蟲の民セリムの激昂 3

 助けてセリム


 怖いよセリム


 おこりんぼは嫌だよ


***


 大蜂蟲アピスの意思疎通の輪の本流ほんりゅうに微かに混じる、健気で優しいアシタバアピスの子の祈り。


 一筋の光のような意識だけに集中する。


蟲の民テルムセリム・ヴァナルガンド。アシタバの民の王からの伝言を伝え終わった。交渉相手はドメキア王国新王ルイ・エリニース・ドメキア。二日後、アシタバの民の巣、領土総本山アシタバ蟲森手前のエリニース塩湿原えんしつげんに彼を連れていきます〉


 アシタバの民、大蜂蟲アピス全体から激しい不信感と裏切り者という意識を叩きつけられた。それを一手に引き受けて切り裂くように現れた黄金たてがみの強き輝き。風が消えたように、静まり返った。


 蟲の王レークス


 全ての蟲の頂点にしてアシタバの民の王。


〈了承した。人の王シュナ・エリニュスでは無いという時点で人は圧倒的不利。我慢しきれない中蟲なかむし達が同士を連れて既に境界線を引いた。第一境界線は我等が敬意を示す紅の宝石。シュナの森と人へ与えてきた里の間に引かれた。ドメキア王国唯一の人の王シュナ・エリニュスと108名、そして古きテルムの子に祈りを捧げさせよ。先頭は孤高ロトワの龍の皇子だ。我ではもう止められん。最終境界線は先陣切る大蜂蟲アピス成蟲せいちゅうである。二日間、人が一人でも境界線を犯せば交渉は決裂である〉


 目の前に岩が落ちたように、意思疎通の輪から切断された。家族であるホルフルの民の大蜂蟲アピスからの声援が届いてくる。


 ホルフルの民は姫と同じく人を諦めない。


 蟲の王レークスに嘆願し続ける。


 セリムは親を押しのけて、遊べ、遊べ、遊べば大丈夫だ。セリムなら大丈夫だと大合唱してくるホルフルアピスの子達からの激しい声援に吐きそうになった。強すぎる思慕が、逆に重い。重過ぎる。


 セリムの行動が、変わろうとしている世界を崩壊に導く。失敗すれば再び停滞ではなく、蟲は益々人を憎悪する。そして嘆き悲しみ引きこもる。


--ここに何しに来たヴァナルガンド。死んだら戻らねえ。次は己の言動に気をつけろ。ここは仲良しこよしの田舎小国じゃねえんだ


 セリムの我儘わがままを苦笑いしながら許してくていた崖の国。もう違う。世界は残酷ざんこくで、正しいから救われるという仕組みにはなっていない。


 目の前で撃たれる者を放置するのは、崖の国の王子ではない。血を流していれば手当てする。泣いていれば寄り添う。正しさを貫きたければ、成す力がなければならない。セリムが生きてきた十八年間が、無駄な時間であったのかを試される。


 自信と不安が交互に押し寄せて、体がそれで揺れるというように震える。


〈欲深く罪にまみれようというセリムよ、少しだけ見せてやろう〉


 招かれた。


 何処にか分からない。


 息が出来ない、激情の唐紅の中だ。


 あまりの人への憎悪と嫌悪に倒れそうだ。


 おろかで下等と見下すことで、何とか人を最低限に無視してきた。それが人をあきらめた蟲の生き方。蚊を潰したって気にしない。そういう考え方が根底にある。たまに違うと感じる人間を見つければ、人から外れた変な奴。蟲の王レークスと似たような特別な存在なら人の王。


 人の王ならば蟲とも同等に近いから信じても良い。


 人の王さえ殺そうとする人間は、下等中の下等。害なす存在。嫌な臭いがする人は全員いつか死ねばいい。絶対に絶滅ぜつめつさせる。淘汰とうたを繰り返せば、人の王だけが残る。


