月見酒の男達

 出航から五日目の晩、甲板の船べり。


***


 爪のような細い月。雲は多く風は乱流。セリムはぼんやりと月を眺めた。


「僕は熱、君は左腕を負傷。明日の朝には作戦決行だというのに前途多難だな」


 内側に大量の綿が付けられたコートで、まるで寒さを感じない。胡座をかいた足の上に乗せられた王狼ヴィトニルの尻尾。むしろ暑いくらいだ。


「負傷?馬鹿言え。もう動く。切り落とされたのに元通り。幸先良いじゃねえか」


 ティダが左手を握ったり開いたりを繰り返した。しかし動きがかなり鈍い。覚束おぼつかない手で器に酒を注ぐと、セリムへと差し出した。朱色の平たい器で酒を飲むというのは、知らぬ風習。しかし今は胸が踊らない。セリムは黙って受け取り、器の酒に映る三日月を見つめた。


「怖気づいたのか青二才。見ろ、また不敗。それどころか蟲さえ身の内に入れた。この俺が背負ってやるから、好きに生きろ」


 自信みなぎるというより、何処と無く寂しそうに見えた。そこにはあえて触れないことにする。


「君の自信はどこから来るんだ?それに勝手にラステルと誓いを立てただろう。理由はなんだ?」


 高熱で寝込んでいる間に、セリムの預かり知らぬところで妻が他の男と大切な約束を交した。はっきり言って面白くない。なのにティダが何故か不愉快そうに顔をしかめ、それから酒をグイッと飲んだ。


「昔、大狼なのを忘れるなと激しく叱責された。あんな屈辱、二度と御免だ。それが理由。軽率なラステルを黙らせ、死なせてはならん、そうしないと同じ事が起こると思った。初対面から続く、ラステルへの嫌悪感の真の正体が分かったんだ」


 大きな酒瓶を傾けたので、セリムは腕を伸ばして奪った。共に飲もうというのなら、手酌はさせられない。ティダの器に透明な酒を注いだ。


「嫌悪感?ラステルは僕の誇りオルゴーだ。背を蹴ったというし……」


 突然ティダが器の酒をかけてきた。咄嗟に膝の上の王狼ヴィトニルの尾で拭きそうになり、尻尾で胸を叩かれた。


「何をするんだ!」


 ティダが鼻を鳴らし、王狼ヴィトニルが軽く鼻息を吐いた。


「初対面で俺はお前を敵にしてはならないと感じた。俺の本能が一瞬で認めた男。なのにその妻はに同情して俺に飛びかかってきた基地外。こんな女に頭を下げるのは屈辱だが、認めた男の妻だから頭を下げるしかない。最悪な女。俺はそう思った」


 セリムに酒をかけたせいで空になったのに、ティダが酒を注げというように左手で器を差し出した。セリムは無視した。こいつこそ最悪な男じゃないか。しかしそうではないことをセリムは知っている。どうして相応しい態度を伴わせないのか不思議でならない。


「誇り高き夫を汚さぬ為に殴らん。思い出せばラステルはそう言った。今なら分かる。蟲の憎悪は人の比ではない。なのにお前の為に抑え律した。夫が殺されれば、見事な程可憐に笑って、お前の誇りを背負うと言いのけた」


 ティダは左腕をセリムに差し出し続けている。


「僕の誇り?」


「生きるもの全てを愛でた偉大な王子。憎しみで殺すよりも許して刺されろ。死んだお前の意思は自分が継ぐと俺に協力しろと嘆願してきた」


 ラステルの気高さに胸が詰まった。ティダに酒を注いでも良いかと思ったら、ティダにいきなり足を叩かれた。


「殴るな!口で言え!」


「その顔、てめえが阿呆過ぎるからだ。素晴らしい妻だ?ほうける話じゃねえ。小娘がお前の生き様背負える訳ねえだろ」


 そんなことはないと言おうとしたらまた足を叩かれた。


「だから口で言え!」


「非力で警戒心のない無邪気な小娘だ。お前の庇護下で輝けても、一人で背負える訳がねえ。お前が俺を信頼するからと、自らの秘密をペラペラ喋った。俺に裏切られても許して刺されるそうだ。誰かに人殺しの道具にされそうになったらさっさと死を選ぶと言い放つ。お前の誇りは絶対にけがさないだってよ」


