フェンリスとアンリエッタ3

 突然上半身の服を脱いだかと思ったら、現れたサラシも解いたティダ。肘掛を背にして、ソファに足を乗せてワインを飲み出した。反対側の手を額に当てて、軽くうつむいている。ソファの空いている隙間にアンリは腰を下ろした。


 予想通り、いやそれ以上の鍛え抜かれた筋肉質な体。左側腹部に鉛色の物体がめり込んでいる。凸凹のある金属というのが一番しっくりくるが、不思議な物体だ。えぐれたような傷跡もいくつもある。


「アンリエッタ。本当に地獄へ連れて行くぞ」


 涼しい表情でティダがワイングラスを回した。ほのかに香りが届く。白ワインの芳醇ほうじゅんな匂い。視線が合わないので顔を覗き込んだ。しかしティダはアンリを見ない。ワイングラスを空けて、ボトルから継ぎ足すのを繰り返している。


「迫ってきたら今度は逃亡?そういう緩急激しいと息がし難いわ。試すのもやめて頂戴ちょうだい。私一目惚れって初めてよ。こんなに激しいなんてね。貴方と向き合っていたいわ」


 ティダが大きく息を吐いた。しばらく沈黙が続いた。流れる空気の不穏ふおんさに、怯えてもよいのにアンリには余り不安は無かった。待っていたら、こちらを見てくれる。そういう妙な自信があった。ワインボトルが丸々空になると、ようやくティダが口を開いた。


「君は妙だな。そしてその目。光が強過ぎて焼かれそうだ」


 悲しそうに、しかし嬉しそうにティダの顔がほころんだ。やっとこちらを見た。迷っているような、不安げな様子に胸がきしんだ。


「キザよね貴方って。むずがゆいわ。そんなに悲しいのなら、ヴィトニルさんに頼めば良いじゃない。側にいて欲しいって」


 今すぐ触れたい。アンリよりもティダの手の方が早かった。ワイングラスを持った手で、アンリの手をそっと取った。


「それは違う。ウールヴかフローズをと頼んだ時点で、ヴィトニルならば俺が戻るまでこの地に留まると言ってくれる。そう思っていた」


 微笑んでいるのに、手は震えている。


「それでも寂しいのね」


 ティダは首を横に振った。


「ロトワの岩窟に大狼の里が三つ。そのうち本山には蜘蛛が巣食っている」


 蜘蛛?突然、何の話だろうか。ティダの手に力がこもった。


「蟲森にある故郷の村。そこの愚か共が掟を破り、民と母を人質に俺を使っている。まあ、これは使っているつもりなだけ何だがな。立ち回り切れなくて、故郷も国も追い出された」


 またティダの手の力が強くなった。今はまだ、詳しく説明するつもりはないらしい。淡々と語っていく。


「先代皇帝、俺の父。奴隷解放という長年の野望虚しく毒殺された。父の意志は継がないとならん。国を背負って死んだソアレにも顔向け出来ない」


 ティダがアンリの手を離した。ワイングラスに口をつけて、ワインを一口飲む。しかしもうアンリの手を握りはしなかった。次々と告げられたティダの背負うもの。ソアレという女性も何をして死んでしまったのだろうか。ティダの胸で消えない太陽となって生き続ける彼女に、激しい嫉妬しっとを覚えた。


「全部どうにかするつもりなのね。なのにペジテ大工房にもドメキア王国にも力を貸している」


 どうしてそこまで、そこまでしなくても、と言いたくなる。そういう男なのだ。目に入ると何も見捨てられない。


「俺の道のついでだ。駒も増やさねばならないしな。俺は善人ではない。俺のものに手を出すなら容赦しない。身の内に入れたものは必ず守る。それが大狼フェンリスの矜持。しかし囲いたいものが大き過ぎる。だから代わりを配置する。駒を選び、必要なら育てる。そうやって、この世の全てを掌に乗せたい。一人では足りない。しかし身内が殺されるのは辛い……」


