毒蛇の醜姫とハイエナから生まれた犬皇子2

 激しく扉を叩く音。その向こうの殺気立った様子にティダはアンリに背を向けた。この短い期間で、背を向けてもよいと思う人間が増えたなと、自然と笑顔になった。


「服を着たら屋根裏を通ってシュナの部屋へ行け。あとは好きに生きろ」


 この世で最も幸福にしたい女を見つけても、矜持は折れない。アンリを大事にしないのが一番矜持に反するが、アンリがティダに大狼としての矜持を折らせない。護るに相応しくないと感じれば、アンリは去る。ひしひしと伝わってくる、業火のような尊敬の眼差し。男としてだけではなく人として胸に居座らなければ、隣にいてもらえない。


 彼女の恋が終わっても、永劫えいごうに離れないでもらう方法。


 異次元の蟲の民は兎も角、至宝に負ける訳にはいかない。ティダは迷ってから付け足した。


「いや、俺の頼みとしてはヴィトニルから離れず死なないで欲しい」


 顔を一目でも見れば惜しくなる。振り返らなかった。この一晩があれば、強く、気高く生き続けられる。


「ええ、私も好きに生きる。ティダ、誰も幸福にしたことが無い何て二度と言わないで。私がいるわ。死ななそうだけど、死なないで」


 今すぐ振り返って、何もかも捨てたい。衝動を蹴飛ばして、強く拳を握った。二度と得られないと、手に入れれば恐怖で立ち止まると逃げ回っていた本気の人間関係。女だけは無理だと思っていたのに、ティダからもアンリからも激情的なまでの欲。恐怖は強いが背中を押してくれる。ヴィトニルが寄り添い続けてくれなければ、手に入らなかった幸福。しかし歩く道を変えられない。


 毒蛇の巣の歴史に刻まれる奔流。先陣は自分だとティダは扉を開いた。


「グスタフ王の命により、国家転覆罪で連行します。ティダ皇子、素直に従わなければ……」


 遮るように掴みかかって、壁に向かって投げた。ザッと十人の騎士とはめられたものだ。


「殺すってか?俺を殺せるのは猛毒だけだ。さあ、歴史を動かすのは俺だ。二羽の大鷲おおわしを空高く解き放つ!城にはまさかの至宝。これで戦場の俺は心置き無く臨める!」


 歯向かうならば死ねと、脳天にかかとを落とそうとして肩にした。背骨を粉砕しようとして脚にする。こんなに甘くなると、足元をすくわれるなと苦笑がれた。


「バース!ビアー!待機しているな!行くぞ!」


 部屋を出て大声で叫んだ。即座にバース、ビアー、そしてゼロースが現れた。


「ゼロース。最も忠義に厚く、そして決して裏切らないお前はシュナの隣だ。任せた」


 にらむか、鼓舞するか迷って、本心からの表情を選んだ。ゼロースは目を細めただけで、ひざまついた。


「それでこそ我が王に似合う態度。たもと分かれようと、我が王の何もかもを救った恩義は忘れません。下戸ですので勝利の美酒で潰して下さい」


 いうや早いがゼロースはティダに背を向けて、外套マントひるがえす。背中を預け合う、体を剣で貫かれる双頭竜。その紅蓮が風もないのに広がった。


 ゼロースがシュナの部屋に消えると、部屋の前に鎮座する王狼ヴィトニルが部屋の扉を尾で押さえた。琥珀にして太陽のような黄金の瞳と視線がぶつかる。


〈フェンリス。俺は行かない。それがフェンリスが最も望むこと。そして俺が子に残したい背中は、引き裂かれるような気持ちで戦場へ行く親友の宝を護るという矜持也。グレイプニルにも噛み砕かれたくない〉


 ティダは小さくうなずいた。足を三回、力強く床に叩きつけた。大理石が破壊されたが、それでも手加減。


 背を向けて、遠ざかる王狼ヴィトニルの心へと言葉を投げた。


〈ヴィトニル、別の戦場はいつ以来か。再び会おう。戦での不敗神話を途絶とだえさせるなよ。共に人里で生きようヴィトニル。広き世界には尊敬出来る人間も相応しい友もいただろう。そして我が本物の正妻。いや唯一の妻アンリエッタ。我が強欲中の強欲である妻が大狼の神話になりたいと壮大な願いを口にした。叶えなければ夫ではない〉