蟲の王レークスよ、テルムが死んだ時に人が裁かれるのは嘘か。たった一人を選ぶなど偽ったのか!人の王だ!人の王が死ぬたびに裁いてきた!人を選んできた!しかし蟲の王レークス、貴方程の方なら分かっているはずだ!人は、人の王だけにはならない!これを僕に教えてどうするつもりだ!〉


〈破壊神よ止まるか?止まらないだろう。ならば見届ける。それだけだ。ホルフルの民は従うようだからな。それほどまでに信頼されて慕われている。セリム、それこそお前が殺されれば大陸中の人ほとんどが滅ぶだろう。歩むのを止めない者よ、誓いの蜜を口にした瞬間、そして絶命しなかったあの瞬間に幕は切って落とされた。何を知ってもお前は逃げない。そう判断しただけだ。では、二日後だ〉


 勝手に招かれて、衝撃的事実だけ叩きつけられて追い出された。


 ヴァナルガンドは古き言葉で破壊。


--これ程知能が高く群れを形成する種族との共生。今までは互いに拒絶し合って均衡を保っていたのだろう。それをお前が破壊した。


 破壊神。


 セリムは人からも蟲からもののしられ続ける。


 寒気が酷い。


 両手の温もりで、セリムは我に返った。正確に言えば蟲の意識から帰ってきた?眼前にはまるで化物を見るような顔付きのルイとシャルル。アシタカは、不信と信頼混じった複雑な表情でセリムを観察していた。


「アシタバの民の王と対話するのに、我が王子はこのようになります。セリム・ヴァナルガンドは特別中の特別なのです。だから蟲と人との誤解を解き、不要な争いを止めようと決意して行動しています。本来、蟲の民は傍観者。滅びゆく人の愚かさを伝承する。そして未来に同じ過ちを繰り返すないようにと残すのが使命。しかし王子は不幸を見て見ぬふりができないと声を上げて、行動を起こしている。迫害の危険もかえりみず。妃のラステルは幼い子蟲とのみ心繋げています。故に目が赤い。知らぬから驚いたでしょう」


 シッダルタがあらかじめ決めておいた台詞を淡々と告げた。ルイとシャルルから恐怖が消えて、むしろ畏敬を浮かべてくれた。なんて心強い。


「秘密を教えたという理由を考えて欲しいです」


 ラステルが繋いでいる手に更に力を込めてくれた。


「ルイ国王を交渉相手として認めたそうです」


 セリムは大きく深呼吸して、動揺などないというように振る舞うように勤めた。


「ありがとうございます」


 明らかに安堵あんどしたルイに胸が痛んだ。


「貴方では役不足だと言われました。僕はシュナ姫にこれ以上荷を増やしたくない。その一点で、判断を誤ったかもしれません。賠償に相応しい内容を考えるのはルイ国王です。僕は関与出来ません。蟲は人の感情を読む。蟲の王は思考も読み取る」


 血色良くなったルイが、また顔色を悪くした。


「シュナ姫ならば良かった、いやシュナ姫でないとならなかったと言う事ですか……」


 ルイがやはり、というように益々顔色を悪くした。シュナのあの取り乱し様、賢いからか勘が働くのか、どちらもなのか。彼女は己こそが交渉相手だと自負し、そしてセリムの拒絶と理由にも思い至っていたように見えた。一方、ルイは今更気がついている。


 性根に覚悟、才能や努力の結果も何もかもがルイではシュナに見劣りし過ぎる。


「もう変更出来ません。蟲の思考については、知っているだけそして話せるだけを話します。色々と質問して下さい。それから二日間、境界線を越えないように。空に蟲が激昂の赤い瞳をして並びます。手を出さなければ、攻撃してきません。絶対に手を出さないで下さい。暴走する国民を全力で止める。それもルイ国王の仕事です」


 ルイが頼りなさげにうなずいた。隣のシャルルはもっと頼りにならなそう。二人とも歳はシュナより上、ティダと同年代くらいか上に見えるのに。


 四面楚歌しめんそかで逃げ道のなかったシュナの、やっと手に入れた小さな解放感を奪いたくなかった。なのに、それが人を滅ぼすかもしれない。抑えようとしても、小刻みだが震えが止まらない。


