束の間の休息1

 びしょ濡れのセリムとパズーをセリムの部屋まで連れて行くとラステルは浴室へ押し込んだ。


「男同士狭い浴室なんて!」


 パズーが盛大な文句を言ったが無視した。セリムの寝間着を二着押し付けて浴室の扉を閉めた。大浴場はまだ準備中。このくらいは我慢してもらう。まだ帰国祝いの宴まで時間があるので少しのんびり出来るだろう。


「沢山拾ってきたのね。後で洗わないと」


 二箱分の色とりどりの珊瑚に綺麗な形の貝殻。水に濡れて砂もついているが、うっとりする程綺麗だ。


「巡り巡る。土に還り木になって家になろう。実になって食べられよう」


 セリムから聞いた祈りをラステルは密かに気に入っている。歌ならどんな調べだったのだろうと歌っている。隣室で寝ているアピを覗いて見たが椅子に置いてあるクッションの上でスヤスヤ眠っていた。ラステルはセリムの部屋を出た。


「不思議、まだ来国二度目なのに」


 濡れたタオルを抱えて廊下を歩きながら一人呟いた。暗くて光苔の薄明かりの廊下。故郷の村よりも光が少ない。もちろん外に出れば、天候が良い日なら暖かい陽の光が迎えてくれる。しかしセリムもラステルと同じように地下で生きてきた。その共通点が嬉しくてならない。二度目だが地下迷宮を歩き慣れた気がする。


「おやおや、まあまあ、取りに伺いましたのに」


 途中で城婆の服を着るおばあさんに遭遇した。崖を歩くのが辛くなってくると城で小間使いとなるのが伝統らしい。それにしても城婆って名称は如何なものか。


「いえ、元気ですから沢山働きます!ラステルです。お名前を教えてもらえると嬉しいです!」


「ミミです。ラステル様。また果敢に台所へ挑戦してみてくだされ。私の仕事は取らせませんよ」


 ミミはラステルの手から濡れたタオルを引ったくってウインクすると背中を向けて去っていった。足取りはたどたどしく背も曲がっているが堂々としている。アリア婆は元気だろうか。明日、村にまで行く時間はあるのだろうか。廊下を歩きながら急に寂しくなってきた。ラステルは階段を上がって台所を目指した。


「あら、また来たのね!邪魔よ邪魔」


 台所にはまた女が増えていた。その中で忙しそうに指示を出すクイが顔を出したばかりのラステルを目ざとく見つけた。


「セリムとパズーが帰ってきたので何か温かいものをお願いしようと思いまして。自分で……」


 ラステルの前にサッとお盆が出された。ドーラが自慢げに微笑んでいる。ティーセットとビスケット。そろそろ時間だというのを予想していたのか、ラステルが顔を出した瞬間に準備したのか、どちらにせよ準備が早い。


「残念だがラステル。私でさえここに入るのに苦労した。ひよっこ妃にはまだ無理」


 ドーラにお盆を押し付けられてラステルはすごすごと退散した。働く女達の針のような視線が怖すぎた。一人増えたら一人追い出される、自分の仕事だ!と言わんばかりの熱意。明日にはいなくなるラステルにはまだ踏み込めない領域。


「ラステル!」


 呼ばれて振り返るとエプロン姿で大汗かいているクイが廊下をパタパタと走ってきていた。


「クイ義姉様おねえさま?」


 また叱責されるのか?とラステルは身構えた。手に薄い本を持っていた。


「叱りにきたんではありませんよ。私は忙しいの。これを」


 手渡された古ぼけた本。前回ラステルがこの国に来た時に貰った料理レシピのノートと同じようだった。


「二冊とも貸すだけですよ。返しなさいね。それはセリム用の二冊目ですけど伝統料理なんかも覚えてもらわないと」


 セリムそっくりの笑い方をしてクイはラステルの頭をポンポンと優しく叩いた。その仕草もセリムによく似ていた。ラステルが礼を言って会釈している間にクイはもうパタパタと戻ってしまった。


「幸せで胸がいっぱいな時間。大切な想いの結晶」


 崖の国に帰国してから嬉しいことが溢れかえっている。自然と歌が漏れた。


「巡り巡る。土に還り木になって家になろう。実になって食べられよう」


 命は巡る。想いも巡る。ラステルの幸福は分け与えなければならない。今どこかで苦しく悲しい時を過ごしているものへの祈り。きっとそんな祈り。ついつい歌ってしまう。


「ご機嫌だなラステル」


 階段を上がってすぐのところでパズーに出くわした。セリムの寝巻きではなく別の服を借りたらしい。


「早かったのねパズー。これ」


 ラステルがお盆を持ち上げるとパズーがひょいひょいっとビスケットを口に放り込んだ。


「紅茶は残念だけどユパ王に嘆願に行くんだ」


 怯えて青ざめている。しかしパズーの空色の目は決意の炎が揺らめいているように鋭かった。


「なら私……」


「セリムの申し出も断ったんだ。一人で行く。そろそろセリムの世話をしてやらないと拗ねるよあいつ」


 歯を見せて笑うとパズーはラステルの横を通り過ぎていった。拗ねる。そうだ、セリムはラステルのせいで沢山怒られた。労ってあげないと。ラステルは小走りでセリムの部屋へと向かった。部屋に入ってもセリムの姿はなかった。出掛けたのだろうか?テーブルにお盆を乗せて隣室を確認したがいない。