 城が揺れるような王狼ヴィトニル咆哮ほうこう。それも三度。この親愛を聞いて、強く前だけを向いて生きてきた。これからも続く。


〈共に生きようフェンリス!帝狼ていろうの背中には王狼だ!誰にも譲らん!ウールヴとヘジンもヴァナルガンドであろうと決して譲らん!ティダの唯一無二の親友の座は決して譲らんからな!〉


 ティダはもう一度足を止めた。振り返りはしなかった。


〈隣は北極星。背中預けるは王の中の王である王覇大狼おおはたいろうヴィトニル。人の名は誇りオルゴー。かつて、この地を去り東にヴァナルガンドの国を興した男の名だ〉


 満足そうにヴィトニルが閉じていった。ティダも閉じた。


「バース、俺にも馬を用意しろ。ヴィトニルは天空城の守護神となる。未だ疑心こもるその目を許そう。この世は生き様こそ全て也。俺が背中で語る生き様で、首をねるか決めろ」


 すきだらけの背を、バースとビアー、そして部屋で待機していた紅旗騎士団へと投げ出して地に足踏みしめる。無言で従うシュナの最も忠実なる護衛騎士団。


 地下迷宮から出るとティダは騎士団を並ばせた。自然と整列して、片膝ついて剣か槍を天高く掲げていたが正しい。


「よくぞ主を見定め、決意を決めた!みにくさと愚かさの皮に隠していた、紅の宝石を見つけた褒賞ほうしょうは時代の夜明けだ!汚辱おじょくさえ飲み込む主の生き様に泥を投げることは大狼が許さん!ティダ・エリニュス・ドメキアの名を捨てても永劫えいごう大鷲おおわしの姫、シュナの盟友である!賢翁けんおうバース、これより反乱軍を鎮圧する!手段は何だ⁈」


 バースが立ち上がった。


「正義の剣にて首をねるまでです!我が王の盟友に従います!」


 呼ぶ前にビアーが立ち上がった。それから槍を地面に突き刺した。


「刺されようとも説得する。我等は矜持なき騎士達よりも先陣を駆けます!全てを許す我が王は宰相さいしょうの道を歩む!私こそが元帥ゼロース様の名代!この場の全員ビアーに従え!バース!主をけがすなど俺が許さん!ノアグレス平野とペジテ大工房の至宝が見せた生き様こそが紅旗に相応しい!」


 ビアーがティダの隣へ馬を移動させた。古きに凝り固まった者が去り、若者が時代を切り開く。自然の摂理。


「バース、去れ!」


 ティダはバースを立たせた。屈辱と自身への不甲斐なさに顔が歪んでいる。


「何故か分かるか?全員に問おう」


 誰かが口を開く前に、ティダは馬から降りてバースの眼前の地面に三度、強く足で音を鳴らした。どよめきが無いのは、さすが肉体だけではなく精神も鍛え抜かれてきた精鋭中の精鋭騎士団。


「長年決して裏切らなかった男が見なければならないのは、主の生き様だからだ!至宝から学び知恵と忠義で主を支え続ける!老体に鞭を打たせ続けるのは大恥だ!全員、偉大な年配者には敬意を示せ!俺が現れたからえられるというのを、心しろビアー!しかし、いの一番に主の道を示して若輩に背中を見せた、その真贋しんがんと忠誠に俺と主が金では買えぬ物を与える!」


 ビアーの前に立ち、一度だけ足で大地を揺らした。燃え上がる闘志を灯したので、ティダは足を上げた。それからゆっくりと静かに下ろした。さあ、もっと燃やせ。燃え上がり星となれ。シュナを照らし続ける者を一人でも増やして、去らなければならない。


「ティダ皇子。期待に添い、必ずや三度鳴らしてもらいましょう。バース様、無礼をお許し下さい」


 馬から下りようとしたビアーを手で静止した。


「時間が惜しい!後は吠えないようだが、俺の至らなさ故。ノアグレス平野で自らの鼻と勘で見定めた精鋭。他の兵など足元にも及ばない!死なば諸共。俺が一人でも多く残すように先頭に立つ!お前らは隣を庇い、己を守れ!それが最も生き残れる道である!先陣は譲らんし庇うならば、庇い返す!命は短し、しかし尊い!最後の瞬間まで死を受け入れるな!出陣し最速で駆ける!遅れを取るなよ!」


