至宝の眠れぬ夜
書類の山に埋もれてアシタカが目を覚ましたのは、もう夜中だった。椅子に座ったまま突っ伏していたらしく体が痛い。
「うたた寝とは不覚……」
ノアグレス戦役の損害報告書が床に散乱していた。
「五日目か……。そろそろドメキア王国の領土へ到着する頃か」
グッと体を伸ばす。書類の山と誰もいない部屋を見渡すと虚しさが押し寄せてきた。一人、安全な地で何をしているのだろうか。
『相談とは何でしょうか?』
突然聞こえてきたアンリの声にアシタカは部屋を見渡した。通信機の子機か親機が何処かにある?戸棚の隠し扉の奥にはない。床下も同じ。
『ゴタゴタで遅くなったが密航の理由を聞こうと思いまして。護衛人長官、そして至宝にとって特別な方と聞いていますが、私は自分の目と鼻しか信じない性分です。選んでもいない者が勝手に船に乗ったのは、歓迎できません』
他人行儀で礼儀正しそうな口調だが、この声はティダだ。アシタカは凍りついた。今度は何を企んでいる?通信機を繋げているということは、アンリは警戒しているのだろう。
『密航とは心外です。会議にて承認は得ています。私は護衛人です。名の通り、国を護る責を担っています。亡くなれば国が傾く大技師様の警護がヤン長官のみでは役不足と判断しました。女ですから、シュナ姫及びラステル姫の護衛も寝食共に果たせます』
淡々と告げているアンリ。零時も過ぎた夜中に、船の何処で話をしている?出航から五日も過ぎている。ゴタゴタとは何があった?
『大技師就任は偽りです。ヌーフ殿は存命。ついでに君のようなひ弱な女性に護衛される男ではありません。我が正妻とラステルには私と大狼二頭、セリム王子、そして第四軍の精鋭が警護に当たる。よって君はこの船に必要がない』
通信機は何処だ?アシタカは寝台の下を覗いたが見当たらなかった。
『あの会見が偽り?どういうことです?』
アシタカは思わず枕を床に投げつけた。勝手に大きな秘密を漏らすとはどういうことだ。信用すると決めたが、何を考えているのか全く分からない。
『あの会見で、大技師が死ぬと国が滅びると証明されました。ヌーフ殿も策士だ。蟲の王と結託して、ペジテ大工房を変えようとしている。息子に座を明け渡し、私も見かけ上庇護下に置かれた。この秘密と、国民に大技師不在と知られれば暴動が起きるかもしれません』
沈黙が流れた。動悸が酷い。アシタカは部屋中を引っ掻き回した。これだけ声がハッキリ聞こえるのに、アンリが何処に通信機を隠しているのか見つけられない。
『待ってください。蟲の王と結託?アシタカはそれを知っているのですか?何のためにそんな大掛かりなっ!私は何のために……』
『毒蜘蛛だ。離れろ!』
次の瞬間、アンリの小さな悲鳴とドサリという音が部屋に響いた。
「ティダ・ベルセルグ!貴様何をするつもりだ!」
深夜だというのも忘れてアシタカは叫んでいた。
『よお、アシタカ遅かったな。少し寝てもらっただけだ。駄目だなこの女は』
「どういうつもりだ⁉︎何をしている!」
ふと見れば、通信機は天井に張り付いていた。机の書類を床に投げ捨てて、アシタカは机に乗ると通信機を剥がした。
『どう思う?』
「質問を質問で返すな!」
ティダの高笑いが部屋中に響き渡った。
『なら、あばよ。俺は別にお前と話す義務はねえ』
遠すぎる距離でアシタカには拒否権が無い。アシタカは深呼吸した。
「待て!分かった……このままでいてくれ」
目的は何かと問われて、皆目見当がつかなかった。
『酷え男だな。理由もなく怒るとは。それに毒蜘蛛からアンリさんを庇おうとした男に怒声とは、俺は悲しいよアシタカ。結局お前は俺を全く信用していないということだろう?』
一瞬言葉を失った。指摘通りだ。ティダの目的が想像出来ていないのに、不信が先行していた。
「理由もなく?深夜に女性と話し、何やら不安な物音がした。今さっき寝てもらったと言ったな⁉︎何をした!」
『あまりの扱いをされると、俺にも我慢の限界というものがある。大技師の看板とこの船を手に入れるのが目的だった訳ではない。むしろ偶然手に入れただけだ。なのにあんまりだな。まあいい。この女は密航の罪で鮫の餌にする』
雰囲気的に通信を切られそうでアシタカは即座に叫んだ。
「密航ではない。議会の許可は得ていたし、護衛人としての責任を果たそうとしただけだ。本人が告げていていただろう」
