蟲の民と毒蛇の巣8

 静かな空間に、サラサラという羽ペンの音が音楽のように流れていく。ランプの灯りに照らされたアシタカの横顔は、まるで装飾品のように空間に馴染んでいた。


「もう寝ろセリム。何度も言うが僕が悪かった。自身の不甲斐なさを棚に上げ、年下の、それも今一番励んでいる君に八つ当たりした」


 セリムは大きく首を振った。


「それは違う。僕があまりにもおろかだった。シュナ姫の気持ちを思いやらず、突き進んだ。アシタカの批判通りだ。気負い過ぎて気配りが足りなかった。ティダだって、僕の為にと余計に背負っている。君にも荷物を増やした」


 アシタカが大きくため息を吐いて、ゆっくりとセリムに顔を向けた。改めて、せたなと感じた。


「セリム、引くことも覚えろ。相手のせいにしてな。殴ってももらえない、罵倒ばとうもされない。息がつまる。セリム、君は気負い過ぎて自分も他者も追い詰めている。あと見当違いだ。僕には野望がある。シュナ姫や君の為だけに来たのではない」


 息がつまる?セリムは本を閉じた。似たようなことを言われたことがあった気がして、記憶を掘り起こす。いつだっただろうか。


「ほら見ろセリム。僕はまた君のせいにした。卑怯者なのさ」


 少し意地悪そうに、アシタカが口角を上げた。こんな男だっただろうか。アシタカはまた机の上に視線を落とした。セリムは面食らって言葉を失った。アシタカはこのように自虐的では無かった。


「ああ、あまり僕の不甲斐なさを見ていないのだっけな。君の前ではつい虚勢を張ってしまう。人は変わる。学ぶだけではない。挫折ざせつして何度も立ち上がって、傷だらけになって良くも悪くも変わる。僕は上手く変化したい。きっとシュナ姫もだ。絶賛模索中」


 どういうことだろう。セリムはアシタカの真横に椅子を移動した。船の上で、ティダと静かに語り合ったのとまた違う。アシタカがセリムの髪をぐしゃぐしゃと撫で回した。


「嬉しいよ。大抵早く寝ろと言われる。こう見えてタフなんだ。もっと話せ、働けとはやる気が出る」


 数時間前の怒りはどこへ消えたのか、アシタカは春風のように穏やかだ。ティダの猛々たけだけしさと時折見せる堂々たる優雅さには憧れるが、アシタカのこのさざ波のような雰囲気もうらやましい。


「僕は君を見習う。ティダの背中は遠い。アシタカ、君もだ。片方ずつ見ていると、片方が離れていってしまう」


 目を丸めたアシタカが無邪気な笑い声をあげた。


「何を言っているんだ。若者に追い越されて、連日連夜悔しさをバネにいそしんでいるというのに」


 アシタカが羽ペンを離して机に置いた。それからセリムに向かい合った。兄ユパのような、微笑ましいというようなそれでいてさとすような視線。


「そうか、人をさとすような目は兄上ゆずりだ。それに君からも学んだみたいだ。無自覚な模倣から、正しく使えるようにしないとならない。兄上は居ないからアシタカ、よろしく頼む。君が教えてくれようとしてくれているのはこのことかい?」


 またアシタカがセリムの頭を撫でた。今度は割と強めに。くすくすと笑っている。


「全然違う。アスベル先生から聞いたけど、先回りしても相手にきちんと聞くのだな。人の話をきちんと聞いていなかったか?僕が君から学んでいる」


 セリムはポカンと口を開けた。


「言い直すか。いつからか、至宝と呼ばれていた。僕は誰よりも励み、国を導いている自負があった。信じて疑わなかった。それが、セリムに追い抜かされた。いや初めからもう抜かれていた。屈辱なんて通り過ぎて諦めと降参。しかし負けず嫌いだし、僕には野望がある。寝っ転がっている暇はない」