 ティダがワイングラスを傾けた。またアンリを見ない。ワインを眺めて、郷愁に浸るように遠くを見ている。亡くなったソアレという女性を思い出しているのだろう。


「唯一無二の親友ヴィトニルは俺よりも強い。心も体も、何もかもだ。いずれ本山の蜘蛛を蹴散らし王となる。ウールヴとヘジンも俺と横並び。三頭とも自らだけでなく、弱きものも未来を作る子も囲う。心配要らない。むしろ俺が庇えば、矜持を折ったと頭蓋骨を噛み砕かれる。ヴィトニルはアシタカとシュナを互いにとって使えると判断した。だから後押ししたまで」


 ティダはワイングラスを力強く握ると、ワインを一気にあおった。目に燃える信頼の強さと、思慕の巨大さに羨望せんぼうが湧き上がる。あけすけもなく「唯一無二」と口にするヴィトニルへの本心。このぐらいティダの中に入りたい。


「ソアレ亡き今、殺された時に俺が苦痛に悶えるのはこの三頭。残りはまあ色々と思うところもあるから平気だろう。人は弱く、もろい。だから無視してきた」


 空になったワイングラスをテーブルに置くと、ティダはまたうついた。


「俺は大狼として生きる。親友三頭の為になら何でもしてきた。逆も然り。ヴィトニルに至っては俺の為に生きてくれた。それが一番の矜持だと言ってくれている。家族を岩窟に残してもだ。俺の命、国の平穏そして民の命と何もかもを背負ったソアレの死を無駄にはしない。俺は誰よりも高みに登る。俺を照らした女だとソアレの名を未来永劫語り継がせ、子々孫々に存在を刻ませる。その矜持を共に背負ってくれていた」


 目に一杯の涙を溜めたティダが、この世で一番幸せだというように微笑んだ。


ーーヴィトニルは俺に寄り添い、一人にするものかと常に背中にいた。俺はヴィトニルを無下に出来ん


「そう。とても大切なのね……ううん。私には分からないわね。そんなにも強い絆を持っていないもの」


「そうか?」


 震える手でティダがアンリの頬を包んだ。血が失われたかのように、冷たい。アンリを見上げたティダが、まぶしいというように目を細めた。


「俺はそういう男だ。気に入れば死んでも追い続ける。何も知らなくても、少し知っても変わらぬその目。逃げても許そう。しかし逃さない。裏切っても許そう。そもそも君は裏切らない。三頭大狼よりも、祖国を預けた兄よりも、新たな友ヴァナルガンドとその妻よりも、共に覇王目指す至宝よりも、愛娘よりも上だ。俺の頂点。どうだ?地獄で血塗れになるが、誰よりも誉れ高く見事な景色を見れる」


 平穏な人生は決して手に入らないだろうとティダの目が訴えている。消し炭にされそうな程激しい恋慕れんぼの業火。


 どこを、何をこんなにも気に入られたのだろう。飛びかかるように抱きつきたい衝動が込み上げた。その前にティダがアンリを抱きしめた。強く離さないで欲しいのに、もどかしい程に優しい。


「私は生粋の軍人なの。先陣切って護るべきものの盾になりたい。命さえあれば、護られた人は幸福を見つけられる。だから戦うのよ。ノアグレス平野の雪原に現れた貴方を一目見て、信じて護るべきだと本能が叫んでいたわ。この人を護ればとてつもない誇りを得られると心臓つかまれた。気づくのが遅かったけど、貴方が近寄ってきて自覚させたのよ。だからこんな人絶対に逃さない」


 欲しい。欲しい。欲しくてたまらない。王狼ヴィトニル以上の絆が欲しい。地獄?そんなものはない。炭になっても燃やしてくるティダがいる。ティダが護った者は、ティダの拒否を無視して集まる。恨まれ、疎まれ、憎まれる以上にティダは燦々さんさんと輝く。誰にも渡したくない。


