蟲の民セリムの激昂 4

 吹きさらしになった、大蛇の間。


「何なんだあの男は……」


 アシタカはルイの恐怖に震えた声で我に返った。


「違う!セリムは守った!この場の全員をだ!状況が全く読めないが、それだけは確かだ!彼はそういう人間だ!絶対に信じろ!」


 アシタカはルイへ近づいたが、ルイは壁際へと離れていった。驚愕きょうがく焦燥しょうそうで頭が上手く回らない。


「テルムは誰で何……」


--蟲を愛し、人をも愛したアモレと夫婦になったテルム。


 流星落ちてきた夜に、セリムはやたら興奮して感激していた。アモレ?アモレとは誰だ?他に何て言っていた?アモレはテルムの妻と言っていた。それならばアシタカの祖先?しかし、蟲を作ったのはテルムではない、そんな話もしていなかったか?ならば、ペジテ大工房そしてアシタカの祖先は誰なんだ?


--アシタカの野望は、二千年前からの悲願だ


 あまりに突然放たれた台詞で記憶が曖昧あいまいだ。大陸和平が二千年前からの悲願?


「ペジテ大工房を蟲の激怒から救ったのはセリムだ」


 アシタカはすっかり疑心と不信に染まっているルイに相対した。ルイが大きく首を横に振った。


「ペジテ大工房を蟲の激怒から救ったのはセリムだ。彼が我が国を救い、シュナ姫を救い、この国も助けにきた。僕がドメキア王国へ支援しようと決意できたのもセリムがいたからだ。蟲と交渉して猶予を得た。ペジテの時と違って時間がある。考え……」


 今回はセリムが居ない。あの時のラステルのように去った。


「今度はラステルさんではなくセリムが蟲を止めてくれている?しかし、ならば、誰が?誰があの時のセリムの代わりに……。セリムはあの時何をしたんだ?何をして蟲から許しを得た?子蟲が遊びたいと言って許してくれたなど……」


 セリムは何かを成した。セリムの思考はどこか曲がっている。自分の手柄は相手の手柄。自分の功績は相手がもたらしてくれたもので、自分は特別なことはしていないという風にねじ曲がっている。セリムはノアグレス平野で絶対に何かを成している。


 そうだ。ラステルが祈ったから蟲が帰ったとセリムが言っていて鵜呑みにしていたが、ラステルが唄子歌を捧げていても蟲は完全には止まらなかった。そしていつの間にかセリムとラステルが相対していて……あの時辺りだ。蟲によるペジテ大工房の襲撃が完全に止まったのは。父ヌーフの嘆願のおかげ。セリムはそうも言っていた。


 蟲が蟲を止めようと向かい合っていた。どうしてあんなことが起こった?


 お土産を持っていったら、セリムは遊んでくれる。子蟲はそう言ってアシタカをマルチロール機の爆発から救って運んだ。そもそもあの爆発、誰かにエンジンを撃たれた。誰だ?考えてこなさ過ぎた!アシタカがお土産とは何だったのだ?


 アシタカは自分の野望やシュナとドメキア王国にかまけていたから何も知らない。もっと詳しくセリムから話を聞いておけば良かった。前ばかり向いていないで、省みて経験として蓄積するべきだった。


 どうして気にしなかった!


 セリムと遊びたいと騒いでいた子蟲達。彼等がノアグレス平野を虹色に輝かせた。色とりどりの産毛がもたらした、七色の美しい世界。セリムに助けを求め、寝てるなとセリムを連れ去った子蟲達。


 鍵を握るのは子蟲か?


 子蟲?


 ふと見ると机の上にアピが張り付いていた。三つ目が真っ赤だ。置いていかれた?セリムがこの子蟲を置いていくか?


「こ、子蟲のアピ君。僕はアシタカだ。多分、古きテルムの子。セリムはどうした?彼は何を守ろうとしている?」


 アピの前にしゃがんで目線を合わせた。ノアグレス平野でこの大蜂蟲アピスの子蟲達はアシタカの言葉が分からないようだった。今も同じか。アシタカは、あの時聞こえていた蟲の言葉がまたすっかり分からない。


「怒らないで欲しい。僕は君を害さない。セリムのこともだ。君の言葉も分からない。どうしたら良いか分からないんだ……」


 アピは机の上でジッとしているが、震えている。壁がバラバラと崩れ、アシタカは咄嗟とっさにアピを抱えた。セリムとラステルが自分達の子供のように優しく接して連れて歩いていた。死なせたら、何が起こるか分からない。崩れた壁の向こうの空に、真紅の丸い点が線状に並んでいた。


