蟲姫と大狼兵士2

 ラステルがパズーと話をしている時に、ちらりとティダが船長室へ戻るのが見えた。入り口脇に王狼ヴィトニルが立っている。側まで行くとラステルは王狼ヴィトニルの前にしゃがんだ。


「困ったわ。ヴィトニルさんは部屋に入れないのよね」


 人二人分よりも大きな幅の王狼ヴィトニルは頭部しか部屋に入れない。閉まっている扉と王狼ヴィトニルを交互に見ていると扉が開いた。ティダは右手にコート、左手に大きな鞍を持っている。


「その通りだ。檣楼しょうろうに登るぞ」


 ティダにコートを渡されたので素直に羽織った。大きすぎて重い。


「しょうろう?」


「あそこだ。一番広いところなら王狼ヴィトニルも乗れる。スペースが足りないだろうから俺は近くのヤードに座る。誰にも何も聞こえないだろう。丁度交代の時間で誰も居ない」


 指で示された上の方、ラステルは見上げた。帆を張る高い棒の上に立てる場所がある。


「景色が良さそうね。コート、ありがとう」


「何を考えているんだか。乗れ」


 王狼ヴィトニルが体を低くした。ティダが王狼ヴィトニルの背中に鞍を装着し、それからラステルの腰を持って王狼ヴィトニルの背に乗せた。それからスタスタと階段を降りて手をひらひらさせている。


「落ちたくなかったら掴まってろ」


 ティダが告げた途端、王狼ヴィトニルが動き出した。ラステルは鞍の取っ手を掴んだ。アピが頭の上に乗る。


 段差は一飛び、網は器用に登っていく。あっという間に目的地に辿り着いた。王狼ヴィトニルの体で台はいっぱいになり、ギシギシと言った。しかし割れたりはしなそうだ。


「風みたいだったわヴィトニルさん。綺麗ね、昨日の雨が嘘みたい」


 凪いだ海は何処までも広い。風が強く刺されるような寒さだが、陽の光は柔らかで温かかった。船の後方をついてくるシュナの軍の飛行船が小さく見える。


 王狼ヴィトニルが小さく頭を縦に振ってくれた。


「あらアピ君楽しいの?」


 ラステルの頭から離れたアピがふわふわと飛びはじめた。銃弾で破れた羽のせいか、たどたどしい飛行。しかし嬉しいというように上下左右縦横無尽に飛び回る。


 大陸は遠いが、ノアグレス平野の銀景色がキラキラと輝いていた。その向こうには雪が積もる険しく高くそびえる岩山。下の方は多彩な色をしている森が見える。


 ティダがもう半分以上網を登ってきている。ゆったりした動きに見えるのに速い。


「赤、緑、茶色、それに白。言葉だと同じだけど同じ色でも違うのね。沢山の色がある不思議な森。崖の国の近くの山は驚くくらい高いと思っていたけど、あの山の方がうんと高いわ。世界って広いのね」


〈山はナルガ、森はカドゥル。あれは紅葉と言う現象で森が染まっている〉


 低く落ち着いた声がした。耳で聞こえたのではなく、直接頭の中に響いてくるような感覚だった。


「ヴィトニルさん?」


〈そうだ。やはり聞けるか、ラステル・レストニア。理由があってもう閉じる。フェンリスとヴァナルガンドを頼む。俺はフェンリスにもう一度人里で生きて欲しい。フェンリス、この名は口にするな〉


「フェンリス?ティダ皇子のこと?人里で生きて欲しいってどういうこと?」


 問いかけてももう返事は無かった。名前を何度か呼んでみたが王狼ヴィトニルは目を瞑ってラステルを無視している。


「ヴィトニルさん?ヴィトニルさん?」


 さわさわと頭を撫でたら唸られた。


「何だヴィトニル、気に食わないなら振り落とせ」


 登りきったティダが横に張り出す棒に座った。こんな高さまで網を登ってきたのに息が全く切れていない。


「誤解よ。あの山や森の名前を教えてくれたの。でも、もうお話ししてくれない」


 身を乗り出して目の近くに顔を寄せた。尻尾がラステルの胴体に巻きついて戻されてしまった。


「ヴィトニルと話せたのか?」


「ええ。でも声は出てないの。不思議ね。ナルガに、えっとカ……ル?あと森が染まっているのはコヨだと教えてくれたわ」


 ティダはラステルを見ないで王狼ヴィトニルの瞳を無表情で見つめている。しばらく沈黙が流れた。ティダがゆっくりラステルを見上げた。全身から呆れを感じる。王狼ヴィトニルに対してなのか、ラステルへなのか分からなかった。


