凱旋帰国した機械技師1

 湿気の匂いに柔らかな微風、そしてしとしと雨。二週間も経過していないがパズーは祖国に帰ってきた実感をさらに強めた。よく帰って来れた。


「セリムが言ってた通りに雨が降ってる」


「そりゃあそうさ。風詠の天気予報は外れない」


 相合傘でパズーと腕を組むラステルが大橋の向こう、荒れ狂う海原をビクビクしながら見つめていた。アンリ長官がパズーの隣を歩き、ダンが浮き足立つ様子で前を歩いている。その前後には衛兵。天気は悪いし寒いが物凄く気分が良い。


「私もまだ殆ど崖の国を歩けていないのでアンリ長官とダンさんが雨の中散策したいと言ってくれて助かりました」


 ラステルが小さい声で衛兵に聞こえないようにアンリ長官とダンに微笑みかけた。ダンが頬を赤らめて敬礼した。


「お疲れのところ観光案内の手厚い歓迎。恐悦至極にございます!」


 ラステルが首を傾けた。


「とても嬉しい感謝してますって事だよ」


 パズーが耳打ちするとラステルが尊敬の眼差しを向けた。ラステルって少し教養が足りないかもしれない。しかし眩しい笑顔。背中が痒い。衛兵達の冷ややかな視線が突き刺さるが無視した。


「本当にありがとうございます。機内待機が相応しい身分ですのにこれ程良くしていただいて」


 アンリ長官の微笑も愛くるしかった。緊張して強張っている時は懸命に仕事に励む少年にしか見えなかった。女だと告げられればもう他の何者にも見えない。髪を伸ばして女性らしい化粧をしたら絶対に凛とした美人。


「アシタカさ……アシタカお兄様が信頼出来る友人と言っていたわ。つまりアシタカお兄様の代わりでしょう?ねえ、パズー」


 ニコニコしているラステルは可憐だった。ケチャの雨服に身を包んで、髪をまとめ上げている姿は新鮮だしつい見惚れた。セリムがよく惚けているのも分かる。


「パズー?」


「いやラステルが可愛いからついね。セリムが目に入れても痛くないって感じなのが分かるよ」


 真っ赤になったラステルがもうっと唇を尖らせた。少し小さくて厚い唇は果物みたいだ。


「セリム王子と仲睦まじいですものね。ラステル姫は。こんなに美しく愛らしく生まれたかったですよ」


 崖の国ではラステルをペジテ大工房の姫として扱い続ける予定らしい。アンリ長官は特に抵抗がないようでホッとした。


「まあアンリさ……アンリ長官まで!仲は良いけど普通よ。それに……」


 ラステルは演技が続かないのか呼び方を変え出した。衛兵は気がつかないからこれで良いかもしれない。


「アンリ長官は髪とか伸ばさないんですか?絶対似合いますよ。ペジテ人の黒くてサラサラの直毛って素敵だよなあ。アシタカの奴こんな美人の友達がいるならきちんと紹介してくれれば良かったのに」


 パズーの問いに凛々しい顔つきが歪んだ。褒め間違えて怒らせたか?女って凄い難しい。テトなんてしょっちゅう怒ってる。


「崖の国は女性を褒め称える国です。そうよね?」


 憶測という様子でラステルがパズーの顔を覗き込んだ。顔が近くて少し困った。大橋の下を覗き込んでいたダンが振り返って羨ましそうにしている。両手に華だ。衛兵達も"何故パズーが"と顔に描いてある。何これ楽しい。


「少し違う。女の機嫌を損ねたら生活できない。溌剌と働くのに褒められるのが生きがいなのが崖の国の女達。しかし本心かつ的を得てないと鬼のように怒る。ペジテは違うんですか?」


 素直に聞いたパズーに対してアンリ長官はパチパチと瞬きしてからクスクスと笑い出した。


「男は態度で示すというのが我が国の美徳です。ちなみに三歩下がって男を立てるのがペジテ人女性の気品です」


 へえ。全然違うもんだ。ダンが近寄ってきた。


「パズーさんあの一際大きな風車の塔には行けますか?」


 チラリとラステルを見てから頬を赤らめてダンはパズーに視線を戻した。


「勿論です!皆ラステルやお客様に会いたがるよ」


 徐々に風が強くなってきているから早く行こうとパズーは歩く速度を上げた。まだ吹き飛ばされないくらいの弱い風。しかし足元の荒れる海が怖いのかラステルがパズーの腕にしがみつく。ゆったりとした服で隠れているが割と大きい胸。押し付けられるたびに鼻の下が伸びそうになる。