 そのさらに奥の大地にも似たような赤い点が線になっている。


「あれか、紅の宝石の境界線というのは……。手前と奥の二箇所……」


 腕の中のアピは震えたままで目は三つとも真っ赤。しかしアシタカの胸元にしがみついている。黄色い産毛をそっと撫でると益々アシタカにしがみついて震えた。


「ルイ、あれだ。あれが恐らく境界線。絶対に攻撃させるな!誰一人だ!それこそ滅びる」


 ルイがまた首を振ってもう背中はくっついているのに更に壁へと下がった。青ざめて震えている。アシタカはルイに駆け寄った。


「しっかりしろ!有無を言わさずに報復ではなく猶予を与えられたんだ!セリムがその時間を作った!何がどうなって、セリムが去ったのか分からんがルイ、貴様は選ばれた!国を背負うと王になることを快諾かいだくしたなら奮い立て!それが王だ!これこそが、今から国を救うのが王の役目だ!セリムが言っていたから逃げられない!しっかりしろ!」


 こんなはずじゃ、そうルイの顔に描いてある。


「セリムはまだたったの一八だ!それなのに故郷の国を背負い、ペジテ大工房を救いにきた!蟲を利用するのを止めればドメキア王国やベルセルグ皇国の兵士も死なないと身一つで戦場へ出た!そして一番困難なことを成した!また何かを成そうとしてる!援護してやらないなど恥、大恥だ!誰も代わってくれない!己を奮い立たせるんだ!信頼されて任された!背を向けるな!」


 ついルイの胸倉を掴んでいた。ルイの体を揺らしても反応は鈍い。どうすれば良い?人を鼓舞して導く、何て難しい。


 大きな音がして身をすくめると、かろうじて残っていた扉が引き剥がされた。本当に、千切るように剥がされた。


「スコール!ヴァナルガンド!」


 ティダが飛び込んできて、月狼スコールにすぐさま近寄った。月狼スコールがティダに飛びかかるとティダは月狼スコールを軽々と抱き上げて、破壊された部屋を見渡した。アシタカは気がついていなかったが、月狼スコールは見るからに怯えている様子で恐怖のせいか体が小さく感じた。


「大丈夫だスコール。よく俺を呼んだ。良くやった。全部任せろ。蜘蛛に気取られるから説明はいい。きちんと閉じていろ。己の力の限界まで良くやった。後はウールヴかヴィトニルに守られているんだ。俺達の背中を見て学べ。このような学べる機会、他の大狼にはない好機。しかと見ろ。大きくなれ。故に群を囲うのは今はなしだ。行け」


 ティダは優しく月狼スコールを撫でていたのをやめて、三回背中を強めに叩いてから床に下ろした。月狼スコールが疾風の如く、力強く部屋から去っていった。


 ティダはあっという間に月狼スコールを導いた。


 ティダの髪が強風で乱れた。軽く押さえるというよくある姿なのに、風格がある。


 つかつかとティダがアシタカへと近寄ってきた。意外にも冷静そうに見える。いや、そうだ。この男はこのような有事で取り乱したりしない。


「蟲と交渉決裂してヴァナルガンド一人に、いや三人か?あいつらに背負わせたのか?読めねえな。あったことを全て話せ」


 低い声だが焦りも怒りも見当たらない。器の違いを見せつけられたようで悔しかった。しかし、今はそんなことを考えている場合ではない。ティダがルイとシャルルへ視線を移した。それからルイだけを見つめて近寄ると、ルイの頬をペシペシと少し強めに叩いた。


「シュナは看病拒否して王国軍の指揮を取りに行った。絶対に蟲に手を出すなとお前の代理でもう行動している。何があったか知らないが、萎縮いしゅくするな。この困難乗り切れば反発因子も全部押しのけてお前は本物の王だ。奇跡の女神シュナに選ばれた王。それなら王としての名はエリニースだな。歴史に名を残せる。民の為に力不足でも担ぎ上げられろ。これの後なら何でも楽だろう」


 ティダがルイの肩に腕を回した。あやすように肩をトントンと叩き、それからアシタカを顎で示した。


「基本的にこいつがどうにかする。かつて蟲と和解した聖人の子孫。ペジテ大工房を滅亡から救った。ドメキア王国に独裁振りかざしてやってきた。シュナの願いもお前ら弱き者も背負って、無血革命をもたらした男。見ろ、子蟲も頼っている」