「ナルガ山脈にカドゥルの森、紅葉」


「ナルガ山脈にカドルの森、それから紅葉ね」


 顔を前に戻してティダは遠くにそびえるナルガ山脈へ視線を向けた。太陽光が眩しいのか目を細めている。


「それで俺を何に選んだ?」


 ティダからは聞いたことのない静かな声にラステルは驚いた。


「テルムよ」


 仮面を被っているようにティダの横顔には表情が無い。アピが飛ぶのをやめてラステルの頭の上に止まった。


「聖人テルムの伝承では無いんだろう?ヴァナルガンドが言う蟲の民なら願い下げだ」


 ティダがゆっくりだがラステルを見上げた。呆れでも怒りでもない、探るような視線。


「本当は分からない。覚えていないの」


 ティダが大きく溜め息を吐いた。それから立ち上がったので慌てて声を出した。


「ねえ聞いて!私ね、蟲に飲み込まれていたの。あー、説明が難しいんだけど……。貴方が化物っていうように、私とてつもなく変なの。人じゃないかもしれない。蟲かもしれない。人として生きたいから頑張るけど……。蟲はみんな繋がっているのよ。離れてる時もあるけど、ブワッって心がたった一つだけになることもある。意味分かる?」


 ティダの頬が引きつった。


「本当に頭が悪いんだな。何だその説明は。それに俺にそんな話するか?」


「私、自分でも頭が良くないみたいというのは最近ヒシヒシと感じてるわ。でもね、貴方だから話をするのよ。信じると決めたんだもの。信じて刺されても良いから話すのよ。誰でもじゃない、人は選ぶわ。出来ればもう一度座って、最後まで聞いてもらえる?」


 王狼ヴィトニルが小さく三度吠えた。ティダが頭を掻いて王狼ヴィトニルを睨んだ。


 ラステルは王狼ヴィトニルの背中から降りて、鞍を掴みながらティダが立っている棒に足を乗せた。コートが重くて上手くバランスが取れない。


 えいっと鞍から手を離すと体がグラグラと揺れた。ティダがラステルの腕を掴み、持ち上げられた。


「落ちたいなら落としてやろう」


 愉快そうなティダにラステルは笑みを返した。


「助けてくれてありがとう。こうしてくれると思ったわ。上から見下ろして話をするのが嫌だったの」


 縮こまりそうな程強く睨まれた。


「落としてやろうって言ったのに、やっぱり心配してくれるのね」


 あまりに強く睨みつけられたので声が震える。


 また王狼ヴィトニルが三度吠えた。ラステルを後押ししてくれているようだ。ティダの為に間違いない。


「夫婦揃って止めてくれ。お前のせいだヴィトニル。お前らには降参だ。なるだけ完結明瞭に筋道立てて話せ。いいか、説明というのは順番にするものだ」


 語気は強く声は低いのに、ラステルの腕を掴む手は優しい。王狼ヴィトニルが体を少しずらし、空いた場所に座らされた。ティダは先程と同じ位置に腰を下ろした。


「赤ちゃんの時に蟲に拾われました。その後、今のお父さんに預けられました。元気に育ったけど、私は何も知りませんでした。村ではおかしな娘と……」


 一つ一つ確認するように口にした。


「おい待て、止めろ。その話し方はなんだ」


 ティダの呆れているような表情に、ラステルは不機嫌になりそうだった。自分なりに一生懸命話そうとしているのに。


「簡潔にって言ったじゃない。それから順番に話そうとしてるのよ。最後まで聞いて」


「俺が聞く。答えろ」


「説明は順番にって言ったじゃない。貴方なら二言はない筈よ」

 

 ティダの口元がピクリと動いたがラステルは無視した。


「おかしい娘だからと、村の人達からあんまり仲良くしてもらえません。蟲の気持ちが何となく分かる、怒った蟲と一緒に意識が無くなるおかしい娘です。自分でも変だと思っていたけど、蟲は皆私に優しかったからそんなに気にしませんでした。返事はないけど通じ合っているから、蟲と一緒にいるのは人とより楽しかったです。いつも遊んでもらっていました」


