大狼皇子と大鷲の姫
シュナが仕方なしに隣室へ移動すると、ティダが奥のソファに踏ん反り返っていた。向かい側のソファを顎で示される。
「
座れよ、と目が訴えているが腰を下ろす気になれない。
「わざとらしい呼称は何のつもりだ?それにラステル妃は誰にでもあのような態度だ」
ティダが膝の上に腕を置いて、両手を組んだ。前のめりになってシュナに諭すような視線を送る。
「名を呼ばん相手の名を呼ぶのは馬鹿らしいだろう。ラステルは
「何だその理由は。ラステル妃がわざとらしいとは見えなかったがな。浮かれてはいるようだったが」
逃げるのも
「お前はこっちだビアー。そのぐらい察しろ。正妻よ、嫌悪には嫌悪、過剰な卑下には軽蔑、そして誠心にはそれなりの見返りがある。ラステルがお前に向ける敬愛はそれだ。随分好かれているようで良かったな」
ビアーが恐る恐るという様子でティダの隣に腰掛けた。同じ言葉が二度目。ティダがソファにもたれた。
「ったく、賢いのに手間がかかる娘だな」
シュナは耳を見張った。ティダが出港前に見せた目付きでシュナを眺めている。失われた懐かしい感情、母親の眼差しに似ている。思わず息を飲んだ。
「平和という安らぎの為に愛を誓った。大狼の誓いは絶対だ。男女の愛なんて要らんというから、子だと思うことにした。弱く聡明が故に疑心と臆病に染まった毒蛇より生まれし
軽い口調で告げるとティダはテーブルの上の木箱を手に取った。ビアーが驚いたようにティダを凝視している。
「されど、空の深さを知る。続きを知らんのか。ハイエナから生まれし犬皇子。いや犬の振りをしていた大狼皇子。親にもなったことのない男が私を娘だなど、片腹痛いわ」
嫌味に全く関心を示さず、ティダはパチリ、パチリと音を立てて将棋盤に駒を並べている。荒々しさのない、静かな姿。
このティダをシュナは見たことがあった。その後のあまりにも粗暴で横柄な態度で忘れていた。それらの態度が常にシュナ以外に向けられていたことも失念していた。
殺されるかもしれないという恐怖と
祝言の翌日、夜明け前。無防備に寝ていたティダ。刺し殺そうか悩んだシュナの思考を見透かしているのに、目を覚ましても実にのんびりとしていた。
「戦が起きる」と自らの懸念を明かし、チェスに誘ってきた。シュナを人間らしく扱うことに心が揺れ、死ぬよりは手を結んでみるかと決意した。それをすっかりと忘れていた。
「我が友ヴィトニルが人里で生きろと言うのでな、友の意見は無下には出来ん。少しは語ることにした。悪いがいざという時に見捨てることがあるかもしれん。友の愛妻より下だからな。しかし子は宝だろう。可能な限り命を繋いでやる」
ビアーが尊敬の眼差しを向けているがティダは無視して、将棋盤をシュナに示した。
「そんな顔と目をされても俺では真の至福は与えられん。懇願するならまた振りくらいはしてやりたいが、やめておこう。お前にはそれでは足りん」
すまなそうに微笑まれてシュナの顔は引きつった。そんな顔と目とは何だ。シュナは意味が分かったので俯いて将棋盤を凝視した。
「戯言を。私は足るを知る者だ。しかし誰が頭を下げるか。それに何だこの問題は。見くびるな」
十手詰かとシュナは駒をゆっくりと動かした。王手手前で手を止める。チェスで負かした腹いせなのか、無理矢理教えられたこの将棋。明け方の静かな部屋で、駒音だけが響いていたのを思い出す。一月も経過していないのに、随分昔の事のように感じる。
「間違えてねえか?その言葉は身分相応に満足することを知るって意味だ」
「この将棋、駒は奪い奪われるがまた利用出来る。それが大狼の生き様なんだろう。道が分かれ誓いが失われるまでとはいえ、この地位は私には不相応。しかし
この王はどんな女でも射止められない。勘がそう告げている。将棋には兵士のみで
考えてみれば、これ程他人に腹を立てたり嫌悪を感じたことはない。好意の裏は無関心とはよく言ったものだ。これでは益々裏切れない。まんまと罠に
「指南してやろうと言っただろう。あのぐらい愚直なら変に飾らなくても生きていける。気に入っているのは見れば分かる。女は愛嬌だ。
振り返るとお盆を手にしたラステルが入り口で固まっていた。ティダが立ち上がってお盆を奪い取った。
「戯言って口にした時には後ろにいた。気配で気づけ」