 ティダの発言にセリムは固まった。クイからの忠告にも繋がる。


「自分の女が己の矜持のせいで死を選ぶ。これ程屈辱的なことはねえ。ラステルの空っぽ頭にはセリムの力になりたい、邪魔するくらいなら死のう。それしかねぇぞ」


「姉上に、ラステルは僕の為にと励む娘だから気をつけなさいと注意されている……」


「何だ、自覚してるのか。それにしては何の対策もしねえな」


 ティダが無言で酒瓶をセリムから奪って、手酌で自らの器に酒を注いだ。荒々しい男なのに、手酌なのに、無駄のない優雅な動作に仕草。クワトロが絵画として切り取れるような所作で酒を飲む姿と重なった。言動に気をつければ良いのにと、セリムは益々ティダの傍若無人さをいつか諌めようと決意した。


「ドメキア王国ではそれなりの姿を見せてやろう。ベルセルグ皇国の犬皇子。その名は伊達じゃねえぜ」


 セリムの考えなど見透かしている、そういうかのようにティダが含み笑いした。


「……ラステルは自信がないと。自分を化物と思い込んでいると姉上は評した。僕の目にはそんな風に映らないのだが……。僕がラステルを褒め、信じるから奮い立つ。無自覚に励むと。だから僕が一番ラステルを傷つけるとまで言われた。君までこんな話をするということは実際そうなんだろうな……」


 セリムは手に持っていた器の酒を口にしてみた。かなり度が強く、喉がかなり熱く感じたし後味も苦味が残るが爽やかで美味い。不思議な匂いで初めての酒だ。葡萄酒ぶどうしゅの赤よりは白に似ている気がする。


「へえ。それで?」


「こんなに真心込めて好いてくれる娘など滅多にいない。余所見をするな。崖の国の誇りを逃さないように。ラステルの為に、過保護にせず人と交流させること。特にパズーだと言われた。人を頼れとも注意された」


 今の状況はラステルに良いことなのかもしれない。他の男と誓いを立てたのは腹立たしいが、ラステルにも思うところはあるだろうし、セリムもラステルへの心配事を忠告してもらえている。


「パズーが俺は崖の国の女が好きだろうと言っていたが、その通りのようだな。良い姉ではないか。女の勘や洞察力は鋭い。俺は潔く死を選ぶ女が虫酸が走る程嫌いだ。それが男の為なら尚更。その男が偉大なら尚のこと。そういう女は天寿を全うして幸福になるべきである。なあ?ヴィトニル」


 王狼ヴィトニルが小さく三回吠えた。


 ラステルは僕の誇りオルゴー、と口にしたセリムに、ティダが酒をかけた理由が分かった。ティダがセリムの手にする器に新たに酒を注いでくれた。


「ティダ、心配ありがとう。本心だがあまりラステルを褒めないようにしようと思う。君がラステルの護衛をすると誓った理由はラステルが気高い女だからで良いのだな?しかし、僕の役目だ。僕がラステルを守……」


 またティダに酒をかけられた。近い上に、気配もないから避けられない。


「その顔を止めろ。大狼には絶対に手を出さない女が存在する。三度と言わせたら名を剥奪するぞヴァナルガンド。そう簡単に人一人守れるもんじゃねえ。ましてやお前は欲深い。何もかも背負うならいつか絶対に足元が疎かになる。若造に同じてつを踏ませてはならん。この誓いは俺の為だ」


 ゆっくり器に口をつけたティダが、ふいに口を結んで器から唇を離した。それから高笑いしはじめた。静かだったのに急に正反対の雰囲気。


 何かと思っていたら、しばらくして人の気配がした。王狼ヴィトニルの体の向こうから、ひょっこりとラステルが現れた。手に料理が乗ったお盆を持っていて、背後にはシュナと月狼スコールが立っている。


「よおラステル。丁度お前の話をしていたところだ。ヴァナルガンドにラステルと約束を交わしたと申告していたところだ」


 高笑いは話題の誤魔化しらしい。どちらかというと静かに語っていたのに、普段の尊大な態度。よくもまあすぐに態度を変えられる。ティダがお盆から茶色いものが乗った皿を取った。嗅いだことがない、食欲をそそる匂い。何という料理だろう?