 やる気に満ちたアシタカの穏やかな微笑。ひげったが、くまは濃い。


「僕のせいか。アシタカ、こんなにも疲れているようなのに。先程、息がつまると言っていた」


 何が、どこかを聞きたい。どう改善すればよいのだろうか。


「君がまぶし過ぎるのもある。しかし僕も間違っていた。どちらかというと、己の器よりも高望みしようとした僕のせいだ。容量を越えればあふれる。次の器に移せば良いだけだったのに長年気づかなかった。シュナ姫の支えとして来たから、僕は変わる。休むことを覚え、人に任せることも覚える。君のせいだとまた人のせいにしたくない」


 肩の力が抜けているアシタカが、まるで知らない人のような気がした。これが本来のアシタカ。穏和で愚直なまでの勤勉家。そして自分のことも、相手のことも見ている。


「帰国した時にパズーに言われたんだ。僕がパズーを持ち上げ続けたから、とても惨めだったって」


 アシタカやシュナへ同じ事をしていたという事だ。それも無意識に。


「そうか。彼は何て?」


 アシタカが柔らかく微笑んだ。き火を眺めているような気分になる。なんとも言えない居心地の良さ。


「僕を信じてなかったから、いじけていたと。それから僕をとても信用して凄い奴だと思っていたと。でも誰か一人が成長しても駄目だって言っていた。一度に沢山は守れない。アシタカは気づいたのに僕は分かってない。ティダや僕は自覚するべきだと言われた。あと僕は皆を鼓舞する役だって言ってくれた」


 パズーはアシタカをよく見ていた。セリムと同じくらいの時間をアシタカと過ごし、パズーのほうが深くアシタカを理解している。


「彼は僕に似ているからかな。自信が無いし臆病。違いは僕は負けず嫌い。あと立場か。しかし見当違いなのはティダについてだな。あいつは強制的に荷を分ける。主観で決めた、相応しい量を押し付けてくる。さあやれと、蹴飛ばしてくる。認められると、うっかり励みたくなる。君が真心込めて、長所を見抜いて、さあ一緒にやろうというのとは大きく違うよ」


 このような話をしたことは今までなかった。物調べに夢中だったが、人と話をするということがこんなにも有意義とは知らなかった。知っていたが、もっと知れた。アシタカとの話は楽しくてならない。


「僕は人の良いところを見つけるのが得意なんだ。パズーが何年も経ってやっと自分の素晴らしさに気がついたように、皆も気づく。アシタカ、君はこんなにも偉大だ。僕が追うべき背中。僕は誰よりも人を見る目があるように育てられた。自覚して上手く表現する方法を学びたい。ティダと共に教えて欲しい」


 アシタカがギョッとしてから、腹を抱えて大笑いしだした。


「これだこれ。自分を未熟というのに自信満々。全身焼かれそうだ。僕は君の話をアスベル先生から聞いていた。兄弟子は模範もはんだ。出会う前にも、既に僕を変えていたんだよ。君は知らないだろうけどね。さあ一緒に何かを成そうと、手を引いてもらいたかった。初対面の時、あまりの屈託のなさに救われた。しかし、同じ年くらいと言われたのには驚いたけどね」


 トントンと小さなノック音がした。静かに開いた扉の向こうに、シュナが立っていた。ラステルが手を握りしめて寄り添っている。


「眠れないです?うるさかったかな」


 すぐさま立ち上がったアシタカが、腰掛けていた椅子を空けた。シュナはゆっくりと小さく首を横に振った。


「いえ、大切な話をセリム殿にしていなかったので。間も無く忙しくなりそうなので早めにと。そろそろアシタカ殿により、落ち着いてくれたと思いましてね」


 セリムは申し訳なくて一度うつむいた。しかし、歯を食いしばり、胸を張り顔を上げた。 情けなさ過ぎて、悔しくて、それでも顔を上げた。恥の上塗りは御免だ。


「申し訳ありませんでしたシュナ姫。僕はあまりにもおろかだった。シュナ姫の気持ちを思いやらず、突き進んだ。アシタカの批判通りだ。気負い過ぎて目配りが足りなかったんだ。ティダだって、僕の為にと余計に背負っている」


 恥ずかしさのあまりに、顔を見るのが辛かったがセリムはシュナを見据えた。何て美しいのだろう。愚弄ぐろう、裏切り、謀殺、この世の汚濁おだくを飲み込んで許しと平和な道へと踏み出している。傷だらけで悲鳴をあげていることに、何故気がつかなかったのだろう。


