蟲の民と毒蛇の巣6
ドメキア王国は貧富の差が激し過ぎる。セリムは四重砦の最外層に位置する街を歩きながら、胸を痛めた。痩せているのに、腹が大きな子。どうみても長期的な栄養失調だ。あっちにも、こっちにも骨と皮だけの民。
暗く落ち窪んだ表情。そんな者が多過ぎる。
「国が大きいと、こんなにも手が届かないのか……」
セリムは自身の身なりが良いことに嫌気がさしてきていた。着飾っているつもりはなく、
崖の国は貧乏小国。だから王族こそが誰よりも励め、務めよと言われて育った。実際そうだとしか思っていなかった。そんなことはない。ラステルと誓いを立てた時の服飾の
無知は罪。
風がセリムの頬を横殴りした。ドメキア王国の風の神はセリムを何度も殴る。温室育ちの世間知らずだと、笑われている。湿度と風の匂いのこの変化。大雨が降りそうだ。田畑を
ずっとセリムを見つめている、無数の憎しみの瞳。あいつはあんなにも持っている。自分達は今すぐ飢え死にしそうなのに。そういう悲しい憎しみ。
無知は罪、しかし知は空虚。
「アンリさん。僕は何を成すべきなのか。他国に踏み込み過ぎるな。それは真っ当な意見だ。それに、この服を全て与えても全員には全く届かない。持っている財産でもそうだ。僕は彼等に足る程は与えてやれない」
道の真ん中でセリムは途方に暮れた。平和のために友好を結ぶ予定の国、異国の街をしかとこの目で見てみたかった。しかし交渉に相応しいか見定めたいと
「この国の未来は、シュナ姫とアシタカ様が考えていると思います。ヴァル殿は別の方法で平和という険しい道のりを切り拓こうとしています。きっとシュナ姫やアシタカ様が望む未来と交わります」
アンリは何てことない、という表情でセリムの隣に立っている。しかし瞳は悲しみで濡れたように潤んでいた。それから
「僕は和平交渉のことで頭が一杯で、シュナ姫がどうして必死に帰国しようとしていたのかまで考えが至らなかった。恥ずかしいし、情けなくて悔しい」
アンリが目を丸めた。
「ヴァル殿が何故?恥ずべきなのは我が国です。知らなかったとはいえ、豊かさを分け与えてこなかった。いつか他国と交流を果たしたいというアシタカが、こういう現実を想定していたなんて私は思いもしませんでした……」
アンリが悔しそうに唇を噛んだ。
「そうか。でも僕もアンリさんも遅いということはない。何か手助け出来ないかシュナ姫とアシタカに相談しましょう」
セリムが告げると、アンリは小さく首を横に振った。
「アシタカとシュナ姫がヴァル殿に話さなかったのはわざとでしょう。ヴァル殿の立場は大陸全土の和平交渉の要の筈です。国一つに心を砕く余裕はありますか?」
アンリの台詞は言葉とは違って、どうして知らされなかったのか分かりますか?そういう問いかけな気がした。
「僕が若輩で未熟……」
「違います。この国の未来を憂い、変えようとしている方は大勢います。しかしヴァル殿の役目には代わりがいない。全てを救うなど誰にも出来ません。健康で生まれたとして、手足も目も耳も二つずつしかない」
不意に、大雨の中でパズーから言われた言葉を思い出した。
「本当に力がある男でも一度に沢山は守れない。手から溢れる。僕の目付もそう言っていました」
アンリがにこりと微笑んだ。それからまた悔しそうに唇を噛んだ。何故ヴァル殿が?というアンリの言葉の裏は「貴方はもう励んでいる」という意味か。
しかし、納得出来ない。セリムはこの現実に対して何も心砕いていない。行動していない。他国の内情に、踏み込み過ぎるな。それで良いのか?闇雲に他者の領域に踏み込めばそれなりの代償を払うことになる。無知は時に罪。弟子にそう教えた。学び、励めと残してきた。セリムもこういう時のために学んできた。弟子にみっともない背中を見せたくない。
「ヴァル殿がするべきことは、見知って悩んだということをまずはシュナ姫に相談することだと思います。アシタカ様ではダメです。突っぱねてきます。出過ぎた真似かと思いますが、一個人の意見として聞いていただければと思います」
「アシタカが突っぱねる?」
アンリが真っ直ぐにセリムを見据えた。アンリの目の奥に燃え盛るのは尊敬だと感じた。