「ラステル、どこ行ってたの?」


 振り返るとどこから現れたのかセリムが立っていた。まだ髪が濡れている。落ち込んだような表情だった。


「台所よ。温かい飲み物をいただいてきたわ。パズーとすれ違ったの。残念ね」


「そう。まだ珊瑚と貝を洗っててすぐ終わる。座って待ってて」


 セリムはそそくさと浴室へ歩いていった。少し拍子抜けした。二人きりだからもっと甘えてくるかと思っていた。胸は爆発しそうになるし恥ずかしいがセリムに甘えられるのは好きだ。だから残念だった。


「私も手伝うわ」


 浴室を覗き込むと殆ど終わっていそうな雰囲気だった。セリムはしゃがんで箱に綺麗になっている珊瑚と貝を戻している。短時間でどうやったのだろう?


「本当にもう終わるよ。疲れてるだろう?座っていなよ」


 セリムはラステルを見なかった。声も冷たかった。何か怒っているのだろうか。ラステルはすごすごと浴室を撤退して椅子に腰掛けた。手持ち無沙汰なのでクイがくれたノートを最初から読む事にした。


「巡り巡る。土に還り木になって家になろう」


 また自然と口ずさむ。セリムが好きなのはミルク系の料理やお菓子。あとトマトという野菜。赤くて少し酸味のある野菜はポムの実とよく似ていた。セリムがよく"蟲森は僕らの世界のものが進化しただけで同じ起源だろう"と言っている。


「ご機嫌だなラステル」


 セリムが向かいの椅子に腰掛けてティーポットで紅茶をカップに注いだ。ラステルの仕事なのに素早くて優雅な手つき。セリムはラステルを見ないで床の方を眺めながら紅茶を飲んでビスケットを口にした。


「あの……?何かある?」


 恐る恐る聞いてみるとセリムと目が合った。パチリと開いた目と「ん?」と柔らかく微笑んで首を傾げる仕草で怒ってないとすぐに分かった。でもあまり機嫌は良くなさそうだ。少し刺々しい。


「本を読んで歌っているから聞いていようかと。ラステル、とても楽しそうだから」


 セリムはまた床に視線を戻した。


「ええ、楽しいわ。これクイ義姉様おねえさまがくれたの。出番がある時にすぐ思い出せるように沢山読んでおくの」


 ポンッと弾けるようにセリムが笑った。


「偽りの庭で君が作ってくれたミルクスープ。懐かしい味がしたのはそれでか」


 機嫌が良くなったのか刺々しさが消えた。聞いてと言いかけてラステルは口を閉じた。きっとセリムは疲れているのだ。帰国からずっとバタバタしていた。約束を守ると言って雨の中海岸にも行った。


「ええ。懐かしい味がしたなら良かった。少し横になるといいわ。帰国のお祝いまでまだ時間があるもの。きっと疲れてしまうわ」


 ラステルはセリムから手元のノートに目線を戻した。実際帰国祝いの宴が何だか分かっていない。楽しそうだが緊張して疲れるだろうという予想は出来る。


「ラステル。聞いてってまた言わないの?」


 寂しそうな声にラステルは顔を上げた。


「どうしたの?」


「ん?」


 不思議そうに首を捻るセリムは物悲しそうだった。本人にその認識はないらしい。


「疲れているのよ。休んだ方が良いわ。そういう顔をしている」


 ラステルはノートを閉じてテーブルに置くと立ち上がってセリムの手を取った。しかしセリムは動かなかった。


「そんな軟弱じゃないよ。それにラステルの顔を見ていると元気が出る」


 そう言って笑いうセリムはやっぱり悲しそうな、寂しそうな雰囲気を醸し出している。手を離そうとしたら握られた。


「パズーと何かあった?」


「別に」


 思いっきり渋い顔をしている。


「パズーと喧嘩した?そんな風には見えなかったけれど」


「喧嘩なんてしていないよ」


 セリムはそっぽを向いてしまった。しかしラステルの手は離さない。


「パズーが一人でユパ王に嘆願に行ったから?私分かるわパズーの気持ち」


 セリムはゆっくりと顔を戻してラステルを見据えた。吸い込まれそうな深い青色の瞳にこもった熱。この目にラステルは弱い。言葉が詰まった。


「ラステル、君はすっかりパズーと仲良しだな。顔に大好きだって描いてあるよ」


 いつもよりも一段階低い声だった。


「え、ええ……。だって……」


 怒っているのではなく拗ねているのか。変な汗が出てきた。笑っているのにとても不満そうなセリムに嫌な鼓動がする。


「初めて出来た友達だもの。テトは姉様と仲良くなって私はついでだったでしょう?」


 ポカンとセリムが口を開けた。


「ついで?何を言っているんだ。っはは!パズーが君を変な馬鹿野郎って言う意味が分かるよ」


 セリムが体を震わせて笑い出した。


「私が変な……」


「僕は君がとても好きだよ」


 射抜くように見つめられた。


「テトもそう。ついでなんて言ったらぶっ飛ばされるよ。若くも羊飼いの女をまとめはじめている怖い女なんだ」


 指摘されてみて確かに逆なら怒ると思った。


「ラステル、今日は楽しかった?」


 セリムが立ち上がって握っていた手を離した。それからまた寂しそうに微笑んだ。しかしラステルが話すのを待っている。セリムは明らかに拗ねている。理由はよく分からないがそれだけは感じる。なのにいつもみたいに甘えてはこない。拗ねたら甘えないものなのか?不思議過ぎる。