「勿論守るわ。うっかりしないし、口も滑らせない。シュナ姫に賢く、思慮深くなれるように教えてもらうの」


 セリムにはまるで眼中なし。ラステルはティダを怯えたように、それでいて堂々と見据えている。恐ろしいものに必死に立ち向かうかのように。


「聡明だな。どんな理由があったとしても大狼との誓いは絶対に破ってはならない。心臓に誓いを立てたからな」


 王狼ヴィトニルが唸って、ラステルが少し後退りした。ラステルがお盆をセリムに押し付けて、シュナの手を握って自分の方へと引っ張った。それから胸を張った。


「分かっているわ。から将棋を教わるの。子どもの遊びも楽しいけれど、本将棋よ!大国でセリムが恥をかかないように、お妃様らしい振る舞いも覚えるの。シュナ姫は魚のさばき方とか色々知るのよ」


 ラステルの隣でシュナが肩を竦めた。無下には出来ないが面倒だと顔に描いてある。しかし何処と無く嬉しそうにも見える。


 ティダがお盆の上から二本の棒を取って器用に握った。棒で挟んで料理を口に運ぶのが珍しくて、セリムはついジッと観察した。ティダが面倒臭そうにため息を吐いたので、視線を逸らした。食事を観察するのは無礼なので正直に謝ろうとしたが、ラステルが口を開く方が早かった。


「おおはって言うのよ。シュナ姫は何でも知っているの。セリムも物知りだけど、もっとよ!私もうんと沢山本を読むわ」


はし、な。それにしてもこの魚の角煮は美味い。無理は望まず長所を伸ばせ。この角煮、まだあるなら持ってこい。あとヴィトニルには素のままの丸焼きな」


 ティダが皿を床に置いて、空いた手をひらひらさせた。


「無理?長所?」


「地頭は変えられん。しかしこれは皇居の料理にも劣らん。是非我が正妻に教えてやってくれ。このような手料理を毎日食べれるヴァナルガンドは三国一、いや大陸一の果報者となろう」


 優しく穏やかに微笑んだティダにセリムは目を丸めた。


「ありがとう!シッダルダさんに教えてもらって、パクさんに手伝ってもらったの。アンリも手伝ってくれているわ。他の物も用意しているから持ってくる」


 ラステルがシュナの手を引いて鼻歌混じりに去っていく。後ろにピタリと月狼スコールがついていった。ティダが呆れたような表情で大袈裟に肩を揺らした。


「他愛なさ過ぎる。豚もおだてりゃ木に登るってな。本当にペラペラとお喋りな口だ。お前にあの軽率な災い口を縫い付けられたか?出来なかっただろう。俺は本気だ。誓いを破れば死ぬし、破られれば殺す。大狼の名を与えた男が、かつての俺と同じ道を選択するのは許さん」


 ティダが王狼ヴィトニルにもたれかかってセリムにしたり顔を向けた。ラステル達が去った途端に静かな雰囲気に戻っている。魚の角煮も「褒め過ぎたが美味いな」と穏やかな表情で口に運んでいた。


「かつての俺……。それは聞いてもいいのか?」


 行動理念の本幹が"大狼"なのは誰が見ても分かる。その中身はサッパリ不明だが、曲げられないものがティダにはある。酒瓶が一本空になり、ティダが二本目を手に取った。飲み過ぎではないかと思ったが、セリムはティダの手から酒瓶を奪った。ティダの器に酒を注ぐ。


「聞かれたくなければ共に酒を飲まんし、口にしない。不幸話をするつもりはないが郷愁に浸りたい時もある。ヴァナルガンド、お前は今いくつだ?」


「ん?一八だな」


 ティダが眩しそうに目を細めて微笑んだ。それからセリムの癖毛をぐしゃぐしゃと撫でた。


「そうかそうか。ヒヨコの殻が取れたばかりなのに、よくもまあこれ程背負って励んでいる。俺は同じ頃、酒と女に目が眩んで、惚れていた女に逃げられていた。更にはその女を殺す屈辱に甘んじるしかなかった」


 惚れていた女を殺した?この男が?セリムが瞬きを繰り返していると、ティダは歯を見せて満面の笑みを浮かべた。


「俺の為に、俺の命や国の平穏そして民の命と何もかもを背負って死んでいった。俺が刺し、ヴィトニルの血肉にと食わせた」


 何があったかは聞くなと目が訴えている。ティダがあまりにも屈託無く笑っているので面食らった。ラステルに手を出さないというのは本心だ。友の妻だからではなく、ティダの胸の中心には常にその女性が輝いている。