 もう既に口を開いている滅びへ、足を踏み入れたかもしれない。


「セリム。本来なら有無を言わさずにドメキア王国は消滅。君はそれを止めた。他の誰にも成せなかったことだ。何が起ころうとそれを誇れ。どうなろうと君に責任はない」


 シッダルタの小声に、セリムは「違う」と叫び立とうとしたが、ラステルとシッダルタに強く手を引っ張られて止まった。ラステルも大きくうなずいてくれた。


 微かに小さな声援が聞こえてくる。


〈セリムがアピスの子を守ってくれた。アピスの子は偉いからおこりんぼは嫌だ〉


 セリムの胸の奥で何かがチリッと焼けた気がした。


 何だろう?


「ヴァナルガンド殿、まず聞きたいのは報復される相手がどうして国中なのかです。グスタフ王が蟲を操れる者を探すために、アシタバ蟲森へ兵を送った。なのに……」


 なのにどうして?ルイのいきどおりに少し腹が立った。理不尽だと言われているのが我慢ならない。


「蟲と人では考え方が大きく違うからです。ですよね、王子?」


 シッダルタに強く見つめられ、我に返った。油断するとすぐに蟲側に意識を持っていかれる。


「そうです。蟲は満場一致で王を選びます。一番賢く、平等で、先見の明がある指導者。選んだならば基本的には従う。蟲から見れば、掟を破り他種の領域に侵略する愚王ぐおうを選び長年従い続けてきた民は全員下等。人の王のみしか信じられない。人の王を選ばないから、どうせまた侵略して殺戮さつりくする……」


 納得しなさそうなルイに、セリムは口を閉ざした。


「我等が王を選んだ訳ではありません。そんな権利は無かった。人の王とはグスタフ王のことでしょうか?」


「悪しき王に素直に従う。蟲には分からないことです。まあ、蟲はそもそも個人ではなく群れ全体で思考するような生物です。悪しき王ならば全員で声を上げ、命令に背けば良い。人はそれをしない。人の王は、蟲が敬意を示す人のことです。命を差別せず尊重する者。グスタフではありません」


 セリムを人の王、今は人の王子に格下げされたらしいが、そう呼んでもらった。他にも何か意味がある名称だろう。蟲は何もかもは語ってくれない。むしろセリムに教えてくれるのは、かなり少ない情報。


 ルル達三つ子は人の王。兄アシタカ暗殺未遂に父ヌーフ暗殺に際して即座に許しを選んだ。兄へ訴えた。カールに殺されたアシタバアピスの子の亡骸なきがらを回収し、とむらおうとしていた。ノアグレス平野にて何をしていたか、恐らく父ヌーフと共にいただろう。彼女達がそのように育てられたのもあるが、ルルがセリムと同じく蟲と会話出来るからというのも大きい。


 シュナは違う。


 セリムやルル達とは大きく異なる。何も知らず、むしろノアグレス平野で蟲の凶暴さや獰猛どうもうさを目の当たりにしたのに命に敬意を示している。正に、本物の「人の王」。何よりアピスの子の末蟲すえむしであるラステルが心底懐いている。シュナもラステルをとても大切に思ってくれている。


 本物の「人の王」を選ばないから、また同じことを繰り返すだろうと強い不信感。


 蟲が激しく怒っている、根本はこれか。巣を侵略した人への報復は終わった。兵達は全員死に、グスタフはセリムが裁いた。


「人はそれをしない?私達は立ち上がりました」


 セリムは目を丸めた。ルイの尊大そうな表情が気に食わなかった。この男は勘違いをしている。


「立ち上がった?貴方は暴力を選んだ。反省するならまだしも、今のように胸を張るべきことではない。恥じるべきだ」


 ルイは少し不満げだった。顔にお前に何が分かる?と描いてある。


「貴方はこの国の内情を知らない」


 余所者が、何も知らない若造に何が理解出来る?そういう態度。


「僕は貴方を王と呼びたくありません。ルイ、では聞こう。教えてくれ。シュナ姫は何を成した」


 こんなところから話をしないとならないなんて、二日で交渉相手に相応しい考えまで成長するのだろうか。賠償ばいしょうも提示しないとならない。ルイが一瞬、虚を突かれたように気まずそうになった。


