崖の国の目付と大狼皇子3
シッダルタの馬に乗せてもらったパズーは、怖くてならなかった。慣れない装備は逆に身を危険に
「本当に起きたなんて!だって、ティダの奴、何もしてない」
馬を走らせるシッダルタの前で、パズーは呻いた。
「したさ。一緒に見てただろう?あちこちの人間と接触。含みのある言い方、それに目や態度。言葉では一切言わないが、俺を祭り上げろって。グスタフ王、シャルル王子、シュナ姫ではなく自分。手伝うなら国をやる。自分はベルセルグ皇国に帰るの一点張り」
そうだったか?ティダは確かに内乱軍、主軍、第一軍、第四軍、あと着飾った貴族とかいう者とも昼夜問わず接触していた。一度もシュナへの裏切りなんて口にしていない。
しかし、確かにベルセルグ皇国へ帰るというのは常に言っていた。それがどう反乱に繋がるんだ?
「マルクに聞いたけど、あちこちの街にも噂を流したらしい。近々、ドメキア王が主軍を引き連れてペジテ大工房へ会談へ行く。手薄になる国。そこに現れた圧倒的な味方に思える、もしくは利用出来そうなティダ。シュナを飾りにして第四軍束ねる皇子。後ろ盾にペジテ大工房」
思い出してみても、思い当たらない。言われてみたら、そんな気もしてくる。あちこちで全然違う態度をしてみせた、七変化のような態度が気になってあまり思い出せない。あと連れ回されて、疲れていた。
「グスタフ王に屁理屈捏ねて、飛行船の場所を移動させてたな。あれって、そういうことなのか?」
全部見ていた。聞いていた。朝から晩までクタクタになるまで連れ回された。なのに、パズーには理解出来ない。
「パズーはティダを心底信頼しているから、分からなかったんだ。多分そうだ。俺はティダが自然と祭り上げられるのを知っている。特に俺達みたいな奴隷、最下層から。ティダは自分を理解しているから、最大限に利用した。俺はそうやって、逆から考えただけだ。本当のところは分からない。一言もシュナ姫への裏切りは発してない。夫婦ね……。その含み言葉と表情の効果は大きいだろうけどな」
何処で何をしても我が物顔。挙句にいつも中心に居座っている。シッダルタの言う通り、ティダはあちこちでシュナについて聞かれると口を濁していた。
「聞いたら教えて……くれないんだろうな。見て学べって感じだった。グスタフ王を祭り上げるなんて、近いうちに内乱が起こる。絶対にシュナ姫とセリム達が止めるだろから先に起こして鎮圧させる、か。王家反乱の関係者も洗い出せるとも言ってたなら、本当に反乱を起こさせた。とんでもなさ過ぎるよ、あいつ」
無言だったので、振り向くとシッダルタが眉根を寄せていた。
「しかし下手すると国民総出で背に乗ってくる。鎮圧なんて出来るのか?俺の不安はそれだ」
パズーもそれがずっと不安だった。穏やか、を目指しているのに、ティダの勝手な行動。
「俺、告げ口したんだ。シュナ姫とアシタカに。止めるかと思ったら報告だけしてくれって。多分、これは必要なんだ。そしてシュナ姫とアシタカは絶対に鎮圧する。それもかなり平和的な方法で。じゃなきゃティダを放置しない。ならティダも信じるしかない。内乱は誰かによって必ず鎮圧される」
そう信じるしかない。パズーのちっぽけな脳みそでは考えつかない。しかし三人は違う。知恵があり、それぞれ大きな武器があって、行動に移せる力もある。ティダは加減を知る男だ。少なくともパズーはそう信じている。
「ティダが君を連れ回していた理由がよく分かる。パズー、君は
吹き抜ける風がシッダルタを撫でたように見えた。セリムの足元にも及ばないが、少しは風を詠める。崖の国の民は風の神を信じている。シッダルタに風の神の加護がある。同じ馬に乗るパズーにも、きっと。
少し震えが止まった。
「あいつはペジテ大工房に一人で乗り込んだ。目の前で内乱が起こるけど傍観しろ。さもないと滅びるって。アシタカを助けたって装って乗り込んだんだ。ちょっと偶然もあるから、他の方法も考えてたんだろう」
いきなり足を
ティダは、遠くを見て行動している。