「アシタカ様は荷を背負い過ぎる。今も大変だからと、ヴァル殿に与えようとしていない。一人では無理なのに突き進む我らが至宝を、どうかシュナ姫と共に支えて欲しいです。シュナ姫は背負い過ぎるが、助けて欲しいと声に出せる方。しかし既に大きな荷を持つヴァル殿には遠慮しています。きっとそうです」
信頼の熱視線。アンリの黒い真珠のような瞳がセリムを貫く。アンリが護衛人の間で
「私は護衛人長官。ヴァル殿のような方を護るのが私の仕事です。護るとは命だけではありません。人を支える者こそ支えられなければならない。一度は逃げた身です。私では至らないとは思いますが、何でも頼って下さい。私も自分なりに励みます。フォン!貴方も肝に銘じなさい!手本になる方を見定め、そして部下に背中を見せる。貴方はまもなく長官です!議会に入るという自覚を持つように!」
突然叱責されたフォンが、目を大きく見開いた。
「あの……まもなく長官とは?」
「何を呆けた顔をしているの⁈バグダとタルエの大馬鹿野郎が除籍となって不在の長官の穴。それを埋めようという気概はないのかしら?アシタカ様が今最も信頼している方の護衛官はその期待に応えないの?」
優しく微笑むとアンリがフォンの背中をポンポンと叩いた。フォンが気合い十分というように凛々しい顔立ちになった。
「本当にアンリ長官は人
フォンが何でもない、そういう風に笑った。親を尊敬できないということは、まだ親の有り難みを知らないのかもしれない。
「フォンさん。ヘンリーさんとアリアドネさんという方から学びましょう!それに僕の父上もとても良い見本になると思います。兄も姉もとても立派です」
パズーが言いたいことはきっとこういうことだ。父ジークがセリムを育ててくれたように、人を育てる。当たり前のことなのに、いつも学びたいばかりで思い至っていなかった。リノを弟子にするのも他者からの後押しがあってだった。フォンに親の有り難さをいつか知って欲しい。
これだけ大きな国に、神経注いで疲れているグスタフ王でも手が届いていない。崖の国の王族もそれぞれ役目を分けている。一人では限界がある。
「ありがとうございますフォン副長官。しかし私は親不孝です。この歳まで独り身な上に、二度と祖国には帰らないかもしれない。無事に帰国すれば、貴方も崖の国へ招いてもらえるようですね。とても素敵で多くを学べる国でした」
少し寂しそうに笑ってからアンリがまたフォンに微笑んだ。やはりクイと雰囲気が似ている。厳しいがとても懐深くて優しい。まだ知り合って間もないのに、ラステルが懐く理由が良く分かった。
「フォンさん、是非。僕は落ち着いた酒が好きだと知りました。帰国して宴になると大騒ぎなので来賓対応という逃げ口が必要です。アンリさんも今度は踊るより、それでお願いします」
真っ赤になったアンリがはにかんだ。
「ダンが触れ回ってましたよ。アンリ長官の女らしい姿。俺も見てみたい」
「あのような大歓迎。一度きりで十分な身分です」
恥ずかしそうに手を顔の前で振ったアンリに、セリムは首を傾げた。ティダと崖の国で祝言ではなかったか?
アンリがパッと雰囲気を変えた。凛々しく涼しい顔でドメキア城を見つめる。
「ヴァル殿。戻りますか?」
問われてセリムは自然と首を横に振っていた。何もせずに帰るわけにはいかない。不審者が物見見物にきた、そう残したくない。セリムはその場にしゃがみ込んだ。それから建物の影からセリムを眺めている子供達を手招きした。
「僕はヴァナルガンド。ドメキア王国の民よ、そして子供達よ、どうか愚かにも何も知らない僕に教えて欲しい。この国の何が悪い?何があれば助かる?作物でも、薬でも、何でも良い。僕は他の国から来た。この国に無い何かを与えられるかもしれない」
無知は罪なり、知は空虚なり、英知持つもの英雄なり。
社会に還元される実働伴う知こそが英知。王族として誇りを抱き、誰よりも励み、英知持て。恥じで俯き足を止めてはならない。大恥でさえ飲み込んで踏み出せ。それが父ジークの教え。ここが崖の国でなくてもそれは変わらない。アンリ、フォン、
他国の政治に、勝手に踏み込むべきでないのは百も承知。ならば民と同じ目線で、より鮮やかな未来を模索する。それさえ許されないなんてことはない筈だ。
「怖いかい?僕も怖い。だから僕は武器を持っている。まだ知らぬ国は怖い。しかし手を挙げよう。僕はそれなりに強いから、僕が歩み寄るべきだ。近くにこなくても、遠くから話してくれれば良い。どうか何も知らない僕に教えて欲しい。何があれば助かる?共に考え見つけたい」