セリム達の送迎で崖の国へ行き、何かを感じたのは想像に容易い。昔から正義感が強く、護衛人に誇りを抱いている。長官に選ばれ、よりそれが強くなっているようだった。
『お前は知らなかったようだから密航だ。俺の許可が無くて許されるとしたら、ヴァナルガンドかお前が選別した者のみ。お前とこの女がどんな関係か知らんが、これしきの動揺で不用意に"アシタカ"と口を滑らした。不信感を抱き、自身の信念も揺らぐ。俺の大事な女達を守らせるには、なってなさ過ぎる。俺の警護など論外だ』
『五日も経過して何を言っているんだ⁉︎』
『ヴァナルガンドがヘソを曲げ、面倒だった。それに蟲に襲撃されて、不覚にも腕を切り落とされた。まあ、忙しかったんだ』
『何だって⁉︎腕⁉︎大丈夫なの……』
ブツブツと通信が乱れる音がした。ティダの名を何度も繰り返してみたが返事はない。しかし通信接続は切れていなさそうだ。機械に造詣があり、細工したのか?そもそも通信機の存在をどうして知っている?偽りの庭の別宅に誰が通信機を用意した?混乱で勘違いしたが、絶対にアンリではない。彼女はこの庭には入れない。無理だ。
ゴンゴンと強いノック音が聞こえてきた。
『開けろティダ!開けなくても入るからな!』
険しい声はシュナだ。透き通った声に焦りが滲んでいる。
『淑女がこんな夜更けに男の部屋を訪ねるものではない』
『何を今更!好き放題だったのはお前の方だったろう⁉︎ふざけているのか⁉︎アンリ殿をどうした?それに私達の部屋から私物を盗ませたな?』
『流石に目ざといな。私物ね……シュナ、お前こそ三つ子姫と何を企んでいた』
ガチャガチャという音が響く。ティダがアンリといるのは何処かの部屋で、鍵が掛けられているのだろう。
『彼女達は心配してくれただけだ。しかし遠い地にいるアシタカ殿に余計な心配を掛けるなど論外。使わずにしまっておく方が良いと判断した。アンリ殿を返せ。女を道具にするのは許さん!』
ああ、三つ子の妹達かとアシタカは腑に落ちた。妹なのに過保護過ぎるのは前から知っていたが、また余計な真似をしていたのか。
『女も男も関係ない。この世の全ては俺の掌の上だ』
ティダはこんなに穏やかな声を出す男だっただろうか。アシタカはソファに腰掛けて、通信機を両手で握った。
『黙れ!こんな回りくどいやり方をしなくても良い男なのに臆病者め!兎に角アンリ殿は返せ』
シュナの発言はどう意味だろうか。アシタカは唸った。
『そんなに気に入ったのか?それともラステルと親しげだからか?』
答えは知っている。そういうような言い方だった。
『そうだ。信じることは難しい。それでも先に心を開きなさい。憎しみで殺すよりも、許して刺されろ。どちらも友の言葉だ。私はそれに従う。毒蛇の姫は消えた。選んだのもその道。死なば諸共、
キイッと軋む音がした。
『へえ、誓いを破らせようという訳か。しかし勝手に消すな。時が熟すまではお前の地位は消せない。俺に無理やり誓いを破らせようとは、殺されても文句は言えねえぞ』
殺すという単語には似合わない、優しそうな声にアシタカは唾を飲んだ。
『望み通り頂点に登る。願い通り矜持に溢れた権力者になろう。目的はそっちだろう?必要な間は立場もそのままにしてやる。だからこれ以上は何もしないでくれ。アンリ殿は私に同情し、国の誇りだと大技師やラステルの警護を望んだ。彼女を不用意に傷つけないで欲しい』
『あのなあ、賢いならもう少し分かっているのだろう?傷つけるな、ね。別に取って食おうなど……』
『ティダ、貴方は自分で考えているよりも、隠せていない!嫌われ憎まれ役に徹していると思っているなら大間違いだ。でなければ私は気を許さなかった。頼むから、これ以上私に何もするな。踏み込ませてくれないのは承知している。だから私も望まない。頼まれたように"気の迷いと勘違い"と忘れる。代わりにもう何もしないでくれ。特にアンリ殿は利用してはいけない女性だ』
ティダの言葉を遮ったのは悲しそうな、震え声だった。
『アンリ殿、アンリ殿、起きろ。……っ離せ!好きに生きろと言っただろう。私にはラステルが出来た。それで十分だ。あの娘とは死ぬまで語り合えよう。新たな関係も連れてきてくれる』
『賢い愛娘は手がかかる。そこまで素直に聞き入れなくても良いのだがな。ラステルの爪の垢でも飲んで少しは阿呆になれ。この女へのお前の評価は胸に留めておく』
愛娘?どういうことだ?