「そうか。だから余計にかれるんだな。俺は矜持ある強い女が好きだ。矜持とは信念だ。誰に批判されても、殺されようとも曲げられない自己信念。無害で穏やかそうかと思えば、男を見下す。何もかもが俺の胸の奥をくすぐる。盾ね、大狼となれたあかつきにはヘルヴォルの名も良いか」


 アンリはティダの胸を押して体を離した。


「アンリエッタではないの?あと何かしら。そのヘルヴォルって?」


 ティダがアンリの髪を摘んでもてあそぶ。指で頬も撫でられた。今日も何もしないのだろうから、焦れったい触り方は止めて欲しい。


「大狼にも歴史があり、神話もある。ヘルヴォルは人と衝突した際に、めすの頂点として君臨していた。たった一頭で群れの弱きを逃し、立ったまま盾のように死んだ。誉れ高い大狼は娘によくこの名を付ける」


 なんとも言えない微妙な気持ちになった。


「その顔、気に食わないようだな」


「そうね。娘によく付けるというのがまず嫌。それから人と衝突した時の話なのもね。何かないの?人と大狼が暮らしてたとか、そういうの。ティダは自分を大狼と言うから、大狼と人が共に暮らしているとは言わないんでしょう?」


 ティダが愉快ゆかいそうに笑った。親指の腹で唇をなぞられた。反撃してやりたいと、めるか噛みついてやろうとしたのに手は首筋に移動していった。この余裕を打ち砕いてやりたい。


「人と大狼が共に暮らすね。それはまた壮大な野望だ。大狼は基本的に人を見下している。一緒に神話になるかアンリエッタ。ヴィトニルがこの地に築くかもしれん里。君が隣で成し遂げればアンリエッタの名は大狼の名前の始祖となるだろう。そこまでヴィトニルに認められてみろ。俺の女はそうあるべきだ」


 右肩を軽く掴まれて、まれた。噛まれたところがうずくようにわざとだ。余裕たっぷりで、手慣れた様子なのが腹立つよりも悲しくなってきた。悲しいよりも、切ない。せめて思う存分触れてくれるか、触れさせてくれれば良いのに。それか、時が来るまで一切何もしないで欲しい。


「あらそう。ありがとう。なら私は今ここにいるより仕事に戻るかヴィトニルさんと語り合うべきね。しばらくは一方的に話しかけるしかなさそうだけど。ラステルから聞いたわ。話せるのでしょう?」


 立ち上がろうと思ったら手首を掴まれた。簡単に振り払える強さなのにアンリの体は止まった。黙って抱きしめられるのを受け入れた。頬が触れる体の温かさ。体を包む腕のたくましさ。視界に入る美しい筋肉の曲線美。胸の高鳴りよりも、兵士として負けているくやしさに意識を向けた。でないと、どんどん胸が苦しくなってしまう。


「素晴らしい体ね。うらやましい。こんなの女では手に入らない。特に女を捨てられないような私には無理。長い髪や飾りくらいは手放せたけれどね。代わりに男に勝てそうなものに全力でいそしんできたわ」


「髪を伸ばせ。見たい。掴まれた時に逃げるのにも必要だ。髪飾りで刺すのも良いだろう。首飾りや耳飾りにもナイフを仕込める。美しく、しとやかに。男に助けてもらわないと無理というように弱々しく見せて、周りを働かせる。女には女の武器がある」


 アンリの体をそっと離したティダが、ジッとアンリを見据えた。男の欲望の詰まった視線に目が回りそうだ。こんなの、あっという間に女として引き戻される。


蜜の罠ハニートラップね。苦手なのよそういうの。ティダの隣は大変そうだから、もう少し勉強しておくわ」


 ティダの瞳の奥がチラリと揺れた気がした。


「へえ、例えば?」


 気のせいではないようだ。猛獣もうじゅうのような目付きに見える。


「護衛人って女が少ないのよ。長官なんて更によ。今は四十人中三人だけ。たまにするのよ。頼る振りをしてみたり、泣き落としとか。割と手段は選ばないの」


 ふーんとつまらなそうに声をらしたティダの瞳が凪いだ。そそのかすのは明らかに失敗。元々恋愛の駆け引きは苦手だ。白旗あげて逃してもらおう。アンリは立ち上がった。軽くしか握られていないので、振り払うのは楽だった。