 馬に飛び乗り、旗手から紅旗を奪うとティダは最前に飛び出した。ティダの名が叫ばれたので、全員をにらみつけた。


「盟友の名を呼ばぬとは主に泥を塗ります!」


 一番若い、マルクが震え声を出した。


「よくえた!俺の真後ろにいろ!未来は若者こそが作る!全員に庇われろ!用意してある純白国旗を掲げ、全員シャルルの名を呼び続けろ!嘘偽り見抜けぬ者には、真実を見せつける!生き様で語れ!」


 馬を蹴ろうとしたら、懐かしい二筋桝花ますはなが風となって丘を疾走しているのが見えた。


「少し時間をくれ」


 馬から飛び降りて、ティダは駆け抜けてくる誠狼せいろうウールヴに短旋棍トンファーを構えて向かっていった。


〈速すぎるなウールヴ。これだけはヴィトニルは敵わない〉


 大口開けて飛びかかってきた誠狼ウールヴを避け、即座に前脚二本を掴んで放り投げた。地面に叩きつけるのは容易だったと、ウールヴならば伝わる。


〈またフェンリスに負けた。必ずや帝狼ていろうの名を奪う!しばし背を預けよう唯一無二の誠の友よ!ヘジンに本山託してきたのは、フェンリスの道を信じるが故!〉


 これ以上は蜘蛛に押し入られると、誠狼ウールヴが閉じた。ティダは首に抱きついて頬を寄せた。


「久方だな。寂しかった。ヴィトニルを人に奪われて屈辱で死にそうだった。しかし代わりに星を奪ってやった。一度は負けとも思ったが、引き分けだ。俺は不敗神話をこれよりウールヴと築き続ける。離脱はいつでも許そう。我が唯一無二の星をグレイプニルとヘズナルに学ばせて育ててもらいたい。愛しき妻の名はアンリエッタ。まだ人だが、俺の匂いがするから噛み砕くなよ。人と大狼の共生という神話を作りたいという強欲だから、大狼にはならんかもしれない」


 嬉しそうに牙を見せてから、誠狼ウールヴが九つ尾でティダを背中に乗せた。


「紅旗の騎士団よ待たせたな!出陣する!」


 政略結婚を証として、休戦締結したドメキア王国とベルセルグ皇国。休戦を守る限りは婿むこの身と、この国に命捧げる覚悟を決めた。即座に暗殺されるだろうと思ったが、やはりその通りだった。毒殺なんて可愛い食前酒の後に、戦の囮役などという蛇とハイエナの毒牙。


 全身病に侵され、みにくい阿呆を演じ、生き残ってきたのが国の為。銃弾飛び交う誓いの道で見つけた矜持。


 王の器に相応しいと、休戦撤回まではと手を貸すつもりがあまりの矜持で手離せなくなった。


 夫婦の誓いを立てた、毒蛇のみにくい姫などいなかった。いたのは美しい大鷲おおわしの姫で、その姫とは夫婦の誓いを立てていない。


 大空高く舞い上がり、地上を見張る大鷲おおわしの姫と交わした親子の誓いにて、ベルセルグ皇国との休戦を続けてもらう。


 死ぬまで破らない真の誓い。必ずや守らせる。



***



 シュナは手紙とゼロースからの簡素な説明に、やはりなと胸を張った。


「革命に合わせて、不穏因子掃討そうとう。やはり扇動せんどうしたな。オザワルド家とメルダエルダ家の内乱軍へ王国軍の謀反ね。まあバースに報告させていたし、想定通りだ。私はこの件は全てティダに任せてきた。私はこの城でやることがある」