 ティダがあからさまに溜息をついたのでラステルは視線を向けた。


「何?まだ途中よ」


「分かってる。せめてその語尾を止めろ」


 アピがラステルの頭の上から移動してティダとラステルの上を旋回し出した。


「いちいち煩いわね。人の話を遮ってはいけないってお父さんが言っていたわ」


 またティダが呆れたように息を吐いた。王狼ヴィトニルがティダに短く吠えた。


「この話はどこに行きつくんだ。蟲が好きな女と生き物なら何でも好む男。馴れ初め話でもするつもりか?テルムはどうした」


 苛々してそうなのを知らんぷりしてラステルは続けた。


「セリムは蟲のことは観察対象でも好きじゃなかった。それなのに怪我をしていたら助けてくれたの。死にそうで辛い時、人里に出てきてしまって殺されそうになったけれどセリムは味方だった。死んだら胸を痛めてくれた。嫌いなのにぞんざいには扱わない」


 痛くて苦しかった時に手を差し伸べられた時のことを思い出した。セリムに助けられた蠍蟲ソーサを見ていただけなのに、自分が助けられたような感覚だった。今ならその理由が分かる。


「お前は何を言っているのか分かっているのか?」


 ラステルと違って頭が良いし、セリム同様に本能的に違和感を感じたようだ。


「今はもう分かっているわ。私は蟲と繋がっている。蟲は意識を大なり小なり共有しているのよ。蟲に蟲と間違えられている。故郷はホルフル蟲森タリア川ほとりの村、家族はセリムとその家族、あと養父の唄子ヴァル。そしてホルフルの民大蜂蟲アピスよ。兄弟の中で一番の出来損ないで、珍しい雌雄同体ではない末蟲すえむし。だから蟲に姫と呼ばれています。理由はさっぱり分かりません。アピ君達に人もどきって言われてる」


 信じると決めて話したが怖くて堪らなかった。他の人ならばともかく、ティダは権力者で頭も勘も良い。「殺戮さつりく兵器、蟲の女王」というグルド帝国兵の言葉が胸の奥に重く沈んでいる。ティダが口を開く前にラステルは続けた。


「昔、蟲を操るプーパって言う人がいたらしいけどそれかもしれない。プーパは人じゃないかも。グルド兵が兵器って言っていたでしょ。私は何だか良く分からない存在なの。ノアグレス平野で、私は怒り狂った蟲と一緒に人なんて死ねって怒った。多分そう。セリムやパズーは私が蟲の怒りを鎮めたって言ってたけど、セリムよ。セリムが人だけじゃなくて私や兄弟、蟲を守ろうとしたからから蟲は巣へ帰っていった。セリムを全面的に信頼したの」


 途中から目を見れていなかったので、ラステルはそっと視線を戻した。ティダを信じる、セリムが褒めてくれる自分に胸を張ると決めたのだ。ティダはラステルを心配そうに見てくれていた。ラステルはホッと胸を撫で下ろした。自然と笑顔が溢れた。


「こんなにペラペラと、これでお前の秘密は殆ど全部だろう?ヴァナルガンドにも相談せずに勝手に、本物の阿呆だ」


「セリムは遅かれ早かれ貴方になら話すわ。だから先に自分で伝えようと思ったのよ。セリムは私を誇張するから。聞いてみて、私の話と随分違うと思う。ありがとう、そんな顔をしてくれて」


 ティダが目を丸めた。それからいぶかしげに眉根を寄せた。


「そんな顔?」


「お父さんや崖の国の家族と同じよ。パズーもそう。心配だって顔に描いてある。セリムが信じる人は大丈夫に決まってる。やっぱり貴方を信じるって決めたのは正しかったのね」


 ティダがこめかみを擦って顔をしかめた。


「あのなあ……」

 

「昔、うんと昔、蟲に自由を与えた人間はテルムっていうの。アシタカさんの祖先よ。蟲の父。ラステルの婿だからテルム。蟲と生きてくれる人は蟲の民でテルム。だからきっと貴方も何か理由があって親愛を寄せられたからテルムよ。蟲の名前に対する概念が違うとセリムが言ってたわ」


 ティダが思いっきりラステルを睨みつけた。


「お前は死にたいのか?俺の何を知っている?」


「私を利用して殺す?そんなのしないわ。私は貴方が大狼の群れに招いたセリムの妻よ。嫌いで苛々するのに、とても優しくしてくれる理由はそれでしょ。それだけ知ってれば十分よ。信じた人に裏切られて憎んで殺すよりも許して刺されるわ。誰かに人殺しの道具にされそうになったらさっさと死を選ぶ。私はセリムの誇りを絶対にけがさない」