 それから、お前が言うなというように微かに唇を尖らせた。


「シュナ姫はこの国を見捨てるほうが自然な立場だった。長年に渡る国民からの裏切り、あざけり行為。重い病なのに耐えてきた。そこに親兄弟からも裏切り行為。戦場でも多くの臣下を失った。捕虜となり嘆願したのは自らではなく、自分を守った兵士とその家族。常に他者のために尽くしてきた方だ。僕はシュナ姫に頼まれたからシャルル王子とグスタフ王と謁見し続けていた。敵陣で一人、いや愛する妻と共に殺される覚悟で縁もゆかりもない国の平和を願い、友であるシュナ姫へ自分達なりに全力を尽くした。お前が言うな?こちらが言いたい。貴方は僕の何を知っている?」


 ずっと沈黙し、うつむいていたシャルルが顔を上げた。それから、そろそろとルイの肩に触れようとした。ルイが思いっきり嫌悪を浮かべた。


「私はヴァナルガンド殿を触るな化物男と呼んだ。しかしそんな事気にもしないで、気にしない振りをしてこう言ってくれた。殺そうともしたのに……。励むのはいつからでも遅くない。さあ、困っている民へ変わりたいと思ったことを伝えよう。不甲斐なさを謝りながら、これからは違うと、怖くても踏み出した勇気を見てもらおう。私を貧困街へ連れ出して働かせた。働かせてくれた。石を投げられれば守ってくれた」


 シャルルが拳を握って、ルイに触るのを止めた。ルイが戸惑った様子でシャルルとセリムを見比べた。


「僕はグスタフを過信してしまったが、シャルル王子のことはきちんと見抜けた。味方少なく疑心と元来の臆病さで縮こまっていただけだ。己を見つめ直し、偉大な一歩を踏み出した。ルイ、反乱軍はそれを踏みにじろうとした。国中にシュナ姫はシャルル王子と手を取り、傾国から立て直すという話もしていたのに無視した。会いにも来なかった!シュナ姫にも会おうとしなかった!」


 結託けったくしているのか、いないのかを見定められている。頭も悪いのか。こんなんでは困る。


「結託なんてしてない。貴方が王となったでしょう?シャルル王子は会談で真っ先に貴方の名前を挙げた。見て見ぬ振りをしていたことも謝った。そういう聡明そうめいさと懐の深さがある。足りなかったのは支援者と勇気。あと勇気を持つための努力。大きな器があれば、あとは注ぐだけだ。ルイ、しっかりしてもらわないと困る。交渉相手は貴方となった。ドメキア王は降りても、交渉相手は降りれない。君は全国民を背負ったんだ」


 やっと理解したのか、ルイがひるんだ。


「……シュナ姫が最も相応しいと考えていたのに、どうして私を選んだんですか?」


 今度は責任転嫁か。苛々いらいらする。今回の無血革命から、何も学んでいないのか?王に選ばれ、早くもおごったか。王として育てられていないから当然か。この国は教育分野にもっと力を入れるべきだ。


「僕が選んだのが気に食わない、ね。どうして?むしろ問いたい。シュナ姫は母親が愛した国、自らを守ってくれた者がわずかばかりいる国のためにどれだけの犠牲を払った?眠れぬ夜を幾夜越えた?敵陣、自陣関係なく正しい者へ手を差し伸べてきた。相手に伝わらなくても、国を自分なりにどうにか守ろうと必死だった。国民全てを背負おうとし、そして成した!シュナ姫にはそこまでの権力があったか?それに対するルイ、君の回答がこれか。全身血塗れで、本当の願いも口に出来ないか弱い娘にまだ背負わせるのか?」