高笑いしだしたティダがティーカップをシュナの前に置いた。陶器製の器が二つ、シュナの隣とその真向かいであるティダの席前に置かれた。
「話が何も分からなかったんだろう?」
「分かったわよ。お互い尊敬し合っていて、もっと仲良くしようってことでしょう?夫婦円満ね」
ラステルがシュナの隣に腰を下ろして耳元に顔を寄せた。
「似合わないと思ったけどお似合いかもね。良かったわ」
見当違い、むしろ正反対の推測にシュナが苦笑いすると、ティダの目が「お前が鍛えろ」と訴えてきた。否定も肯定もしないうちにティダが優雅な手つきでビアーにティーカップを差し出した。
「ビアー、戦場で死なず、この席にいること、そして豚の手下に配属されなかった幸運を無駄にするな。お前らドメキア人なんざ俺は興味なかったんだ。俺が何でここにいるのか考えな 」
ビアーがカタカタと震える手でティーカップを受け取った。恐怖ではなく相当感激したらしい。何にそんなに感嘆したのか測りかねる。ビアーがテーブルにティーカップを置いてシュナに向かって胸を張った。
「我が名はビアー。戦乙女の意思を継ぎ、紅の旗を翻します。大鷲の王を隠す騎馬隊を率いる最大の名誉を賜った果報者。
カールやゼロースに似た表情にシュナは素直に笑顔を零した。ビアーは元々カールの忠臣でシュナにはさして興味がない男。以前なら掌返しか嘘だと見下していた。それでは相手も応えてくれない。
「ありがとう。苦労をかけてすまない。では我が友ラステルと夫と遊ぶのに付き合ってくれるか?」
「嫌々でなくて良かったわ。熱いうちに紅茶をどうぞビアーさん。美味しい淹れ方を教わって淹れたのよ」
ビアーが返事をする前にラステルが嬉しいと花が咲いたように笑った。可憐な大輪の花が徐々に道端の野草の花に変わる。歯を見せて屈託なく笑うラステルが、木箱から駒を出して並べはじめた。ビアーが見惚れている。
「だから本将棋じゃねえ。ったく、そそっかしくて勝手な女だな」
ティダが木箱に駒を全部入れた。ラステルが悲しそうに眉尻を下げた。
「止めるとは言ってないだろう。面倒臭い女だな。ヴァナルガンドが振り回されてるのも頷ける。説明するから覚えろ。その細い指なら一番有利だ」
箱で盤上に山にした駒を、音を立てずに人差し指だけで回収するという単純明快な将棋崩し。すっかり夢中になったラステルにせがまれて三連戦。三戦三勝して満足したかと思ったラステルが突然立ち上がった。
「こんなに勝てるなら挑戦に行くわよシュナ姫。仲良くなれるし魚を釣るのを手伝ってもらえるわ!まずはパズーとゼロースさんよ」
ティダが「ほらよっ」と将棋盤と木箱にしまった駒を手渡した。手加減していたのは見ていても丸わかりだった。
「魚?」
「ヴィトニルさんが食べるのよ。あとセリムとティダ皇子も。奥様同士、台所を借りて美味しいものを作るの。うんと沢山釣れたら
説明してくれと言う前にシュナはラステルに手を引かれて連れ出された。ちらりとティダを盗み見ると静かに、そして見たこともない程優しい笑みをたたえていた。
シュナの知らないところで、ティダの何かが変わった。
いや、本来こういう男だったのだろう。見抜ける機会はあったのに気づくのが遅過ぎた。海岸でのやり取りから変化したティダの態度、セリムに違いない。
心底残念だと感じた自分にシュナは傷ついた。世の中には知らない方が幸福ということもある。
休戦と平和、そしておそらく軍を手に入れ祖国に攻め入る為に婚姻の誓いを立てた男。地下室に閉じ込めておけば良いのにシュナをお前が王だと連れ出した。醜い女なのに優しく抱き、褒めそやし、丁重に扱い、大切にしようとしていた。自分を嘘で固めて、誓った相手の為になるなら何でもする。そういうことだ。
--大狼は誓いを決して破らねえ
--美しい声だ。会話も成り立つ。努力するには十分だ。いくつもの女を抱えるのも権力に群がる女も虫唾が走る。誓いを立てたからには従う
シュナがセリムよりも先に、セリム以上に受け入れれば本来手に入らなかったものが手に入ったかもしれない。嘘と
船長室を出た時にシュナは足を止めてラステルに繋がれた手を引っ張った。
「ごめ……」
「嫌なのではない。聞いて欲しい話があるだけだ。そなたに聞きたい話もある」
