蟲姫と大狼兵士1

 生姜という薬味は不思議な味だ。ラステルは小皿によそったスープを味見しながら、表現を考えたが浮かばなかった。


「お妃様どうです?体が温まる薬味なので風邪に良いのです」


「美味しいです。レシピ、ありがとうございますパクさん。きっとセリムも早く良くなってくれると思います」


 海の上を進む船、その中にはきちんとした台所がある。異国の食材に知恵。セリムと出会ってからのラステルには驚くことばかりだ。皿にスープを注ぎ、お盆に乗せて、スプーンや水も準備した。


「羨ましいですね。私の女房はもうこんな風に甲斐甲斐しく世話を焼いてくれませんよ」


 殆ど白髪だけに皺深いパクは、養父ヴァルよりも年上そうだ。パクが眩しそうに目を細めた。、ということはかつてはそうだったのだろう。長い年月添い遂げて、過剰な心配をしなくなったということかもしれない。


「私達もいつかそうなりますよ。戻ってきたら皮剥きや片付けの手伝いをさせてください」


 精一杯の感謝を込めて頭を下げた。船に乗る人達全員の食事管理で忙しいのに、熱を出したセリムの為に料理をしたいという我儘を快諾してくれた。


「いえいえ、そのようなこと」


「働かざるもの食うべからず。何もさせてもらえなくて困ってて。ここなら役に立てる自信がありますし、私も働かせてください。怒られそうになったら居座ってるって言って下さいね」


 うーん、と唸ってからパクが小さく頷いた。困ったよりも、子供を微笑ましく見る親のような視線。ラステルは「ありがとうございます」と笑い返して台所を後にした。


「これは何だ?」


 部屋を出た瞬間にティダにお盆をひったくられた。


「少し早いけどセリムの夕食よ」


 ラステルは手を伸ばしたが、ティダがお盆を頭の上に掲げたので届かなかった。


「あの部屋の近くに寄るな。心配性過ぎるお前の旦那の希望だ。ッチ、俺が何でこんな真似」


 舌打ちしたのにティダがお盆を下げて、背中を向けて歩き出した。セリムの部屋へ続く階段がある方向。


「嫌なら代わるわ。セリムの身の回りのお世話は私の仕事よ。風邪がうつったら困るのは私より貴方でしょう?」


 後を追いかけてティダの顔を覗き込んだ。それからお盆に手を伸ばした。触れない位置にお盆が素早く移動した。スープ皿からスープが溢れないかヒヤヒヤしてしまう。


「嫌に決まってるだろ、野郎の世話なんて。しかし俺にもヴァナルガンドにも考えがある。弟子にしてやったんだから命令通り部屋から出ずに大人しくしてろ。本当に好き放題の女だな。空っぽの頭を使って理由を考えろ」


 思いっきり睨まれたが、ノアグレス平野でとはまるで雰囲気が違う。


「セリムと仲良くなりたいから、頼まれ事を受け入れたんでしょう?それにセリムの為に私への態度も改めた。むしろセリムの為に丁寧に扱おうとしている。当たってる?」


 一瞬だけ驚いたように息を飲んで、ティダは顔を歪めた。


「そういう賢さはあるんだよな、お前は。意味合いが違うが遠くはねえ。妙だから知りたい。弱ってるから話を聞き出しやすい。まあそんな所だ。あいつは肝心な事は口が固そうだからな。それから、俺は他者評価なんて決して信用しねえ。決めるのは俺自身。お前を認めてやるというのは本心だ」


「そう。ありがとう。なら、ってことにしましょう?貴方がセリムの食事を準備にしている隙に、私が勝手にセリムの部屋に行ったっていうことで」


 背伸びをしても手はお盆に届かなかった。


「分かってるなら尚更引け。守られてやるのも女の仕事だ」


 そんなの嫌、とラステルは首を大きく横に振った。


「セリムは過保護過ぎるのよ。私、生まれてこの方風邪をひいたことがないわ。それに、苦しい旦那様を世話するのは妻の仕事よ」


 あれほど嫌悪がこもっていたティダの視線が、養父ヴァルやセリムの家族と良く似ている。海岸でセリムを受け入れて、すぐにこんなにも変われるのだろうか?隠していただけで、元々こういう男なんだろう。ラステルはジッとティダを見上げた。


