第一章 【血束】

 顔を隠すためのマスクグラスは、こんな沼の底のような黒い世界では大して意味を成していない。

 霧ノきりのいユキは顔の上部(主に瞳)を覆っている、黒い透明レンズが嵌め込まれた、それこそ7.62ミリライフル弾でもない限り貫通しないような硬質な素材に指を滑らせると、皮肉を込めて薄く笑った。

 確かに、暗視装置内蔵型のこのマスクグラスには、生体感知システムや超望遠システムなどの最先端技術がこれでもかと盛り込まれていて、便利といえば便利な代物といえる。しかしクロイドと融合している自分たちにとってはちょっと視界が良くなる程度のことで、そこまでの恩恵は残念ながら今のところ感じ得ていない。ただクロイドの能力には個体差があるから、この暗視装置等々に助けられている奴も少なからずいるのだ。

 そんな数ある機能のうち役に立っているといえば、リミットがきた際の分離信号だろうか。脳に直接信号を送るのにこのマスクグラスは欠かせない。ルコールでも何とかなるが、その場合、信号で分離したときよりも反動が大きい。身体に掛かる負荷を考えると、できることならあまり使用したくはない。

 それと国の機密部隊であり国防軍の親衛隊である【アーサー】の面が世間に晒されないためのミラージュ機能。これがいちばん重要だ。要は顔を隠すにはマスクがいちばん、なのだ。

 安直だが、だからこそ成果は挙げている。後から追加されたモザイク機能はどうやら優秀らしい。

 しかしこの見た目はどうにも及第点を与えるには申し分がありすぎる。

「ねぇ僕たちさ、陳腐なヒーローアニメにでも出てきそうだよね」と笑っていたのは部隊長の渡瀬わたせシロだったか。

 闇の奥、正面を見据えると、その渡瀬が今にもスキップしそうな勢いで駆けているのが見える。もちろん霧ノ井からは背中しか確認できていないのだが、この状況を楽しんでいるだろうということは、渡瀬の性格を少し齧ったことのある者なら誰しもが推量できている事柄だ。

 なんせつい一月前に入隊したばかりの霧ノ井でさえある程度は想像できているのだから、たとえば渡瀬の隣を平走している佐丸さまるナガレには、その感情は手に取るようにわかっているに違いない。

 一般の人間では考えられないスピードで先頭を行く二人の背中が、ぽかりと空いた闇に溶けていく。この先に待ち構えているであろう出来事に眼を瞑り、霧ノ井は二人の背中を追った。


 どこまでも続くような深い黒。地中道ならではの湿っぽさ。息苦しく感じるのは押し殺している感情のせいだけではない。

 今からおおよそ半世紀前、世界中が大規模な天災に襲われた。後に〝アーク〟と名づけられたそれは、嘗てない未曾有の出来事として歴史にその名を刻むこととなる。

 天災は四十日もの間人々を苦しめ、地上は壊滅状態に追い込まれた。人口は地球全土でみても半数か、それ以下まで激減。さらに時間の経過と共に空気汚染が進行し、遂には空気清浄を行っていない土地での生活が困難となった。

 人々は生き場を求めて地下へと逃げ込んだ。噂では天災を予知していた政府が、秘密裏に地下シェルターをつくっていたという話もある。しかしアーク後に生まれた子どもたちを親に持つ、第二アーク世代といわれる当時を知らない自分たちには、どれが本当で嘘なのかの判断はつかない。

 地下ドームは既に完成された国家である。その数は優に五十を超え、今でも人口増加に合わせて年々数を増やしている。住みやすさに重点を置いた更なる改良も加えられて、現在、国の中心地となる都市型ドームや地方型ドーム、田舎村と呼ばれる家畜や農作物を育てるためのドームまでもが増設されている。ドーム間にはメトロも走っており、現状として人々が生活するのに困るようなことはない。

 しかし国民の誰もがこの地下ドームで生活できるわけではない。地下ドームには、一定の税金を納めなければ生活を許されないという、国が定めた法令があるのだ。決して高い額ではないが、アークから半世紀が経とうとする今でも尚、その影響は根深く残っていて、貧困に喘ぐ家庭は少なくない。そうした者たちは否応無く貧困層に分類され、地上ドームでの生活を強いられていた。

 霧ノ井の場合、両親が汗水垂らして働いてくれていたおかげで地下ドームでの生活ができていたが、親の仕事上、地上ドームの知り合いも少なくなくなかった。


 その地上ドームでの問題は専ら【クラン】である。アーク以降、汚染された地上では、地上ドームを狙ったクランと呼ばれる武装集団が国境関係なく横行していた。

 彼らは彼らで、この荒みきった時代を生き抜くための手段として賊の道を選んだわけだが、狙われる側としては彼らの度の過ぎた横暴を黙って見過ごすわけにはいかない。

 世界中が自国を守るために、次々と軍事国家へ転換していった。日本も例に洩れず軍事国家へと転身。兵士は国民に課せられた徴兵制度だけでは間に合わず、その多くが傭兵として貧困層から賄われることとなった。

 霧ノ井の所属するアーサーはこういった民兵が所属する部隊とは違ったところにある。国防軍の中でも、陸空軍及び特殊甲部隊、そして憲兵を有する主戦部隊と二分するような形で、総理直属の親衛隊という特殊な立ち位置を保持しており、その存在は公にはされていない。

 理由は至極簡単。クローン技術を応用させた人体実験、つまり倫理に反する行いにより誕生した部隊だからだ。ひとことでいえば特殊能力人間兵器の開発、とでもいうのだろうか。それこそ陳腐なヒーローアニメに出てきそうである。

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