「分かったわよ。うんと着飾って女らしくするわ。色々、面倒だけど諦める。ティダの女だって知られると厄介事が増えそうだからそれも気取られないようにする。方々に愛想を振りまいて、油断させて突き刺す。それでいいわね」


 勝てない試合に勝つには練習しかない。分析して鍛練たんれん。こんなだと、いざという時に心臓がもたない。


「アシタカ、まだ起きてるかしら。私の部下達にきちんと手配したのか確認しないと。あんなに疲れた顔をして、どうせ毎日机で寝てたのね」


 手を思いっきり引っ張られて、アンリは呆気に取られた。気配はなかった。ソファの上で覆い被さられた瞬間、右肩を掴まれた。少し強い力加減に、見下ろしてくる激情の眼差し。声が出ない。


「分かっててその名を口にするとは、いい度胸だアンリエッタ」


 たかの前のすずめとはこの事だ。息が止まったような錯覚さっかく。アンリは黙って首を横に振った。理解出来ないティダの信念のせいで、待たされているのにこんな仕打ちは酷い。


 泣いたら思う壺だとアンリは顔を横に向けた。挑発はもう断固拒否。早くて五日で、長くて死ぬまで一生手を出さないとは何なのだ。意味が分からない。


「挑発するな。我慢も限界になる。ひらひら、ひらひら好き勝手」


 挑発するも、アンリは取り立てて何もしていない。アンリで遊んでいるのかと思ったら、我慢はしていたらしい。そんな風には全く感じなかった。


「友達の名前くらい呼ぶわ。学生時代からの仲だもの」


 形成逆転の好機チャンスだが、こんな気持ちで触られたくない。


「アンリエッタ……」


 やり過ぎたという謝罪のこもった声だったが無視した。優しく髪を撫でられたけれどそれも無視。胸の奥はぐしゃぐしゃで、動悸は激しいし、涙も流れそうだが無視しかない。


 するりと抜け出してティダに背を向けた。誓いを守るという信念を貫くのは構わない。しかしそれでアンリを刺しても良い理由にはならない。


「悪かった。すがるように甘えた顔をしたと思えば、俺になど興味ないと言わんばかりの態度。つい、な」


 背中にしおらしい、静かな声がぶつかった。


「甘えた顔なんてしてない。そんな事させてくれないでしょう。興味ないんじゃなくて、ティダが言ったから従ってあげてるだけ。私の真心に免じて貴方も自重して。私は真剣な恋しかしてきてないから、玩具おもちゃになんてならない」


 本気で惚れられたっぽいのはヒシヒシと感じるので、このくらいお灸を据えても良いだろう。触るのを我慢出来なかったなんて可愛いものだ。そんな態度が伝わったら完全敗北。男を追いかけても逃げるだけ。


 意外にもティダは食い下がってきた。握られた手を思いっきり振り払った。怒る時は徹底的に怒る。


「余所見をさせない?思いっきり間違えたわね。私、こういうの大嫌いなの」


 口にしてみたが、知らなかっただけだ。恋人だった男達は皆、穏やかで友人の延長のような関係だった。過剰な甘さは無いが、代わりに絶対的な安心感があった。こんなに呆れて憎々しいのに、反応が無いので振り返りたい衝動がおそってきた。本気で深く落ちてしまっているっぽい。


 冷めたら一気にどうでもよくなるのだろうか。全くそんな予感がしない。勘は当たる方だ。


「よく分からないけど、矜持が大切なんでしょう?矜持とか誓いを守るのが貴方の生き様なのは何となくだけど察した。理解出来ないけど、貴方が大事にしていることだから私も大事にする。そういう気持ちを真心と呼ぶのよ。何もしないのに遊んで楽しんで、それって酷いわ。我慢させるならきっちり触らない。それが誠意よ。これで未熟さも一歩前進ね。お休みなさい」


