崖の国の目付と大狼皇子2

 凪いだ海を背景に、ゆっくりと歩いてくるアシタカにパズーは息を飲んだ。右から見ても左から見ても疲れ切った様子なのに、爽やかで穏やかな微笑。


「お迎えありがとう。ティダ、パズー」


 パズーの隣に立つティダも不気味な程静かだ。


「何しに来た?」


 アシタカは微笑んだままティダの前に立った。それからいきなりティダを殴りつけた。絶対に避けられるのに、ティダは黙って殴られた。拳を叩きつけられたが、ティダの顔以外は動かなかった。ティダは切れた唇を優雅に舌で舐めて、微笑み返した。


「殴られようとする者にそのまま手を挙げるなど恥だ。何しに来た?」


 挑発するようなティダの笑顔に対して、アシタカは清々しい程の満面の笑みを浮かべた。ティダの眉尻が少しだけピクリと動いた。


「無抵抗な者を殴りたくなかったが、君は殴られたいと思ってね。ティダ・ベルセルグ、己に相応しい態度や言動を取らない。目の前に殴られようとしてる奴がいるのに眺めている。我らの誇り高き護衛人の真珠パールを飾るに似合わない。改めてもらおう。僕の気心知れた友人に相応の男になってもらわねばならない」


 海風に純白のドメキア王国国旗の外套マントをはためかせるティダの凛然りんぜんたる姿。向かい合うアシタカの堂々たる立ち姿。どちらも精悍せいかんとした、意志は揺るがないというような男の顔。


 穏やかそうに微笑んでいるのに、爆発しそうなほどに鳥羽とば色の瞳を燃やしているアシタカ。同様にティダの黒真珠のような瞳も似たようにギラギラとしている。状況が全く読めなくて、パズーは震えた。


「挑発をするな。何をしにきた」


 アシタカは肩を軽く揺すって、それからパズーを見据えた。目が笑っていない。


「目の前に殴られようとしてる奴がいるのに眺めてるんじゃねえアシタカ。指摘されたのを思い出してね、眺めるのは止めて、代わりに殴られに来た」


 ティダが大きくため息を吐いて首を横に振った。


「潔癖症は長所だが、己の立場を考えろ。任せると決めたのなら貫け。俺達が代わりに背負った。大人しく帰れ」


 潮風がアシタカの長くも短くもない髪をさらさらと揺らす。怒り心頭という目つきなのに、正反対に穏やかな微笑みが不気味過ぎる。アシタカはこんな男だったか?


「家族が病に侵された体で、誰にも弱音一つ言えずにいる。四面楚歌しめんそかどころか、同胞に刺されている。僕も貴様も万死に値する。しかし君の事だから、分かっていて放置している。最善策が僕にたくすだったのだろう?なので僕も最善策を練ってきた。矜持に反しても、友を刺しているのは辛いだろうから殴ってやった」


「お前、シュナの為だけに来たのか」


「妙ちくりんで、蟲で海産物の雨を降らす奇跡を起こす友。偽りの妻の為に泥を被ろうと深夜過ぎまで駆けずり回る友。どちらの男にも僕や援助など不必要。心強いので傍観ぼうかんする。むしろそうしなければ大恥だ」


 フンッと鼻を鳴らすと、アシタカは馬に向かって歩き出した。ティダがアシタカの肩を掴んで振り返させた。ティダの顔色が少し悪く、表情もくもっている。


「僕は仕事場所を変える事にしただけだ。短時間睡眠と健康が僕の取り柄でね。今回は会談参加という理由もある。祖国には家族と優秀な部下が大勢いる。指揮官がたまに不在でも何の問題もない。因みに最悪の場合、父上に生き返ってもらう。僕は会談まで部屋から出ない。護衛人を幾人かもらうかもしれないが、君の邪魔にはならないだろう」


 涼しい表情で告げられた言葉に、パズーは愕然がくぜんとした。セリム達が心配で国を飛び出してきたのかと思ったら、全然違う。ティダが口にしたように、アシタカは本当にシュナの為だけにきた。全部背負ったまま荷物を増やそうとしている。