 手紙を破り捨てて、床に投げつけた。ゼロースもシュナが動揺しないのは当然、そういうように涼しい表情のままだ。


「紅旗に忠誠を誓った騎士団は、最善だとティダ皇子に従いました。嘘に嘘を重ねて戦を勃発ぼっぱつさせましたが、何をするのか親衛騎士団だけは教えてもらっています」


 確かにティダは変わったのだな。それか、そこまでゼロースと部下には信頼を寄せた。


「ゼロース。ビアーだけでは役不足。第四軍はカールと貴方の軍。カール不在の今、生き様見せられるのは貴方です。ティダの隣に貴方が居ると居ないでは、大きく違います」


 アシタカがシュナの手をそっと握ってくれた。おかげで手の震えが少し和らいだ。ゼロースは座ったまま動かない。シュナとアシタカの護衛として一番頼りになると、ティダとゼロース両者意見が一致しているのだろう。ゼロース初の命令拒否。シュナは早々に諦めた。


「何が起ころうとしているのです?」


 セリムがわなわなと体を震わせながら、一歩シュナに近寄った。グスタフとシャルルの懐疑心をこじ開けるには、セリム以外では無理と背負わせた。代わりに一切、ティダの行動は教えなかった。やはりティダも同じらしい。


「王家の裏切り者をあぶり出すんですよ。一枚岩になれなくても、不穏な芽はなるべく多くまないとならない。一方で最大派閥にして実力申し分ない、非道なジョン皇子が消えた今、正義の名の下に立ち上がる民もいる。私やシャルル王子では役立たずだと声を上げる者達だ。全部、鎮圧する。ティダから私への誓い破りへの対価にして、たもとを分つ餞別せんべつだ」


 この国をまとめ、ティダの行動に相応しい国を作れという強要。王狼ヴィトニルを監視にした、成さなければ噛み殺すという脅迫。しかしその中にある願いが何たるか、シュナはもう知っている。だからこそ、悲鳴を抑えて甘んじることにしていた。


「僕が止めに行きます!王家の方々はこれから先を照らそうとしている!知らないからこんな真似。ティダは何を考えているんだ!」


 叫んだセリムの背中に、シュナが声を投げる前にアシタカが大声上げた。


「裏切りには反目!この国の信念だ!長年信頼関係を築いてこなかった指導者に誰が従うか!」


 アシタカの台詞に、セリムが足を止めて振り返った。小国といえど、シャルルやジョンよりも王族たるように育てられたのだろう。セリムは唇を噛んで、シュナに悲しい視線を向けた。教えてくれれば、先回りしたのにという非難の目。


「私は見知っていてくれる従者、騎士団共々と暗殺覚悟の血塗れのいばら道を進もうと思っていたんです。それに対するティダの回答がこれ。想定していましたが、止めなかった。単に戦をするつもりはないだろうと信じたからです。彼を止める理由も力も無く諦めたからです。行くのならば止めません。アシタカ殿が来てくれて、私のお守りは貴方ではなくなった。きっと待っています。私もティダには一人でも多く、頼もしい味方がいて欲しい」


 シュナはちらりと扉の前で、後ろ手を組んで立っているアンリを見た。涼しい顔をしているが、セリムを行かせないという強情が瞳に宿っている。自らの意思で、ティダの隣に立たなかったと感じた。これでゼロースに続いてもう一人も減った。


「セリム、ティダを頼む。僕にはもう背負いきれないだろうと、ペジテ大工房を照らせと残された。ティダの行動は僕も知っていた。両者から聞かされていたからね。しかし全部背負うと僕は来た。蟲の民の代わりに、僕がシュナ姫を支える。これよりグスタフ王と会談を行う!脅してでも場を設ける!アンリ長官、シャルル王子を連れてこい」


 アシタカが静かにアンリへ指示を出した。シュナの予想とその時の対応はアシタカに話してあった。ティダも話をしていたということは、いざという時のセリムの説得役だろう。間に挟まれていたのに、アシタカはずっと穏やかだった。疲労しているのに、更に荷物を増やした。何てまばゆいのだろう。


「拒否します。大総統代理アシタカ様。アンリ・スペス第三十班長官を服務規程違反および文書偽造罪で解雇して下さい。私は戦場ではもうどんな命令も聞きません。自己判断します。必要があれば逃げないとなりませんから。蟲の民は会談に必要です。私はこの場にいる者ですと、蟲の民ヴァナルガンド殿以上の方でないと盾になりたくありません。我が国の至宝の盾とならないのは、最も優先しないのは護衛人長官ではありません」


