至宝と美しい声の友3

 深夜まで会議が押して、重い体を何とか動かして帰宅した。アシタカはソファに腰を下ろすとぼんやりと宙を眺めた。買っておいたサンドイッチを頬張る気力も無い。今日一日、何をしていたのか思い出す。会議、視察、会議、書類確認。


 毎日目まぐるしく、問題は山積み。方々から期待と罵声の大嵐。しかし、明るい未来が見えそうで仕方がない。だから高揚こうようしていている。気がつくと時間があっという間に過ぎていた。


 何故こんな疲労困憊ひろうこんぱいなのに帰宅したのか。議会議員の会議会館の簡易宿泊室ではなくて、どうして。


 解約しようと思っていた賃貸アパートには、もうソファと寝台ベッドしかない。あと一日だけ、そう思って一日だけ猶予ゆうよを設けた。俗から去るのが名残惜しかった。しかし予想通りの多忙。疲れて、昼過ぎには諦めていた。大総統室で書類確認をしている間もすっかり哀愁など忘れていた。


 それなのに、簡易宿泊室に入った瞬間走り出していた。サンドイッチの入った紙袋を抱えて、全速力。


「変だな……」


 見渡しても誰もいない。当たり前なのに、何故急いで帰宅したのだろうか。この家には半年しか住んでいない。そのうち、半分も帰宅していなかった。同居した恋人に家財道具一切を持ち逃げされ、解約しようともしたが面倒で結局住み続けていた。空っぽになった俗世最後の家。


「奇妙な行動に出るとは、僕は余程疲れているのだな……」


ーーご自愛を


 耳の奥に昨夜の穏やかで、鈴の音のようなシュナの声が響いた。


ーー私達の手助けをして欲しいのでご自愛を


 アシタカはポケットに入れっぱなしで、音沙汰のない通信機を取り出した。そうか、と腑に落ちる。帰るべき場所に帰り、自分をいたわる。心の底では諦めていなかったらしい。この部屋との最後の別れに、これから完全に俗から去ることに向き合いたかったようだ。そうしたかったから帰ってきたのかと、自然と笑みがこぼれた。


「私達の手助けをして欲しいからご自愛を……か……」


 裏を返せば、休んで働けということだ。アシタカの何ともいえない隙間にはまった言葉。アシタカに向けられる、心配の大半には「休んで自分と向き合って欲しい」「そんなに働くとついていけない。息苦しい」そういう批判が含まれているのを、いつも感じていた。だから放っておいて欲しいと、時々疎ましさに声を荒げた。


「いや、そうではないか。僕が屁理屈をねてずっと突っぱねていた。何故働かせてくれないのかと……」


 自分こそがやらねばと、長年走り続けていたのだと独りよがりに心が痛んだ。心配の中に含まれる批判より、真心を受け取れなかった。耳を貸さなかった。だからこの部屋は空っぽになった。その前の家からも「寂しくて耐えられない」と人が去り、その前の家では「付き合いきれない」。共に住まなくても、女は皆アシタカの前から消えていく。


 こんなことを考えるのは、手を取り合って困難へと立ち向かっていったセリムとラステルの仲睦まじさを思い出したからだろう。昨夜のラステルの「頑張るわ!」という張り切った声。セリムへの強い思慕がこもった声は夜空に浮かぶ星のようにキラキラとしていた。


 あと疲労のせいだ。時が過ぎるのを忘れるくらい、たかぶっていた反動。妙に虚しい。


 折角なので寝台ベッドで眠るかと、アシタカは体を引きずるように移動した。それからボスンと倒れるように、横になった。握りしめた通信機をぼーっと見つめる。


 二時過ぎ、寝ているだろう。


ーー明日、また報告します


 昨夜言われた通り、昼間に短く一言だけ連絡があった。ティダが反乱準備に精を出して、反乱以外の何かも企てていそう。それからセリムがシャルルと接触して、無自覚にあおっている。これからシャルルと話す。要点をまとめただけの、業務連絡。


 アシタカは通信機の電源を入れた。呼び出しに反応があるだろうか。長年暗殺を警戒けいかいしていたシュナなら、飛び起きるかもしれない。初対面の時も、れた緑茶に口をつける振りをして、飲まなかった。ジッと観察しないと分からないくらいの仕草だった。