「ふはははははは!何があったか知らんが見事也アシタカ!それでこそ覇王の至宝だ!生憎あいにく俺の手はもう手一杯でな。おまけに愛娘も自立したいと俺を突っぱねている。もう一発殴れ。いや、生涯俺を殴る権利をやろう。何発でも拳を叩きつけろ。しかし俺は生き方を変えん。俺に相応しいのは今の態度だ」


 風で乱れた髪を手で搔き上げると、ティダが恭しくアシタカに会釈した。


「それでは困る。至宝に飾られる真珠パールという小さな宝石ではなく、満天の空で一際輝く南十字星ノーザンクロスとなる友の隣には相応しくない」


 ピクリとだけ目の下を引きつらせたが、ティダはアシタカ同様に涼しい表情を作った。


「挑発するな」


「挑発?心外だティダ。これは信頼だ。言っただろう?うるわしき白鳥の永遠の想い人。決して消えない初めての男。僕ばかりが成長し良い男になると、友から彼女の純情を奪ってしまう。生憎一度見捨てられた身。絶対に拒否する。僕に不信を突きつけた女性とは生涯共に歩けない。そのくらい君なら理解しているだろう?」


 したり顔のアシタカは悪戯いたずらっ子のような意地の悪い笑顔になった。歯を見せて、どうだ?と言わんばかり。


「猛毒飲まされたと思っていたが、最悪だ。劇薬付きの女だとは。俺は一生至宝の犬か。しかし毒を食らわば皿まで。やり過ぎだアシタカ。俺は生き方を変えん」


 呻いた後にティダがアシタカに向かって膝をついた。ギョッとしたアシタカに今度はティダがしたり顔を向けた。


「度重なる無礼と侮辱をびる。男を見る目はあると思っていたんだがな。ペジテ大工房大技師名代アシタカ・サングリアル殿。申し訳ありませんでした」


 立ち膝のままティダがこうべを垂れた。パズーの腰は抜けた。これは本気の謝罪だ。あまりにも穏やかに、素直な雰囲気にここまで体が震えるとは思わなかった。アシタカへの一点の曇りもない敬意。


「ふはははははは!おかしな男だ!この敬意は今この瞬間の僕に対してだろう?過去の僕は単なる青二才。この僕を変えたからには、共に酒を飲んでもらうぞ。酒癖が悪いから止めてくれ」


 ティダの真似をしたアシタカがティダの前に同じように膝をついた。顔を上げたティダがセリムに向けるような、偽りの無い屈託のない笑顔を見せた。それから二人してスッと立ち上がった。


「ふむ。俺は静かな酒が好きだ」


 何も無かったというような澄ました顔でティダがアシタカに背中を見せた。無防備ですきだらけ。砂浜に座り込んでいたパズーをティダが引っ張り上げた。それからティダはパズーの隣で放心しているシッダルタをにらつけた。恐怖で我に返ったシッダルタに、ティダが今度は優しく微笑みかけて髪をぐしゃぐしゃと撫でた。


「我が友に将棋を指南してくれ。月灯りで静かに気心知れた友人と飲むのが俺の最高の夜だ。かつて岩窟では毎日のようにあったのだがな。今は機会が少ない。未熟で至らぬ己のせいだが寂しくてならない」


 ティダは言い終わるやシッダルタの脇を歩いて馬へ向かっていった。シッダルタが瞳に涙を溜めた。


「僕は酒を飲むと女癖が悪くなる。男には延々と説教。将棋の指南と共に酒を飲む練習にも付き合ってもらいたいです。全てを許し全てを愛せ。信じることは難しいが先に心を開け。僕はそういう男だ。ペジテ大工房の民もだ。侵略戦争に駆り出された弱き民を殴りはしない。むしろ長年手を差し伸べなかった罪を悔い改めている。是非力になって欲しい」


 アシタカの鳥羽とば色の瞳にははっきりとした強い不信感が浮かんでいる。わざわざ大陸覇王などと自ら名乗ったのもわざとに違いない。裏切るならば、相応の対価を払ってもらう。目には目、歯には歯。セリムから聞いた蟲によれば牙には牙。殺せるものならば殺せ。脅迫めいた目がティダそっくりだ。


ーー私は国を背負って守るために大掟を破った!隠しはせず裁かれよう!