『離せ!その顔も止めろ!何もかも分かった顔をしているが、何も分かっていない。思い上がるな!胸に留める?痛い目を見るのはお前の方だからな』
『
互いにどんな表情をしているのだろうか。口笛が響いた。トトン、トトンという何かが駆ける音。大狼だろう。
『スコール、シュナをラステルの所に止めおけ。泣くなよ。ラステルに聞いてもらえ。好きに生きろとは言ったが、甘んじろとは言っていない』
『甘んじる?価値観を押し付けるな。今日のように、友と酒のつまみを作り魚を
バタンとと大きな音が立った。扉が閉められたのだろう。
『あんな顔をして俺を要らないとはよく言う……。もう少し自信を持っても良いのにな……。まあ俺は助かったのか。あんな激しい女に本気になられたら逃げるのに一苦労。見る目はないし、見誤るし俺もまだまだ足りんな。またヴィトニルに叱られる』
大きな溜め息が漏れた。無防備な、それも自らを卑下する発言にアシタカは目を丸めた。通信機が接続されているのを気がついていない?明日、三つ子を問い詰めないと分からないが電源を切ると盗聴に切り替わるように細工してあるのかもしれない。
『おい、起きろ』
『これはどういうことで……大丈夫ですか?』
怒声がすぐさま気遣うような声色に変わった。
『酔い過ぎたか。何でもない。シュナに免じて密航も不甲斐なさも、何もかも許す。我が宝の女達を守り、盾になれ。万が一、傷でもつけたら
こんな弱々しい声を出す男だったのか。アシタカは頭を掻いた。何故このような態度を素直に見せない。誤解されることが分からない男でもあるまいに。
『シュナ姫?私が気絶している間に彼女と何か話をされたんですか?何でもないなんて顔ではありません』
アンリの小さな悲鳴。今度は恐怖ではなく驚きと戸惑いのものだった。
『俺を気遣うなら覚悟が必要だ。生涯かけて俺に尽くすか?見返りもない砂漠だ。酔いが回っているな。一人にしてくれ……』
『何の話か分かりませんが……。生涯かけて尽くしたいと思えるなら、見返りは勝手に見つけられます。それに砂漠には命は育まれて、オアシスもあると言いますよ』
ガサガサと雑音が混じる。どういう状況なんだ?
