場を目撃してしまった。

 同じクラスだった彼は養子だった。大人しく、特に目立たない少年だったが、それは彼が彼なりに考えて出したこの世を生き抜くための術だったのだろうと今では思う。しかしそれがまさかこんなところで裏目に出てしまうことになろうとは、彼とて思いもしなかったに違いない。いかにも無害そうな彼は興奮状態の奴等には恰好の餌食だった。

 イッセは痛む身体に無理を強いて彼の前に出た。別に格好をつけたかったわけではない。単に部外者を巻き込みたくなかったのだ。すると奴等は片眉を跳ね上げてしたり顔でこう言い放った。

 「なんだなんだヒーロー気取りか?いや違うなぁ、同族意識の同情か。泣けるねぇ。イッセクンは家族のいないぼっちだもんな。なんだよあの作文。〝父さん〟だぁ?お前に父親なんかいないくせによぉ」

 わざと嫌がらせをしているのだということは百も承知だ。しかしその言葉はイッセの胸に痛みを伴って深く突き刺さった。自分がなんの罪意識もなくしたことが、突然凶器になって降ってきたのだ。養子である彼が作文に何を書いたのかは知らない。それでもイッセは背中に庇った少年の顔を見ることができなかった。

 「知ってるかぁ?こいつの作文、白紙だってよ。担任に呼び出されてたもんなぁ。あの偽善教師も惨いことするよな。くくく、なのにお前はこいつの前で堂々と家族自慢しやがったんだよ。本当の父親でもないくせにさ」

 自分が間違ったことをしたとは思っていない。それでもその行動のせいで傷つく人もいる。イッセの中で一瞬の迷いが生じた。

 「いいぜ。『俺はぼっちなので家族はいません。作文に書いたことは全部でまかせです』って明日みんなの前で土下座するって約束しろよ。そしたらこいつには何もしないでいてやるよ」

 身体が動かなかった。ここで偽者の家族と認めてしまったら、帰る場所を失ってしまうような気がして。怖くて動けなかったのだ。

 奴はそんなイッセを横目に、少年のズボンを下着ごと脱がせると四つん這いにさせて犬のように歩かせた。尻を叩いて下劣な笑い声を上げている。一方で腹を蹴り倒されながら、少年の軽蔑の眼差しをイッセは全身に浴びていた。痛くて苦しくてただ泣くことしかできなかった。

 ――イッセ、俺はお前の味方だよ。俺が守ってやる。

 心の声、というにはそれはあまりにリアルすぎた。

 「だれ?」

 そう聞くや否や、イッセの身体は勝手に立ち上がり、子どもとは思えない力で目の前の奴を殴り飛ばした。尻餅をついた奴の口元には血が滲んでいる。突然の出来事に誰もが唖然とイッセを見つめた。

 「ブラックなのか?」

イッセは自分のしたことに驚きながらも、ある程度の確信を持ってもう一人の自分に質問した。

 ――嗚呼。でもその名前は好きじゃないな。俺にはヨシノっていうちゃんとした名前があるんだ。

 「ヨシノ?」

 ――そうだ。いい名前だろ?

 ヨシノと名乗ったもう一人の見えない自分と会話しているうちにも、目の前ではばったばったと人がなぎ倒されていく。もはやこれが自分の仕業だとはイッセには到底思えなかった。ちらりと目の端に映った裸の少年もすっかり怯えている。

 「い、いいのかっこんなことして。お前のせいで大好きなお兄様は生徒会長を辞めることになるぞ。不肖な弟を持ったばっかりになっ」

 口元がくいっと持ち上がる。自分の口なのにもはや自分のものではなくなってしまったようだ。

 「ハッこんなときばっかり兄だと認めてくれるのかよ。お前の家族の繋がりなんてきっとぺらっぺらなんだろうなぁ」

 「この野郎っ」

 ぱんっ

 不意に打ち鳴らされた音に、反射的に首を竦めた。

 「ちょっと待った、二人ともいいから落ち着け」

 騒ぎを聞きつけて真っ先に飛んできたのは兄のユキと担任だった。瞬時に事情を察したユキは迷うことなく二人の間に割って入り、戸惑う担任に裸の少年を保護するように指示を出した。その上でやりすぎだと相手を諭し、担任よりも大人らしい振る舞いをみせると、イッセを庇うように少年の前に立ち塞がった。

 いつの間にか集まってきていた野次馬たちは、人徳者だったユキの行動を見て判断したのだろう。殴っていたイッセではなく、悪者は完全に相手のほうになっていた。間違いではないがこうなると相手が不憫だ。

 「くそっ勝手に仲良し兄弟ごっこでもしてろよっこの上っ面家族野郎っ」

 その後相手が体裁お構いなしで親に泣きついたのはいうまでもない。イッセとユキは結局アズマと共に、先方の家へ不承不承頭を下げに行く羽目になった。アズマは一連の出来事に関して二人を叱ることはなかった。ただ黙って二人のために頭を下げてくれた。その姿が余計にイッセの胸をキツく締めつけたのだが、憤懣やるかたない表情をみせるイッセに、アズマはひとこと「気にするな」と言っただけだった。

 その日の夜のことだ。ユキがイッセを正面に座らせ、あらたまって言ったのだ。『俺たちの血は普通の兄弟より薄いかもしれないけれど絆は誰よりも強い』と。イッセは枕に突っ伏して声が枯れるまで泣いた。

 この事件は、まだ子どもだったイッセが自分の立場を自覚させられたと同時に、ブラックイッセが〝ヨシノ〟という名前と人格を持ってはっきりと表に現れた最初の出来事となった。

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