 ラステルが万が一セリムの為に死んだらこのように笑えるだろうか。生きていけるだろうか。想像すらしたくない。


「俺の矜持。俺の生きる意味。あれ程激情的な思慕は二度と得られん。彼女に相応しき人生は険しいが、俺なら成せる。残された言葉は生涯の宝。間違える俺を正して導く」


 静かに微笑む横顔はあまりにも悲しく寂しげだった。


「その誉れ高き女性の名は?」


「ソアレ。古き言葉で太陽。俺はこの世の全てを掌に乗せる。その俺を導き照らした女。その名は未来永劫語り継がせ、子々孫々に存在を刻ませる。テルムに蟲の女王、そんな者など赤子にしてやる」


 燃え上がるような決意の瞳。黒真珠のような瞳に宿る熱意。セリムは酒の器を三日月へと掲げた。ティダの周りに優しげな風が吹いて囲んでいる。風の神の祝福か賛辞。それか冥界からの思慕かもしれない。


「ソアレさんに冥福の祈りを」


 どのような女性だったのか、ティダがいつか語るとしても嘘偽りかもしれない。自分だけの女でいて欲しいから、真実は胸にしまう。セリムならばそうしたい。歴史に刻ませるのならば、素晴らしさだけを伝えて輝かせたい。


「いいか、一番の矜持を手に入れる。ヴァナルガンド、お前は好きに生きろ。背中とお前の宝石は俺が守ってやる。それが俺にとって最も誉れとなるだろう。十も下だとは思いもしなかった。お前がベルセルグに生まれてれば俺も苦労しなかっただろうな」


 ティダがまたセリムの髪をぐしゃぐしゃにした。泣きそうに瞳を潤ませているが、幸福そうな笑顔。王狼ヴィトニルがティダの体にそっと頬を寄せた。


 出航前の海岸で突然大狼の名を付けられた時、あまりにも嬉しかった。あけすけなくここまで言ってもらえるとより喜びは強い。セリムは酒をゆっくり口にした。胸が詰まる。


「巡り巡る。ソアレさんの愛は君を奮い立たせた。君はアシタカの原動力となり、僕は蟲の民となった。君の考えはそういうことだろう?僕もそう思う。真心には真心が返ってくる」


「ふむ。少し違う。そういう者を見定める。必要なところへ采配し、配置する。後は勝手に下を守るだろう。足りぬ者は育てる。そういうことだ」


 いつの間にか魚の角煮が無くなっていた。


「油断大敵。俺はお前と違って不要なもの、軽蔑するものは切り捨てるからな。憤慨して俺に突っかかってくるなら全面戦争。どちらが折れるかはその時、その内容次第。命は短し。互いに好き放題に眩しく生きよう」


 王狼ヴィトニルの首に腕を回すと、王狼ヴィトニルが小さく三度吠えた。ティダが手酌で酒を注ごうとしたので、先に酒瓶を掴んで酌をした。帰国祝いの宴で馬鹿騒ぎして飲まされた酒より、今日のような静かで意義のある酒が好きだと感じた。クワトロと二人、晩酌しておけば良かった。


「次は崖の国で一緒に飲もう。僕の兄上は酒が好きだ。君と年も同じくらい。家族は僕よりも偉大だから、君はきっと認める。崖の国を大狼の里と比較して欲しい。肩を並べられる。アシタカと三人で語り合うのも良いと思う」


 ティダが穏やかな笑みを浮かべた。酒を寄越せというように、セリムに器を差し出した。


「そうか期待はしないが楽しみにはしておこう。アシタカはなあ。潔癖ならヴァナルガンド程突き抜ければ良いが、不信に自信のなさで頂点には程遠い。短気とそれに人の扱い方がなっておらんし、課題は山積みだ」


 手酌しようとしたティダの手をセリムはそっと抑えた。それから酒をティダの器に追加した。


「アシタカのことをそんな風に考えていたのか。僕はとても素晴らしい男としか考えていなかった。言われてみれば気が短いのはいつか困るかもしれないなあ」


「長所を見つけて欠点に目をつむる。お前の悪い癖なんだろう。アシタカは権力に地位、それに期待が大き過ぎる故に気負って空回り。一先ずお前のことを利用して俺への対抗心を燃やさせる。それから同じ理由であいつの女でも揺さぶる。邪魔してもいいが、俺は納得しない限り道を修正しないからな」