「ラステル様大丈夫ですか?我等がお守りしますのでご安心ください。このくらいの風などではこの大橋はビクともしません」


 さりげなくラステルの隣に立ったのはオットーだった。ハクの同期の衛兵。大丈夫といえば行方知らずのハクは大丈夫なのだろうか?セリムもたいそう心配しているが探してもらってるのに全然見つからない。あのカールとかいう鬼人と一戦交えていないと良いのだが。迷子なら早く帰ってきて欲しい。


「ありがとうございます。でもパズーが守ってくれるから大丈夫です」


 ラステルがオットーに殺人スマイルを投げつけた。無自覚なのが効果抜群。初対面の時は可愛い人だな、くらいだったがそうではなかった。無邪気でくるくる表情が変わるラステルは元々の整った顔立ちを二倍くらい可愛らしくさせる。崖の国には居ない大人しそうで柔らかで優しそうな顔つきというのもそそられる。セリムの奴がこんな子をずっと隠していたということに腹が立つ。


「失礼ですがパズーよりも私の方が役に立ってみせますよ」


 オットーがラステルに手を差し伸べた。崖の国は夫がいようが妃だろうが御構い無しだ。最高の女は最高の自分に相応しい。恋愛や結婚でないなら仕事で、友人として。時に相手の向こうにいる人に対する侮辱となるがそれは相手が悪いだけ。今ならパズー。しかし自分の価値を決めるのは相手で自分ではない。この場合パズーを評価するのはラステル。


 今まで当然だと思って深く考えたことがなかった分析。ペジテ大工房は全然違った。案の定アンリ長官とダンが驚愕している。答えが予想できてもパズーは緊張した。


「立派な衛兵様よりも私はパズーが良いわ。親しい友人で命の恩人ですもの。彼、とても格好良かったのよ。それにセリムの大親友ですもの。お名前を聞いても?」


 完全勝利!収穫祭の腕相撲大会で優勝した男よりも鼻が高いかもしれない。


「オットーです。それは失礼しました」


 セリムに告げ口されるとオットーの顔が少し強張った。


「オットーさんありがとう。正直あの海が怖かったの。綺麗なだけじゃないのね海って。だから隣に来てくれてとても嬉しいです」


 心底怯えているようでラステルが海を見てからブルっと震えた。それから破顔した。オットーは完全ノックアウトかもしれない。ラステルは計算がない分かえって恐ろしい。崖の国の女ならその気がない男には手加減する。


「それは大変です。私はお客様をお守りします」


 今が好機とばかりにアンリ長官の隣にアルマが立った。すかさず「狡いぞ」とパズーに声を出さないで告げた。自慢するように笑い返してやった。アルマの顔にラステルを紹介してくれと描いてある。


「失礼ですがこれでも部下数百人を従える長です。自然の猛威といえど怯みなどしません」


 ツンと言い放ったアンリ長官は可愛げがなかった。これがペジテ流なら何か残念だ。アルマが物凄く嫌そうな顔を出した。多分アルマもアンリ長官を少年だと間違えている。誰だって間違えそうなくらい女っ気を消している。パズーはアルマに対してもう少し隠せと睨みつけた。


わたくしはアンリと申します。鍛え抜かれたその肢体とても羨ましい。時間があればこの国の防衛を担う方々と交流を持ちたいです。ラステル様が許してくだされば友好を示してくださった貴方にお願いしたいのですがどうでしょう?」


 不機嫌そうなアルマを見ない振りをしてアンリ長官がラステルに微笑みかけた。それからアルマにも同じように笑いかけた。


「何という無礼を。お許しください。若輩のアルマと申します。是非お願いしたい。ラステル様、よろしいでしょうか?」


 一度青ざめた後にアルマが表情を引き締めてラステルに問いかけた。ラステルはパズーを見上げた。これはラステルが決める事だと思うのでパズーは首を横に振った。ラステルには伝わらなかったみたいでラステルは困惑したようにオロオロしだした。


