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「なんだ、まだ寝てなかったのか。明日は父さん早い時間に家を出るっていうから、イッセも一緒に起きろよ」
「えー困ったなぁ。宿題が終わらねぇんだよ」
「宿題?どんな?」
「……家族をテーマに作文。最低でも原稿用紙二枚とか、鬼だよ。ぜってぇ先生暇なんだって」
イッセは机に広げただけの原稿用紙をうんざり眺めた。真っ直ぐ列を成す茶色い升目にはまだ一文字も書かれてない。それでも最初の一列だけは苦心の表れである消しゴムの痕が申し訳程度に残っていた。
「こら、ブラックイッセが出てるぞ」
「ムッだってさぁ、もう二時間もこんなことしてるんだぜ」
「だってもクソもあるか」
頭を小突かれて反射的に反駁する。
「ッてーなぁ。兄貴のほうが口悪いじゃんか。クソとか言っちゃいけねぇんだぞ」
「うん。ますます生意気だな。そういうブラックにはこうだ」
「ぃてててて!」
ブラックイッセ、というのは思考が攻撃的になったときのイッセの呼び名だ。普段は比較的大人しいイッセだが、時折何かスイッチが入ったように攻撃的な言動をすることがあった。
一般にはこれを多重人格と表現するのだろうが、イッセ自身はこの現象を多重人格とは違うとはっきり感じていた。なぜなら人格が入れ替わっているのではなく、常に自分の中に二人の人間が存在していたからだ。
そしてもう一方のほうをブラックと名付け、姿こそ見せることはないがイッセの中で共存していた。
「そんなのいくらでも書くことあるだろ?この間だってサクラと三人で海を見に行ったばかりじゃないか」
「あれはだめだめ。自慢したいくらいすごかったけど俺たち三人の秘密じゃん。作文なんかに書けないね」
〝海〟というのは地上に広がる海のことだ。イッセたちが住む地下ドームに海はない。地上が汚染されていることはイッセたちのような子どもでさえ知っていたが、除染された地上ドーム内にも一部海が存在するところがあるときいて、妹のサクラと三人でこっそり見に行ったのだ。思い返してもなかなかスリリングな冒険だった。
「あぁそうか、バレたらややこしいしなぁ。じゃあ父さんのことは?」
「ガインズ?」
「そう。父さんはガインズのリーダーで、俺たちの憧れだろ」
「ガインズ……うんいいね、それがいい。父さんのことなら書くこといっぱいあるよ」
「よし、決まり。さっさと終わらせて早く寝ろよ」
「はぁい」
自分とたった一つしか違わない兄の、ひと回り大きな手がイッセの頭上に伸びた。反射的に首を竦めたイッセの頭を、破顔しながら優しく二度撫でる。それはまるで〝父さん〟と同じ仕種で、イッセは胸がこそばゆくなった。
「ホワイトに戻ったな」
「う、うん。ありがと」
照れを隠すように慌てて机に向かう。優しくて頭が良くて運動も抜群に得意な兄が、イッセは何よりも自慢だ。そしてそんな兄が尊敬する〝父さん〟はそれ以上にもっともっと強くてかっこいい、みんなのヒーローだった。
いっぱいといった言葉に嘘はなく、原稿用紙はあっという間に埋まった。それどころか紙が足りなくなって、家にあったレポート用紙に続きを書いた。
そのまま机に突っ伏して寝てしまったイッセを、わざわざベッドまで運んでくれたのは〝父さん〟だった。
目を覚ますと〝父さん〟は既に家を出た後で、原稿用紙の上にひと言、几帳面な文字で「ありがとう」と書かれたメモが置かれていた。
ごく自然に〝父さん〟と呼んでいた伯父のごつごつした手の感触は、知らぬ間にイッセの身体の奥底に染み付いていた。今でもふとした瞬間にイッセをノスタルジーに誘い込んでは、まるで「忘れるな」といわんばかりに罪の意識を駆り立ててくる。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。夢の中でいくら謝っても帰りたいあの場所は戻ってこない。
最後に見た〝父さん〟の手は、いつもと同じでごつごつしていた。ただ違っていたのは、まるでペンキに突っ込んでしまったかのようにどこまでも赤く染まっていたことと、いくら強く握ってもピクリとも動いてくれなかったことくらいだろうか。
〝父さん〟は最愛の妻と娘を連れて、あの日、二人の子どもを残したまま先に旅立っていった。
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