 ゆっくりと少しだけ酒を飲むとティダが「ほうっ」と息を吐いた。空気が白んで消えていく。


「この世の全てを掌に乗せる、か。まるで親や兄だな。しかしアシタカの女とはアンリ長官のことか?何をするつもりなんだ」


「親か。シュナも娘と思うことにしたからそうなのかもしれないな。ヌーフ殿には敵いそうもないからアシタカの兄となろう。あの女がお前にとってのラステルと同じなのか確認する。違うなら別の使い方。アシタカにはそこらの女では役不足」


 考え込むような複雑な表情で、ティダが一気に酒を飲んだ。


「そんなことまで考えているのか。そんなの大きなお世話だろう。だいたい何でも目的通りにいくか」


「時に女は国を傾ける。歴史が証明しているだろう。女を見る目があるのか、まずは確認しなければならん。覇王の至宝、アシタカは本物になるだろう。ならば隣にもそれなりの人物が必要だ。軌道修正も反省もいくらでもする。兎に角俺は正しいと思うことをやるだけやる、それだけだ」


 ティダが器をそっと床に置いた。


「早速手を出してくるから、後はヴィトニルと飲め。次は崖の国で飲もう。死ぬな。あと庇うな。それとお節介だが、妻の尻に敷かれていろ。そうすれば、お前が特に何もしなくてもラステルは勝手に幸福となる。良かったな」


 ゆっくりと立ち上がるとティダは羨望の眼差しと共に微笑んだ。それから歩き出して遠ざかっていった。追うか迷ったが、しばらく傍観してから判断しようとセリムは動くのを止めた。


「誰にでもこういう話をすれば良いのにな……」


 セリムは手酌で酒を飲んだ。今日を境に酒を好きになれそうだ。ふいに何かが開いたと感じた。


〈フェンリスは祭り上げられ、奢り、それで失敗した。最も失いたくないものを失った。再び失うことも恐れている。だから憎まれ役しか買いたくないし、極力人に深入りもしない〉


 王狼ヴィトニルの瞳がセリムを見つめた。家族がセリムへ向ける心配と愛情と同じ強さの熱を帯びている。


「それなのに僕は大狼の名を授かった。誉れ高く、身も引き締まる。うっかり死ねないな」


〈そうだ。俺達がフェンリスを孤高にはしない。特にヴァナルガンドはこれより先、フェンリスを人里で生きさせる。機会があれば、我が妻グレイプニルや子らも崖の国へ参っても良いか?〉


 王狼ヴィトニルの尾がセリムの頭をそっと撫でた。


「何と嬉しい申し出だ!子がいるのか。僕はいずれ親になりたい。君の家族の話を聞かせてくれないか」


 セリムの発言に王狼ヴィトニルが小さく首を横に振った。


〈我ら一族の絆の中に押し入り、矜持を蹂躙じゅうりんしようとしている蜘蛛がいる。そのうちフェンリスが教えるだろう。長く繋がると悟られるから、このように語り合えん。いずれ自由に話そう。フェンリスを頼む〉


 "離れた、閉じた"と感じた。それから王狼ヴィトニルはもう話をしなかった。セリムは少しずつ酒を飲んだ。


「足りないところは誰かが補う。導けか。ティダが歩む道と僕の道は同じだと言うことか、パズー。僕はどう人を照らせばよいのか、しかと考えないとならないな……」


 波の音に、三日月の薄明かり。背中に感じる友の生きている柔らかさと温もり。酒でほんのり理性が無くなり、純粋に何がしたいか思考出来るような気がする。大きなことを成せるような錯覚。火照る頬を冷たい風が撫でるのが気持ち良い。


 有意義な酒というものを知らなかった。飲んでも呑まれるなとはこのことだろう。セリムは自問自答をして何をしたいか、するべきなのかのんびりと考えた。


 三日月に再度酒の入った器を捧げた。ソアレは古き言葉で太陽。その名を復唱して一気に酒を飲んだ。


 巡り巡る。例え死んでも真心こもった想いは消えない。気丈に立ち、突き進んでいるティダはいつかまた失ったものを取り戻す。彼女の大切な想いの結晶、大狼を名乗る男は任せて欲しいと胸の中で祈りを捧げた。


 爽やかで温かい風がセリムと王狼ヴィトニルの前を吹き抜けていった。


 

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