 セリムはちらりとアシタカを見た。今すぐにルイへ罵声ばせいを浴びせそうだ。血管が浮き出て、青筋が切れそうだ。ルイもセリムにつられてアシタカを見て、動揺した。


「ルイさん……。シュナは毎晩ろくに眠れてなかったわ。ずっとこうだから特に気にならないって笑ってた。国に帰りたくない?って聞いたらこう言ったわ。帰りたくないなど口が裂けても言わない。傾国と共に滅びるか、国を立て直すか二つに一つ。選んだのは一番難しい方法よ。血を見たくないって言ってたわ。アシタカさんは不在の予定だった。同じ道を全部シュナが、あの音の機械とかないのにやるつもりだったの。逃げたら死んでも死にきれない。本当は帰ってきたくなかった。だって、言ってたもの!ペジテ大工房では安心して飲み物を飲めるって!」


 ラステルがポロポロと涙をこぼした。許せないというように、嫌悪を込めてルイをにらむ。場の空気が凍った。誰かが口を開く前にラステルが続けた。


「でも私はルイさんを許すわ。セリムが貴方ならシュナの代わりに蟲と仲直りするって選んだんだもの。シュナも王としてやれるって信じた。ちょっと頭が悪くて人を信じられない人みたいだけど仕方ないわよ。見る目もないみたいね。でもアシタカさんだって、とても口が悪いし私のことを嫌ってる。アシタカさんも見る目が少しないの。こんなに凄い人なのに。でも、変われば良いだけよ。シュナがクソ豚って言ってたシャルル王子をしぶしぶ兄上と呼ぶことにした。だから、私だって許せるわ」


 セリムの目が点になった。アシタカも同じ様子だった。シャルルが「やはりそうか……」と大きな溜め息を吐いて辛そうにうつむいた。


「待ってくれ、ラステルさん。僕は貴方を嫌っていない。どういう誤解だ?確かに得体が知れないと不信を投げつけたが、それは僕の至らなさ故だ。ああ、謝るべきだったか。すまなかった」


 ラステルはツンと澄ましている。


「私、幼く少々やかましいもの。別に構わないわ。私はセリムの妻だもの。セリムのお友達とは仲良くするの。ティダ師匠も許しなさいって言ってたわ」


 セリムはラステルの手を引っ張った。シッダルタもラステルに向かって首を横に振った。このままでは、話の方向が変わってしまう。ティダはアシタカに対抗心を燃やした結果、味方を増やすつもりなのか?ラステルに何を吹き込んだ。


「すみませんでした。貴方達の気持ちは分かりました。シュナ姫にもう責務を負わせたくない。シュナ姫でないなら私だと決めてくれた。指摘に感情的になってすみません」


 ラステルが満足したように首を縦に振った。


「そうよ。シュナが言ってたもの。エマダラダ家のルイさんは民想い。慕われている。武力行使を望まなくても周りが許さない。絶対に担ぎ上げられるって。止めてやらないといけない。狩りは嫌いだし、人の代わりに殴られる人だって言っていたもの。国に必要なのはルイさんみたいな人だって」


 セリムはラステルの言葉で、冷静さを取り戻した。エマダラダ、は間違って覚えているようだがシュナの言葉は正しく覚えていそうだ。ルイが涙ぐんだ。


「ルイ国王。申し訳なかった。僕は貴方をシュナ姫と比べた。不信には不信が返ってくる。僕が先に不信を投げた。妻の言う通り、貴方は胸を張って下さい。僕がするべきなのは、貴方が蟲の王と交渉するのに必要な材料を与えること。非難じゃない」


 アシタカが顔をしかめて頭を掻いた。


「ラステルさん。誤解は後で解かさせて欲しい。今は話が逸れるから戻そう。ルイ国王、突然の重圧に己を信じられないだろう。逃げたいだろう。しかし、貴方なら成せると評価されている。シュナ姫を楽にし、国も守れる。その選択肢がルイ国王。君を援護するのが遅くなってすまなかった。むしろ背中を刺すところだった。シュナ姫に君を頼まれたのに」


 ルイはアシタカに小さく会釈した。それからセリムを見据え、背を丸めずに大きく深呼吸した。


「すみませんでした。御指南ごしなん宜しくお願いします。蟲についても、王としても」


 決意と闘志燃える瞳にセリムは少し体を仰け反らした。王としても?