 足を前に出す前に、また手を握られた。今度は振り払えないくらいの強さだった。引っ張られて、体を向き合わされたが顔を見ないようにうつむいた。どんな表情でも泣きそうだ。勝ち誇った表情なら、さすがに殴ろう。


「アンリエッタ。君を大事にしないのが一番矜持に反する。悪かった。でも触りたくてならない。我慢出来なかった。澄ました顔で俺から逃げようとするから、こっちを見せたかった。しかし今日は違う。遊びではないから酔いがめてからと思っていただけだ。真剣な恋しかしてきてない?俺を他の男と並べるな」


 そろそろと顔を上げて、ティダの顔を覗き込むと思いっきり不機嫌そうだった。叱られた子供みたいにぶすくれている。吹き出しそうになったので耐えた。澄ました顔なんてしてないはずなのに、変な男だ。


「笑うな」


「最初から飲まなきゃいいじゃない。そしたら貴方も私も何の遠慮も要らなかった訳でしょう?並べてないわよ。単に誠実に接して欲しいと言いたかっただけ」


 ティダが益々顔をしかめた。


素面しらふで逃げられるかもしれない話を語れるか。まあ度数が低すぎたが……。俺は後腐れない女を選ぶか、寄ってきた阿呆と遊んできたから真の恋が生きてて終わるなんぞ理解出来ん。真剣に恋して捨ててきたとはどういうことだ。俺もかどわかして捨てるのか。人の生き方を変えておいて酷い女だな。ただでさえ猛毒かと思ったら劇薬付き。俺は一生アシタカに頭が上がらない。最悪だ、最悪な女だな、アンリエッタ」


 あまりの不機嫌さに、苦笑いしか湧いてこない。アンリに言うというよりは独り言のような呟きだった。自分は絶対に恋から覚めないという口振りに、全身に喜びが響き渡る。


「私ってそんなに信用ならないの?というかそんなに?あー、ほらまだお互いそんなに……」


 知らないと言いかけてアンリは口を閉ざした。アンリはもう夢中だ。一挙一動に反応してしまう。早くおぼれたい、我慢出来ないと焦がれていた。


「この世で最も幸福にすると誓わされるなんて、末恐ろし過ぎる。俺が誰かを幸福にしたことなんて無い。首を洗って恐れおののいていろ?何もかも背負って俺の上を行くばかりか、卑怯者め。えさもなく俺を働かせようとは何ていう男だ……」


 独り言を続けるティダの手が震えている。


「あの、ティダ?」


 アンリが一歩近寄ると、ティダは一歩下がった。


「そんなに私のこと気に入ったの?」


「当たり前だ。大狼の誓いは心臓が止まる瞬間まで続く、絶対的なもの。生涯隣に置いて命だけは守る。最も恐怖の誓いだ。俺の地獄で死なせない。考えるだけで震える。それでも連れて行きたい。隣にいて欲しい。何も与えられんのに離したくない。本能で気に入ったんだアンリエッタ。君が死んでも余所見出来ない。丸ごと手に入れた君が殺されたら、その命に何を捧げればいい。何も思いつかない……。それなのに君は余裕の態度。なんて女だ」


 ティダの震える手を強く握りしめた。何て人にれられてしまったのだろう。


「どちらかというと顔に出て困る方なのに変な人ね。私、何も与えてもらえないの?」


「当たり前だ。善処するが、あるのは俺なりの誠心だけだ。俺は君に女としての幸福の何一つも与えられん」


 即座に答えたティダの答えこそ、アンリが最も欲しいものとは思いもしないらしい。


「誰も幸福にしたことが無いの?」


「そうだ。死んでばかり。争いだらけ。あちこち手を出すから中途半端。酷いと俺が火種。最善と信じても、よく間違える。ヴィトニルは家族と離れ、ソアレは俺が刺し殺した。大切な程、傷つける。俺の地獄に花など咲かない。アンリエッタ、男を見る目が全く無い。しかし誓ったからには一生隣に置く」