 アシタカはティダが言う通り潔癖症っぽい。今までのアシタカからティダへの嫌悪感は恐らくそのせいだ。


 なのに変わった。


ーー罪を重ねけがれていく民などいらん


 記者会見の時のアシタカの台詞が鮮やかに蘇る。あれは本心ではないか?そして何より父親ヌーフとシュナによるヌーフ暗殺偽装で咄嗟に見せた行動が今と同じだ。会見後の円卓団欒室えんたくだんらんしつでのアシタカは卑怯な手を使った父親と、それに乗った自己嫌悪に潰れていた。


 なのに今はそれを飲み込んでいる。


 右手を差し出したアシタカにシッダルタが固まった。ガタガタと震えて倒れそうになったので、パズーはシッダルタを支えた。


「か弱き乙女もいばらで血染めになりながら歩く。男なら信頼に応えよ。荷物を持つと言われるまでに背負え」


 アシタカはパズーにはセリムそっくりな親愛と敬意のこもった目を向けた。それからシッダルタを観察するように眺めている。わざとらしい仕草だったがシッダルタは気づかなかった。それでもアシタカは目を合わせられないシッダルタを黙って待っているように、右手を差し出したままジッと動かない。


「顔を上げろシッダルタ!生き様見せずに何を手に入れようと言うんだ!俺の顔に泥を塗るんじゃねえ!その手を払うなら鮫の餌にするぞ!俺の側近に相応しくねえ!」


 二方向から刺されて可哀想なシッダルタにパズーは同情した。とんでもない二人に目を付けられている。アシタカはシッダルタがティダの何たるかを予想し、わざとこのように振る舞っている。恐る恐るというようにシッダルタが面を上げた。柔らかく微笑んだがアシタカの目に目一杯の真心が光った。セリムと同じ春風のような温かな陽だまりのような視線。


 意を決したようにシッダルタがアシタカの手を取った。力強く握りしめている。


「隣に良い手本がいる。この僕を完膚かんぷなきまでに殴りつけた。恐ろしい大狼にも時に噛み付く。僕の器の下には沢山の器があって、いくら注いでも問題ない。いつでも相談に乗ろう。彼の真似は疲れる。僕の側ならのんびり働けるから胸の片隅に置いておくと良い」


 馬で近づいてきたティダがシッダルタの首根っこを掴んで持ち上げた。自分の前に座らせてアシタカをにらむように見下ろした。


「俺の駒を奪おうなんざいい度胸だ」


「僕はつまらない男で酒もチェスも将棋もたしなまない。仕事が生きがいなんだ。優秀な部下は何人でも欲しい。僕の野望は大き過ぎて手がいくつも必要だ」


 アシタカが颯爽さっそうと馬に乗った。それからパズーに近寄って右手を差し出す。


「セリムの目付も欲しい。君の指摘にはいつも目がめる。目の前に殴られようとしてる奴がいるのに眺めてるんじゃねえアシタカ?撤回てっかいしてもらいにきた」


 目がめる?屈辱にメラメラと炎が燃え盛っている。おまけに思わず口にした言葉がアシタカに途轍とてつもない決意をさせた。


「ひっ!」


 アシタカが無理やりパズーの腕を掴んで引っ張り上げた。


「おいおいそいつも俺の駒だ。しかも俺の抑止力の大駒。根こそぎ奪うつもりか?おい、シッダルタ。目の前に殴られようとしてる奴がいるのに眺めてるんじゃねえだとよ。この状況を放置か?ったく、まだまだ足りんな」


 ティダがアシタカを挑発するように馬で馬を脅かしてから走り出した。


「僕の従兄弟を刺す君の弟を止めないからだ!怒り心頭なんだよ僕は!貴様が正しい背中を見せないからセリムが暴走するんだ!それに我が気心知れた友をこの世で最も幸福にすると誓わないからだ!クソ野郎が!」