「そうか。そんなことがあったのか。ドメキア王国に婿入前、彼は奴隷達にこう言った。戦に駆り出される。こんな国と別れられるとは清々した。しかし哀れ過ぎるので死なないように可能な限り手配する。先に手を出されるまで手を出すな。反撃はして構わない。蟲に絶対手を出すな」
遠い目をしてシッダルタが唇を噛んだ。
「色々あって長年不仲だったから皆驚いた。十年以上前の、優しかった頃のティダのように見えた。横柄さは変わらずだけど目が違った。俺にはそう見えた」
かつて奴隷と仲良くしていて、何かあった。その話を聞く前にこの内乱が始まってしまった。
「あの態度、やめればいいのにな」
軽口を叩くつもりだったが、シッダルタが心底辛いという様子だったので口を閉じた。
「紅の旗の軍が迫ってきて死ぬと思った。俺はまだ良い。鍛えてきたからな。しかし全員じゃない。むしろ俺みたいなのは少ない。ドメキア王国兵は奴隷の歩兵を無視していった。死んだ奴もいるけど、少な過ぎる。ノアグレス平野でティダとすれ違った奴がいて聞いたが、先陣で歩兵は相手にするな、戦意ない者に手をかけるな、蟲に手を出すなと何度も叫んでいたという。何人も聞いているんだ」
ティダは戦場でそんなことをしていたのか。パズーは益々ティダを気に入った。理由は定かではないが、故郷を去って休戦の為にドメキア王国へ婿入りするのに甘んじた。ペジテ大工房への侵略作戦を止められず、国を出た。それが婿入りに関係あるのかは、想像しても繋がらなかった。見当違いかもしれないが、そう見える性格で好ましく思える。本人なりの線引きがありそうだが、目の前で困っていると見捨てられない。ティダは多分、そういうの男。
「セリム……じゃなくて、まあシッダルタは知ってるからいいのか。セリムが蟲を森へ返したいって言ったらティダが手を貸した。アシタカもだし、シュナ姫もだ。その結果大陸中が滅ぶのが止まった。ティダはラステルや僕も助けた。アシタカは全部を、まあ綺麗事にして、国民に伝えた。それでティダとシュナ姫、その関係者を庇護された。ティダの奴、かなり先を予想して行動してるんだな。アシタカも懐が深くて優しい」
シュナを守り抜き、一切裏切らなかったから第四軍がティダに従っている。全員ではないだろうが、ティダが我が物を出来るのには理由がある。ペジテ大工房を後ろ盾につけた命の恩人。パズーなら絶対に信じる。あの暴力的で高圧的、そして
それさえ魅力に感じてしまう、不思議な吸引力。セリムとは別の、人を
「かつてベルセルグ皇国でも内乱が起きかけた。俺達を止め、全部泥を被り、ティダは帝位継承権も放棄した。多分そう言うことなんだ。ティダに裏切られたような形だったから真相は謎だけど。この十年もティダは奴隷に背を向けた態度だったからティダを憎んでる。俺も信じたくても不信感の塊だった。信じるべきだったんだ……」
悲しそうなシッダルタの声が背中にかかった。どうしたらそんな状況になるのだろうか。船でティダがベルセルグ皇国兵に告げた言葉の数々。
「複雑怪奇で変な皇子だな。うちの王子も変だけど。蟲の家族になって蟲を森へ返した。一緒に育ってきた俺でも訳が分からない。アシタカもだな。疑り深くて卑怯なところもあるけど、誰よりも真っ直ぐな働き者。平和のために駆けずり回ってる」
アシタカか。セリムへの癖で、つい軽口をきいてしまってそのままの状態。
ペジテ大工房の至宝という呼称の意味。
国の宝とまで呼ばれるなんて、相当な努力と実績を積んだ証。
「アシタカ様か……あの方はとても慈悲深い。ベルセルグの奴隷兵を即座に解放した。奴隷だという理由でだ。故郷へ帰る手筈を整えて、帰国に飛行船に乗せてくれて食料まで与えてくれた。険しい地でも育つかもしれない種とかもくれたんだ」
戦後、パズーがアシタカに会ったのは、二日経過してから。偽りの庭の家でだった。
「相当苦労したと思う。酷い疲れた顔をしてた。記者会見の準備に報復戦争の抑制。家に書類が山積みで眠ってないっていう様子だったよ。殺されかけたのに、平和へ進めってアシタカは凄い奴だ。ティダとセリムも似たようなもんだよ。シュナ姫もそうだ」
そんな凄い人達が一同揃ってドメキア王国の地に足を下ろした。