 泣きそうなのに、ティダの目にはアンリを離すものかと強烈な光を帯びている。何から何までアンリの想像の範囲を超えている男だ。自信があるのか無いのか全く分からない。これは一生振り回される。他人のために、それもほとんど見知らぬ人の為に戦場にいたい。背を向けられない。しかしアンリを欲しくて絶対離したくないという強欲。アンリを連れて行けば殺されると怯えているのに、アンリの信念を尊重する為なら、嫌なのに目を離すだろう。


 何て複雑で生きにくい人。


「咲くわ。今嬉しいもの。ねえ、抱き締めてくれる?壊れないから少しきつめに」


 これ程の激情的な思慕をこの世でたった一人だけ受けられる。そっと胸元に寄り添うと、ティダは過剰な程優しく腕を回してくれた。


「嬉しい?本当に妙な女だな。今の上目遣いは中々良い」


 すっと横抱きにされたので、首に腕を回した。


「そう?中々ならもっと頑張ってみるわ」


「負けん気の強い女だな。偽りの誓いは木っ端微塵に破壊された。唯一無二の親友に大鷲と至宝にな。永遠に続く、永久の平和への誓いとは末恐ろしい。しかし君が欲しくてたまらない。我慢出来ない。アンリエッタ、理由なく愛を誓おう。本能に従う本物の誓いだ」


 寝台ベッドに下されるのも、優しかった。しかし眼差しはもう凶暴で、目を離せない。


「私はフェンリスとティダどちらに誓えば良い?あと私は祝いに取って置くんじゃなかったのかしら?」


 アンリの上着に手をかけながら、ティダはさらに目の奥を光らせた。


「片方にしておけば、逃げる口実をつくれるぞ。アンリエッタ、これ以上挑発するとどうなると思う?愛娘が至宝から真心を贈られた。あの二人は必ず隣合わせで歴史に名を刻む。祝うべき日だろう?」


 ティダが噛み跡を指でなぞりながら、アンリの髪をすくった。慣れた様子で服を脱がされる。爆発しそうな嫉妬を感じて、アンリはティダの顔を両手で掴んで引き寄せた。あとほんの少しで唇が重なるところまで。


「そう。ならフェンリスにティダ、貴方がいるだけで誰よりも幸せになれるから愛を誓います。本能で落ちた生涯唯一の本物の恋よ。今までのは嘘偽りだったみたい。酔えと言ったわよね……。とっくに酔ってるわ……ねえ、貴方の何もかも全部が欲しいの……」


 アンリはそっと目を閉じた。


 しかし何も起こらない。むしろ離れたという雰囲気がして、ゆっくり目を開けた。視線がぶつかった瞬間、アンリの心臓が止まりそうになった。婉前えんぜんと髪を掻き上げて、切れた唇を軽くめたティダはあまりにも魅力的だった。


「全然足りない。余裕たっぷりなのも今のうちだ。涼しい顔をしていられるのもだ。さあアンリエッタ、君のそそる泣き顔を一晩中見せてもらおうか」


 言葉とは裏腹に、あまりにも優しいキス。少しだけ震えていた。


 幸福感と甘美さにうっとりとしたが、最初だけだった。あまりに焦らされてもだえ、余裕さにき、激しさに狂いそうになった。


ーー身を焦がして破滅するなら、美しく綺麗な炎を選べ


 アンリの炎は炭になっても燃やし続けてくる。消えない炎によって温度を増せば星になるだろう。生き残り続けて、そうなりたい。


 南十字星ノーザンクロスは羽ばたいて旅立つ白鳥座のことだ。


 そうではない。どこにも飛んでいかない。大狼になれたら付けてもらう名前はキノスラ。決して移動せずに輝き続ける二つの北極星の一つ。二つの北極星は女神と男神の夫婦だという神話を聞いたことがある。太陽よりも大きく、地獄をも照すだろう唯一無二の存在。むしろ歴史に刻まれ、神話となる男に添い遂げれば、星の名前がアンリエッタに変わる。変えてもらおう。