義姉様おねえさま達は怖かったけれど嬉しかったわ。雨の中、大橋を歩いたのよ。荒れ狂う海が恐ろしかったけれど平気だったわ。パズーが一緒だったもの。風車塔で沢山の人が出迎えてくれたの。人が押し寄せてパズーが守ってくれた。それからね、台所や洗濯室から追い払われたの」


 セリムはいつもラステルの手を握るのに今は離れている。空いている手の置き場がない。ラステルは自分の手を組んで指を弄った。自然と顔も下がる。喋らないと気まずいとラステルは続けた。


「ポックルさんとまた会えたのよ。私のこと覚えててくれたの。クワトロ義兄様おにいさまと同じ挨拶をしようとしたから手を払ってしまったわ。けどポックルさん怒らなかったの。アンリ長官がね、崖の国の紅茶の匂いを好きだって。パズーがバルフィ?が好きって言ったら紅茶を飲んだの。アンリ長官はアシタカさんと仲良しだそうよ」


 話したいことが沢山あるのにどこから話して良いのか分からない。支離滅裂だ。セリムはやっぱり不機嫌な気がする。顔を見てなくてもそういう雰囲気が出ているから分かる。絶対疲れているからだ。意を決して顔を上げるとセリムはやっぱり悲しそうに微笑んでいた。


「それで?他には?」


 ラステルはセリムの手を取った。払われたらどうしようかと緊張したがそんなことは無かった。


「やっぱり変よ。疲れているなら横になった方が良いわ」


「っはは。難しいね話を聞くって。僕はいつも質問する側だからね。それに僕が居ない所で楽しそうなのは寂しいよ。でもこの国や人を気に入ってくれたのならやっぱり嬉しいが強いかな」


 そう言いながらセリムはやっぱり寂しそうだった。ラステルが楽しんでいた間セリムは叱責されていた。そうだ、それで凹んでいるのだ。他人のラステルがあれ程ペシャンコにされたのだ。家族ならもっと凄かっただろう。何を言ったら元気になってくれるのだろうか。男は下手に励ますと自尊心を傷つけるとアリア婆がラファエに教えていた。セリムが怒られた事には触れないでおこう。


「だってセリムの国よ」


 セリムが急にラステルを抱きしめた。あまりに突然で驚いた。


「やっと僕が出た。パズー、パズー、パズー。ラステルの旦那はパズーになったのかと思ったよ」


 少し体を離してセリムがラステルのおでこにおでこをくっつけた。


「拗ねてたの?」


 分からないから聞くしかない。全部セリムの話なのに変だ。セリムの家族、セリムの友達、セリムの国。セリムって名前をつけないとそれが伝わらないのだろうか。セリムはうんと賢いのに時々変だ。


「ああもちろん。ラステルがニコニコしながら国を散策するのを見れなかった。久しぶりに心底楽しそうでご機嫌な姿を隣で見れなかった」


 セリムがそっとキスしてきた。


「夜があるわ。帰国のお祝いってとっても楽しそうよ。緊張するでしょうけど大丈夫ね。セリムが隣にいるもの」


「もちろんだとも。僕が隣でドンと構えている。パズーじゃないからな」


 またセリムがキスした。それから体を押される。一歩、二歩と二人で移動した。


「あらセリムもリノ君と空を散策していたわ。私じゃなくて」


「大切な仕事だ。雨が降らなかったら君とも飛んだよ」


 今度は深くキスされた。また一歩、二歩と移動した。


「ねえセリム。またセリムのお師匠様に会えなかったの。夜は会えるかしら」


「紹介出来てないから行かないと。僕は崖の国中にラステルを見せびらかしたいんだ」


 それは恥ずかしいという前に口を塞がれた。また移動して足が寝台にぶつかったので腰を下ろした。セリムが押し倒すように覆い被さってくる。溶けそうな程熱い視線。


「今から行く?時間があるわ」


 答えは分かっている。


「いや時間が足りない。全然足りない」


 自然と笑みが零れた。ラステルはセリムの首に手を回した。


「パズーの前に私が丸齧まるかじりされちゃうのね。きゃあ怖い!」


 わざとらしく叫ぶとセリムもくすくすと笑いを零した。それから獣みたいな目になった。思わず逃げそうになったがその前に唇で押さえつけられた。


 こんな視線、こんな雰囲気のセリムは初めてだ。

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