セリムは両膝を地面につけて、両手を空高く掲げた。殺気くらい分かる。セリムから離れた所、後方の建造物の脇に伏せている
誰も何も言わない。当然か。
「僕はヴァナルガンド。異国から来た。どうか僕に教えて欲しい。何があれば助かる?今、なぜ飢えている?作物が育たないのかい?不当に搾取する者がいるのかい?何でもいい。口に出して教えてくれなければ分からない。共に悩めない。僕は君達と悩み、鮮やかな未来を探したい」
するりと自分の口から出てきたが、胸の空虚さにスポリと
蟲かもしれないラステル。とても欲しいが子は望めないかもしれない。蟲を操ると勘違いされて利用しようと狙われるかもしれないセリム。それでも二人で苦を共にし、隣合わせで生きようと固く誓った。夫婦でなくても同じだ。悲しみで心揺さぶられるこの民達へ、背中を向けたくない。他国に踏み込み過ぎるなと忠告されようと、刺し殺されようと共に生きたい。
「僕はヴァナルガンド。異国から来たんだ。天候の詠み方を知っている。寒冷地で育つ作物は知らないが、不毛な崖でも育ちやすい植物を知っている。つてがあるから、海での効率の良い漁について調べ教えられる。医者の弟子だから病があれば助けられるかもしれない」
伝えるしかない。彼等は突然現れたセリムが何者かなんて知らない。
誰も何も言わない。目も合わない。それでもセリムは視線を投げる。それしか出来ない。やれることからするしかない。
「僕はやれることは何でもしたい。伝えてくれないと、何をすれば助かるのか分からない。死にそうだからと甘んじて口を閉ざしていては君達も鮮やかな未来は掴めない」
「聡明で慈愛持つシュナ姫は、身の危険を冒して帰ってきた!苦しみや悲しみを知る方だ。だから自己保身に目もくれずに、何度も謀殺されかけた故郷へ帰ってきた!彼女は僕の友である!正しき嘆願があれば話を通そう」
胡散臭いという視線が集まっている。それがどうした。嘘偽りはない。声を上げて伝えなければ何も届かない。怒り狂う蟲でさえ、頭を牙で砕こうとしてもセリムの誠意に応えてくれた。思考回路が違う、言葉も通じぬ生き物にだって誠意は伝わった。
「シュナ姫は内乱が起これば多くの血が流れ、不幸を撒き散らすと悩んでいる!病で体が痛くても、不平一つ言っていない!成すべきことが膨大でシャルル王子は顔色が悪かった。少し臆病な方のようだが、僕を害さずに耳を傾ける勇気ある者です!グスタフ王は大陸平和の為に和平交渉の会談を行おうとしてくれています!彼等の荷物を分かち合わなければならない。どうか愚かにも何も知らない僕に教えて欲しい。何があれば助かる?何をして欲しい?僕は争いが嫌いだ!血も見たくない!」
他にセリムが知っている事は何だ?
「国をかき乱したであろうジョン王子は帰ってこれない!他国を滅ぼそうとしたからだ!牙には牙で
そもそもだ。何度も聞かれても声を上げない民。これでは国が成り立たない。不平不満を述べ、追放するぞと脅すくらいでないと豊かな者は怠ける。数で勝るのだから臆する事なく戦うべきだ。
人こそが国だ。シュナは内乱を避けたいと色々と考えているが、それと同じだ。なるだけ穏やかにと考え抜いてからが当然だが、戦うという意志は持たないとならない。
「王族の方々はそれぞれ悩んでいた!不幸を作り出したのは少なくとも彼等だけではない!君達が声を上げて、働き、知恵を与え支えるんだ!誇りを持つ権力がしかと機能すれば豊かになる!僕は手助けをする!その為に学んできた!鍛えてきた!何もしないのは大恥だ!だからどうか、何でも良いから声を出して教えて欲しい!」
大嘘付きの偽善者。何だあの基地外。子供達を近寄らせるな。そう聞こえた。右斜め前方、痩せているが活気ある瞳の男。やっと声を出す者が現れた。
「僕はヴァナルガンドです。貴方は?」
あからさまな恐怖。男がセリムから目を
「子を背中に庇える勇気ある者よ、不審者といの一番に向かい合おうとした者よ、名は?」
「……。ロナウド……」
渋々という様子で男が口を開いた。やはり怯えられている。やはり武器など持っていてはダメだと、セリムは武器を全部フォンに押し付けた。それから離れて欲しいと目で伝えた。フォンとはまだ慣れ親しんでいないせいか、伝わらなかった。