 怒り過ぎると口が悪くなるのは知っている。余程腹が立っているらしい。ティダの馬に追いついたアシタカがもう一度「誓え!」と大声を出した。


「俺は小さい男なんだよ!何もかも背負ってきやがって腹立たしい!俺の上に立つな!どれだけ働かなきゃなんねえんだよ!それに言っただろ!俺を照らす満天の空で最も輝く南十字星ノーザンクロスには恐れ多くて幸福にするなど誓えんわ!ふはははははは!」


 自虐的なのに何故か勝ち誇った表情のティダ。


「おや、教えてあげただろう?アンリの初恋は僕だ。そして僕は彼女の仕事魂と護衛人の誇りに相応しい護衛相手。長年の絆と年々大きくなる尊敬。勝てるのはどっちか想像出来ないかい?」


 ニヤリと口角を上げたアシタカにティダの馬が激しく揺れた。一瞬真っ青になったティダが、即座に高笑いした。


 風になびく髪を抑える姿の自信に満ちて、優雅で色気ある所作にパズーは目を奪われた。男なのに男をきつける根幹を見た気がする。


「腹立たしいから一生泣かせ続けてやる。まずは俺の偽りの誓いが消滅するまで耐え忍ばせて、我慢出来ないと泣かせる。いや泣いたか。あのそそる顔を二度と見せるか。俺の女に手を出したらなぶり殺す。奪ってみろよ!ふははははははは!」


 今度はアシタカの馬が大きく揺れた。


「貴様!だから己に相応しい態度に改めろ!大技師と我が国の永遠の護衛人長官。国を挙げて式典を挙げるのに、何たる態度だ!絶対に誓わせてやる!全市民を証人にさせるからな!さもなくば絶対に奪い返す!そして捨てるぞ!僕は自分を見捨てた女など要らん!ふははははは!」


 アシタカの馬がグンッと速度を増す。


 壊れた。


 アシタカが壊れた。


 怒りで理性が振り切ったのか?ティダそっくりな横柄な態度に目眩めまいがする。


「祝言は崖の国だ!勝手に決めるんじゃねえ!そんな場所用意されたらそれなりの姿を見せないとならん!却下だ却下!クソッ!猛毒に劇薬とはとんでもない国だ!二度と足を踏み入れん!不敗神話っていうのは不戦敗も含まれるんだよ!」


 追いつきそうで追いつかないティダの馬。ティダ劣勢を初めてみた。シッダルタも茫然としている。やはりアンリは魔性の女だ。昨夜の叱責の恐ろしさを思い出して身震いした。


「白鳥を産み落とした家族に挨拶もしないのか!それにアンリを慕う多くの部下!君の娘が照らすこの国でも祝われ、これより先にお前が掌に乗せる故郷でも盛大な祝いを行うぞ!四カ国で連日連夜の大騒ぎだ!セリムとラステルさんも隣に立たせる!お前が救う何もかもに誓わせてやる!鮮やかな未来とはこのことだ!絶対に誓わせるからな!首を洗って恐れおののいていろ!」


 高笑いを続けるアシタカの馬は星空の下の丘を風のように駆けた。逃げるが勝ちと言うようにティダは静かになった。チラリと振り返ったアシタカのこめかみに血管が浮いている。眉根を寄せて、口を真一文字に結んだ怒りの表情。余程アンリを取られたのが悔しいのか?それにしては言動が変だ。


 全然話していなくて分からないが、この二人にはさまれるなんてとんでもない女性だな。


 ドメキア城を支える台地から続く隠し通路から城に入った。ティダが用意していた外套マントで全身を隠したアシタカをティダは騎士達や護衛人に「捕虜だ」としか教えなかった。


