蟲の民セリムの激昂6
久々の蟲森。ラステルは大きく深呼吸した。湿気強い空気がとても懐かしい。しかし、ホルフル蟲森とは違ってアシタバ蟲森は赤っぽい景色。胞子が赤色系ばかりだからだろう。
「まるでコヨね。ヴィトニルさんが教えてくれたの。赤い森はコヨっていうのよ」
何故かシッダルタが大笑いしはじめた。
「紅葉かい?それなら元々の色が違う場合だ。季節通してこの色なら紅葉ではない。春や夏にも訪れてみたいな」
そうだ、紅葉だ。賢いシッダルタに物知りのように話してしまったのが恥ずかしい。ラステルは俯いて指を
「ラステル、君は凄いな。大狼と話せるなんて。師匠と呼ぶくらいだからティダから教わったのかい?」
シッダルタが分厚い手袋でポンポンと頭を撫でてくれた。褒められて嬉しかったので顔を上げた。
「教わってないわ。船の上の方に行った時にお話ししてくれたの。誰でもは話せないのね。ナルガ山脈にカドゥルの森、紅葉。ヴィトニルさんに教えて貰ったのよ」
「カドゥルの森か、紅葉を知らないならいつかセリムとラステルを連れて行きたいな。ティダが大狼と話すというのは特別な力だと言っていた。大狼として招かれたり認められないと無理だと聞いている。今、生身なのもそうだしラステルは不思議な人だな」
感心したようなシッダルタに嬉しさが増す。ゆっくりと進む
ふいに、寂しくなって悲しくなった。拳を握りしめたが自然と顔が下がる。
「セリムもよく色々教えてくれたわ。私、知らないことがうんと沢山あるの。不思議というか蟲なのよ。人の形をした蟲。多分そう。大狼の話し方は蟲と似てるってセリムが言っていたわ」
今、メソメソしても仕方がない。泣きたいのはきっとセリムだ。蟲達の悲しさを一身に受けて酷く傷ついている。きっとそう。もう半日アシタバ蟲森を探しているが、蟲一匹見当たらない。この静けさは、滝の村が襲われた時に似ている。初日はラステルも激怒に飲まれたが、それから数日は不気味な程静かな蟲森で一人ぽっちだった。
「今の話の流れだと大狼ではないかい?いきなり蟲とはどうした。ふむ、ラステルが言う蟲の定義ってなんだい?」
蟲の定義。こんなこと聞かれたのは初めてだ。
「大狼は強いもの。私は違うわ。蟲ってね、心が繋がっているのよ。今は分からなくなってしまったけど……。一緒に嬉しくなって、楽しくなって、それから怒りで意識が無くなるの。それが蟲よ」
返事が無いのでそっと顔を上げると、シッダルタは胡座をかいている膝に手を当てて遠くを見つめていた。
「それなら今のセリムも蟲か?君が元々蟲なら、セリムは後から蟲になった?セリムは何か知っているのだろうか……。もっと多くの人間が蟲と意思疎通出来れば新しい時代となるかもな。うん、しかし変だ。変な娘と変な男。人なのに蟲夫婦。訳が分からない」
シッダルタがこちらを向いてニコリと微笑んでくれた。
新しい時代?人なのに蟲夫婦?