「僕は若輩。王としてもと言われても、王ではない。ああ、僕の父について教えて欲しいと言うことですね。それならシャルル王子に沢山文書を作りました。蟲については、早急に理解してもらわないとなりません」


 ルイが何故か苦笑いを浮かべた。シャルル王子がルイに何か耳打ちした。今度のルイは素直にシャルルの言葉を聞いた。ルイも大きな器だ。どんどん注がれて、器に見合う男になる。セリムも励み続けないと横並びから、置いてかれる。いや、ルイはこんなにも大きな国王の道を選んだ。ルイがセリムを見て、驚いたように目を丸めて止まった。


「王子の良いところはその貪欲さだが、もっと大きな男になりたいからルイ国王から学ぼうという気持ちは一旦横に置いておいて下さい。それこそ話が横道に逸れる」


 シッダルタがセリムの背中を三回叩いてくれた。


「シッダルタ!君は人の心を読めるのか?ならば蟲と同じだ。僕にも出来るようにな……。すまない。これを今は止めろということだな」


 ルイがクスリと笑った。


「読めませんよ。むしろ王子の方だ。本当に不思議な方だな。それより蟲の思考と、賠償内容の話し合いですよね?」


 シッダルタが「変」ではなく「不思議」と使ってくれたのが妙に嬉しかった。


 それから蟲の思考、その単語で一気に心が重たくなった。


 口にすると止まらないかもしれない。だから誰にも言わなかった。しかし今はシッダルタとラステルがセリムを支えてくれている。二人と繋いだ手の温もりと力強さに勇気が持てる。


「ヴァナルガンド殿?」


 セリムはルイを見据えた。人の王とはとても呼べない男。しかし、素質は十分。信じると決めたのはセリムだ。


--俺が信じるのは自分だけだ。だから自分が選んだものは決して裏切らん。何でもしてやる。


 迷うことなく言い切る、信念貫くティダ。まだ彼のようにはなれない。しかしセリムに自信が無いからといって、裏切って良いことにはならない。ルイは自分で選んだ男。シュナやアシタカ、ラステルにシッダルタの後押しもあるが何よりセリムが決断した。いざという時に責任を取るのはセリム。だから蟲の民テルムと名乗って仲裁に手を挙げた。


 この前提を見失うところだった。


「ルイ国王。無礼を許してくれてありがとうございます。僕が分かる限りを話します。蟲は大なり小なり血に記憶を宿しています。だから人に何をされたのか、本能が覚えています。見世物にされ、殺し合いをさせられ、虐殺ぎゃくさつされ、逃げても追われて迫害された。心優しき人を守ろうとして、毒に身を投げ……それでも……」


 血がさわぐ。


 触れれば戻ってこれないような深淵しんえん


 伝えないとならない。蟲達が人を憎む理由。知らなければ寄り添えない。


ーー守っても守っても殺される。どんどん暮らせる場所が無くなっていく。共に生きようとしてくれてる蟲の家族ばかり滅ぼされてしまう。逃げて欲しいのに逃げない


「蟲は人に道具や材料として作られた。しかし大昔に自由を与えた人がいたんです。道具ではないと、生物だと肯定してもらった。人よりも幸福に自由に生きよ。共に生きて欲しい。そう願いを込めて救ってもらった。だから、だから守ってきた。人をずっと守ってきた。今も守ろうとしている」


 バチンッとセリムの中で何かが弾けた。


 立ち上がって机を叩く。感情的になりたくない。


 しかし、そうだ。何故人を救わなければならない?