「内乱、きっと止まるな」
パズーは悲しくなった。そうじゃない。
「何で一番頑張った人達が、一番大変な思いをしているんだろう。あいつら次はあっちだ、次は向こうだって立ち止まらない。死んだら困るのに、一番前に立ってる」
シッダルタがパズーの頭に掌を乗せた。それから兜を揺らされた。
「昔、ティダによく髪をぐしゃぐしゃにされていた。今度は信じ切りたい。何があっても。追いついて並べば少しは楽になってくれるだろう」
力強い言葉にパズーの口元が緩んだ。
「そうそれ!俺がやりたい事!それで俺みたいな平凡どころか臆病者でも出来るんだから、さあやろうって言う。やらないなら
今回、ティダがパズーとシッダルタをあちこちに同行させていたのは期待の表れ。応えたい。
「俺も君もティダの思う壺だな。昔からこうなんだ。無理やり手を引っ張って、人を蹴飛ばして、色々やらせる」
「セリムなんて無自覚でそれをしてくる。お前は凄い奴だってキラキラした尊敬の眼差し。違うって言っても聞かない。というか分からないっぽい。人の長所ばかり見てる。余程の事があれば見捨てるけど、それも冷静に見極める。怖いくらいに」
セリムは優し過ぎる程優しい。しかし王族として厳しく育てられたから非情さの大切さも理解している。セリムに殴られる、刺されるというのは絶対にその必要がある時。そう言わんばかりに自分を律している。だから一旦怒ると手がつけられない。怒り方が変だが、完膚なきまでに叩き潰そうとしてくる。船の上での騒動がその例だ。
「そんなに怖いのか?まあ、船の上では
屈託無く、無邪気で優しい王子様。真似出来ない程に人を信じ抜く。誰よりも励んできたと自負しているから、自信がある。しかし他人の良いところを見つけて自分はまだまだと励む。この世の誰もがセリムの教師だというように、飲み込んでいく。
「セリムに比べたらティダなんて可愛いもんだ。あいつは本当に変過ぎる」
走り続けてきて、丘に並ぶ紅の国旗と純白の国旗が視界に入った。かなり少ない。ゼロースに気がついた騎士達が道を開け、騎士達が左右半分に別れた。
その先、中央、当然のようにいた。
ゆっくりと振り返ったティダにパズーの全身の毛が逆立った。湧き上がる畏敬。ティダはゼロースを見ても、パズーとシッダルタを見ても微塵も動揺を表さなかった。
ゼロースもまた当然というように、ティダの方へ威風堂々と進んでいく。
「かつては戦乙女の盾にして剣。今は紅旗掲げる騎士全ての盾にして剣。威風王シュナ様の忠実なる家臣ゼロース、今ここに
ゼロースがティダの隣に並んだ。
「この位置の心得は?我が隣を許されると思っているのか?」
穏やかなのに威圧的なティダの声にも、大狼の激しい
「我が故郷を飢えと病から救った慈悲深き主がシュナ姫様。主が
声高々と告げたゼロースが、ティダへ一点の迷いもない笑顔を投げた。ティダも穏やかな表情でゼロースを見つめている。しかし黒い瞳が
「この場の全員良くぞ
けたたましい
「やはり来たなひよっこ達。誰でも第一歩というのがある。龍の民シッダルタと蟲の民パズー、俺の背中の真後ろにつけ。未来担う若輩マルクと並び守られろ。神話の中心として歴史に名を刻め!大陸和平を掲げる主達に、内乱という蛮行止めたと伝えに戻るまで死ぬな!ここに三国揃った意味を考えよ!」
ティダの目線はユパやクワトロそっくりだった。セリムを見つめる兄達の親愛の目。成長が嬉しいという、信頼と真心こもった
「この内乱は必要だったのか?」
聞かないといざという時に迷うと思い、パズーは問いかけた。ティダがパズーの髪をぐしゃぐしゃと撫で回した。
「よく聞いた。長年、民と信頼関係を築いてこなかった指導者に誰が従う?一度、強制的に従わせる。正義ではなく、俺からシュナへの
騎士達が皆揃って小さく
この少数精鋭で、援助が来るまで立ちはだかる。パズーは身震いした。
丘の向こう、地平線に紅の旗がまるで炎のように揺らめく。圧倒的戦力差。ティダがいるとはいえ、とても勝てそうには思えない。こんな勝算がない戦いはしない筈だ。騎士達も従わない。