「セリムは蟲なの?」
「さあ、ラステルの言い分だとそうなる」
そう言われるとそんな気がしてくる。セリムはラステルと同じで目の色が変わるようになった。ラステルが出来ない蟲との会話も出来る。
「まあ、俺としては二人とも人に見えるけどな。姿形もだし、考え方も。だって今君はラステルとしてここにいる。蟲は団体行動をするんだろう?ラステルは蟲達とは別行動。気づいてないだろうが目ももう赤くないよ。まあ君が自分を蟲だと主張するならそれでも良いよ。そんなことに頓着しない者もいる。知ってるだろう?」
ゴーグルの向こうの黒い瞳の温かさ。父や崖の国の義理の家族達に似ている。やはり良かった。一人だと困り果てて立ち止まっていただろう。
「ありがとうシッダルタ。私もね、もうどっちでも良いの。セリムは私のために蟲と家族になってくれたわ。それで人の家族もくれたのよ!私達、大家族なの。お友達にはパズーもいるし、テトもいる。姉様とイブン様もいるのよ。あとシュナとアンリ。シュナはね化物同士一番分かり合えるって言ってくれた。私が怒ったら逆もだって。人とちょっと違うだけ、自分の考え方次第って教えてくれたのよ。私、蟲だっていいわ。夫も大親友もいるもの」
全部セリムがくれた。だから早く会って支えたい。シッダルタが眉根を寄せた。
「化物同士……。俺は自分が恥ずかしい。シュナ姫のことを何も知らずに、ドメキア人というだけで憎んでいた。セリムはシュナ姫への仕打ちと蟲達を重ねたのかもな。人の王。命を差別せず尊重する者。セリムはシュナ姫をそう評価した。蟲との交渉に最も相応しいのに、彼女を遠ざけた」
夜な夜な震えて声を押し殺して泣いていたシュナを思い出す。肌寒いベランダでアシタカと何かを語り合っていた。ラステルを起こさないようにしてくれていた。ラステルを起こしてないと思っているようだが、心配で眠れなかったから知っている。
それでもラステルは他の人よりはシュナの本音を知っている。ずっと自分なりに、それも最大限に臣下や国民の為に人生を捧げてきたのに裏切りばかり。一人も支援者がいなければいっそ逃げられるのにと大きな溜め息を吐いて笑っていた。握った手がとてつもなく冷たくて、震えていた。
「セリム、アシタカさんに怒られて酷く落ち込んでいたわ。許せないのに必死に耐えているシュナを助けずに追い詰めたって。シュナはそれでアシタカさんが来てくれたから有難いと言っていたわ。セリムがシュナを一番に考えていたのもシュナは分かっていてくれてるの。なのにセリムはとても気にしている。蟲と話しに言っても迷っているかもしれない。良かれと思ったのに酷いことをしてしまうって。セリム、大丈夫かしら……」
また泣きたくなってきた。
「私、セリムの支えになるってついてきたのに……。セリムの近くに居てあげなかった……」
シッダルタの目元は難しい表情のままだ。
「俺はティダに連れ回されていて、君の後悔が誤ちなのか分からない。しかし、まあ俺も君も後悔しても仕方ない。今から会いにいってその後悔を伝えて寄り添う。それしかない。しかし、セリムはそれで今度は自分が裁くと言い出したのか?シュナの時とは違って単に許せとは言わない。対価が必要ならば自分が肩代わりする。ラステル、やはりセリムは怒っているんじゃないか?同時に君がいうように悲しんでいる。いや、本人に聞かないと分からないな。一体どこに居るんだか……」
シッダルタが途方に暮れたというように口をへの字にした。ラステル同様にシッダルタも混乱しているし、セリムをとても心配している。ラステルもシッダルタのようにしっかりしようと、泣かないように目に力を入れた。シッダルタがまた優しく頭を撫でてくれた。
「きっと
「ラステルと二人で良かった。君がいなかったら、そもそも蟲森に入ろうとも思わなかった。それにこんな
シッダルタは蟲森に入ってから、時折セリムのような好機や驚きを浮かべている。知的好奇心旺盛なのだろう。不気味な森ではなく、
遠目に、丸苔の群生が見えた。橙色だが、形はそっくり。