 アンリがラステルを一瞥いちべつした。アシタカが「長官を辞めたくないから脅迫か」と呟いた。シュナにはその意味がよく分からない。


「訂正します。蟲の民のお妃様と、羽破れ大蜂蟲アピスの子蟲もです。それ以上は力量不足。私は会談で蟲の民ヴァナルガンド様とお妃様と子蟲君の護衛をします。ヴァナルガンド殿とヴィトニルさんとスコール君の大狼、あと護衛人が我等が至宝とシュナ姫様を必ずや護るでしょう」


 アシタカとセリムが目を丸めた。シュナも驚いた。ゼロースが感心したように、アンリを眺めた。アンリはゼロースに行けと言っている。ラステルは状況解析が出来ないのか、始終ポカンとしている。


「会談にセリム殿が必要。それはティダの言葉と思うことにしますがどうですか?」


 シュナの問いにアンリが即座に首を横に振った。


「何も聞いていません。好きに生きろと残されました。ヴィトニルさんから離れず死なないで欲しいと懇願こんがんされたので、ここに居ます。しかし、私の誇りが黙って護られているだけは許さない。役立たずと置いて行かれたこの屈辱も返さないとなりません。国にはもう帰るつもりがありません」


 まるで獣のような低い声を出したアンリにシュナは度肝を抜かれた。この本質は見抜けていなかった。セリムに良く似ていると思っているが、この雰囲気はティダそっくりだ。


 己の力量を冷静に測って無茶はしない。しかし限界地点には立つ。決めたら余程のことが無ければ曲げない。そういう風に見える。


「シュナ姫、アンリは説得出来ない。彼女がティダに好かれたのはこれだ」


「そのようですね」


 アンリは説得は無駄というような笑みを浮かべている。


「アンリ長官。君を失うのは我が国の大きな損失。嘆願書が更に山積みになり、退職者の数も多いだろう。よって名誉護衛人という新たな地位を作る。外交国に滞在し外交の責を担い、時に要人を護衛する。元々考えていたような内容なので、一先ず試験運用だ。相手は分かるな?君は有能で実績も積んできたから、我儘わがままだと無下にしない。僕が権力を振りかざすのは信頼だ。汚職を揉み消させたことについて、きっちり誠意を返してもらう。御両親や部下達の為にも、たまには帰ってこい」


 アンリが満足そうに、セリムに笑顔を向けた。


「今は対象の要人が護衛拒否しているので、相応しい方を護ります。そういう自己裁量出来る規則にしてもらいます。貴方が会談に必要だというのは私の個人的な意見です。責任は取れないのでご自身で、素早く熟考して下さい。発たれるのでしたら、私も付いていきます。地の果てまでお伴しましょう。丁度同じ場所にもう一人護るべき方もいますしね」


 シュナの隣でアシタカが苦笑いして、大きなため息を吐いた。アシタカはアンリを解雇出来ないらしい。アンリはアシタカの回答を分かった上で「解雇しろ」と脅したのか。ゼロースが立ち上がり、アンリを押しのけて扉を大きく開いた。アンリは退かされたというより、自分から移動したという様子だった。


「ヴァナルガンド殿が会談に参加されるのでしたら、私はここに必要ありません。私がティダ皇子の隣へせ参じましょう」


 ゼロースは全員に背を向けて、王狼ヴィトニルにだけ告げた。隣の月狼スコールのことは無視している。アンリが切なそうにゼロースの背中を見つめていた。彼女なりの精一杯の支援。自分よりゼロースがティダの護衛として機能するという的確な判断。本当は行きたいと、苦悶が滲んでいる。


 王狼ヴィトニルがゼロースに行けというように、顎を動かした。行こうとしたゼロースが止まった。脇からひょっこりとパズーが顔を出した。奥にシッダルタらしき顔も見える。


「あー、はじまったのか?ティダにセリムから離れるなって言われたんだけど……」


 セリムがパズーに掴みかかった。二人を無視するかと思ったが、ゼロースが二人を観察している。こちらに体の向きを戻していた。


「何故戦が起こると教えてくれなかったんだ!」


「頼まれたからだよ!それで最善と思ったから!」


 青ざめた顔でパズーが震え声を出した。


「ティダにか」


「シュナ姫とアシタカにも!寄ってたかって別々に言われたら、正解だろう!俺もそう思ったから従った。ティダが不在ならシュナ姫の隣はセリムだって任されたんだよ。ティダに一番大切なものをたくされ、シュナ姫も頼った。アシタカも自国で手一杯だからと、セリムに頼んだんだ。でも、自分がやるってアシタカが来たから行きたいなら行け」