「その目、ヴァナルガンドと同じだな。ったくヴィトニルのせいだ。おいラステル、答えてくれたら渡してやろう。俺を何に選んだ?考えていたが分からん」


「選んだ?」


 身に覚えが無い。ラステルは背伸びをやめた。


「姫が新たなテルムを選び王位を奪うという。道を示せテルム。お前は俺にそう言った。声の感じは少し違かったがな」


 身に覚えが無いが、ティダの質問への答えは何となく分かった。ラステルは言葉を飲み込んだ。注意深くなって欲しいとセリムに頼まれている。


--隠して調べようかとも考えたけど嘘や隠し事は無しだ。


 セリムがラステルに言ってくれた台詞は、ティダへも同じではないのだろうか。この人は変わろうとしている。元が何で、何に、かは知らないがセリムによって何かが変わろうとしている。「ヴィトニルのせいだ」という事は、良い方向に違いない。


 答えないだろうと思われたのか、ティダが体の向きを変えた。ラステルはティダの服の裾を掴んだ。


「とても大切な話よ。こんな廊下では話せない。セリムのお世話が終わったら貴方の部屋へ行くわ」


 手を離してからラステルはお盆を頂戴と両手を差し出した。ティダが能面のような無表情でラステルにお盆を渡した。それから急に悲しそうな、頼り無さ気な顔付きになった。


 一瞬だった。


 あっと言う間にいつもの自信に溢れた尊大な笑顔を浮かべた。


「交渉成立だな。二人だと後々面倒だ。誰か連れてこい」


 パズーだと目が訴えている。ラステルも真っ先に浮かんだのはパズーだった。ティダが壁に背中を向けて、行けよというように廊下の先を顎で示した。


「ティダ皇子はヴィトニルさんを連れてきて。必ずよ」


 返事を待たずにラステルはその場を離れた。


***


 熱にうなされているセリムは酷く辛そうだった。しかし汗はきちんと拭かれ、額に乗せられた濡れた布もまだ冷たい。


「甲斐甲斐しくお世話してくれていたのね」


 セリムが薄く目を開いて、それから眉間にシワを作った。


「ラステル?」


 ティダの為に嘘をつこうかと思ったが止めた。


「セリムのお世話は私の仕事よ」


 余裕が無いのだろう。セリムは表情を変えずに虚ろな瞳でラステルを眺めている。


「起きれる?体に良いスープを作ってきたの」


 ゆっくりと、辛そうに体を起こすセリムの背中をラステルは支えた。


「ラステル、君のことだからきっと来ると思っていたよ。情けない姿は見られたくなかったんだけどな。それに、うつしたくない」


 セリムの右手がラステルの頬を包もうとして引っ込んだ。


「情けなくなんてないわ。ティダ皇子にも教えたんだけど、私風邪を引いたことがないの」


「今まではの話だ。意見の相違。自分で飲むから大丈夫。すぐ部屋を出てくれ」


 発熱で赤らんだ顔、上がっている息。セリムがラステルの腕を掴んで、背中から離させた。


「セリム、ティダ皇子ならうつしても良いの?」


「駄目だな。どうかしてた……」


 深く青い瞳が揺れている。ラステルは素直に立ち上がった。


「分かったわ。ゆっくり休んで」


 意外だなという顔付きのセリムに背を向けた。この様子なら、ラステルが勝手にティダへ話をしても怒らないだろう。セリムはティダを頼れる相手だと無意識に選んだ。パズーではなくてティダ。歩み寄ろうとしているティダ。セリムがラステルには見せられない姿や、話せない事を相談する相手になる。


 今、正にそうなっている。


 看病を嫌がる夫へ無理やり寄り添うよりも大切な事。ラステルにしか出来ないこと。セリムの重荷を減らす方法。ラステルが知るセリムについてティダに伝え、自分自身の秘密も共有してもらう。


「ラステル、君の手料理は二度目だな。ありがとう」


 振り返ると、ちっとも手が進まないという様子でセリムはお盆に乗った皿を眺めていた。布団の上に置いたお盆が落ちてしまったらどうしよう。手を出したいのをグッと我慢して微笑むだけにした。