 無意味に安眠を妨げてもなと、アシタカは即座に通信機の電源を切った。どうして電源を入れてしまったのだろう。目をつむったとき、アシタカの手の中で通信機が震えた。


『こんばんはアシタカ殿。夜中まで大変なんですね。眠れなくて起きていたので、丁度良かったです』


 シュナの声を聞いた瞬間、思わず笑みがこぼれた。人恋しかったのかと、自分の本音に気がつく。この声はとても落ち着く。


「こんばんはシュナ姫。今日の会議が有意義でつい。若手議員からの提案が興味深くて」


 自分の脳みそには仕事しかない。そのことにも気がついた。それから歴史の大渦に飲まれそうなシュナ達よりも、自分の話をしようとしたことを恥ずかしく感じた。


『どんな提案だったのです?』


「いえ、僕よりも貴方の話をしましょう」


 しばらく沈黙が横たわった。妙に心臓の音が強く、早く、感じられてゾワゾワとする。


『眠れなかったのは、記者会見の時のアシタカ殿を思い出していたからです』


 突然、予想外の台詞が出てきてアシタカは体を起こした。両手で通信機を握りしめる。


『昼間、セリム殿とラステル同伴で兄と話をしました。怒りを抑えるのに必死でした。セリム殿の手前、顔に出さないようにと苦しくてならなかった』


 震えた小さな声に、アシタカの胸は押し潰されそうになった。同じ空間にいれば、温かな紅茶をれられる。泣いていればハンカチを差し出せた。なのに、あまりにも遠い。


「僕は貴方の人生を知らない。しかし兄妹が手を取り合って穏やかに、セリムのその美しい祈りに血が出るほど傷つくシュナ姫の胸の内は多少想像出来ます」


 長年阿呆の振りをして生き残ってきた。嫌な思いと屈辱の日々だっただろう。四方八方敵だらけ、その一方で忠臣からは厚い信頼。いつ殺されるかも分からない日々。辛かっただろうというのは予想に容易い。どれ程か、それは想像しきれない。


『嘘に嘘を塗り固めて、兄からの仕打ちなんて存在しなかったなんて、ねえ。怒りや憎しみで叫び出したくなりました。特にセリム殿に向かって。それから何故こんな気持ちになってまで、見知らぬ他人を守ろうとしているのかと、全部捨ててしまいたかった』


 もっと早く連絡をしてやれば良かった。今のシュナの状況ならば、誰にも言えなかっただろう。


「遅くなってすみません。僕はいつも自分のことばかりだ」


 シュナが何故か小さく笑った。


『そうですか?すぐに私のことを案じてくれました。アシタカ殿はそういう方ですよ。よく気がつく。昨夜も今もそうです。逃げるつもりは毛頭ありませんが、おかげで弱音を吐ける。ありがとうございます』


 力強い声に、アシタカは息を飲んだ。


「そうですか。補佐が欲しいが、この様子だと難しいですね」


 愉快ゆかいだというような、それでいて品の良い笑い声が静かな部屋に響いた。こうして静かに語り合わなければ知らなかった彼女の本来の姿。言葉遣いは荒めで、激しい炎を秘めた女性だと思っていたがそんなことはない。周囲の為に、気丈に振る舞っているのだろう。そして弱さを隠している。


 従兄弟同士、根元は同じかもしれない。そんな風に繋がりを探してみて、一人ではないから明日からも頑張るかとアシタカは通信機を握る手に力を込めた。遠いが、声だけでも真心が伝わるといい。シュナからはヒシヒシと感じる。知り合って間も無いのに、この親近感は血縁者だからか同じ国を背負おうと進んでいる者だからか。両方だろう。


「それで、記者会見の時の僕とは?お恥ずかしながら銃で撃たれて周囲に迷惑をかけた。おまけに父上の嘘に乗って民を脅迫の末に、我を通した。ああ、シュナ姫も父上と共謀してましたね」