 二人はシュナの部屋へ行くのかと思ったらセリムの部屋に押し入った。


「こんばんはセリム。アンリも。それにフォンも御苦労。君はスコールさんだったかな?」


 寒気がする程、爽やかで穏やかな笑顔になったアシタカがセリムに向かって手を挙げた。


「アシタカ⁈どうして?心配は分かるが……」


 駆け寄ってくるセリム。アシタカはいきなりセリムを殴りつけた。いや、寸前で拳を止めた。アンリがセリムの前に立ちはだかっていた。


「絶対に大人しくペジテ大工房に居なさいアシタカ。もう忘れたの?」


 呆れたようにアンリがため息を吐いた。それからティダを睨みつけた。ティダは扉にもたれかかってセリムを見下ろしていたが背中を離した。


「仕事場所を変えるそうだ」


 ねたようにティダがアンリから目をらした。見たことがない顔だが、相当機嫌が悪いのは分かる。


「どういうことアシタカ?」


「僕の取り柄は短時間睡眠と健康。君は良く良く知っているだろう?僕はつい荷物を増やすから少々離れることにした。後進を育てないとならない。通勤は大変そうだが問題ないだろう。父上に姉上、それに僕より大きく育つ妹達もいる。家を解約したんだ。家財道具を盗まれた家よりもうんと広い部屋が良い。吐き気がする程目がチカチカする装飾だが慣れるだろう」


 アンリとセリムが目を白黒させた。アシタカの言葉を咀嚼そしゃくしているアンリを無視して、アシタカがセリムの胸倉に掴みかかった。ひらりと避けそうなのに、混乱しすぎているのかセリムはなすがままだ。


「友の背中を刺し続けるとは無意識でも許さんセリム!気づきそうなのに気負い過ぎだ!憎しみで殺すより許して刺されろ⁈刺された者を放置して失血死させる男でもないのに己を見失いやがって!幼く少々やかましい貴様の妻では役不足!妻を手伝わないとは何事か!恥を知れ!」


 ティダがアシタカの肩を掴もうとした。しかし手を止めた。セリムは何のことか思い至ったようで真っ青になった。アシタカの激怒はティダへではなくセリムにだったらしい。


「兄を真似るのも良いが追いきれてないし、反面教師にも出来てない!ティダ!偽りの誓いなんぞ、無いも同然どころか誓いとは認められん。シュナ姫の真心を無下にするなら貴様こそ鮫の餌だ!親友アンリに免じて猶予をやる!クソ野郎どもが!」


 降参と言わんばかりにティダが両手を挙げた。フンッと鼻を鳴らしてアシタカが部屋から出て行った。セリムが慌てて追いかけていく。


「どういうことなのティダ?」


 腰に手を当てて仁王立ちしたアンリがティダを睨み上げた。


「説得して帰そうとしたら劇薬飲まされた。アシタカの奴、シュナの為だけに来やがった。全部背負うとよ。あんなの止められるか」


 壊れ物に触れるようにティダがアンリの頬に手を添えた。それなのに、牙を剥くような低いうなり。


「何をそんなに怒っているのよ。怒っているのは私よ!アシタカを追い返さないで連れてくるって何考えているのよ!」


 挑発的なのはアンリだが、アンリが壁際に追い詰められていく。見てはいけないような光景なのだが、目が離せない。アンリは知らないが、アシタカが火に油を大量に注いだ。どうなるんだ?


「何を?肩の荷が下りてホッとした。殴られてまた間違いを訂正することにした。目が冴えた。君への言動を正そう。余所見をするな、ではない。余所見をさせない。死ぬまで俺が与えられる幸福を与えよう。未熟ながら真心だけは込める」


 蠱惑的こわくてきな笑みに甘い声を出して、ティダが親指でアンリの唇をなぞった。声にならないようなアンリの妖艶ようえんな吐息にパズーは固まった。大人だ、そして圧倒的な余裕。セリムは尻に敷かれ続けるかもしれないが、ティダはそんなことはない。見習うべき姿をパズーは注視した。


 ティダがゆっくりと振り返って、パズーとシッダルタへ含みのある流し目を投げた。同時にアンリがすがるようにパズーを見る。アンリが泣き出しそうなのでパズーは一歩踏み出した。


「シッダルタ、見習え。殴られようとしているものを眺めるのは卑怯者。してパズー。俺が俺の女を、宝を殴るか?そして見たらどうなると言った?」


 ティダが出会ってから一番鋭く恐ろしい視線で突き刺してきた。去らないと「なぶり殺す」と顔に描いてある。アンリの姿はティダの体に隠れてもう見えない。パズーは反射的に首を横に振った。それから縦にも振った。脱兎のごとく、シッダルタの手首を掴んで部屋から逃亡。