 ティダがルイに見えないようにアシタカに向かって口角を上げた。アシタカは髪をぐしゃぐしゃに掻き回した。


「すまなかったルイ。先に言うべきだった。人には役目がある。君には君にしてもらわないとならないことがある。それが言いたかっただけだ。しかし僕がいる。かつて蟲と和解をしたペジテ大工房の聖人の血を引いて、有事には事を成すと受け継がれてきた。それから君の支えにはシュナ姫に盟友ティダもいる」


 どうせこの状況に背を向けないだろうと、アシタカはティダにしたり顔を仕返しした。ティダが軽く舌打ちした。


「劇薬め。俺はこの国にはもう興味ねえ。俺はやれることをして駒を置いた。この珍事は俺の手に余る。ノアグレス平野で俺は特に何もしていない。お前なんぞじゃ足りない知恵は貸すが、俺は背負うものがあるからギリギリで見捨てて逃げるからな。俺は取捨選択する男だ。孤軍奮闘こぐんふんとうしてノアグレス平野を駆けずり回ったヴァナルガンドやアシタカとは違うんだよ」


 またティダがルイの肩を軽く叩いた。三回。。久々にティダから名を呼ばれた気がした。ティダはまたルイにアシタカを見ろというように目で示した。それからルイの胸倉をつかんで床に投げた。


「これだけ言われりゃ、分かったな?一応中心はお前だ!とっとと話せ!グスタフが蟲森を侵して蟲の怒りを勝ったのは知っている!ヴァナルガンドが自分達の使命だと仲裁に入ったのもな!二日猶予を得て王と王で交渉をしてもらえると言っていた。ヴァナルガンドは恐れおののきながらも自らの役目だと立ち上がった!交渉の王に相応しくないと、人が滅ぶとグスタフを裁いて王から引きずり下ろした!」


 アシタカは言葉を失った。グスタフを裁いた?ルイも目を大きく丸めている。


「何だ、それは聞いてないのか。いや、あの性格なら言わないか。グスタフは視力と声を奪われ王位を放棄させられた。国に連れ帰って不自由な体で働かせるとよ。いつか弱き者の気持ちが分かるだろう。何て甘っちょろい裁断だ。ルイ、しっかりしろ。ヴァナルガンドはお前を選んだ。シュナに負い目があるから、苦渋の選択だっただろう。切り捨てられ会談から追放されなかったのは期待の現れ。ヴァナルガンドは若造だが相当目が良い。必要なら冷徹れいてつな決断も下す。選ばれたことにおびえるより胸を張れ!あいつは期待の掛け方の加減を知らねえ。妙なことに自分を過小評価し過ぎなんだ。それは許してやれ」


 ティダが今度は床に座り込むルイの前で足を三回踏み鳴らした。


「立て。立ち上がれ!子供じゃねえんだ。誰も守ってくれねえ。お前は上に立つという道を選んだ。嫌なのに頼まれたから仕方なく?万が一言い訳するなら喰い殺す!どの道国を滅ぼすなら見ないで済むように先に殺してやろうか?何もしないで負けるのと、行動起こして負けるのでは残すものが違う!俺はこの国なんざもうどうでも良い。俺の身内だけ連れて逃げる。俺は蟲共と多少話せるが、矜持が無ければ俺は動かん。働かせたいなら生き様見せろ!」


 ティダが目でアシタカへ来いと指示した。アシタカは迷いながらもティダの後ろについていこうとした。途端にティダに腕を掴まれて床に叩きつけられた。痛みに呻くと、顔の真横に足が振り下ろされた。


「シュナからこの男を頼まれたんだろう?いや、シュナの為に自ら背負ったんだろう?見捨てるんじゃねえよ!ちったあ成長したかと思ったら、青二才が残ってやがるな。ふはははははは!俺の神話を奪った借りを返そうではないか!気が変わった。おい、ルイ。この青二才より俺についてこい。シュナを手離すつもりだったが、とんだ見込違い。ルイ、シュナのついでだからお前は俺が背に乗せてやるよ!この件だけな!俺はお前達の矜持が小さ過ぎて気に食わん!」


 ティダがルイの腕を掴んで、無理やりルイを立たせた。心なしかルイの顔色が良くなったように見える。


「何の……何の話だ!突然蟲がここを破壊した!ヴァナルガンド殿が怒り出して裁くと言って蟲と去った!もう終わりだ!何かを間違えた!俺は間違えたんだ!ヴァナルガンド殿は俺をかなり見下していた。腹が立ったが、見透かされていて怖かっただけだ……。何もかも見抜かれていた……」


