大狼兵士と毒蛇の姫
毛布製のハンモックでシュナはうつらうつらしていた。ラステルはセリムの看病をすると張り切って部屋を飛び出し、アンリも鍛錬だと部屋を後にしている。
眠れぬ夜がずっと続いていた。これからも続く。一人になれる時間など殆ど無い。安らげるのはこの僅かなひと時のみ。
ブー、ブー、という振動音でシュナは飛び起きた。ポケットに入れていた四角い機械が震えている。
「何がこちらからは使わないだ。あの男」
ペジテ大工房で仕入れたという連絡用の機械。ボタンを押すと震える。危険になったら呼べと言われたが、死んでも使うかと思っていた。
のそのそと起きてシュナはハンモックから下りた。
「何の話だか。はぁ……」
カール不在もあって乗っ取られた第四軍。それに毒蛇の王を蹴落とすのにもティダは絶対不可欠。嫌でも関わらないとならない。もう手を出さないと言うが、気が重い。
「シュナ姫様、どちらへ?」
部屋を出るとビアーが立っていた。
「王が呼んでる」
階段をパタパタと下りてきたラステルの姿が見えた。ぶかぶかのコートを着ている。ティダのものだ。
「シュナ姫!」
怯えたような顔をして駆け寄ってきたラステルがシュナに両手を広げた。見張りのビアーは傍観している。シュナも一瞬迷ったが、短剣を抜かずに待った。ラステルがシュナに飛びついて抱き締めてきた。
「突然何だ?」
「うっかりしたり、口が滑ったら殺されちゃう。だから賢く思慮深くなれるように教えて欲しいの」
予想だにしていなかった台詞にシュナは呆然と立ち尽くした。そもそもいきなり抱きついてこられたのも驚きだ。ラステルの体が少し震えている。
「なんの話だ?」
ラステルがシュナから離れて手を取られた。
「とても大切な約束をしたの」
だから何の話だと言う前にビアーが一歩前に出た。
「殺されるとはどういう事ですか?我等がいる限り守ります故安心して下さい」
「秘密よ。絶対に秘密なの。私がしっかりすればむしろ安全。心強い言葉をありがとう、ビアーさん」
パァっとラステルの顔が明るくなった。まるで花が咲いたような笑顔にビアーが頬を赤らめる。これが
シュナは気後れしてラステルに握られていた手を離した。途端にラステルの顔が曇った。
「動転していたの。馴れ馴れしくしてごめんなさい」
あまりに萎れられてシュナは面食らった。
「いや……。呼ばれていて急いでいるだけだ」
またラステルが可憐な笑顔を見せた。
「それなら良かったわ。忙しい所を引き止めてごめんなさい」
ペコリと頭を下げて部屋に入ろうとしたラステルの手をシュナはつい掴んだ。そうしてから自分に驚いて声を失い手を離した。
「呼ばれているって嫌な事なのかしら?私が役に立てるのね」
心の底から心配しているという表情、それから気合十分というように胸を張った。シュナは苦笑し、それから意を決して言葉を選んだ。
「ああ、散歩がてら付いてきてもらえると助かる。行こう」
行き先も分かっていないのにラステルが先に歩き出した。ビアーが笑いを堪えている。
「確かに思慮深さは無いですね。何処へ行くつもりなんでしょう?」
ビアーに軽口を叩かれた事にも驚いた。顔に出さないように目元に力を入れてラステルの姿を追った。ゆっくりと歩き出す。
「そろそろ気づくだろうな」
ラステルが階段に足を乗せた時、案の定ラステルが振り向いた。
「それで、何処に呼ばれているの?」
恥ずかしそうにはにかんだラステルにシュナは自然と笑みが零れた。
***
船長室の扉をノックする時、シュナの腕を掴んでいたラステルが益々力を入れた。
「此処までで良い」
「さっき話したばかりなの。誤解されたら怒られるじゃ済まないわ。そうだわ、コートを返しに来たと言えば……」
扉が開いたのでラステルが口を閉じた。ティダがシュナとラステルを交互に眺めた。不思議そうにしているだけで、他には取り立てて何の感情も感じられない。しいて言えば面白がっているように見える。
「シュナ、お前を呼んだら怯えたラステルがしがみついているとはどういうことだ?」
どう答えるのが正解なのかと考えて口を開きかけた時、ラステルが先に声を出した。
「私はコートを返しにきただけなの。何も話をしていないわ。シュナ姫は貴方に用事でしょう?」
ラステルがシュナから腕を離し、コートを脱いだ。
「俺はお前と違って阿呆ではないから誤解などせん。顔に出ているぞ。ヴィトニルも俺より聡明だから誤解しない」
ティダがコートを受け取りながら、反対の手で上を指した。船長室の屋根に
「まあ丁度良いか。ラステル、お前も入れ」
促されてラステルが素直に先に部屋に入っていった。シュナが部屋に踏み入れると、ラステルはもうちょこんとソファに座っている。
「あんなのドメキア城に入った瞬間死ぬぜ、シュナ。何も教えてないのか?」
扉の隣の壁にに背を向けたティダがシュナを見下ろした。無表情で何を考えているか見抜けない。