 卑怯な手段だと未だ嫌悪を感じているのに、不思議とシュナへの批判は湧いてこなかった。


ーーアシタカ殿が自己賞賛するまでもなく事は済んだ。嘘偽りのない信頼はアシタカ殿の人徳の結果です。全ては吉人天相きちじんてんそう


 民衆を脅したのはアシタカで、シュナはそうしろと命じた訳ではない。父ヌーフも同じ。二人に信頼されて託された。それを卑怯な手段にしたのはアシタカ自身だ。ああ、嫌悪感は自分自身に対してか。


『本気でそんな風に考えているんです?それならセリム殿と同じくらい変ですよ』


 怪訝けげんそうな声色にアシタカは首をひねった。


「変?」


『あの日のアシタカ殿は、私にはあまりにも輝いて見えた。国を背負う覚悟と、その為なら何もかも許すという清々しさ。元来セリム殿のような方ではないでしょう?ティダのように振る舞い割り切れれば楽でしょうに、卑怯な手口と心底嫌そうでしたね。それさえ飲み込んだ』


 指摘通り、必死だった。罪を重ねけがれていく民などいらないというのも、口から出まかせではなかった。それでも信じたくて、声を上げた。自分が守ろうとした民ならば、いつか本心から平和を目指してくれる。俗にまみれて、色々な民がいるのを知ったからこそ奮い立てた。


 それに今は恐怖で脅されないと許しを選べなくても、いつかきっと気がつく。気づかせたい。許した先にある、鮮やかで美しい世界。


 セリムとラステルがノアグレス平野を虹色に染め上げたような、鮮やかで美しい世界をアシタカも作って気づいてもらいたい。


『僕はセリムにとても嫉妬しているんです。ペジテ大工房の至宝と呼ばれ、民の為に励んできたつもりだったのに役立たずだった。右往左往してあちこちで怒鳴りまくり、ああそうだ小蟲にも怒っていると言われました。セリムが何もかも許している時に、僕はずっと怒っていた。そのせいで記者会見の日は、怒りの在庫が無かったんでしょう』


 軽口で少しはシュナの気が楽にならないだろうか。顔を見れないのがもどかしい。薬湯で大分浮腫みや肌の硬質化が減ったが、ドメキア王国では大丈夫なのだろうか。


「なら私も怒りの在庫を無くします。セリム殿は今"しなければならない。励みたい"病です。アシタカ殿のせいですよ。あとティダにも感化されているみたいで迷惑極まりない。兄を貧困街に連れ出して福祉活動をさせたり、騎士団に無意識な説教をしてましたよ。父にも会いに行っていたから、似たようなことをしているでしょうね」


 やはりセリムはやりたい放題なのか。心配ないような、心配なようなどっちとも言えない気持ちになる。


「好き勝手にするだろうと思ってましたが、そのようですね」


 ため息を飲み込んだ。シュナが一番ため息をこぼしたいだろう。


「ティダもです。どうせ言うことなど聞かないので放置してます。セリム殿は奇想天外過ぎですし、もはや何が起こるか予測不能。今日、ドメキア王国には大雨と共に海の幸が降ってきたんですよ。セリム殿がキラキラした笑顔で思い悩む王や私、そして兄への天からの恵みだと、風の神がこの国を見守っていると触れ回ってました」


 アシタカは言葉を失った。海の幸が降ってきた?何だ、その奇跡は。


『セリム殿が予言したという噂を耳にしました。セリム殿、何かしましたよ。本人はしらばっくれてますが、あの子は嘘が下手だ。私はもう翻弄ほんろうされようと思います。アシタカ殿とティダのせいですよ。私をこの国の礎になどと考えるから。セリム殿はもう私を信じて疑わない。その家族なら大丈夫だと王も兄も信じきっている』


 蟲に頼んだのか?一体何を考えているのか。セリムの事だから貧困街を見て、見ない振りが出来なかったのだろう。


「セリムはとんでもない男だな。嫉妬なんておこがましい」


『こっちは正直しんどいです。内乱起こして憎き王を討つ。虐げられている民の為に。その方が気楽だったと気づきました。セリム殿かティダに押し付けて、アシタカ殿の好意に甘えて逃げてしまいたい。憎しみで殺すよりも許して刺されろ。刺されて血を流しても歩けとは、恐ろしい信念。しかしアシタカ殿の輝きに、私も嫉妬するんです。それでぐるぐる考えていたら眠れなくて……』