「パズーよ、怯むな。駆け回って陽動して時間を稼ぐ。会談にてアシタカ様とシュナ姫様、そしてシャルル王子が第一軍、第四軍、上手くいけば主軍も合流させて鎮圧するように仕向ける。圧倒的な兵力差で、屈服させるんだ。だから第四軍は即座に出陣せずに待機している。近いうちに起きたであろう内乱。ならば内乱鎮圧で強制的に王家一丸とさせる。そして平和を訴える。そういう計画だ。必ずや後ろから救助がくる」
ゼロースの言葉を聞いて、パズーはティダを見つめた。これは王家一丸となって平和をという、セリムの願いの後押しでもある。本人は嫌がっていた。それも分かった上で、己を貫きセリムには話さなかった。
「説明ありがとうゼロース。しかし、生き方を正せと友が再三忠告するので、作戦を変更した。選びに選んだ少数精鋭。俺が選び抜いた大事な部下をむざむざ殺させるかよ」
誰も声を出さなかったが、ティダに注目する視線の光が強くなった。パズーも胸が高鳴って、叫びたいような衝動が込み上げてくる。「選びに選んだ」その言葉があまりに魅力的だからだ。
「俺はペジテ大工房大技師。なのでペジテ大工房の信念に従う。前方に現れる内乱軍へ誠を伝える。祈りを捧げ力尽きた、偉大なる至宝の父ヌーフ殿の背中より学んだ。我等の姫の姿の奥に光輝く美しさを、即座に見抜いたアシタカ・サングリアルへ若草の祈りを捧げる。それこそがシュナを守る。全員、己を守る以外は決して手を出すな!」
ティダが手に白い機械を持っていた。アシタカと連絡を取っていた通信機器。
「反乱軍に告ぐ!我が愛しき姫はシャルル王子を支え、この国に平和をもたらすと誓った!シュナ姫の名を勝手に語り、王家
「シャルル王子はドメキア一族の真の力にて、空より恵みをもたらし妹の病をも治した!反乱全軍速やかに投降せよ!ナスリムの丘に線引いた紅の宝石による境界越えれば、戦意ありとして攻撃する!」
遠い紅の旗が、動揺したように不規則に揺れた。丘が赤く
「反乱とは剣と剣がぶつかった瞬間から開戦だ。弓矢や重火器が相手を傷つけた時が開始の合図だ。今はまだ、反乱など起こっていない。速やかに解散せよ。それが王家の判断だ。従うならば全て不問とする」
ティダの静かな声が丘に響いていく。頭上の飛行船から落ちてくる。王家を一丸にではなく、王家を民に信頼させる計画。ティダは王家が一丸になるというのを、完全に信じた上で計画を練った。
「多勢に無勢でどうするのかと思っていましたが、やはり隠していたのですね。大嘘つきですね。シュナ姫もこれは想定してませんでしたよ」
ゼロースが瞬きを繰り返しながら、ティダを見据えた。ティダが
「俺を信じるという、生存本能に良くぞ従った。この場にいる57名と大狼一頭。生きろと言ったのが、悪いが俺と死んでくれ。俺が死ねばゼロース、ゼロースの次はビアー、その次は名乗りを上げよ。未来を託せる者を最後に回せ。平和への祈りを捧げよ!堂々と逃げも隠れもせずに訴えることこそが、相手の心へ届く。全員俺の矜持を背負って死んでくれ!」
心底すまなそうにティダに胸が詰まった。
成功するではなく、成功して欲しいという単なる願い。それに付き合わせてすまない。そんな表情。
ティダの頭上で、風が大きく渦巻いている。まるで王冠のように。パズーには、風の加護が後押ししているように感じられた。反乱軍が止まったら、全員死なない。ティダが死ぬ訳がない。パズーにはそういう予感がした。騎士達もそうなのだろう。静かなのに熱気が伝わってくる。ティダだけが自分を信じていない。
「我が唯一無二の親友ヴィトニルが人と生きろという。よってこの丘で、この57名と輝かんばかりに生きることにした。全滅しようと平和を要求して欲しい。命短し、されど尊い。死後も輝く星となろう。この矜持の大輪は、人が忘れようとも大狼の里に残り続ける。ドメキア王国の守護神王たる大狼が
屈託の無い、一切の凶暴さも無いティダの辛そうな笑顔にパズーは涙を流した。
「ウールヴ、この神話の中心は俺とお前だ。人と大狼で神話となる。この名誉、受けてくれるか?」