 愕然がくぜんとした様子でティダが瞬きを繰り返した。それから顔を引きつらせた。何か変な事を言っただろうか。


「グルド帝国の飛行機から飛び降りた理由はそれか」


「あの人とてもおぞましい感じがした。次に会ったらちゃんと逃げられるようにならないと。簡単に死にたくないもの」


 拳を握って前に突き出した。


 王狼ヴィトニルが小さいが力強く、ティダに向かって三度吠えた。顔を上げるとティダが狼狽していた。


「俺はお前みたいな女、虫酸が走る。話を聞いて何故こんなに嫌なのかようやく分かった。先に気づいたなヴィトニル……」


 困惑しているように王狼ヴィトニルを見つめていたティダが、真剣な表情でラステルに視線を移した。セリムが時折見せる厳しく決意に満ちた目にとても似ている。


「この話、他には誰が知ってるんだ」


「全部知ってるのはセリムだけよ。私が蟲かもって話はセリムの家族とお父さん。あとセリムの先生。パズーとテト、あと乳姉妹の姉様。それから貴方と同じで蟲の声を聞けるイブン様。ヌーフ様は話してないけど多分私達の知らないことを知ってる」

 

 ふいに王狼ヴィトニルがラステルの体に頭を寄せてくれた。毛並みが柔らかくて温かい。シュナに話をしたのを思い出したがあまりに顔を歪ませたティダにこれ以上何も言えなかった。


「多いな。軽率過ぎる」


「セリムも似たようなことを言っていたわ。私は私が信じられると思った人にしか話してないのに。それでね、この話をしたのはセリムの事をね……」


 突然ティダが高笑いをはじめたのでラステルは言葉を失った。ティダがいきなり立ち上がってラステルを持ち上げる。王狼ヴィトニルの背に乗せられた。


 黄金の太陽を背にした、一度も見たことがない優しく労わるような笑顔に面食らった。


「素晴らしき矜持だがあまりに許せん。互いに誓いを立てようラステル・レストニア」


 王狼ヴィトニルが大きく、力強く三度吠えた。ティダがヤードに三度足を強く踏んで音を立てた。


「どういうこと?誓い?まだ話の途中よ」


「何の話かはよく分かった。後は本人と話をする。心配するな。これでも腹を括ったからな」


 ティダが屈託無く微笑んだのに目を見張った。ラステルは何の話か分からない。


「これより先、王たる大狼にこの帝狼フェンリスが直々にお前の護衛をし、命を賭そう。代わりにお前の秘密は今後一切誰にも口にするな。どんなに信用していてもだ。今話している相手にもこれ以上の情報をやるな。それからヴァナルガンドの事は俺に全任しろ。お前の望み通りになるだろう。俺とヴィトニルに誓うか、ラステル・レストニア」


 ラステルはポカンと口を開けた。セリムを頼みたいという話がどうしてラステルの事になったのだ。


「あの……どういうこと?」


 ティダがそっとラステルの右手を取った。


「誓うか、誓わないかだ。大狼は決して誓いを破らん」


 信じると決めたのだから誓うという選択肢しかない。ラステルは左手の拳を握って薬指だけを伸ばした。太陽がセリムとお揃いの結婚指輪を煌めかせた。


「崖の国ではお互いの薬指を絡ませたら、心臓に誓うと言う事なの。誓います」


 ティダがラステルの右手を離して、薬指に薬指を絡ませた。


「ヴァナルガンドが回復したら月見酒だ。肴を作ってくれ」


 言うが早いがティダは網に足をかけて降りていった。


 ずっと旋回していたアピがラステルの腕に飛び込んで来た。若草色の三つ目から僅かに祝福を感じる。


「もう嫌いじゃないってことで良いのかしら。ティダ皇子って困ってたら助けてくれるのにわざわざ誓うって大袈裟で変な人ね。約束を破りそうになったら止めてねアピ君。私も肝に命じる。心臓に誓ったから本当に殺されちゃうわ。そう言う人よねヴィトニルさん」


 王狼ヴィトニルが今日一番大きな咆哮を三回した。


〈その通りだ。我が愛妻グレイプニルと子の栄養にと食わせるからな。フェンリスは何を差し置いてもこの誓いを守る。俺は酒は飲まん。船の上だから肉は諦めるが魚は必ず用意しろ〉


 ラステルはコートで十分に温かいのに、寒気がして身震いした。牙を剥き出しにした王狼ヴィトニルが颯爽と下へ降りていった。それからラステルはパズーに向かって放り投げられた。


 ティダと王狼ヴィトニルが並んで歩いて船長室の方へ向かっていった。一度だけティダが振り返ってラステルに意味深な顔をしたので、ラステルはパズーにしがみついた。


 大狼との誓いは絶対に破ってはならない。ティダの変化も、ヴィトニルの願いや頼み、それに誓いの意味も分からない。しかし誓いを破ったら殺される、それだけは理解出来た。

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