 アシタカは妙に冷静になった。そうか、過大な期待に突然の失敗。セリムへの不信ではなく、自身への不信感だったのか。瞬時に見抜いたティダに、アシタカはやはり悔しさを感じた。


おどすなティダ。ルイ、これからだ。僕もつい最近同じ道を通った。僕は間違えたがここにいる。周りの者が解決してくれた。今度は僕の番だ。先に失敗しているから、伝えられる。世の中は一人では無理なことだらけだ。セリムは君を見下したりしない。ルイ、彼には人の良いところが見え過ぎているんだ。そんな人間じゃないのに、何故しない?出来ない?あの目は辛いな。僕は木っ端微塵に破壊された。しかし今、それで良かったと思っている」


 アシタカはティダからそっとルイの体を離させた。背伸びをしても、あまりに遠くてティダにもセリムにも届かない。アシタカは頼り頼られる、そういう道を見つけた。二人に憧れても、続かなくても良い。まずは結果だけがあれば良い。いつか、いつか追いつく。


「アシタカ様が?」


「そうだ。報復戦争を止めようと必死になって議会とやりやってた僕にセリムはこう言った。シュナを王にしてドメキア王国の軍事力をもって、ペジテ大工房とベルセルグ皇国を抑えると言ったティダにこう言った。戦争の原因を全て潰す。各国の問題を解決し戦争しようとする原因を潰す。武力行使は傷を残しいつか膿み、憎しみが憎しみを呼ぶからだと。妻と二人、理想を追って死ぬ。そうでないと誇りを失うと言われた」


 何の後ろ盾も権力も、軍事力もないのに言い放った。あの時のセリムの目、ティダとアシタカなら助けてくれるとそういう目付きだった。あの後パズーに怒鳴られたセリムの落ち込みようを思い出すと笑えた。


「ありゃあヴァナルガンドじゃなくてパズーに殴られたんだろお前は。丁度来たみたいだから俺の大駒を貸してやろう。劇薬よ、ふらふらしやがって。足りん足りん、何もかも足りん。しかし今のその面なら俺は要らねえ。俺は俺で動く。あまりに不安なら話がまとまったら報告に来い。聞くだけ聞いてやるよ。一刻の間なら、部屋でのんびり逃亡思案してるからよ」


 即断即決。何をどう見極めているのだろう。どうやってこの力を手に入れたのだろうかと、やはり悔しくて仕方なかった。権力だけでは足りない。人を導くにはあらゆる力が必要だ。アシタカに足りないものを補ってもらう、それこそ駒が必要。立ち去ろうとするティダにアシタカは手を伸ばした。手が空を切った。避けるのは安安やすやす、そう伝わってくる。


「働いてもらおうか僕の犬よ」


 ティダは背中を向けたまま、腕を上げて手をひらひらさせた。


「腹は立つが、その手は食わん。くだらん嫉妬しっとなんざ俺自身の問題。それに、まあ何となく分かってきた。俺の女は一生俺のもんだ。アンリは奇妙すぎることに離れなさそうだからな」


 本当かどうか揺さぶってみるか。勘の悪さに人を動かすのが下手なところをティダに補って貰わないとならない。それに第四軍への求心力も使える。


「神話になり損ねた男と、聖人テルムをなぞる男。ふむ、アンリは信仰熱心だ。折角なので何もかも初めてを捧げた娘として記録に残そう。聖人の軌跡はこぞって調べられるだろう。信仰熱心な者は気高いと残さないとならない。アンリは気心知れた親友であるし、彼女の経歴を輝かせたい。死後も僕を飾り続ける美しいものの一つとなる」


 ティダが振り返って、肩を揺らした。思いっきり不機嫌そうだった。意外にあっさりと釣れた。奇妙すぎる、と言ったのでアンリからの恋慕が半信半疑なのだろう。それにアシタカの嫌味に、即座にアンリのことだと頭を働かせた。他の何でもなくすぐに。


 分かり易い。しばらくこの方法を有効活用させてもらう。


「はいはいご主人様。次から次へとよくもまあ思いつくな。小憎たらしい口だ。しかも本気で成す権力持ってやがる。卑怯に磨きをかけやがって。お前なんざ、シュナのくちばしで刺されちまえ。俺に何をさせたいんだよ」