「こいつはアルマ。僕達と同い年だから一緒に勉強したんだ。セリムとも皆で良く遊んだよ。雑談くらいいいんじゃないか?」


「ありがとうパズー。大事かと思ったの。勝手に決めたら怒られるわ」


 ラステルが胸を撫で下ろした。


「感謝しますラステル様。おいダン!遊び呆けていないで国の為に励め!お前は線が細すぎる!この方々にコツを聞きなさい!それに主を放置するな!」


 叱責の台詞を吐くアンリ長官の声はドスが効いていた。慌てふためきながらダンが戻ってきた。人前で恥をかかされたというのにダンは特に気にしていないようだ。


「はいアンリ長官!粗相をお許しください!あまりの雄大な自然に我を忘れておりました!」


「アルマ殿だ。セリム様の御学友だという。軍備の話と共に文化についても聞かせてもらえ。よろしくお願いしますアルマ殿」


 丁寧に頼んでいるがアルマを自分ではなくダンに押し付けるつもりだ。これはもうアルマは断れない。


「アルマ良かったな。ペジテ大工房は屋根付き大都市。すっごい人なんだぜ。アルマの話が大勢の人へ伝わる」


 パズーもアルマの自尊心を刺激しつつアンリ長官を後押しすることにした。アルマはダンと握手を交わした。ダンがセリムのようにあれは何ですか?とアルマを引っ張っていった。


「パズーさんは中々人の扱いが上手いですね」


 悪戯っぽくアンリ長官が含み笑いした。


「練習中です。扱い辛い者とばかり遭遇するので」


 表情の変化は乏しいがアンリ長官はまた含蓄のある笑みを浮かべた。多分アシタカを思い浮かべただろう。実際はセリムにティダ、そしてシュナもだ。隣のラステルもそう。自分が絶対正しいと突き進む人間達を抑えるには色々考えないとならない。


「パズーはいつも相手を尊重してくれるの!頼りになるだけじゃないのよ!……ないですのよ」


 パァッと嬉しそうにラステルがアンリ長官に話をしてから、照れ臭そうに言い直した。パズーは益々鼻高々だった。オットーが信じられないという目をしたが無視した。


「そのようですね。ブラフマー長官からアシタカ様を批難し奮い立たせたと聞いていますよ」


 探るようにアンリ長官がパズーを覗き込んだ。なんか怖い。何を聞いたんだ?文句は言ったが奮い立たせた覚えはない。


「御学友といえばアンリ長官ってアシタカと護衛人学校の同期って聞きました。あいつ護衛人なんですか?僕と同じ技師って言ってましたけど」


 話を逸らしたらラステルが食いついた。


「アシタカさんって私達よりもうんと年上だったのよ。アンリさんも?そんな風に見えないわ。中身は年齢に相応しいけれど見た目はとても若々しいわ」


 隣にオットーがいるのにラステルは自分の設定を忘れている。当然のようにオットーが怪訝そうに顔をしかめた。


「兄といっても殆ど面識がないんですものね。ラステル様は。偽りの庭を出て工房の一つに弟子入り。整備士の傍、夜は護衛人学校の夜間部。中々ハードな生活でしたよ。夢を語り、真っ直ぐ突き進む。そんなんだから押し上げられて議会議員になんてなるんだ」


 ラステルの尻拭いの台詞は冷静だった。なのに後半は何か思い出してイライラしたようでアンリ長官は最後は吐き捨てるようだった。気まずそうな表情を一瞬浮かべてから拒絶の無表情になった。


「仲が良かったんですね。そんなに心配して」


 とんちんかんな感想をラステルが述べた。雨足が強くなり突風も混じるようになったので小走りで風車塔へ向かう事にした。吹き荒れる雨で濡れるアンリ長官の黄色気味の横顔はとても寂しそうだった。


 それでピンときた。アンリ長官の片想いではない。一度は交差して道を違えた。それも不本意に。


--女は皆ついていけない。蔑ろにされて放置され忘れられる。


 多分アンリ長官はアシタカを連れ合いとしては見限った。アシタカはどうなんだろう。パズーが推測しようにもそこまでアシタカを知らないと気がついた。ふとティダならば簡単に想像出来るんだけどなと思った。アシタカはセリムと似ているが、どこか大きく違う。それが多分パズーとアシタカを阻む溝な気がした。

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