一瞬萎れた後にラステルがはにかんだ。本当に感情が手に取るように分かりやすい。
「何かしら?」
「少し部屋でゆっくりしないか。教えきれてない我が国のことがある。それから私とティダの……」
口にしたら自尊心がズタボロになりそうだ。それでもシュナは大きく息を吸った。しかし遮られた。
「蟲だわ!」
ラステルが船の進行方向のやや右側へ指を伸ばした。それから走り出しそうとした。見上げる白い横顔に普段の若草色ではなく橙色の瞳が見えてシュナはラステルに抱きついた。殆ど本能的な行動だった。ノアグレス平野でシュナ一行からラステルが去ったのと全く同じ状況で体が先に動いていた。
違うのは蟲の群れがかなり遠くにいて、まばらな黒い点だということ。それからラステルは能面のような表情では無い。
困惑で揺れる変色した瞳。悲しみで泣きそうなのに、憎々しいと言いたげな表情。
「ラステル、どうした?あの蟲は何だ?ティダ!出てこいティダ!ティダ!」
シュナを振り払おうとしたラステルの顔に子蟲が飛び付いた。ラステルと同じ色の目をしている。子蟲の三つ目が橙色が徐々に赤くなっていった。
「お前ら何をしてるんだ?」
「ラステルを抑えろ!」
船長室から現れたティダにシュナは叫んだ。即座にラステルの腕をティダが掴んだ時、ラステルが子蟲を顔から引き剥がした。腕に子蟲を抱えると、黄色が強くなったラステルの目がシュナを捉えた。
嫌。
音になっていないが、そう聞こえた気がした。
「何してるんだ子蟲君!ラステル?」
走ってきたパズーが随分手前で止まって名前を呼んだ。その瞬間、さあっとラステルの瞳がいつもの緑色に戻っていった。
「ラステルに何か文句か?急にラステルに勢い良く飛ぶから驚いた」
ポロリと泣き出したラステルが腕の中の子蟲に頬を寄せた。
「私の世話役なの。ありがとうアピ君。ティダ皇子、蟲が来るわ。何か怒ってる……」
腕を掴まれていたラステルが振り返ってティダを見上げた。ティダが腕を離してラステルを横抱きにした。屋根の上からいつの間にか
「おいパズー、セリムを運んでこい。病人に悪いが俺の手には余る」
子蟲が暴れてラステルの腕からパズーの前へ飛んだ。前脚を威嚇するようにバタバタさせている。
「パズーお願い行かないで。きっとアピ君はそう言いたいのよ」
不安そうにティダの胸元の服を掴んだラステルの瞳がまた変色しそうに揺らめいている。こんな事、人間に起る現象なのか?
シュナと目が合ったラステルが怯えたように顔を歪めた。ストンッとシュナの中で腑に落ちた。
シュナに何気なく触れるのに、時折申し訳ないという顔をし謝罪するラステルの思考。それはシュナと同じ種類の感情だ。
「私が呼んでこよう。魚を釣って共に捌かねばならん。そなただけへの大事な話もある。私が行くから待っていてくれるなラステル」
シュナは返事を待たずにくるりと背を向けた。不自由でふしぶしが痛む足を必死に動かして小走りした。
白銀の世界で耳にした化物娘というティダの侮辱の声が蘇る。
"化物に触られて嫌ではないか?"ラステルの懸念はこうだ。醜いシュナと化物娘ラステル。似合いの二人ではないか。
ラステルはノアグレス平野で蟲を操って去ったのではない。何か理由があってラステルが蟲に連れて行かれた。ラステルと蟲には特別な関係があるに違いないが、決して悪いものではないだろう。
ティダはそれを知って態度を改めたのだろう。ティダはラステルにろくに謝罪していない。護衛するというのが代わりの筈だ。
シュナの心に土足で入ってきて、嘘偽りと
元々男と添い遂げる、共に歩むなど望んだことはない。しかし、幼少より側にいたカール不在の今、一番望むのは本音を語り合える友。ティダではなく、アシタカでもセリムでもなく、同じ恐怖を抱く女同士が良い。少々間抜けだが優しく愛くるしい崖の国の妃が良い。
これから来る蟲との問題が済めば、今夜はぐっすりと眠れる。この気持ちを明け透けなく語れば、彼女は泣いてくれるかもしれない。
--信じることは難しい。それでも先に心を開きなさい
幼い三つ子から学んだ。恩には恩を仇には仇を返すよりも、まずは与えるべきだ。
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