「話をしようとすると身の上話を聞かれ、同情されそうになる。最低限は伝えたが響かないようだ。住んでいた世界が違い過ぎる」
静かに笑っているティダが不気味でならなかった。
「ビアー、お前も入るか?聞かれて困る話はしない」
扉の向こうで直立していたビアーが「はいっ!」と短くはっきりと返事をして入室した。ティダがさっと足を伸ばしてビアーを転ばそうとしが、ビアーはヒョイっと飛びティダを見ずに涼しい顔をした。
「ラステル、ドメキア王国というのはこういう国だ」
ティダに名前を呼ばれ、サイドテーブルの上のチェスの駒をしげしげと眺めていたラステルが「ん?」と小首を傾げた。
「今ので一度死んだな」
上半身を軽く屈めて小さくシュナに告げると、ティダがラステルを手招きした。ソファから立ち上がったラステルが、のんびりと歩いてくる。ビアーがシュナの隣に移動して、ティダがラステル側に回って横に並んだ。
「この通りなので俺とヴィトニルは崖の国の妃ラステル・レストニアの護衛となる」
挑発や計略では無いと言わんばかりに、黒曜石に似た瞳に宿る
「それがどうした。お前が何をしようが私の邪魔をしなければ好きに……」
あからさまな嫌悪がティダの顔に浮かんだ。隣で見ることはあっても、向けられるのは初めての態度。これがシュナに対する本心。
「そろそろ腹を立てたってだけだ。軽蔑していたら手を貸さん。まあ、お前は俺が役に立ちさえすればいいんだろう。俺も見返りなんざ求めてねえ」
ラステルが思いっきり顔をしかめた。
「夫婦喧嘩は良くないわ。話は順番にするものよ」
ティダはラステルを無視し、シュナに見下すような視線を向けた。
「護衛はラステルが最優先。何を置いてもだ。いざという時に秤にもかけん。万が一の時には自分で何とかして生き延びろ正妻。第四軍を今のうちにしっかりと味方にしておけ」
ラステルが異論があると言うようにティダの顔を覗き込んだ。
「そんなの駄目よ」
「何故だ?」
頬を膨らませたラステルにティダが即座に問いかけた。愉快そうに笑っている。
「だってシュナ姫はドメキア王国に大切でしょう?それに貴方の妻よ」
「ラステル、お前だって崖の国の妃だろう」
「私は嫁いだだけでお姫様ではないもの」
ティダが小さく鼻で笑って、首を横に振った。
「肩書きなど無意味。この世は生き様こそ全て也。そうだろう、正妻。肩書きが重要と言うのならラステル、お前は崖の国の王子セリムの愛妻。それにすごぶる価値がある。それだけのことだ」
ティダがまたシュナに目を向けた。一切お前には興味が無いというような空虚な瞳に、シュナはたじろいだ。ラステルはうんうん唸っている。それから「セリムが過保護だからだわ」と呟いた。ティダは面白そうに眺めている。
「まあいい。話は以上だ」
「以上だ、じゃないわ!シュナ姫は何も返事をしてないのよ。会話っていうのは受け答えよ」
眉毛を釣り上げて怒り出したラステルが腰に手を当ててティダを見上げた。
「何か俺に言いたいことはあるか?」
ラステルを面倒臭そうに見たのに、ティダはシュナに向き合った。
「こんな話で呼び出すな。好きにしろ」
「だとよラステル。さっき聞いたじゃねえか。先に話しておこうという俺なりの誠意だ」
何がどう誠意だ。そう悪態をつきたかったがふと考える。"いざという時に秤にもかけん"ということは、裏返せば万が一の際は見捨てる、そういう宣言ではないだろうか。
ラステルが不思議そうにティダとシュナを見比べて、腕を下ろした。
「一を聞いて十を知る我が正妻なら多くの言葉はいらんだろう。いつか理解するからな。で、ラステル。来たついでだ、将棋で遊んで行くか?覚えればヴァナルガンドが喜ぶだろう」
ラステルがキョトンと目を丸めた。
「将棋ってチェスに似ているあの
ソワソワとして、嬉しそうに両手を握ったラステルがティダの前で体を左右に揺らした。
「ったく似た者夫婦だな本当に。本将棋はヴァナルガンドに手取り足取り教えてもらえ。回り将棋と将棋崩しなら誰とでも数人で遊べる」
「シュナ姫、ビアーさん、忙しい?私、飲み物を用意するわ。息抜きは必要よね。それにもうすぐ遊んでなんていられなくなるもの」
この面子で遊んで楽しいだろうと予想出来る神経に共感出来ない。しかしここまで嬉しそうだと無下にもしたくない。
「飲み物なら私めが。シュナ姫様は紅茶でよろしいでしょうか?」
ビアーが軽く微笑んで会釈した。思わず小さく頷いた。
「俺の分はほうじ茶を持ってこい。積荷に入れさせたからあるはずだ」
ひらひらと手を上げながらティダが隣室へと移動し出した。
「紅茶とほうじ茶?ね。私、緑茶の淹れ方知りたいの。バム茶に似ていて美味しいもの。これでパクさんに教えてもらえるわ。すぐに戻りますからね」
言うが早いがラステルが駆け出した。タタタッと元気良く部屋を出て行く。隣室からティダのゲラゲラと笑う声が響いてきた。
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