 セリム達からの信頼という重圧のあまりの重さに、愚痴る相手もいなくて心細かったのだろう。饒舌じょうぜつさに胸がきしんだ。


「仕事ばかりに根を詰めるなと、姉達や妹達に小言を聞かされているんです。つい夢中になってしまうので僕を助けると思って、なるべく連絡を下さい。それから、一緒に同じ方向を向いてくれる味方には近くに居て欲しいという僕の願いを忘れずに心の片隅に置いておいてください」


 話を聞くしか出来ない。絶対にシュナは国を捨てて逃げない。言葉でしかはげますことが出来ない、何て頼りない男だろうか。しばらく無言が続いた。


『兄の顔を見ながら、ずっと思い出して耐えていました。アシタカ殿が先に示した、私の行く末。醜く生まれましたから、生き様で輝きたい。私の為に大人しく首をねられた母を、天で抱きしめられる。私の名はかつて民を守った女神シュナとそれから紅の宝石エリニースから付けられた。後世に残るのならば、これほど似合う名はないと言われたい。先陣がいると心強い。これでよく眠れそうです』


 ペジテ大工房の至宝と呼ばれるに値する男になりたい。アシタカの切望と同じだ。そして裏側にある自らへの不信と背負う事への不安。アシタカには心許せる家族がいる。それも大勢。


 しかしシュナはどうだ?


 勝手に暴走しそうな、止めないとならない第四軍。憎々しくてならない父親や兄。事を成したら次は祖国ベルセルグへ向かうだろうティダ。セリムやラステルも祖国があるから留まりはしない。何よりシュナが今の弱音をひた隠しにするだろう。せめてあの鬼のようだが、最も忠臣だったというカールが居れば良かった。いや居なくて良かったのか?カールも信頼という剣でシュナを刺す。


「また明日話をしましょうシュナ姫」


『ええ。明日は貴方の話を聞かせてください。有意義な提案というのにとても興味があります』


 なんて穏やかに、柔らかく、笑うように告げるのだろう。


 アシタカは寝台ベッドから下りて立ち上がった。


「お休みなさい」


『お休みなさい。疲れているところ長々とありがとうございます。ご自愛を』


 通信が切れた瞬間、アシタカは床に通信機を投げつけた。思いっきり叩きつけたので、案の定壊れた。床が凹んだが、修理代くらい払う。忙しくて金はいくらでもある。


 シュナは強いのでは無い。どこにも逃げ場がないのだ。逃げる事を彼女の心根が許せない。背負うという気概きがいを止められない。いばらで傷だらけになろうとも、その道しか選べない。


 アシタカとは違う。シュナは血だらけの道を進もうとしている。


 上着を掴んだが、着る時間も惜しい。アシタカは家を飛び出した。走りながら上着を羽織り、もう一つの通信機をポケットから出した。


『あ"あ"?夜中に何だ?今忙しいんだよ』


 即座に連絡に出たティダの周囲はガヤガヤとさわがしい。ティダが内乱に精を出しているのは、シュナを王にと、いやグスタフ王を引きずり下ろしたい者達をシュナの代わりに一手に引き受ける為。内乱ギリギリで誰かに止めさせるのだろう。セリムか、シュナ。いやシュナだろう。そしてシュナからシャルルと王へと橋渡し。 筋書きは読みやすい。セリムの後押しにもなる。違うとしても、こんな夜中にまで働いているらしい。


 これほど励まれたら、ティダに弱音など吐けない。ティダは分かっていてアシタカにたくしているのだろう。しかし何故か無性に腹立たしい。腹が立って仕方ない。


「こんばんは、ティダ」


 向かってくる自動荷車オートカーの速度が遅かったので、前に飛び出して止めた。タイヤが擦れる音が夜闇に響く。


『お前何してるんだ?それに何を怒ってるんだ?』


 アシタカはポケットに通信機を一度突っ込んだ。それから自動荷車オートカーの窓をノックした。中年男が驚きで固まっている。自分でも正体不明の怒りだったので、抑えたつもりが怒っていると伝わったらしい。