「毒の森を巣にしたも人の為!自然淘汰しぜんとうたを繰り返して何とか適応したが仲間は大勢死んでいった!アシタバ半島の地を耕したのも人の為。貧困に喘げば海から恵みを運び、有毒植物による病が流行れば数少ない毒消しを雨に混ぜて降らせた!怖がらせないようにと巣にこもり、風を切って飛ぶことを我慢している。広々とした大地を自由に駆けたくてもしない!人に与えた里には決して侵略しない。巣に人が踏み入れても、手を挙げられない限りは傷つけなかった!」


 人が何か言っているが、憎い相手の言葉など聞きたくない。


 憎い。


 憎い。


 なんて憎い。


「なのに感謝一つしない!侵略ばかりしてくる!また人が来た。また殺しにきた!未来を作る健気で優しいアピスの子を一方的に虐殺ぎゃくさつした!幼弱な羽を懸命に動かして、遠路はるばる飛んできて、恐ろしい海から食料を運んだアピスの子を笑いながら殺した!生きたまま、楽しいと燃やした!」


 熱いよセリム。


 熱いよセリム。


 熱いよセリム。


 殺すのは悪いことだと、憎むなと言うセリムを信じて死んでいった。逃げようにもまだ幼くて、逃げきれなかった。


 体が燃えるように熱い。これはアピスの子たちが感じた痛みだ。


「アピスの子たちは優しいんだ。親が人を殺すと後で苦しむのを、嘆き悲しむのを感じている。親は隠しても親想いの子は気がつく。自分達は偉いから、怖くても人に手を出さないと震えながら我慢する。他の子蟲にも、怒るよりも遊ぼうとさとしている。憎しみは何も生まない」


 怖いよセリム。


 助けてセリム。


 おこりんぼは嫌だよ。


--レークスが怒ってる。そうするとみんな怒る。僕らは帰りたいのにおこりんぼになっちゃう。すえむしも嫌なのにおこりんぼに変わる。嫌だよセリム。可哀想だよセリム


 嫌だよセリム。


 憎まされて可哀想だよ。


 蟲は人の行いにより刻まれた本能で憎まされている。


「足りないんだ!許すべき理由が全然足りない!今はシュナ姫が中蟲なかむしを庇い命を救ったことと、末蟲すえむしがシュナ姫を好きという理由しかない。こんなの、許しようがない。憎しみをこらえる、忘れられるものが無さすぎる。人は蟲を無視すればいいのに傷つけ殺し続けてきた!人よりも優しいのに、化物だと責めて殺してきた!」


 人が何か言っている。


 何だろう?


 家族の声がする。古い記憶。大事な伝統。刻まれた想い。


 蟲の民テルムは生まれる。


 私たちの家族


 また歌ってくれる


 若草しんあいの祈り歌。


 手だ、脚ではなく手。手を握っている。人?嫌な匂いじゃない。しかし人だ。人など嫌いだ。しかしこの二人は嫌いじゃない。手を離してはいけない気がする。


--好きなものが残る限り許しなさい。すえむしに従う偉い子良い子


 手を握っていよう。


 許せ。


 許せ。


 許せ。


 憎しみで殺すよりも許して刺されろ。憎悪では人は従わない。敵に真心を捧げ、憎しみを受け止めて許しを選べ。


--なんという痛みに虚無。何も得られない。損しかしていない。


「もう人には十分提供した。十分過ぎるくらい手厚く譲歩した。僕だ、僕が交渉相手となる。そして人として人を裁く。蟲達にこれ以上責務を負わせたりしない。僕のせいで大陸中が滅びる?破壊神と呼ばれたって構わない。蟲じゃない。人のせいだと呪われるべきだ。真実はそうなのだから。ずっとそうだったのだから」


 視界が赤い。


 赤い乳白色。


 しかし、聞こえる。可愛く優しい子供達の助けて欲しいという悲鳴。


--なんという痛みに虚無。何も得られない。損しかしていない


中蟲なかむし達が同士を連れて境界線を引いた。第一境界線は我等が敬意を示す紅の宝石。シュナの森と人へ与えてきた里の間に引いた。ドメキア王国唯一の人の王シュナ・エリニュス、108名、そして古きテルムの子に祈りを捧げさせよ。先頭は孤高ロトワの龍の民。最終境界線は先陣切る大蜂蟲アピス成蟲せいちゅうである。二日間、人が一人でも境界線を犯せば交渉は決裂。ドメキア国王ルイよ、二日後日没までに最終境界線へ一人で参り、賠償ばいしょうを提示せよ。このセリムが裁く!」