「私はそんな殊勝しゅしょうな人間ではありませんよ。セリム殿、貴方があまりに光るから、真似をしたかった。しかし無理そうで、貴方なら父や兄をも変えるかもしれないと、この国を見て見ぬ振りをしないだろうと押し付けた。こちらこそ役目を押し付けてすみません」


 セリムは首を横に振った。その為に来たのだ。ラステルがアシタカを睨みつけた。


「そうよ。セリムはシュナ姫の為に自分なりに頑張っていたの。なのに酷いわ。でも私は許すの。セリムの妻だからよ。セリムと一緒に成長して、次は私がシュナ姫の支えになるわ。セリムが足りないところは、一番初めに私が補いたいもの」


 悔しそうに顔を歪ませた後、ラステルはシュナに向かって花が咲くように微笑んだ。シュナがラステルに注ぐのは、ラファエやセリムの姉達と良く似た眼差しだ。ラステルもセリム同様に末っ子気質なのだろう。


「ありがとうラステル。逃げずにいたのはそなたが隣にいたからだ。そしてセリム殿が浴びせてくれる、信頼に耐えられるのもそなたとのお陰だ。セリム殿、兄との将棋崩しは中々楽しめましたよ。民なんて無視して、ぜいに酔って怠けていた兄が魚の保存食を作るなど、胸がすいた。私だけでは届かない、明るい未来へ招いてくれる」


 おずおずとシュナがセリムの頭に触れようとした。その手をアシタカが払った。目を丸めたシュナがアシタカを見つめたが、アシタカは苛立ったように顔をしかめている。


「アシタカ殿?」


 アシタカが自分の手を見つめて、それから苦笑いした。


「すまない。手が勝手に動いた。怒りを制御しないとならないのに難しいものだな」


 ラステルが首を傾げた。つられるようにシュナも首を斜めにした。


〈繁殖期の匂いがする。お祭りだお祭り!〉


 静かだから眠っていると思っていたアピが、ぶーんと部屋に飛んで入ってきた。アシタカの頭の上に乗って髪を撫で始めた。


「アシタカ、君はシュナ姫を支えに来たんだよな?」


 アシタカが頭上のアピを不思議そうに見上げ、恐る恐るという様子で手を伸ばしてアピを撫でた。


「ああ。家族を一人にはしない。そしてペジテ大工房も生まれ変わる。律して守り続けてきた悪しき科学を、正しく分け与える。知識や掟、教養、何でもとはいかない。吟味する。しかし逆も取り入れる。風と共に生き、大地を踏みしめて暮らそう。僕が祖国の願いを背負い、先陣を切って舵を取る。死後、紅の宝石を飾る至宝と呼ばれたい。貴方となら震えながらも鮮やかな未来を目指せる」


 宝物を見るように、アシタカがシュナを見つめて微笑んだ。アシタカからの熱視線へのシュナの返事は、姉達が父や兄へ向ける敬愛と類似している。アシタカは完全に無自覚なのか、アピの勘違いなのか?


 セリムには何とも判断し難かった。


「どうしたのセリム?」


 アピが「遊んでくれない」と、ラステルの頭の上へ移動した。


「あ、いや、何でもない」


〈アピ。その単語は使用禁止だ。あとアシタカには今みたいに閉じていろ。そしたら遊んでやるから〉


〈後で遊ぶ。アシタバアピスの子と一緒に遊ぶ。これから大きなお祭りなんだ〉


「何だって⁈」


 セリムは素っ頓狂な大声を上げた。アシタカが労わるようにシュナの両手を握っていた。


〈ずっと待ってた。巡ってきた。諦めた父を許さないで、大蜂蟲アピスだけは抗ってきた。歌ってくれるまでずっと待ってた。祈りと願いだけを受け継いで待ってた〉


 それ以上何も聞こえてこない。セリムの全身に鳥肌が立った。


「アシタカ……ペジテ大工房の国旗の男女は蟲の女王とテルムかい?」


 アシタカがシュナから手を離して、怪訝けげんそうにセリムを見つめた。


「突然どうした。父が教えてくれたがテルムの子達だ。双子の男女。名は残っていない。大技師一族は絆強く国を導く。そして子は未来への宝という意味も込められている」


 父は人を諦めて蟲と共に消えてしまった。大技師一族はテルムの子孫。テルム・サングリアルは業を背負うと、蟲の父と誓いを立てた。罪深きペジテ人の中央で、生き続けて証明してみせる。セリムは混乱した。蟲の父はテルムではないらしい。大蜂蟲アピスの古い深淵しんえんを覗こうにも、セリムは拒絶されていて何も見えないし、聞こえなかった。