「突然すみません。アシタカです。偽りの庭まで送ってもらえませんか?急いでいて」


 アシタカは後部座席を指差した。運転手は素直にアシタカを乗せてくれた。警護だろう、護衛人の姿が見えたが無視して発進してもらった。


『おい!おい!アシタカ!何なんだよ』


「やあ、すまない。取り込んでいたんだ。もう大丈夫だ」


 体が震えるが耐えた。短気は治せと言われた。怒りで我を忘れることを克服しろという、妹達の忠告を思い浮かべる。しかし怒りは増すばかりだ。


『アシタカ?助けてくれよ、眠いのに寒い中……』


 パズーの声を聞いて何に腹がたつのか理解した。何も出来ていない自分と、近くにいて分かっているのに手を差し伸べないティダへの怒りだ。


「君の罵倒を思い出して眠れなくてなってね。目の前に殴られようとしてる奴がいるのに眺めてるんじゃねえアシタカ?痛烈な批判をありがとう。ティダ、聞こえているな?」


 運転手が怯えたようにアシタカを見たので、にこやかに笑ってみせた。頬が引きつるのが分かる。


『忙しいと言っただろう。邪魔するな』


 切られると思ったので、挑発を思いついた。怒っている場合ではない。頼みがあるから連絡を入れたのだ。


「アンリの初恋は僕だ」


 アンリには気の毒だが手段は選ばない。元々卑怯者だ。これで勝手に連絡を切らないだろう。挑発の意味を考える筈だ。想定通り連絡は切れず、しばらく沈黙が続いた。


『それがどうした?俺に何の話がしたい』


 恐ろしいまでに低い唸るような声。釣れた。アンリはこの凶暴な大狼をすっかり手懐けたらしい。アシタカはアシタバ半島の地図を思い浮かべた。


「本日夕刻か夜。テテュス海岸に迎えに来い。また連絡を入れるが誰にも言うな。絶対に。信頼して君に頼んだ」


『はあ?おま……』


 アシタカは通信機の電源を切った。すぐさま連絡が入ったが無視した。


ーー目の前に殴られようとしてる奴がいるのに眺めてるんじゃねえアシタカ


 パズーに撤回させてやる。


 偽りの庭の入り口前にヌーフが立っていた。まるで待っていたというように。


「父上」


「風に吹かれたくなったか」


 穏やかな微笑みを浮かべたヌーフが、アシタカに近寄ってきた。それから背伸びをして頭を撫でてくれた。


「この10年の掟破りの数々、追放されます。僕は温室育ちの御曹司を卒業しなければなりません。このままでは友が出血死してしまう。要らないと言われても支えてやりたいのです。父上には生き返ってもらいます」


 何もかも分かっているというように、ヌーフはアシタカの頭を撫でる。


「ほっほっほ。ワシらはテルムの教義に従えば良いのだ。国が定めたものは無視しても構わん。ワシは蘇らん。飛び出してもお前は帰ってくるしかない。愛すべき国を捨てられないからのお。我が子が感情的になって道を踏み外すのは止めねばならん」


 アシタカは首を横に振った。怒りがおさまっていく。胸が熱い。不甲斐なさで涙が落ちていった。指摘通りだ。アシタカは国を捨てられない。シュナの支えになろうとも、アシタカもシュナもそれを許さない。許せない。互いを思いやって、傷つけ合う。


「父上……」


「この国にはとても良い飛行機がある。遠く異国の地とも連絡が取れる。議会には大勢の議員がおり、新しい大技師名代の為に励みたい者も大勢おる。はて、毎日居ないとアシタカはこの国を導けないのかのお」


 ヌーフがそっと抱きしめてくれた。止めに来たのかと思ったので、衝撃的だった。


「たまには姪にも会いたい。末の娘達も煩い。誰かが不在の時には会いに行かせても良いのではないか?そういう道を選びはしないのか?」


 アシタカはヌーフの体を押し離した。全部手に入れろ、お前なら出来るという期待の視線。鳥肌が立つほどの、恐ろしい信頼に立つのが辛い。シュナを思い出して、両足を踏ん張った。悲鳴も上げられずに、眠れない夜を過ごしている。それが、死ぬまで続くと考えている。一番シュナの気持ちに寄り添えるのは自分だ。