「あの向こう。ボーが居るかも。セリムがダンゴムシに似ているって言ってたわ。ボーはアピスの幼生と仲良しだから、大抵近くにいるのよ」
頼まなくてもラステル達を乗せてくれている
「歩けってことかな?」
「多分。綺麗な丸苔。きっと庭だわ。モモグやナーメがよく触って綺麗にしてるの。踏まないように気をつけてねシッダルタ」
ラステルはシッダルタの手を握って
「優しい子。私達がセリムも皆も助けるから大丈夫よ。一人ぽっちになってもホルフルがあるわ。遠いけどこれだけ逞しいから大丈夫ね。遊びに来るだけでも良いのよ」
言葉は通じるのだろうか。ラステルは敬愛を込めてそっとキスした。振り返るとシッダルタが茫然としていた。ラステルは思いっきり笑ってみせた。
「言ったでしょう?私、蟲だもの」
シッダルタがぶんぶんと大きく首を横に振った。それから腕を上げて指をさした。
示された先に目線を移動した。
「まあ、蟲の道ね。それに
「何てことだ!何て人生だ!どういうことだ?」
ずっと冷静だったシッダルタがラステルの体を激しく揺らしたので呆気に取られてしまった。
「シッダル……」
「蟲の道とは何だ?ラステルは以前にもこのような素晴らしい光景を見たことがあるのか?世界はなんて広……」
キラキラと輝くシッダルタの黒い瞳が
けたたましい蟲の鳴き声が響き渡った。
風でなのか捲き上る黄金の
人形のような人間……。
「セリ……ム……?」
セリムが無表情のままそっと左腕を挙げると、まるで家臣のように
「人よ、ドメキア王よ、約束よりも早く交渉に来たのならば、さぞ大罪に相応しい回答を用意したのだろう。我が
ラステルは身動きどころか
「違うわね。貴方は誰?セリムの体で何をしているの?」
こんなの絶対にセリムじゃない。ラステルは思いっきりセリムもどきを
「蟲の王である。セリムを借りた。ドメキア王との交渉の練習だ。こんな
ラステルはシッダルタを見上げた。シッダルタはセリムをジッと観察している。
「あの、
セリムが一番近くの
「限りなく蟲に近い人間。そなたは王の血も引いている。故に姫。我も
蟲が一番好きな人間。逆ではないだろうか。蟲を一番好きな人間ならしっくりくる。セリムがチラリとシッダルタを見た。何かを探るような視線だと感じた。
「その通りだ姫よ。
シッダルタが意を決したように一歩前に踏み出した。
「ラステルのことはセリムに聞いてみます。あとセリムだけではなく俺とラステルの三人で掟の再編をします。良い関係を築き、互いに幸福となる。それが俺達の願いです。今後もよろしくお願いします。妙ちくりんな生物とは?どんな状態なのですか?」
セリムが足を組むのを止めて立ち上がった。
「人好き
セリムがシッダルタを睨んだ。それからラステルを見て肩を揺らした。
「勝手な地位?」
「そうだ。意思疎通の輪に堂々と君臨。司令塔たる
アラクラン?アラーネア?全面戦争?大狼の血を取り込んだ?
セリムが楽しそうに笑った。
「語れば語るだけ知りたくなるだろう?後はセリムと巻き込まれ、探し、学んでみよ。どうせ大人しく巣で暮らさないのだろう?姫よ、怯えなくてもそなたは人だ。この大陸の人間には
セリムはシッダルタに向かって微笑した。小馬鹿にしたような、背筋が凍るような笑み。やはりセリムとは思えない。ラステルもシッダルタも声が出せなかった。シッダルタは何か深く考えているから?ラステルは言われてることに関して理解が追いつかない。
「大陸には人以外も文明がある。長らく停滞していたのに大陸中の文明が激変している。大きな器の人の王が四人も育ったからだな。一人でも神話が創られるというのに何て時代だ。途絶神話のいくつもが再生したように感じる。我は人よりも情けない王になるつもりはない。王が誰だか名乗ってこないが、孤高ロトワに大狼とアラーネアもそうだろう。アシタバ近海の民も我関せずを止めるという」
セリムが
「その不信。決意した道を歩むのならば、人の王とならぬなら、すぐ死ぬぞ。我にはお前の死など関心が無いが可愛い姫が泣くのは見たくない。だから忠告だ。セリムはこの通り、人の王の中でも特別中の特別で何もかもの破壊神。学び変わらねばお前が背中を刺すぞ。人はすぐ恩を仇で返す。絶対にお前は裏切る」