ーー君に名を与える。僕と共に人として生きよう


 名をくれた父は忘れてしまった。


 絶対に許さない。


 整理がつかない。情報が足りな過ぎる。しかし、今、何かが変わろうとしている。セリムの問いに、蟲達は答えてくれない。固く閉ざしている。


「シュナ姫、この国の国旗は?僕の国は、同じ双頭竜でも互いを食らっている。むしろこの国はどうやって興ったんです?貴方の祖先はどういう方でした?」


 共食いする双頭竜。飢餓きがになれば、互いに互いを喰らい腹を満たして立ち上がろう。決して殺すな。そこから繋がる「憎しみで殺すよりも、許して刺されろ」という誇り。


「セリムって気になると何でも質問するのよ」


 ラステルが無邪気に笑った。違う。そうではない。


 また蟲の声が聞こえて来た。外と内で生きよう。いつかまた手を握り合える。巡り巡る。ずっと待ってた。


 想いが巡ってくるまで待ってた


 祈りと願いだけを受け継いできた


 許せば返ってくると見せたかった


 また手を取り合える


「女神シュナと双子の男神エリニースがアシタバ半島の誕生神と言われている。シュナは終焉の炎から民を守る盾となり、聖騎士エリニースは大蛇の化身でこの地を耕した。神話が終わり、有象無象の地に再び現れたのもシュナとエリニースの双子騎士。それが千年前の我が一族の祖。裏切りには反目するが、生き様見せれば互いの背中を預ける。刃突き刺されようと信頼を示す。本来はそういう国旗だ。セリム殿の信念もここから来ているのだろう」


--心臓に剣を突きつけられても真心を忘れるな


 ゾワリと身震いしてセリムは倒れかけた。


「蟲の民は滅んでなんていなかった……」


 アシタバの民は何も教えてくれない。それでも感じた。


「セリム?」


 ラステルがセリムを支えてくれた。


「ここだ。この地でずっと生き続けてきた。だからノアグレス平野で蟲はペジテ大工房の方を憎んだ。恐らくここはアシタバ蟲森の領土。蟲の女王の血脈はドメキア一族と、大技師一族に別れた。外界の大自然と、内界の超科学がいつか手を握り合うと祈りを込めて……。テルムとアモレはずっと……。では大技師と蟲の王レークスとの誓いとは何だ?」


 セリムはラステルを見つめた。ラステルが不安そうに、若草の瞳を揺らす。


 蟲の民が住まうのは、この地だけではない。アシタバの大地から東へと移動した、セリムの祖先オルゴーと民。


 セリムがホルフル大蜂蟲アピスからもらった誓いの蜜で死ななかった最たる理由はこれだ。


 セリムは蟲の女王アモレの系譜をんでいる。アシタカとシュナ、ティダもそう。パズーもだ。絶滅どころか、大陸中に息づいている。知らないだけだ。


「ラステル!ヌーフ殿は知らなかったけど、僕達は親になれる!アシタカ、蟲を作ったのはテルムじゃない。蟲を愛し、人をも愛したアモレと夫婦になったテルム。死ぬまで平和に尽力した血は君に受け継がれた。アシタカの野望は、二千年前からの悲願だ」


 セリムはラステルの手を強く握った。アシタカは絶句したようで、瞬きすらしない。それから真っ青になった。アシタカなら大丈夫だ。自力でこの地へ辿り着いた、初めての大技師一族。いや、シュナの母がいた。シュナがたくされて、巡らせている。きっと他にもいた。


 何度でも抵抗すると、人の想いを巡らせ続けて、切れても幾たびも絆を繋いだ。今、セリム達は新たな時代の狭間にいる。


「ラステル。僕達は神話をなぞるんだ。いや新たな神話を作る。そしてそれが、より鮮やかな未来を作る。巡ってきたんだ!僕達が誤ってもいつか巡る!しかし僕は見たい!まだ見ぬ世界をラステル、君と見たくてたまらない!」