「フォンさん。僕は武器など無くても身を護る術はある。下がって欲しい」
ファンは強張った表情で敬礼して、後ろに下がった。
「ではロナウドさん。大嘘付きの偽善者とは心外です。僕はこれから行動しようとしている。知に実働伴わせます。基地外という言葉選びは良くない。僕は珍妙だと良く言われるので、基地外ではなくせめて妙にしてもらいたい。僕は子供が好きだ。子は宝、未来を作る大切な存在。近寄らせなくて構いませんが、僕はこの通り手を出しません」
ロナウドは俯いているだけだった。セリムが口で勝とうとしたからだ。腹が減り、疲れ果てていて、口がたつ不審者と立ち向かうというのは
「僕は偽善者という言葉を覆すために励みます!和平交渉が先だというが、成せるなら同時で良い筈。この国の王族は手一杯。僕も背負う!僕の視点でも情報を集め、最善策を提案する!手伝ってくれる者も探す!僕は人を見る目はある!この辺りの事はロナウドさん、君に頼みたい。明日も来るから僕にして欲しい事、今の生活に足りないものを皆で考えておいて下さい!」
ロナウドは身を護る術を持っていない。しかし彼は逃げないだろう。そういう人間に見える。セリムはロナウドに手が届かないところギリギリまで近寄って足を止めた。
「五日。僕はひとまず五日この国にいます。必要があればもっと長く留まります。まずは五日間僕を知って、僕の言動や行動が大嘘付きなのか見定めて下さい」
右手を差し出したが、案の定ロナウドは握手してくれなかった。
「明日の英気を養えるものを用意します。しかし恐らく一度きりです。楽して得たものは実にならない!僕にも力がない!一度きりだから、押しかけても二度目はない!それをゆめゆめ忘れぬように!弱くとも、愚かであってはならない!まもなく大雨が、海から恵みを与えてくれる。それで気力を取り戻してください!一度城へ帰ります!夜にまた来ます!」
誰かに石を投げた。セリムを軽く押したアンリの頭に当たった。アンリが気にしない振りをしたので、方向が分かったが無視した。余程怖かったのだろう。崖の国にこんな男が来たら、セリムは真っ先に対峙する。石は投げなくても睨むだろう。当たり前の行為だ。アンリがセリムを引っ張った。その瞬間、地面に弓矢が刺さった。
「見張られています。ヴァル殿の道が不愉快なんでしょう。この国には、富に目が眩む者が多そうですから」
「ありがとうアンリさん」
「石も弓も、今私を庇おうと動かれていたので、以後慎んで下さい。きちんと護られて下さい。私は盾です。ヴァル殿のような力が無いからこの立場に甘んじていますが、それでも誇りです。銃弾降ろうと大人しく私に護られてもらわないと困ります」
激怒の視線にセリムの背筋は凍った。人に政治を任せる代わりに、身の危険を選択した。それがアンリという軍人。誇りを折るのは許さないという大激怒。セリムは少し震えた。唾を飲み込む。
「気をつけます」
「気をつけます?」
笑顔ながらアンリの目は凶暴。クイの大叱責を思い出す。女性は成長するとこうなるものなのか?アンリの姿は未来のラステルなのか?尻に敷かれたくない。
「……いえ。肝に銘じます」
呆気なく陥落。自分を心底心配してくれる者を無下に出来ない。
「よろしい。では何処までもお伴します」
さあどうぞとアンリが腕を前に出した。
「海の蟲に魚や海藻を分けてもらえないか頼んでみます」
セリムは胸の奥で祈った。
これから押し寄せてくる雨雲に隠れて、どうか助けて欲しい。もし誰かがセリムに押しかけてきて何度もと責め立てようとも、家族の為なら刺されよう。
そうだ、これは約束ではない。誓いだ。祈りの言葉。
アシタバの森、そして大地と海の蟲へ誓う。
裏切ったら頭を噛み砕け。
我が名はセリム。崖の国レストニア前王ジークの息子にして現王の弟。セリム・レストニア。心美しき蟲達よ、死が心臓を貫こうとも真心を捧げよう。
セリム・レストニアはアモレが待ち続けてきた
もう一度、人と手を取り合って生きよう。
***
この日、歴史的大雨がドメキア王国に降り注いだ。
空から落ちてきたのは水だけではなく、魚や海藻、貝に植物。飢えと貧困に苦しむ民へ神から与えられた奇跡。
そういう伝承が残っている。
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