 アシタカはグスタフにしたように、不躾ぶしつけな態度を取った。


「今のは独り言だ。そうそう、セリムから君が大事な者達を守れる方法をたくされている。先程までの会談の話をするから、君なりに考察して欲しい。それからロトワの龍の民とは何か。テルムとアモレについて何か知っているか。まあ必要な情報を洗いざらい話してもらいたい」


 ティダが大きくため息を吐いた。


「さっきのは単に俺を使う方法をためしやがったのか。一生犬なんざ御免ごめんだが切り札が多そうで腹立たしい。最初からこっちを言えよ」


 怒りではなく呆れた様子のティダに、心の中で面食らった。顔には出さないようにする。シュナの模倣もほう。中々、表情や仕草を偽るというのは難しい。


「君の真似さ。僕の友に相応しい言動を伴わせるまで続ける。さあ働いてもらうぞ可愛い白い仔犬君。君の可愛い弟二人と妹にとって最善なのは、僕と手を組むことさ。最後の最後は勿論逃してやろう。僕はそういう懐深く大きな男だ」


 青々とした空の下で会議というのも乙。アシタカは上座の席に腰を下ろし、ルイを隣に手招きした。自分の左側の席を引いて、ルイを促した。


 ティダが下座の机を蹴飛ばした。吹き飛んだ机が入口反対側の壁にぶつかった。アシタカに向かって斜めに椅子を置くと、ティダは足を組んで踏ん反り返った。


潔癖症けっぺきしょう御曹司おんぞうしが懐かしいな」


 ティダの笑顔には闘志みなぎる炎が揺らいでいるように見える。アシタカがティダへ悔しさや激しい嫉妬しっとを感じるのは、一方的ではないかもしれない。この他者評価こそがアシタカを奮い立たせる。怯え、震え、苦悩しても立たせてくれる。


「な、な、な、何だよこれ!セリムは?ラステルもシッダルタもいない!何で睨み合ってるんだよ!あの空の怒ってる蟲は何なんだよ!」


 部屋に飛び込んできたパズーが素っ頓狂すっとんきょうな声を上げた。それからアシタカとティダをいきなりにらんだ。泣きながら眉毛を釣り上げている。


「アシタカお前またセリムに押し付けたのか!シュナ姫は真っ青な顔でどこかに消えた。ティダ、お前まで!悪いようにはしないって言うから信じたのに何だよこれ!もう嫌だ!崖の国に連れて帰る!シッダルタもだ!絶対セリムとラステルとシッダルタを連れ戻して崖の国に帰るからな!」


 パズーが地団駄じだんだを踏んでまたアシタカとティダをにらんだ。今度はルイもにらみつけた。それからパズーはアピを見つけてパァッと顔を明るくした。何だ?


「子蟲君!君がいるなら大丈夫か!俺達がセリム達を迎えに行く係だな!今度は最初から味方がいるから心強い!」


 セリムが始終、パズーがアピと仲良くしないと言っていたのにパズーが満面の笑みで腕を広げた。アピが一目散にパズーの胸に飛び込んでパズーに抱きしめられた。三つ目がサアッと青くなり、今度は若草色に変化した。


〈バムバム怖かった。遊べ。セリムと遊べ!〉


 急にアピの声がした。どうしていきなり?


「パズー、待て。どう言うことだ?こちらはまだ状況を把握はあくしてない」


 ティダがしげしげとパズーの顔をながめた。


「どう言うこと?ノアグレス平野と同じだろう?今度はラステルだけじゃなくてセリムとシッダルタが増えたんだろう?三人で蟲にお願いするなんて無理なんだよ!無理、無理!あの三人はこの国に無関係じゃないか!早く国中の人に謝らせろ。ああ、早とちりでその手配中?」


 。アシタカは虚を突かれて言葉を失った。父ヌーフは国民を大勢連れて蟲へ祈りを捧げた。謝罪だ。謝った。


「ふはははははは!謝れば許されるとは実に平和的だな」


 パズーがまたティダをにらんだ。


「だって、そうだった。ラステルがセリムが死んだと思い込んでも、凍死しそうになっても許しを祈った。セリムもずっと必死に頼んた。蟲の王?とかと話をしたって言ってた。アシタカの父親や国の人も頼んだ。ラステルとセリムの味方になったホルフルの蟲も頼んだって聞いてる。それで怒り狂ってた蟲は冷静になって森へ帰ったじゃないか。セリムが言ってた。こいつらは人が好きで本当は怒りたくないって。いつも許してくれる健気な生物だって。見た目はこんなだから怖いけど、俺もこいつらが穏やかなのは知ってる」