 セリムはシュナとアシタカの手をもう一度握らせた。


 一度は手から溢れ落ちてしまった燦々さんさんと輝いている世界。見えなかったその先。何度も、何度も手から落ちたけれど、また巡ってきた。


 祈りを捧げてきたから、また巡ってきた。


 美しいものは、決して失われない。


 何度消えて、奪われてもまた巡ってくる。


 父は諦めて忘れたけれど、私達はあらがう。絶滅ぜつめつしてもこの諸悪の根源だけは許さない。


 憎悪と諦めを許さない。


 絶望の中でアモレは戦う道を選んだ。多くの蟲が諦め、忘れても、心の奥底に光が残っているのを知っているからアモレが残した。


 蟲は記憶を伝承している。隠せても忘れられない。その一粒を目印に、いつか思い出す。思い出させる。それがアモレの祈り歌。壮大にして永遠の祈り。


 巡り巡る。蟲のテルムが生まれると信じて希望とともにこの世を去った。子も残し、絶対に幸せだった。


「僕だ。僕が愛した。ラステルという蟲姫を愛し、蟲がまた人を愛する。ああ、ラステル。僕と君が神話の中心だ。違くても構わない。明るく輝かんばかりの祈りを残そう。アモレと横並びの祈りを命に残すんだ」


 興奮冷めやらなくて、セリムはラステルの手を握って部屋から出た。それからベランダから外へと出た。


「セリム、何のことなのか後で……。あら、流れ星よ!綺麗きれいねセリム」


 ラステルが息を飲んだ。懐かしそうな表情に、セリムはラステルの肩を抱いた。


「闇夜の美しい流星。アモレがテルムと眺めた幸福の象徴だよラステル。僕らの誓いの晩にも見た」


 足の悪いシュナを、アシタカが愛おしそうにベランダへと連れてきた。シュナが戸惑っているが、アシタカは気がついていないようだ。


 ラステルがシュナの腕に抱きついて、空を指差した。それからアピを抱きしめて、歌いだした。


「巡り巡る。土に還り木になって家になろう。実になって食べられよう。幸せで胸がいっぱいな時間。大切な想いの結晶」


 ラステルがあまりにご機嫌で、シュナが面食らっている。ホルフルの民はアシタバの民ても末蟲すえむしらしい。流星を落とすアシタバアピスに感化されて、ラステルが喜びに飲み込まれている。


 セリムはこの景色を見るのに相応しい者が他にもいると駆け出した。


「セリム。あー、ティダなら放っておいてやれ。取り込み中かもしれん」


 セリムは足を止めた。取り込み中?そんなにセリムやシュナの為に働き詰めなのか。そうすると、パズーもこの景色を見れない。残念過ぎる。


「シャルル王子はどうだい?僕はグスタフ王は全く信じてないが、彼には挨拶しておきたい。シュナ姫から話を聞いているからさ」


 頼む、というアシタカの熱線にセリムは頷いた。突如開け放たれた扉の前に、シャルルが現れた。月狼スコールが尾で持っている。蒼白で今すぐ倒れそうなシャルルを、セリムは受け取った。王狼ヴィトニルの尾が月狼スコールの頭部を撫でた。


「スコール君!何て出来た大狼なんだ。シャルル王子、噛み砕かれないということはやはり君は頑張れる人だ。さあ、時代の夜明けを共に見よう。僕達は鮮やかな未来を歩むんだ」


 訳が分からないという様子のシャルルを、ベランダまで担いでいった。それからそっと下ろした。


「何のつもり……。ペジテの至宝?」


「やあ、今晩はシャルル王子。外交で一度会ったことがありますね。アシタカです。覚えていてくれて嬉しいです。また外交に来ました。今回はおざなりな対面ではなく、本気の会談ですけどね」