パズー達に背を向けたティダの真下から、高らかな遠吠えが三度放たれた。振り返るとシッダルタが大泣きしていた。騎士達も号泣し出した。震えが止まらない。この男に選ばれた。この丘で命尽きようとも、今から捧げる祈りは守りたい者達へと繋がって残る。
裏切りには反目、信頼すれば背中を預ける。これは背中を預けるという信頼の花束。ティダからシュナへの最大の贈り物。
「反乱しそうな軍に告ぐ。望む王がいるのならば投降せよ。
丘を旋回する紅旗飛行船が三機。そこに純白国旗も
『ペジテ大工房護衛人長官ヤン・ビスナが申し上げます。我等の至宝があまりに慈悲深く、懐が大きく、そして勤勉で優しいからです。今回の技術は我が国を救ったティダ皇子への
そういえば姿を見なくなっていたヤン長官。ティダに働かされていたのか。
ティダが思いっきり舌打ちした。
「ヤンの奴、何が褒賞だ。俺の計画と違うじゃねえか!裏切り者め!俺の手柄を奪い、至宝アシタカの総取りとは忠義厚い。しかし、敗北してたまるか」
今にも血管が切れそうな程、ティダが怒りを発した。怖過ぎる。
『兄シャルルが胸打たれ、この国へ恵みを与える神の力が目覚めた。そう思わせるような奇跡。そして昨晩の流星の如し謎の落下物。まさに
反乱軍は
「巨大な権力で、虐げられていた者達に火に油か」
憎々しげなティダが通信機器を口に当てた。
ノアグレス平野で憎悪を燃やした蟲と同じ、真紅が波のように押し寄せてくる。死だ。本当に死ぬ。いや、死んで構わない。殺すよりも平和を祈れ。セリムの切なる願いがここにある。
「我が命と祖国を救った亡きソアレに捧ぐ。そして妻アンリエッタ。愛娘シュナ姫。愛弟子ラステルにこの平和の祈りを捧げる。我が名はティダ・エリニュス・ドメキア改めペジテ大工房大技師にて名誉市民ティダ・エリニュス・ベルセルグ。政略結婚を取りやめ、真の平和の為に親子の誓いを交わして永遠に平和を求めると誓った。反乱軍は投降せよ。慈悲深き王家が不問に帰す。まだ誰も死んでいない。境界も越えていない」
パズーはギョッとした。ソアレとは誰だ?妻アンリエッタ?アンリ長官のことだろうか。妻?愛弟子は分かるが愛娘シュナ姫?何の事だ?唖然としていると、ゼロースがティダから機械をひったくった。
「元帥ゼロースの名の下に命じる。反乱軍内部に第四軍がいれば速やかに両手を挙げてこちら側へ戻ってこい。そして祈りを捧げよ。いや、裏切りには反目とも言う。恐ければ全力で逃亡せよ。逃げるが勝ちだ。ここからは顔も見えない。血を流れなければ許される。二十五年に及ぶシュナ姫の慈悲と真心見抜けぬことも許そう。その為に元帥がいる。正しき指揮を取るのか元帥である。今私に従うのが正義である!」
パラパラと馬が霧散していった。つられるようにまた馬が、人が離れていく。今度は先程よりも多い。
「演出ってのは時に武器となる。記者会見でも学んだだろう?覚えておけ。ゼロース、お前なら絶対にそう言うと思った。さすが元帥だな」
ティダがゼロースの肩を三回叩いた。涙を零さないように、ゼロースが顔に力を入れている。突然シッダルタがゼロースの横に移動して機械を奪った。ティダがよくやったという表現を浮かべている。
「反乱軍よ止まって下さい!ベルセルグ皇国奴隷兵だったシッダルタです!ペジテ大工房の至宝アシタカ様は奴隷兵に慈悲を与えて即時解放して下さった!飛行船で国へ帰すばかりか、食料や種もくれた!本当に慈悲に溢れる方です!不眠不休で戦後処理をしつつ、本日の会談も手配したと聞いています!」
ガチャガチャという小さな雑音が丘に届いた。
『アシタカ様は奴隷の強制徴兵と置き去りにされた事をとても胸を痛められた。捕虜解放は国内でも強い批判を受けましたが、対策付きで説得しました。食料はペジテ大工房の民の有志からです。数日腹が減るくらいなんてことない。そういう真心です。アシタカ様方大技師一族が築いてきたペジテ大工房は真心ある国です」
ティダがシッダルタを
『我等のティダ皇子と第四軍は戦場で声を上げてくれていました!歩兵は奴隷だから殺すなと!今、私は第四軍紅の騎士団元帥ゼロース様の隣にいます!必ずや故郷の同胞に伝えます!我が国の皇帝がドメキア王国へ侵略すると言うのならば剣と盾となってこの紅旗に並ぶ!」