『お前程度でそれか……。シュナを見誤る筈だ。おいアンリ、密航の本当の理由はアシタカの気を引く為だろう?俺はそういうのが大嫌いだ。シュナが庇わなければ海に放り投げていたところだ』
『アシタカ様……アシタカの?まさか。私は彼をとっくに見限った。確かに
わざわざアシタカの名前を言い直したのは、アンリのティダへの誠意だろう。
『へえ。どういうことだ』
『志も理想も立派。しかし周りを省みない。一人で励んでいると言わんばかりのふてぶてしさ。一人では生きれないということを分かっていない。分かってくれなかった。だから望み通り一人にしました。アシタカならいつか理解して、その時に隣にいる者とより良い関係を築けるでしょう。現にセリム様や貴方という頼る相手を見つけ、変わってきています』
突然家を出て行って「付き合いきれない」と言い放ったのはアンリだ。もう何年前の話だ?五年は経つのか。こんな風に想われていたとは知らなかった。
『俺の目は腐りきってるな。アンリ、お前も見誤った。シュナはさすが陰謀渦巻く毒蛇に生まれた大鷲というところか。確かに言われた通り、危うくシュナの二の舞にするところだった。アンリ、無礼を許せ。俺は人を見る目が足りない。シュナとラステルの警護も程々にしろ。無事に祖国に帰ると強く決意して忘れるな』
『二の舞?私は護衛人、軍人です。覚悟はしています。密航は心外ですが、崖の国でセリム様とラステルを護らねばと感じたまで。それにラステルからシュナ姫のことも聞きました。貴方のことも。乱暴で横柄で高飛車で何でも思い通りになると思っていて……』
ティダの高笑いが響き渡った。
『何かされると分かっていてついてきたのか。良い度胸だ』
『いえ、それなのに相手の為にもなるようにしか出来ないと聞きました。優しさと思いやりを隠せない方だと。ペジテ大工房の護衛人が祖国の代わりに護るのは、そのような方々でないと相応しくない。私は一生帰らなくても構わないと覚悟をしました』
また大きな溜め息が響いた。
『参ったな。思惑通りに俺がお前に大したことはしなかったという顔をして。お前が死ねばラステルもシュナも悲しむ。人一人が死ぬと時に人生が大きく変る者もいる。俺の手も背中も、もう手一杯だ。どいつもこいつも守るべき女とは困ったな……』
こんなに弱々しい発言をするとは、アシタカは耳を疑った。
『心配ご無用。私の位置は貴方の隣です。力不足かと思いますが庇わなくて結構。庇う側です。軍人といえど、生死がかかる戦に出るのはこれが初めて。理解していないことの方が多いでしょう。しかし私は誇りを抱いて戦います。その背を受けた者は嘆き悲しんでもきっと前を向いて歩いていける。生きていれば必ず幸福が訪れる。私が護りたいと思える方々ならば、必ず幸せの方から訪れてきますよ』
しばらく沈黙が続いた。アンリがこのような考えをする女性だと知らなかった。
『ティダ皇子?』
『酒を飲み過ぎた……俺を気遣うな……』
あまりにも弱くて儚い声、微かに震えて聞こえるのは気のせいだろうか。
『生涯かけて尽くすなら良いのですよね。大狼は誓いを必ず守る。会見で、我が国の人柱となるという宣言を聞いていました。大技師の座が偽りでも、私達の国を背負ってくれた。ならば護衛人長官は嫌がられても生涯離れません。何なりとお申し付け下さい』
『何なりとね』
バシンッという何かを叩く音が鳴った。音の種類的にティダがぶたれたのだろう。
『勿論、人道外れれば声を上げて止めます。貴方は人を無下に出来ないけれど、それを見せたくないようで過剰を演出するようですから。出航前の行いで何となく分かりましたよ。今、わざとぶたれたようですが試されるのは気分が悪い。無抵抗な者をぶちたくは無かったが、試したことへの罰です』
『よくもまあ、ここまで人の触れられたくないところにズカズカと入ってくるな。次から次へと、それもシュナより上が出てくるとはソアレの怨念か?いや種類が違うだけで上も下もないか。アンリ、我が永遠の太陽と
君?なんて切なそうな声なのだろうか。「きゃっ」とアンリの声がして、その後しばらくしてからゴンゴン、ガンガンと通信機から大きな音が漏れた。
『盗聴器?こんなに堂々と置いてあるとは違います?しかしこの型は……』
『盗聴?三つ子姫からシュナへの通信機だ』
『いや、動いていますよ』
『は?アシタカ!てめえ黙って聞いていやがったな!』
とてつもない怒声で耳が痛くなった。そんなこと言われても、アシタカが盗聴モードにした訳ではない。そもそも通信機を仕掛けたのはアシタカじゃない。
『ここ、電源と見せかけて機能変更のようです。アシタカは何も知らない。あー、もしもし?アシタカ?そうだろう?』
ブチンッと音が鳴ったのでアンリが切り替えをしたと悟った。
「その通りだ。僕は何も……」