 初対面ではないことに、シュナが目を見開た。セリムも言葉を失った。そんな話知らない。シャルルと、アシタカが居るのが信じられないと茫然と立ち尽くしている。


 こんな状況なのに、ラステルが高らかに歌っている。嬉しくてたまらないと、シュナに寄り添って歌い続けている。


 アピがラステルの頭の上から、破れた羽で空高く舞い上がっていった。薄雲に紛れて、高い空の風に負けまいと、アピスの子達が幼い体で懸命に運んできた光を投げている。見えなくても、聞こえてくる。胸に響いてくる。


 子が未来を作れと、中蟲なかむしや成蟲がさらに上空で見守っているらしい。


「兄上、心強い方が来てくれました。二人で手を取り合ってこの国を導きましょう。私は変わり、貴方も変わる。船でも口ずさんでいたな、ラステル。私も覚えてしまったよ。空を自由に飛び、地を何処までも進もう」


 静かに歌いだしたのに、シュナの声は圧巻だった。こんなにも美しい歌い手を聞いたことがない。元の声の美麗びれいさがより際立っている。


「醜い姫と流れ星……」


 シャルルがポツリと呟いた。シュナを眺める視線には、畏敬いけいが宿っていた。


「醜いとは何だ!このような至極の声の女性にこの荘厳たる景色。女神と呼べんとは、目が腐っているのか!」


 アシタカの怒声で、ラステルとシュナが歌うのをやめた。ラステルは我に返ったらしく、不安そうにセリムを見上げた。


「ラステル、嬉しくて、幸せで、それで家と同化するのは素晴らしいことだ。君の星にも負けない笑顔と、可憐な歌声をもっと聴きたかったのに残念。アシタカは怒りを忘れる練習が必要だな」


 ふと見るとシュナがアシタカの顔をジッと見据えていた。寒いのか頬が赤らんでいる。セリムは外套マントを外して、シュナに渡そうとした。当然と言うように、アシタカがセリムの手から外套マントを奪ってシュナの肩に掛けた。


「違う、違う!幼い頃に母上から聞かされたおとぎ話だ。賢く、聡く、誰よりも優しいのに気づいてもらえない醜い姫。それでも毎日民の為に働いた」


 興味深い。シュナは知らないというように首を横に振った。


「シャルル王子、それで?」


 シャルルの表情は精悍せいかんだった。猫背も治っている。


饑饉ききんが醜い姫の国を襲った。姫は持っている食べ物を全て分け与えた。自らは水しか飲まない。力が出なくても、一生懸命畑を耕した。それを見ていた星の王子が醜い姫に恋に落ちた。星々が王子が恋した姫の為に、流れ星となった」


 懐かしいというように、そして美しい流星に見惚れるように、シャルルが軽やかに語る。


「流れ星に願いを込めると叶う。醜い姫は次々と願った。土は豊かに、緑が芽吹いて実がなるようにと。叶うならば民の幸福が、少しでも長く続くように。ああ、ちんは忘れていた。死が恐ろしくて、贅沢ぜいたくに目が霞み母上の教えを忘れていた……」


 ゆっくりとシャルルがシュナを見下ろした。それから、そっと震える手でシュナの頭に触れた。


「病で脳がやられる前は、共に遊んだこともあったなシュナよ。化物などとすまなかった

。私の方が怪物であった。ヴァナルガンドが励むのはいつからでも遅くないと言う。民に感謝されるのはなんとも言えない嬉しさを感じた。許してくれとは言わない。しかし少しだけ時間をくれないだろうか」


 シュナが勢い良くシャルルの手を払った。物凄く嫌そうな顔を浮かべた。それなのにシャルルが何かしらの感情を浮かべる前に、シュナがシャルルの手を取った。


「教えてもらったのです兄上。信じることは難しいが先に心を開きなさい。兄上が先に私に開きました。なので私は全てを許す努力をします。この世のみにくさ全てを受けて生まれたのは、この身に宿る魂に美しさ全部を捧げた結果です。そういう風に私は生きていこうと思っています」


