沼……か。

 暗闇をみてふと浮かんだイメージに霧ノ井は違和感を覚えた。記憶を遡る。果たして自分はこれまでに本当の沼を見たことがあっただろうか。

 もとよりベッドタウンとしてつくられたこの生活区において、沼なんてものは存在しない。あったとしても二百キロ離れた田舎村のドームくらいだろう。そんな辺鄙な場所に自ら好き好んで行く人は珍しいし、今どきデートでも使わない。ドーム中央に建設された展望台から眺める夜景や、人工の星空のほうが幾許かロマンチックというものだ。

「そういやユキ君て素質あるよねぇ。たった一月でここまでシンクロできるなんて、他にみたことないよ。ナガレだって三ヶ月かかったのに。あ、僕は例外だけどね。誰がいったか知らないけど、クロイドの申し子らしいから。三日もあれば十分なんだぁ」

 いつの間に移動してきていたのか、渡瀬の銀色の頭が霧ノ井の左に揺れていた。普段はだぼだぼのTシャツ一枚で下着さえ身につけていないような人間なのに、今はきっちり黒ずくめの制服を着ている。その隣には当たり前のように佐丸の姿もあった。

 ね、ナガレ。そう振られて佐丸は、いつもにも増して感情のわからない能面ヅラを上下に動かした。しかしその後には「コードネームを使え」のひとことを添えることを忘れない。佐丸は基本、神経質なのだ。

「あはは、ごめんごめん」と渡瀬は注意されているにも拘らず、まるで褒められでもしたかのように満足そうに笑っているのだから理解に苦しむ。

 詳しく訊いたわけではないが、この二人の付き合いは長い。霧ノ井が入り込む隙間など、光に透かしてみたところで見つけることは不可能だ。まぁ混ぜてほしいなんて、たとえようこそと歓迎されたところで微塵も思わないだろうが。

 とはいえこんな二人も能力だけはずば抜けて高いのだから妬けるというものだ。特に渡瀬は申し子という言葉が冗談にならないほどの優秀さである。霧ノ井も素質があるとお墨付きは貰ったが、まだまだ足元にも及んでいない。

 さりげなく自分よりも背の低い渡瀬に眼をやった。それなのに先読みされていたかのようなタイミングで視線がぶつかり、思わずたじろぐ。どうも渡瀬は苦手だ。

「それとさぁ、君ってマゾなの?それともザド?」

「……は?」

 予想外の問いに霧ノ井は思わず声を裏返した。いくら先輩で部隊長だとはいえ、どうにも聞き捨てならないセリフに、表からは見えないとわかっていてるからこそ、限界までグラス越しに目を剥いた。渡瀬はそんな霧ノ井の態度に、さも珍しいものを見たかのようににんまりと口角を上げ、満足げな笑みを浮かべている。

「だってさ、今から僕たち君の古巣を叩きにいくんだよ。もちろん全員を無事に捕縛するなんて、そんなうまいこといくわけないじゃない。仲間がやられて――っていうか自分が手を下さなくちゃいけないのに何とも思わないなんて、ただのマゾヒストかサディストのどちらかだと思わない?君、仲間を売ってアーサーに入ってきたらしけど、アーサーは君の仇でもあるわけだからさ。ね?」

「……はぁ」

「うーんそれってどんな心理なのか興味あるなぁ」

 本気なのかただからかっているだけなのか、鋭い指摘に動揺を悟られないよう霧ノ井は平静を装った。

「別に期待してるようなことは何もないです。自分が欲しいのはアーサーの力ですから。その為にはなんだってしますよ」

「ふーん」

 気がない返事に渡瀬の唇がみるみる尖っていく。その造形を可愛いとでも思っているのだろうか。ちょいちょい渡瀬は好んでこの表情をみせる。

「ちぇ、つまんなーい」

 見た目も言動も年齢不詳の男は、それだけ言うとぷいっと興味を無くしたように前を向いてしまった。しかしその口元がうっすらと笑っているように見えたのは、たぶん気のせいではない。

 スピードを上げた渡瀬と次第に距離がひらいていく。追い越しざまにサッと投げつけられた、砥ぎたてのナイフでも仕込んでいそうな佐丸の鋭い視線に、霧ノ井は敢えて気が付かないフリをした。去った後に人知れず眉根を寄せる。

 視線の意味はわかっている。佐丸は渡瀬のパートナーであり、同時に霧ノ井の監視役でもある。仲間を裏切るようなことがあれば即座に討つ、と何も言わずともその瞳が強く主張しているのだ。

 僅かに上がってきた呼吸を整えながら、二度三度と深く息をついた。悪魔と契約を交わす儀式のように、ゆっくりと慎重に意識を集中させる。

 遠くに覚えのある扉が見え始めた。あっという間にその姿は大きくなってこちらに迫ってくる。遂にきてしまった。あの扉の向こう側には嘗て仲間だと教えられた人たちがいる。マスクグラスのおかげでこちらの正体がバレることはないが、自分はこの先、相手の顔を忘れることはないだろう。

「さって、では行きますか」

 渡瀬のひと言で辺りの空気が一気に凝縮された。あまりの濃さに息もできない。胸に手を当てると苦しいが昂っているのがわかる。

 無理矢理押さえ込まれていた力が今度は一つになって膨張を始める。止まっていた空気が振動し、ビリビリと肌を震わせた。

 扉がガガガと呻き声を上げ、スローモーション再生を見ているかのようにゆっくりと開かれていく。

 霧ノ井は臓腑に重たいものを感じながら、奥歯をぐっと噛締めた。

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