『酒を断った時のように破壊すれば良かっただろう!この卑怯者が!』
「何だと!そもそも聞かれて困る話などしていなかっただろう⁉︎」
『あ"あ"ん?酒を断る男に話したいような内容じゃねえ!そもそも信用するか疑うのかハッキリしやがれ!揺ら揺らと男らしくねえ!』
『何故素直に謝らない。アシタカは昔からそうだ。不快な思いをさせたのだからまずは謝るべきだ。しかしティダ皇子、貴方も恥ずかしかったからと罵倒は感心しない』
ティダが黙り込んだ。アシタカも声が喉に突っかかった。正論にグウの音も出ない。
『アンリ、君に名を与えたい。グレイプニル。ただ、俺はこの名を呼ばない。我が友に認められたらその真の意味を知るだろう。大鷲への責任を取るためにも、因縁因果だと諦めさせないとならない。生涯かけて尽くす?ならば俺に人生賭けて踏みにじられる覚悟を決めろ。それならばラステルの横に並べる。全身全霊で守ろう。俺を庇ったら共に死ぬからな。巡り巡る?我が太陽はなんていう酷い女だ……』
『どうして泣いて……。ティダ皇子?どうして……。分かりました。二言はありません。愛する祖国を背負った貴方に、生涯何があろうと何をされようと尽くしましょう。信じるべき方です。グレイプニルの名を喜んでいただきます。この私に尽くされも構わないと誓いますか?大狼ティダ皇子』
『ペジテ大工房護衛人長官にしてグレイプニル。我が名は大狼の帝フェンリス。偽りではない、本物の誓いを立てよう。隣に置いて誰よりも誉れ高く、見事な景色を見せる。代わりに平穏も安寧もない、屍の上。砂漠どころか地獄で暮らすことになる。この世で最も不幸な女となるだろう。しかし生涯隣に置いて命だけは守る、逃げても許そう。裏切りも許す。何もかも全て許そう』
くぐごもったアンリの声がして、ガシャンという音と共に通信機は静かになった。
グレイプニル、確か古き言葉で足枷。
アシタカはぞわぞわと全身の身の毛がよだった。まだろくに話をしていなさそうなアンリがティダの懐に一瞬で入った。それも相当深い所。
--信じることは難しい。それでも先に心を開きなさい
シュナの台詞は父ヌーフの口癖。シュナは三つ子の妹から聞いたのだろう。父の言葉は理想論。そう思っていた。今の今までは。
ティダが通信機を破壊するのが遅かったのは、嫉妬させようとか、そんなことではないはずだ。彼は、理由は定かではないが相当取り乱している。アシタカの存在を忘れる程に心を揺さぶられ、誓いまで立てた。アンリが真っ直ぐに信頼を示したから。
静まり返る部屋を見渡しても、誰も居ない。かつて、どんなに忙しくても食事を用意してくれていたアンリの姿がぼうっと浮かんだ。一年少しの期間で、料理を共に口にしたのは何度だったか。おまけに書類や本に夢中で会話をした記憶もない。あれからまるで成長していない。
セリムの妻には距離を置かれ、何度も先に信頼を示してもらったティダを突き放した結果と、かつてアンリを失ったのは結局は同じ理由だ。次に会った時、ティダはアシタカになど目もくれないかもしれない。これより先、ペジテ大工房を背負う理由をアンリにするという予感がした。
無性に誰かと話をして、いや聞いて欲しかった。しかし誰も居ない。
--私は毒蛇をやめます。ですからもう一度初めから
不意に優雅な手つきでティーカップに口をつけたシュナの鈴の音のような声が脳裏によぎった。震える指だった。ティダへの言葉の数々、彼女は必死に変わろうとしている。三つ子の妹の言葉を信じて。彼女を引っ張り出して祭り上げようとしているのはティダだ。
また間違うところだった。
ティダは何があろうとアシタカを見捨てない。一度信じた相手だからとことん、どんな手を使っても捨てないだろう。そういう男のはずだ。セリムが信じ、シュナが心を許して変わろうとし、ヌーフが庇護した男。そして今アンリが敬意を示し、ティダが何か変わろうとしているのを聞いた。
何が"この世で最も不幸な女となるだろう"だ。全力でこの世で最も幸福にしようとするに違いない。そう信じないとならない。
「僕を覇王に相応しくさせようなどという
独り言は虚しかったが、不思議と胸の奥は冷たくなかった。誰も居ないが、もう一人ではない。離れていても繋がるものがアシタカを高揚させる。
これから先の出来事に、遠く離れた友達への心配、そして気持ちが昂ぶりすぎて一睡も出来ずに仕事をこなした。
しかし朝になると自然と穏やかな気持ちになった。激動の大嵐の暴風が過ぎ去ると、美しき景色が見られる。崖の国に逆突風が吹き荒れて、猛毒の胞子が襲ってきた後の鮮やかな空。そしてノアグレス平野に煌めいた七色の親愛。それを信じようと固く誓い、アシタカは目を閉じた。
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