 朝焼けのきらめきにまどろみながら、アンリはティダに「白鳥ではなく北極星になりたいわ」と囁いてキスをねだった。


「闇夜を照らす目印として輝き続ける星か。キノスラなどかすみすぎる名だから、アンリエッタに変えるか。隣はフェンリスだな」


 またキスが降ってきた。何も説明してないのに正解だった。それが嬉し過ぎてきつく抱きついた。二人だけの秘密、二人だから許される遊び半分の会話。酔いしれ過ぎて、甘ったるくて、変になっている。こんなの初めてだ。


 この幸福感は困難に立ち向かう支えになる。


「命短しこの世は尊い、共に生きようアンリエッタ」


「ええ、何処にでも連れて行って。ティダ、貴方がいるところには何処へでも……。離れないわ。離れても必ず戻る」


 もう何度目かも分からないキスをしようとした時、扉が激しく叩かれた。


 まるで、激動を告げる鐘の音のようだった。


「シュナ姫が何もかも許してお兄様と立ち上がるから、お祝いが先に来たわ!流れ星が奇跡を起こしたのよ!家族がありがとう、おめでとうって飛んできたのよ!シュナ姫はとても元気よ!元気一杯よ!師匠!起きて師匠!娘の完治を見て!」


 雰囲気が台無しになるような騒がしいラステルの声がして、アンリは吹き出した。元気一杯なのはラステルの方だ。


「朝からなんだ。何の話だ。やかましい小娘め。無視しようアンリエッタ。まだ酔い足りない」


 覆い被さられる前にアンリは体を起こした。もう十分酔った。これ以上は身が持たない。ラステルに壊された空気感に理性が起きた。日が昇ってきていてカーテン越しでも明るいから、余計に恥ずかしい。


「流れ星が奇跡を起こしたって何かしら?」


 逃げようとしたら、あっという間に押し倒された。見つめられると拒めない。


「興味はあるがどうせ分かる。あんなうるさいのは後だ。今は君をもっと堪能たんのうしたい。そろそろ仕掛けが始まるだろう。しばらくか永遠か、別れる前にもう一度楽しませてくれ」


 重ねた唇が激しくなった時、再び扉が激しく音を鳴らした。今度は雰囲気が不穏で、ティダの表情が一気に変化した。目つきも全く違う。殺気立った警戒の強い眼差しで扉を睨んだ。


「服を着たら屋根裏を通ってシュナの部屋へ行け。あとは好きに生きろ」


 服を素早く着るとティダの背中が遠ざかった。


「いや、俺の頼みとしてはヴィトニルから離れず死なないで欲しい」


 全身から近寄るなと、追うなとかもし出されている。


「ええ、私も好きに生きる。ティダ、誰も幸福にしたことが無い何て二度と言わないで。私がいるわ。死ななそうだけど、死なないで」


 アンリもティダをもう見なかった。少しの間だ。そう言い聞かせて、教えてもらっていた天井の隠し扉を開き、素早く登った。


「グスタフ王の名により、国家転覆罪で連行します。ティダ皇子、素直に従わなければ……」


 人を殴る音がして、扉の隙間から思わず確認した。ティダが騎士達を床にのしていた。


「殺すってか?俺を殺せるのは猛毒だけだ。さあ、歴史を動かすのは俺だ。二羽の大鷲おおわしを空高く解き放つ!城にはまさかの至宝。これで戦場の俺は心置き無く臨める!バース!ビアー!待機しているな!行くぞ!」


 ティダが大きく扉を開いて出ていった。


 別々の場所と突き放されたが、信頼故だと背中が訴えていた。


 何もかも欲しいものを与えてくれる。目的が同じなら、また道は交わる。迎えにくるし、迎えに行く。あの腕の中に帰る。必ず。それがティダを最も幸せにし、アンリをこの世で最も幸福に酔いしれさせる。


 絶対に戦場でだけは死なない。どんな手を使ってでも生き残ってみせる。


 もう二度と会えないかもしれないという不安を蹴飛ばして、アンリも拳を強く握って移動した。最後の別れだという予感は全くしなかった。

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