「あんな猛獣に食われるとか可哀想過ぎるなアンリさん。アシタカの奴、知らなくて挑発したのか?知ってたら鬼だな。セリムは大丈夫なのか?」


 シュナの部屋の扉は開け放たれていた。部屋を守る守護神、王狼ヴィトニルが伏せて目をつむっているが何故か満足そうに見える。


 入り口で真っ白な顔で、ラステルに体を揺すられているセリム。王狼ヴィトニルに尾で頭を撫でられている。


「僕を助けて欲しいのでご自愛を。同じ道を歩くなら隣に並びましょう」


 片膝をついてシュナの手をうやうやしく握り、微笑むアシタカ。輝く程に優しい雰囲気をまとっている。アシタカは本当にシュナの為だけに来たと、はっきりと伝わってくる。


「こんなに疲れている様子なのに……。申し訳ないと言うと怒るのでしょうね。アシタカ殿ありがとうございます。私達の手助けをして欲しいので、どうかご自愛を」


 ゆっくりと立ち上がったシュナが気品と優美さあふれる動作でスカートを指で広げた。それから深々と頭を下げる。一連の動作にパズーは感嘆のため息をもららした。


 そのまま優雅に腰を落としたシュナがアシタカに向けた、感謝に満ち満ちた満面の笑みにパズーは見惚れた。ここまで可憐に笑う女性は人生で初めてだった。


「なあヴィトニル、ウールヴが相応しいが可愛い子には旅をさせよ。そしてウールヴなんぞ蹴散らす大狼に育って欲しい。俺はフローズだと思うがどう思う?」


 穏やかな声がして振り返るとアンリの肩を抱いたティダが立っていた。心底安心したというような、濡れた瞳でシュナとアシタカを眺めている。王狼ヴィトニルが振り返ってこちらを向いていた。セリムはまだぼんやりと青いまま、ラステルに腕をさすられている。


「自立しろ?そうか、寂しくなるな。ずっと世話になりっぱなしだった」


 王狼ヴィトニルがアンリの体ごとティダを尾で包んだ。それからアンリの体を撫でた。


「どういうこと?」


 アンリは怯えもせずに王狼ヴィトニルに触れられている。そしてティダを愛おしそうに見上げていた。


「君はまず大狼にならねばならんな。我が愛娘と至宝には、ヴィトニルの息子が守護神となる。息子には親がしばらく背中を見せねばならん。蟲が人と生きるのに、大狼が矜持あふれる人と生きぬなど屈辱。万死に値する。我が唯一無二の黄金太陽には、相応しき冠を飾らねばならない」


 ほろり、とティダが涙をこぼした。柔らかく微笑んだアンリがティダの手をそっと握っていた。まるで何もかも見透かしたというように、子を見守るような笑み。


「つまらぬ姿を見せたなパズー。セリムはアシタカが自分で成長させるだろう。手助けしてやれ。今日の俺では無理だ。任せた。王たる大狼ヴィトニル、命短しこの世は尊い、共に眩しく生きよう」


 目に一杯の涙を溜めて、ティダは幸福そうに微笑んでいた。しかしもう涙は流れない。王狼ヴィトニルだけを黒真珠ブラックパールのような輝く目で見つめている。


「俺の目付にもうウールヴを呼ぶとは心配性め。俺の不敗神話を崩すなんざ、アシタカの奴一生挑んでやる。残りは全部勝利。ヴィトニルを奪われたこの屈辱、必ず晴らしてやる。奪われたら奪い返すまでだ」


 きびすを返して立ち去ったティダは威風堂々、敗北など嘘のように歩いていく。王狼ヴィトニルが何故か呆れたように鼻を鳴らした。敗北でも、奪われたのでも無いのだろう。


 昂然こうぜんとしているのに、ティダはまるでアンリに寄りかかっているようにも見える。


 王狼ヴィトニルが廊下と部屋に響き渡るほど強く、三度、長く、えた。それからパズーの頭を尾で撫で、背中を叩いた。ティダの背中を見ろというように、顎で示される。


「任せた」というティダの言葉に鳥肌がおさまらなかった。これだ、この為についてきた。この男に認められるのが何よりも誇りになる。そして崖の国の誰も彼もに、大きくなった背中を見せたい。パズーは震える手を強く握りしめた。

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