「崖の国へ帰ったら、次こそ台所に入れてもらうのよ。その時まで機会があれば沢山練習するわ。セリムに必要なもの、好きなものを楽しみにしていてね」


 部屋の外に出ると、目の前の壁にティダがもたれかかっていた。腕を組んで、少しだけ目を丸めている。


「早いな」


「パズーは呼ばないわ。セリムは誰の世話になるのも嫌みたい。そんなの嫌だから、後でこっそり見にくる。先に部屋で待っていて。ヴィトニルさんもよ」


 言うが早いがラステルは廊下を駆け出した。ラステルは先に話をしておきたいと、パズーを探すことにした。アピを迎えに行って、それからティダの部屋である船長室。


***


 パズーは甲板でゼロースから剣の扱い方を教わっていた。近くで月狼スコールが少し離れたところに座って、見張るようにパズーを眺めている。ラステルを一瞥いちべつして唸ったので少し怖かった。


「ラステル、部屋から出るなって言われてなかった?」


「正確には部屋でシュナ姫からドメキア王国での振る舞いを学び、アンリから護身術を教わりなさいよ。出るなとは言われてないわ。ゼロースさん、少しだけ彼に話があるのですがよろしいでしょうか?」


 頼む前にゼロースは頭を下げて後退していた。


「当然です。ごゆっくりどうぞ」


 過剰な返答にラステルは苦笑いした。ラステルはパズーを手招きして船の端へと移動した。月狼スコールに上着の裾を噛まれて引っ張られる。部屋へ帰れと言う事だろう。踏ん張ってパズーを見上げた。


「どうしたんだ?」


「アピ君を迎えにきたの。それから私を放っておいてって頼みに来たの」


 屈んでと頼んでからなるべく耳元近くで小さな声を出した。パズーが少し顔を赤らめたので手の甲をつねっておいた。女となれば誰でもデレデレするのはパズーの悪い癖だ。


「痛いって。顔が近過ぎただけだ。テトに言うなよ」


 批難は無視した。


「おいでアピ君。パズー、船長室にいるから。絶対に来ないで」


 思いっきりパズーが顔をしかめた。パズーの背中に張り付いていた黄色い瞳のアピがラステルの腕の中に飛んできた。


「どういう事?」


「秘密の話。セリムの為。巡り巡ってきっとパズーの為にもなるわ。私、ティダ皇子のこと信じるって決めたのを忘れてた」


 さわさわとアピの産毛を撫でると、アピが触覚で腕を撫でてくれた。黄色かった瞳が青へと変わっていく。


「セリムはそのこと……」


「セリムが信じるって決めた。ティダ皇子も気を許そうとしている。私、本当の意味でイカれ女から認められる女になりたい。あの人は、私にとって誤解されたくない人になったの。それが絶対にセリムの為になる」


 そばかすの多い頬を指でなぞりながら、パズーが益々顔をしかめた。


「セリム不在で?」


「パズーも不在で。ありのままの私の意見だけを聞いてもらう。話をすると伝えにきたのは、この船で私が完全に気を許せるのがセリムとパズーだけだからよ。セリムに何かあった時パズーしかいない。それではダメだと思う」


 納得しないが承知したと言うようにパズーが頷いた。アピがラステルの腕の中で暴れて前脚を腕から伸ばした。それからラステルの胸元をペチペチと叩きはじめた。


「訂正するわ。セリムとパズー、それにアピ君よ」


 まだ叩かれているので伝わっていないのかもしれない。


「セリムの前ではもうラステルに酷いことしないと思う。でも知らないところでは分からない。大丈夫だとは思っていても心配だ。何考えているかサッパリ分からない」


「信じたいけど私も同じよ。だから先に言いに来たの。何かあったら必ずパズーに話す。セリムに言えなくてもパズーには相談するわ。約束する」


 パズーが右手を伸ばして、薬指だけ真っ直ぐにして拳を軽く握った。


「お互いの薬指を絡ませたら、心臓に誓うと言う事だ」


「誓うわ」


 パズーと薬指を絡ませた。どちらも無言。ラステルはそっと指を離して後ろへ下がった。


 力も権力もある男にラステルの秘密を明かしたらどうなるのか。投げられた数々の暴言を思い出すと体が震える。


 それでもラステルは船長室へと向かっていった。大狼をとても大切にしている男が、セリムに大狼の名を与え気を許そうとしている。それに相応しい真心を返すべきだ。

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