 今日、シュナがアシタカに見せた笑顔よりも可憐で澄み渡った微笑。


 痛いなと思ったら、空から降るいくつもの光は流れ星ではなくあられだった。いや金平糖?崖の国に家族が贈ってくれた毒消しによく似ている。


 アシタカが焦点が定まらないというような目で固まっていた。セリムが目の前で、手をひらひらさせても反応がない。絶景なので、立ったまま気絶してしまったのかもしれない。


「シャルル王子。おとぎ話のとても優しいお姫様はどうなってしまったのですか?」


 ラステルが悲しそうに、シュナを見つめた。それから「幸せになったわ!絶対!」と歯を見せて笑った。おとぎ話を完全にシュナの話にすり替えているようだ。シュナが微笑ましそうに、ラステルに笑みを返した。


「そうである。星々は姫をたいそう気に入って女神にしようと神に頼んだ。しかし星の王子が地上に降りた。寂しくて星達は何度も王子に会いに行く。その度に姫が祈り、国は栄えた。いつしか民も気がついた。そして願った。姫の美しい願いしか聞き入れなかった星々が、ついに民の願いを叶えた」


 シャルルがシュナに微笑みかけた瞬間、シュナに大量のあられが注いだ。


「流星ではなくひょうなのか?」


 アシタカがシュナを守るように外套マントを掲げた。セリムはそれをひったくった。びっくりした様子のアシタカに、セリムはありったけの毒消しを拾って渡した。


「これは祝福と御礼だ。中蟲を助け、許し、姫に慕われるシュナ姫への天からの賛辞さんじでもある。これは食べものだ。一番最初に口にするのはシュナ姫。不安なら僕」

 

 食べれると囁きが聞こえてくる。アシタバの民は、あまりセリムに教えてくれないらしい。ホルフルの民からも人として考えよと突っぱねられている。


「甘いのかと思ったら少し苦いな」


 一番はシュナ姫なのにアシタカが食べたので、アピスの子達が猛烈に怒り出した。未熟だ、未熟だから怒ってたんだ!とやかましい大合唱。アシタカには聞こえないらしく、本人は涼しい表情をしている。アピスの子達の騒音にうんざりして完全に蟲の意識を閉じた。


 アシタカが一粒毒消しの欠片かけらつまんでシュナの唇に押し付けた。


「先に食べてしまってすまないシュナ姫。全然分からないが君への祝いの品。美味しくはなかったけれど、全く問題なさそうだ」


 静かで穏やかなアシタカの指先から、シュナがそっと毒消しを口にした。顔が真っ赤だ。セリムも気恥ずかしかった。アシタカは気にするでもなく、太陽を見るようにシュナへ熱を帯びた視線を向けている。


「ほ、ほん、本当に苦いですね……」


 困ったように俯いたシュナの手をアシタカが優しく握りしめた。


「もう終わりのようです。冷えて体に障るでしょう。湯で温まり、ゆっくりと体を休めてください」


 アシタカがそのままシュナを室内へと連れていった。ラステルがセリムの袖を摘んで、引っ張った。


「そういうことなのかしら?でも家族と言っていたわ」


「さあ?僕もそんな気がする。しかし家族?アシタカは自覚していないのか?それとも女誑おんなたらしは本当で、無自覚に女性を口説き回っているのか?」


 セリムとラステルは顔を見合わせて笑った。


「ペジテの至宝がシュナを?これはどういうことなんだ?」


 セリムとラステルは同時に首を横に振った。シャルルが遠ざかるシュナの背中を見つめている。病で奇形、盛り上がった背中をアシタカが労わるようにさすっていた。


「シャルル王子、お星様は民のどんな願いを叶えてくれたんです?」


 絵本でもあれば子が出来た時に読み聞かせてやりたい。真心には真心が返ってくる。言葉よりもずっと胸に染みる。


「心に似合うほどに美しくなった姫様は、この世の誰よりも幸福となりました。星の王子と仲睦まじく、死後も寄り添う星となった。おとぎ話であるが星座の話なんだ。……シュナの婿むこは追い出そう。私はあの男が怖くて嫌でならない。シュナの為にも……」


 シャルルが吐きそうだというように、しゃがみ込んだ。


「ティダのことです?彼なら互いの為だと婿むこを止めて父親になりました。休戦を永遠にする為に、親子の契りは一生らしいです。女性としてではなく、人としてシュナ姫をたいそう気に入ったようで、ずっと手助けするようですよ。多分、そんな話になっているらしいんです」