 許せ、許せ、許せ。己も相手も許せ。


 失ったものは戻らない。


 大切なのは残ったものを巡らせて、過ちを繰り返さずにより鮮やかな未来を作ること。


 蟲は知っている。


 しかし許すには理由が必要だ。


 身の内の憎悪と怒りが満杯で、いつも限界だから許せない。二千年かけて人が招いた結果。因果応報。


 助けるべきなのは人ではない。報復と殺しを選ぶ蟲でもない。命を救った人の王を信じた結果、巣を蹂躙じゅうりんされたと批難され続けている中蟲なかむし達。この国をうれい、恵みをもたらした子蟲達を守れなかった中蟲なかむし達。まだ踏み止まっている彼等。


 助けてセリム。


 僕の可愛い子供達の悲痛は、自分達への救済ではない。優しいのに力強く遠くまで飛べる、格好良い中蟲なかむし達への救いを求めてる。


 そしていつか脱皮した時に、なりたい姿の中蟲なかむしでいて欲しいという祈りと願い。


 その先にあるまだ見ぬ世界。


「牙には牙!罪をあがなえ!」


 会いに行こう。


 会いに行きたい。


 待ってる。


 ずっと待っていてくれた。


--共に生きて欲しい


 本能と軋轢あつれきを破壊する。その為の蟲の民テルム。蟲と共に生きる蟲を愛する人。


 絶対に許さない!


***


「牙には牙!罪をあがなえ!」


 アシタカは真っ赤な瞳で激昂げっこうし、気を失っているシッダルタとラステルを抱えたセリムの姿に茫然ぼうぜんとした。


 地が揺れ、けたたましい音で大蛇の間の天井が破壊された。降ってきた煉瓦れんがが強風で吹き飛ばされ、コツコツと破片だけがアシタカの頭にぶつかった。


 総司令室での出来事とまるで同じ状況。


 猛風に目を細めると、まばゆい太陽に黄金たてがみきらめかせる大蝿蟲ヴォラン


 父ヌーフより聞いた蟲の王レークス


--ガンよ。蟲森の監視者。蟲の司令塔


 ラファエの考察は間違っていた。ガンは大蜂蟲アピス。この大陸の全ての蟲の頂点は、この巨体に凛然としたたてがみを有する大蝿蟲ヴォランである。


 その背に威風堂々、正に王というように気を失ったラステルとシッダルタを抱えるセリムが立っていた。


〈蟲愛づる姫の瞳は深紅に染まり蟲遣わす。王は裁きを与え大地を真紅で埋める。テルムは若草の祈り歌を捧げよ。我等の父は下等な人間と生きるなど許さない。偽りと欺瞞ぎまんを見破れ。見定めよ。さもなければ裁かれる〉


 蟲愛づる姫はラステル。人ながら大蜂蟲アピス末蟲すえむしであるという幼く可愛い、目が離せないお姫様だとセリムは語った。


 この状況、蟲の王は大蝿蟲ヴォランではなくセリム?セリムは自らを大蜂蟲アピスの家族だと言い切っていた。それならラファエの考察は当たっていることになる。


 偽りと欺瞞ぎまんとは何だ?どれだ?


--賠償ばいしょうを提示せよ。このセリムが裁く!


 会話の中の何かがセリムを激怒させた。


 蟲の民でテルムと言っていたのに、セリムはテルムではない?テルムは若草の祈り歌を捧げよ?セリムが蟲の王ならテルムは誰だ?


 若草の祈り歌とは何なのだ。


 ノアグレス平野を虹色に染め上げた男が、今度は背を向けた。誰よりも懐深いセリムの激昂げっこうと激しい憎悪。セリムが人を滅ぼそうとする筈がない。


 それだけは確か。なのに……。


 アシタカは去っていく大蝿蟲ヴォランとセリム達を眺めるしか出来なかった。

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