 全身の毛が逆立ったように、ゾクゾクとした。パズーは全部でなくても、きちんとノアグレス平野での結末の理由を把握はあくしている。それがこの話。ならば違う。今回はノアグレス平野とは同じ道を歩けない。


「パズー、駄目だ。それでは駄目だ……」


 ルイも気がついたのか、ガクガクと震えている。アシタカはルイの肩に腕を回した。


「会談で何があったんだよアシタカ」


 ティダの問いに答えようとして声を出すと、乾いた喉が張り付いて声がかすれた。


「セリムが怒った。人として人を裁く。牙には牙、罪をあがなえ。そう言った。許しを頼むという、蟲の優しさを利用した方法をセリムが許さない。そういうことだ……」


--もう人には十分提供した。十分過ぎるくらい手厚く譲歩した。僕だ、僕が交渉相手となる。そして人として人を裁く。蟲達にこれ以上責務を負わせたりしない


 パズーが真っ青になって座り込んだ。


「怒った?あいつが怒る時は相当だ……。蟲側に立ったということは人なんて滅びても構わないってセリムが判断したってことだ……。あいつが、あいつがそこまで言うなら……いやあがなえだ。セリムはもう答えを持ってる。だからラステルもシッダルタも連れて行った!ためされてる。セリムが持つ最低限の答えか、それ以上の答えを出せ。きっとそう言うことだ」


 立てないくらいに震えているのに、パズーの顔はもう青くなかった。涙と冷や汗でぐしゃぐしゃだが力強い男の顔。セリムに全幅の信頼を寄せる、そしてセリムと最も付き合いの長いパズー。置いていかれたのは偶然ではないだろう。


「ヴァナルガンドは人と蟲の間に立つと言い切ったからな。納得しないなら蟲側にも立つか。本気で破壊神になろうとしたって訳か。本当に誰よりも先陣に立つ男だな。おいアシタカ、いやルイ。セリムが話した内容、洗いざらい話せ。まずはそこからだ」


 アシタカは震えながらうなずいた。


 セリムは安易に人を殺しにはこない。


 グスタフの視力と声を奪い、人生を通して学べと提示した。人も同じように裁くだろう。単に殺された方が良かったかもしれない。大勢の者がそう思うような、しかし罪に相応しく命の尊厳も守る解答を持っているだろう。これより未来の人々がセリムを憎もうとも譲らない破壊神としての決意。セリムは相当厳しい答えを持っている気がしてならない。


--人は蟲を無視すればいいのに傷つけ殺し続けてきた!人よりも優しいのに、化物だと責めて殺してきた!


 グスタフがアシタバ蟲森を犯した代償はドメキア王国への報復行為。蟲からすればそれでも最大限の譲歩。それすら嫌だと人が突っぱねるから、セリムは激昂げっこうした。いや、会談中で爆発しただけで、遅かれ早かれどこかで爆発しただろう。セリムは巨大な怒りを抱えて一人で律していた。いつか限界に達したに違いない。


 蟲が誕生してから二千年、その全ての罪をあがなえとセリムは突きつけてきた。


 この世は因縁因果、生き様こそが全て也。


 この土地で飲み込んだ信念を振りかざし、怒りに身を投げたセリムこそ救ってやらないとならない。蟲に人殺しをさせるなら、自分が人を裁くと背負った。人を殺して気持ちがおさまる蟲に、それでは解決にならないと憎しみこらえて一度止まれとさとした。


 頬を涙が流れて、強風に飛ばされた。まるで殴りつけられたような感覚がした。誰よりも平和を愛するセリムの断腸だんちょうの思いだろう決断に、アシタカはさめざめと涙を流した。


 憎しみで殺すよりも許して刺されろ。


 セリムは人からも蟲からも刺さる道を選び去った。あまりにも孤独。


 崖の国で迷い蟲を目の前で殺され、アスベルに叱責されたセリムの孤影悄然な姿。


--たった1人で何が理解できる!1人で死ぬのは勝手だが、叶わぬ理想に他者を巻き込むな!


 そうだ、あの時からずっとセリムは一人だった。そして叶わぬ理想なら一人で死のうと胸に秘めていたのだろう。セリムは命の尊さや愛おしさを諦められない。誰よりもこの世の美しさを好み、故に孤独。もがいていただろう。


 アシタカはまだ若く苦しんでいただろうセリムへ手を差し伸べられなかったことに対して、むしろ荷物を増やして押し潰したことに嗚咽おえつらした。また強い風がアシタカの頭を殴るように、通り過ぎていった。

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