ティダが満足そうにシッダルタに優しい慈しみ溢れた笑顔を向けた。ゼロースが馬を引くと、ウールヴがシッダルタの馬に近寄った。
「よく
後方、かなり後ろの方に飛行船が停まっている。その前に人が並んでいた。
ベルセルグ皇国兵のティダと第四軍への惜しみない感謝が
ティダがシッダルタの髪をぐしゃぐしゃと撫でると、シッダルタが
「ティダ皇子、このマルクも話をしたいです」
負けた。咄嗟にパズーはそう思った。たった二つしか違わないマルクが先に前へ出た。しかもマルクは臆病を克服したいからと騎士になったと言っていた。十の頃まで、猫が突然飛び出しただけで悲鳴を上げていたと。ティダがパズーに向かって肩を竦め、マルクを手招きした。シッダルタがマルクへと機械を渡す。
「反乱軍よ投降して下さい。紅旗の騎士団マルクは本来王家仇なす者の首を
前に出ようとしたマルクをティダが掴んで後ろに思いっきり投げた。
「庇ったら殺す!今のは言葉だけなので許そうマルク。若者は未来への礎。お前が死ぬのは最後だ。テメーらが囲わねえからだ!先輩ども、しっかりしろ!俺より先に死ぬのは許さん!俺の矜持を折るなら殺すからな!話すのはいいが前には出るな!」
怒りに満ちたティダの声が丘に木霊した。手に通信機を持っているのを忘れていたのか、一瞬顔を歪めた。パズーは隙だ!と通信機を持つティダの腕に飛び掛って、しがみついた。
「パズーです!これが本性!凶暴で
怒るかと思ったら、ティダは満足そうだった。ゼロースがティダに手を差し出していた。機械をくれと言うように。ティダがすぐさま機械を手渡した。
「ビアーだ。第四軍はもう不在だと思うが話しておく。シュナ姫様は
流れ星に愛される?何のことだろうか。
「今回の侵略戦争で知った聡明さ。病の辛そうな姿。第四軍が生き延びて祖国に帰れるならと、敵国皇子をも一旦信じた。毎日殺されるかもしれないと疑心暗鬼の態度だった。それでも奮い立っていた。我等の為に」
ほろりと、それこそ流星のように一筋の涙がビアーの頬を流れ落ちた。高揚していた騎士達が静まっていく。パズーもしんみりとした。
「帰国の際にシュナ姫と将棋を指すティダ皇子が私にこう言いました。お前らドメキア人なんざ俺は興味なかったんだ。俺が何でここにいるのか考えな。ティダ皇子が好むのは矜持。誇り。真心。だから今ここにいる。シュナ姫様はこの地へ平和をもたらそうと帰ってきました。大工房アシタカ様の従兄弟。名誉市民として永住を提供されたのに!我等の為に帰ってきた!108回も殺されかけた国へ、平和を与えようと帰国しシャルル王子と手を取り合った!」
ビアーが泣き声で、震える声で告げた。騎士団達とパズーも涙汲んだ。
突然、被さるようにアシタカの声がした。
『会談の議題は二つ。一つ、我が国が報復戦争を撤回するに値する賠償提示。一つ、我が国の大技師一族それもドメキア王国との架け橋になった聖ナーナの謀殺隠滅及び娘であるシュナ姫への108回に及ぶ暗殺未遂放置への説明と賠償提示。賠償は二つ
騎士団全員がティダを見た。ティダ本人は放心している。それからワナワナと震え出して、牙を見せるように歯を剥き出しにした。
「何が三機が限界だっただ、ヤンのクソ野郎が!アシタカめ、ヤンとは離していたのに俺の手口を読んでいやがった!根こそぎ全部持っていかれる。神話になれねえじゃねえか!」
激怒したティダが、今度は高笑いしはじめた。
「ふはははははほ!会談を公開してくれるらしい。教えておけよ、アシタカの野郎。誰を信じるべきなのか、何をするべきなのかはこれを聞いてからで遅くない!俺はもう知っているから寝る。境界を誰か超えたら起こせゼロース。俺の手柄を
そう言い終わるとティダが通信機器をゼロースに渡して大狼から降りた。サッと伏せた大狼に、腰を下ろしたティダがもたれて目を
心底安心したというような、信頼浮かべる寝顔を春風のような温かく柔らかな風が撫でていった。
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