 セリムが迷っているように、青々とした瞳を揺らした。


「セリム……」


 ラステルが名前を口にした後も口を開きかけた。しかし何も言わずに固く唇を結んだ。


「ティダ師匠が心配なんでしょう?」


 いきなりパズーの態度が変わった。胸を張ってセリムを見下ろした。


「目付として命じる。妃を一人にするな。己で守れ。ラステル、今言おうとしたのは逆だろう?あの時と同じだ。ラステルが行かないでと言うなら行かない方が良い。俺の勘!お前といつもいてお前の行く末なら勘が働く!」


 セリムがラステルへ切なそうな表情を向けた。あの時とはノアグレス平野でのことだろうか?ラステルはセリムと共にはいなかった。


「僕は君が何より大切だラステル。その通りだパズー。ラステルに頼まれたのに離れた。あれは絶対に間違えだった。僕は行かない、落ち着いて考えれば分かる。得体の知れない男ではなくて、この国で第四軍を率いてきたゼロースさんが役に立てる人だ。僕は皆の期待通りに、シュナ姫とシャルル王子の支えになる」


 シュナはゼロースへ微笑みかけた。初めからこのつもりだったのだろう。考えさせずにセリムを置いて行くより、パズーが説得すると考えた。恐らくそうだ。パズーに向けるゼロースの目線がそう伝えてくる。ティダが船の上でゼロースにパズーを付けた理由。ティダは、本当に遠くを見ている男だ。


「シュナ姫様。必ずやティダ皇子の盾となりましょう。私も騎士団も、最も血が流れないと判断したから従っています。偽りならシュナ姫様の代わりに首をねてきます」


 ゼロースがシュナに簡易的に会釈して部屋を出て行った。みるみる背中が遠ざかっていく。


「セリム、お前の代わりに俺が行ってくる!ティダがやり過ぎたら、背負い過ぎたらシッダルタと二人で止まれって叫ぶ。あと守らないといけない弱い俺がいると、生き残るのに必死になるだろう!俺は羊飼いには負けない!」


 セリムから目線を外して、斜め上を見つめながらパズーが叫んだ。走り出したパズーを、遅いというようにシッダルタが引っ張っていく。セリムとラステルが一瞬放心し、それからラステルが後を追おうとした。


 王狼ヴィトニルが立ち上がり、牙を見せてうなった。


「止めても無駄だラステル。それにヴィトニルの判断でパズーを行かせるのなら、ティダの為になるのだろう。パズーも崖の国の自立した男。僕の誇りオルゴーを背負ってくれるのだから信じて行かせろラステル」


 泣き出しそうなセリムがラステルの肩を抱いた。ラステルが支えるように堂々と立っている。


「行ってらっしゃいって言おうとしただけよ。パズーは私と伝説を作った男だもの。ティダ師匠は百人力の男を手に入れたわ。シュナ姫、セリムがいると千人力よ。セリムには私がいるわ」


 涙を一杯に目に溜めて、ラステルが無理やりというように笑った。そして、会談についてくる気満々という強情の火炎。近くで見張っていないと、だまされて連れて行かれそうだから元よりそのつもりだった。


「ありがとうラステル。折角この容姿なら軽く着飾っていこう。人は見てくれに騙される。手伝って欲しい」


 グスタフが連れてくるだろう臣下を手玉に取るなら何でもする。嘘偽りではなく、真心で破壊するのだ。この巣を跋扈ばっこしてきた毒蛇の牙を全部引っこ抜く。貴族のしがらみや派閥も全部蹴散らして、一度更地にする。


 その為にはシャルルと二人、頂点を掴む。


 草をむしり、害虫を追い出し、地を耕さなければ畑とならない。作物が育ち、実をつけるのには下地が必要。流れた血も、流れる血も少ない地を用意したい。


 権力と口を武器にのし上がる。シュナはアシタカを強く見据えた。


「優秀な片腕が必要だ。そして互いを裏切らない相手でなくてはならない。初めて会った時に言われました。いつ殺されるのかと思っていたら、随分手厚い状態にされたものです。アシタカ殿が来てくれた事さえ、ティダの掌の上のように思えてしまいます。なんて、貴方に悪いですね。すぐ支度します」