「父上、僕を忙殺するつもりですね!しかし短時間睡眠と健康が取り柄です!身を守りますが、万が一の際は生き返って僕の意思を継いで下さい!先に死んだら親不孝ですが、更に老衰するまで働いてもらいますよ!父親殺しに加担させた罰です!」


「ほっほっほ怖いの。娘達にも話をしておくからの。大技師一族総出でこの愛すべき国を導いてもらおうではないか。お前が頼めば皆が手を貸すぞ」


 アシタカはヌーフを強く抱きしめてしばらく泣いた。人は一人では生きれない。ずっと支えられていた。支えたいと望まれていた。今がその時だ。やっと気がつけた。ヌーフはアシタカが成長すると信じて待っていてくれていた。


「ええ父上頼みます。この国の民、総出で頼まれてもらいます。今までそれなりに励んで来たつもりです。助けてもらいます」


 ヌーフに背を向けて、会議会館に向かった。着いたらもう明け方だった。ずっと仕事漬けだったので、誰に何をたくせば良いのかスラスラと思いつく。どうしてこんな簡単な事を思いつかなかったのだろう。荷が重過ぎるなら、誰かに運んでもらう。自分が一番荷物を持てば、絶対に手伝ってくれる。アシタカの周りには、そういう者がいる。


 国を飛び出す一度目は嘘をつくかと悩み抜いたが止めた。素直に和平交渉の会談に参加することと、従兄弟の支えになりたいと書類を残した。それから助けてもらいたいと正直につづった。連絡機器でも同じ内容を、多方面に配信した。


***


 シュナはバースと部下に探らせている、ティダやセリムの動向の報告書に目を通した。ラステルがれてくれた紅茶を口にすると、自然と落ち着く。ソファの柔らかさに安心する。そうやって、なるべく拠り所を探して身を任せた。


「あまり夜、眠れていないみたいだけど大丈夫?」


 ラステルの心配そうな、本心からの気遣いにもいやされる。


「ああ。少々不安もあるが、やるしかない。心強い味方も大勢いるしな」


 扉をノックする音で、目線をずらした。セリムだろうとラステルが扉に向かって歩いていった。開かれた扉に予想通りセリムが立っていた。茫然自失、そしてとても辛そうにうつむいている。


 シュナの手からティーカップが滑り落ちた。床に落ちて割れて飛散したが、全く気にならない。


 いる筈のない人物に、言葉が出なかった。


「迎えが嫌だと言うのでね。それに君との語り合いは国益だ。なので僕は仕事場所を変える事にした。会談に参加するのが今回の建前だが、雄大な自然で仕事に励めば長距離通勤も楽しいだろう。それに僕は美味しい紅茶を飲みたい。シュナ姫、僕は情けない男でとても心細くて耐えられなかった」


 ボサボサの頭に、無精髭ぶしようひげのアシタカがあまりにも穏やかに微笑んだ。目の下には酷いくまがあるし、最後に会った時よりもせている。


 なのに疲労を一切感じさせない笑みをたたえて、ゆっくりとした足取りでシュナに近寄ってきた。靴で割れたティーカップの破片を横に集めたアシタカが、シュナの前に立膝になった。


「アシタカ殿?何故?何を言っているのですか?」


 迫り来る、読めない未来が恐ろしすぎて夢を見ているのか。


「僕は御曹司で大技師名代で、しかも大総統代理。誰も逆らえない。許されるくらい働いているので、職権乱用をしようかと。我が国は民主制なので、議題を沢山置いてきました。やはり少し体が戻っているな。薬湯用の調剤を持ってきた。僕を助けて欲しいのでご自愛を。同じ道を歩くなら隣に並びましょう」


 アシタカがシュナの左手を両手で包んだ。そのあまりの温かさに、シュナの頬に一筋涙が流れた。


 夢ではない。心配で会いに来てくれた。しかもそれだけではなさそうだ。国を背負ったまま、シュナが拒否出来ない程に何も捨てないまま、支えになろうと駆けつけた。言葉の端々からそう感じる。


 アシタカの穏やかな微笑はまるで、ノアグレス平野を照らした虹色の輝きのように美しかった。

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