シッダルタが困惑したように眉根を寄せた。
「俺はセリムを裏切ったりしません。人の王とは命を差別せずに尊重する者だと聞いています。俺もそうなりたい」
セリムが大声で笑い出した。
「自己保身に種族保身をするのは本能に近い。蟲の為に
あまりにもセリムが笑うので、腹が立ってラステルはシッダルタの前に躍り出た。
「人は変わるのよ。それもグングン。シッダルタはセリムの大親友になる男よ。
セリムが益々笑った。
「知っている。それこそ人だ。急に
セリムが大きくため息を吐いて、何故かシッダルタを睨んだ。シッダルタがラステルをまた背に庇った。
「不信は交流で消えます。何も知らないのにすぐには信頼寄せられません。蛇の女王はシュナ姫で龍の皇子はティダですか?」
セリムが鼻を鳴らした。それから首を縦に振った。
「そうやって自己保身に走るから人なぞ嫌いだ。セリムは何も知らぬのに誓いの蜜を食べ、首を差し出したぞ。シュナ・エリニュスは
「ふん、言い返せ。人とは意思疎通出来んから語らんと真意は何も分からんぞ。では、そろそろ時間だ。孤高ロトワが沈黙破り会談したいという。皇子があれだから嫌な予感しかしない。
荷が重いというようにセリムが苦笑いしてから、また大きなため息を吐いた。ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。何の話しか分からな過ぎて、聞きたいことが山程あるのに威圧感に気圧されて声が出なかい。喉がまるで張り付いたようだ。
「姫よ、愛しているから蟲として生きて欲しいのだがセリムがいる限りは人と蟲と両方で生きられる果報者。
セリムがくるりと一回転した。四方八方からわっと
胸が詰まった。シッダルタのゴーグルが曇った。感激で泣いたのかもしれない。
「ふむ。底はセリムと似ているのか?人は個体差激しくて面倒。判断に迷う。まあ、我等を侵せば殺すし、逆なら守ろうシッダルタ。さらばだ新興国家の蟲の民。王を返す。人なのに蟲の為に蟲以上に怒り狂っている。ここまでされればドメキア王と交渉する。というかもう我も民も許している。怒っているのは最早セリムだけだ。
怒り狂っている?板挟みで可哀想?
ゆらりとセリムの体が揺れ、目も閉じたのでラステルは駆け出した。シッダルタの方が早く、それよりも
「
シッダルタがセリムを地面に下ろして寝かせた。
「
ラステルはシッダルタの腕を引っ張った。ゴーグルはもう曇っていなくて、少し充血しているシッダルタの瞳が見えた。目を大きく丸めているが、嫌悪は感じない。村の人にはこんなことを話したことがなかった。受け入れてもらえないと、ラステルが閉じこもっていた。養父ヴァルくらいには話してみれば良かった。乳姉妹ラファエにも相談してみれば良かった。シッダルタがゆっくりと立ち上がって深々と頭を下げた。
「蟲の民シッダルタです。王をありがとうございます。人と蟲の間に立つセリムと共に励むと決めました。無知ゆえに巣を荒らしたらすみません。なるべく早く学びます」
ラステルはシッダルタの頭をそっと撫でた。シッダルタの言葉や気持ちは伝わるのだろうか?
しばらく蟲森が静まり返っていた。シッダルタは頭を下げたまま。震えている。やはり怖いのだろう。不意に
四方八方から物凄い勢いで緑色の産毛の
すると他の幼生達も次々と同じことをしだした。シッダルタとラステルの頭の両方を使う。シッダルタは最初の何匹かはビクついていたが、放心しだした。
ラステルもぼんやりした。
遊んでいるっぽい。セリムが心配なのに邪魔する気になれない。セリムはこの子達の王子様らしい。こんなにも慕われている。
次々と告げられた話しについていけない。
セリムは汗も消えて穏やかそうに寝ている。怒っているらしいので、目を覚ましたら何を語り出すのだろうか。ラステルには想像もつかない。
ラステルはどう見てもはしゃいでいる
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