 セリムがシャルルの肩に手を置くと、シャルルが勢い良く立ち上がった。それからセリムの胸倉をつかもうとしたので、思わず避けた。


「あのハイエナが、ずっと⁉︎」


「己に相応しい態度をするように言い続けますので、頑張って下さい。期待する相手程働かせようとするので、シャルル王子は相当大変です」


 シャルルならやり遂げられる。臆病で疑ぐり深いのは欠点ではない。楽な方に流されるのも人の常。彼は難しい第一歩を自ら踏み出した。シュナとアシタカが支えるだろう。セリムとラステルも手伝い、ティダが蹴っ飛ばす。


 誰も信じられないというシャルルの周りに、信じられる者がどんどん人が集まる。


 そうすれば本物の王となれる。


「わ、わ、私も寝よう。そのような目で見ないでくれ……」


 よろよろと、シャルルが去っていった。いつの間にかアピがラステルの腕に抱かれて眠っている。また、目について言われたが仕方ない気がしてきた。セリムは本人よりも先に良いところを見つけてしまう。セリムの特技はかなり使えるようなので、大事にしようと決意した。正しい使用方法や意識的な利用方が分からないが、励めばいつか分かるだろう。


「シュナ姫の湯浴みを手伝うわ。女同士語り合うのよ」


 ラステルの顔に、アシタカについてどう思うか聞きたいと描いてある。


「それならラステル。この毒消しを湯に入れると良い。毒消しと言うからには体に良いのだろう」


 セリムはベランダに落ちているあられをラステルと拾った。


***


 翌日


 寝室の扉が激しく叩かれて、セリムは飛び起きた。


 ラステルが見知らぬ女性と飛び込んできた。人形のように表情が固まっている。ラステルに引きずられてきたのは、つややかな髪の美人。


「ケチャ姉上?いや、クイ姉上?いや……」


 夢なのか?いや、似ているが姉達とは少し違う。まばらな眉毛でもしやと思い至る。


「シュナ姫よ!胸の薔薇ばら印があるからお姫様だって分かるんですって!声でも分かるわ!絶対に分かるわ!起きたら体が良くなっていたのよ!あんなに重い胞病ほうびょうが治って、骨まで良くなったの!セリム!研究しないといけないわ!」


 言いたい放題喋ると、ラステルが部屋から勢い良く出ていった。セリムは慌てて追いかけた。ラステルが唖然としている寝間着姿のシュナの手を繋いで、ティダの部屋の扉を激しく叩いている。


「シュナ姫が何もかも許してお兄様と立ち上がるから、お祝いが先に来たわ!流れ星が奇跡を起こしたのよ!家族がありがとう、おめでとうって飛んできたのよ!シュナ姫はとても元気よ!元気一杯よ!師匠!起きて師匠!娘の完治を見て!」


 ドンドンと扉を叩くラステル。隣で困ったように立ち尽くしているシュナ。セリムは状況について行けずに立ち尽くした。


「ラステルさん!朝から、うるさいですよ!」


 セリムの後ろから、遅れて現れたアシタカが叫んだ。


 アシタカがシュナに目を止めて、口をパクパクさせた。それから耳まで真っ赤に染まっていった。


「何てあられもない格好をしているのですシュナ姫。風邪も引きますよ」


 今度はシュナが全身真っ赤になった。ラステルがハッとしてシュナから離れ、セリムの隣に並んだ。ラステルはワクワクした表情をしている。


「ア、ア、アシタカ殿。私だと分かるのですか?」


 アシタカは当然と言う顔をして、驚きもしなかった。


「僕が持って来た薬湯がこんなにも早く効果を出すとは思いませんでした。それもこんなに強い効果があるとは。長期治療ですけれど、ゆっくりと完治させましょう」


 何か勘違いしているアシタカがシュナに向かって顔をしかめた。


淑女しゅくじょがこんなに肌を見せるものではない。早く部屋へ行って着替えて下さい」


 アシタカがセリムをにらみつけて、シュナを引きずっていった。


「あら?」


「僕はアシタカという男がどんどん分からなくなっていくよ……」


 廊下にセリムのため息と、ラステルの残念そうな声が重なって響いた。少し後に、王狼ヴィトニル月狼スコールが時代の夜明けだというように、三度強く吠えて空気を揺らした。

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