 言い終わる前にアシタカが突然シュナを抱きしめた。思考が止まり、まばたきも忘れた。思ったよりもたくましいので驚いた。


「僕は僕の意志で来ました。シュナ姫、貴方の声の寄る辺なさに耐えられなかったのです。僕は変わります。そしてティダも同じように変わっています」


 アシタカがシュナからそっと離れた。


「覇王ペジテ導く僕よりも、上に立つという大狼。ノアグレス平野でただ一つの傷もつかなかった男だから大丈夫です。何より僕が居ます」


 心配ないから頑張ろうという、穏やかで優しい視線で深く息が出来た。ティダに無理やり手を引っぱられるのとは正反対。アシタカの目元のくまを見て、シュナも支えたいと心底感じる。何とも言えない安心感。血縁者だからだろうか。


 アシタカに手を取られて、ラステルの元へと導かれた。アンリがさっとシュナの隣に立った。


「私も手伝います。それから衣装を貸してください。刃物なんて怖くて持てないという顔をします」


 屈託なく笑ったアンリは可憐だった。シュナに白旗というように、一点の曇りもない尊敬がこもった笑顔。捨て去ったのに、まだほんのりと残っていた淡い恋心がバリンと砕けた。目がセリムそっくりだ。ティダに必要な、損得無しでひたすら強い真心を注いでくれる相手。心の底から安堵が漏れた。


 死ぬものかという強い眼差し。彼女を信頼して置いていったティダ。良かった、ティダは戦場では絶対に死なないだろう。最悪の場合は、きちんと逃げてくるという気がした。


「急ぎましょう。一刻も早く、いや遅くても確実に王家が団結したことを示して全軍掌握。内乱を鎮圧します。圧倒的戦力差で戦意喪失させるのが一番穏やか。主軍と第一軍に第四軍を合流させないとなりません。それもティダの作戦のうちでしょう」


 シュナはラステルとアンリの手を引いて、地下の寝室へと移動した。小さなテーブルに、結納だと渡された古めかしい将棋盤と駒入れの木箱。使い込んだと分かる品に、胸がきしんだ。


 しかし、それ以上に嬉しくてたまらなかった。休戦を続ける限り、手を貸す。ハイエナから追い出された犬だが、えさがあれば働く。嘘のように故郷の陰謀の手の内を語り、シュナを道具にしようとした男。軍を乗っ取られ、殺されると激しく憎み、怯えた。逆手に取って利用してやる予定だった。


 それがどうだ、命を守り、かばって腕を切り落とされ、惚れた女を置いて戦に向かった。置き手紙の最後の一文には真心が込められていた。


【夫婦の誓いを立てた、毒蛇のみにくい姫などいなかった。休戦の為に誓いを立てよう大鷲おおわしの姫君。運命ではなく己で選んだ。これこそ真の誓いです。私は永遠の愛を誓う。大狼の愛娘への愛は、遠くから可能な限りの支援。近くからの支援は、唯一無二の親友の護衛。親友の申し出です。どうか受け入れてください。誓いには、幸福が訪れるようにという祈りも込めています。破ったらなぶり殺して地獄へとす】


 最後の一文は余計だ。これだから恋心を要らないと投げ捨てた。このような男、断固拒否。結納品はアンリに押し付けよう。将棋よりもチェスが好きだ。キングの隣に女王クイーンがいる。


 大狼の親は死ぬまで、いや死んでも子を守り続けるだろう。駒と言いながら、人を育てているのはその為だ。


 何がハイエナから生まれた犬皇子。大量の熨斗のしをつけて岩窟へ帰す。


 ドメキア王国は西に君臨し続けてきた大国。そこにアシタカの後ろ盾。セリムの後ろ盾もある。覇王に東の国々、そして蟲さえ身内にして強力な熨斗のしをつけてティダを祖国へ帰す。


 破ったら死ぬ誓いなら、必ずや守り続けてみせる。


 この世は生き様こそが全て也。裏切りには反目するが、信頼すれば互いの背中を預ける。背を無防備に見せ合う双頭竜と名を変えて、未来へ残す。

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