一陽来復の第一歩
ラステルが喉に刃を突き立てようとしたまさにその時、懐かしい声がした。幻聴かと思って目を開くと
「セリム!」
ラステルは短剣を投げ捨てて手を伸ばした。地面に叩きつけられるのが先か、
「セリム!」
叫んでも返事がない。ますます
セリムだけは助けたいと大きく息を吸った。もう一度蟲に飲み込まれたら二度と帰ってこれない気がする。元々変な女だと自覚をしていたがペジテ大工房に来て、この訳のわからない争いではっきりした。ティダの言う通りラステルは「化物」で人ではないらしい。けれども互いに落下している状態から、セリムを助けるにはこれしかない。
--病める時も困難に襲われても我が隣から離れずに添い遂げてくれないか
セリムの求婚が鮮明に思い出されてラステルは声を出すのを止めて口を閉じた。同時にいつ聞いたか分からないセリムの悲痛な叫びも耳の奥に響いた。
--ラステル!お願いだ!僕を見てくれ!セリムだ!ラステル・レストニア!我が愛しい妻よ!お願いだ!帰ってきてくれ!
「ええ……もう何処にも行かないわ……」
蟲は好きだ。ずっと優しくてラステルを家族みたいに受け入れてくれた。しかしもうラステルは唯一無二の相手を見つけ、受け入れてもらった。
"人"として死のう。
セリムと二人で生きるか、二人で死ぬか。化物になってセリムだけを助けるなどセリムはきっと望まない。ラステルも人ではない何かになって生きるよりも、セリムの妻として死にたかった。
「え?」
ふわりと体が浮いた。見上げるとガンの幼生がラステルを掴んでいた。ホルフル蟲森では見たことない緑色の産毛が生えている。
「ラステル!」
「セリム!」
目を離していた間にセリムが
「死ぬかと思った……みんな僕達を助けてくれてありがとう……」
無邪気な笑顔でセリムが一番近くにいる緑色の産毛のガンの幼生を撫でた。それからラステルに口付けした。
「会いたかった。良かった……」
呆気にとられたがラステルは涙を零しながらセリムの体にしがみついた。
「セリム酷い顔色」
「あんまり良くはないね。早く横になりたいけどまだ無理かな?」
力なく笑いながらセリムは撫でたガンの幼生をそっと押した。くるくると回転しながら風に飛ばされていく。セリムは周りを飛ぶガンの幼生の体を押していった。次々とセリムの前にガンの幼生が現れて、押してくれと言わんばかりにセリムの左手の上空に並んでいく。セリムに押されたガンの幼生達は楽しそうに風に乗って空に広がっていった。
「セリムこれどういうこと?」
あれだけ感じられていた蟲の感情がラステルには全く分からなかった。
「寝るな遊んでっていうから助けてもらった。これは御礼だよ」
遊んで?次々と風に飛ばされるガンの幼生達は確かに楽しそうだ。空を縦横無尽に飛び跳ねている。
「セリム、蟲の言葉が分かるの?私が変な間に何があったの?」
ラステルは
「話せるよ。君よりよっぽど変になった。あとで全部話すよ」
ラステルはセリムの柔らかな癖っ毛を撫でて気がついた。かなり少ないとはいえ蟲森の胞子が空中にある。なのにセリムはマスクをしていない。しかし見た目で分かる影響はなさそうだ。まるでラステルと同じだ。
「大丈夫だって。ちゃんと皆と遊ぶよ。え?分かった、なら必ず会いに行く。約束しよう?ごめんな……」
崩れるように寝そべったセリムの前にガンの幼生が集まったと思ったらすぐに背を向けて飛んでいった。一匹だけ残ったのは黄色い産毛が生えたホルフル蟲森でよく見かけるガンの幼生だ。
「元気になったら遊んでくれってさ。優しい子達だな……」
小さく微笑むとセリムがラステルの手を握った。分厚くドス黒かった雲が薄くなっている。雲間から柔らかな日の光が差し込んで、汚れた大地を照らした。
「お前はもう遊んだだろう?帰らなかったんだな」
セリムの顔の前で一匹の子蟲がこくこくと頭部を揺らした。太陽の光が濡れた黄色い産毛をキラキラ反射させる。
「
「
ラステルが問いかけるとセリムがガンの幼生を抱き寄せた。
「こいつら皆ラステルの事を兄弟だって言ったよ。飛べないし雌雄同体じゃないしいつまで経っても脱皮もしない。ずっと兄弟の置いてけぼり。おまけに意思疎通も下手。末っ子で世話のかかるお姫様だって」
蟲と会話するセリムに自分が蟲にどう認識されているかを告げられてラステルは開いた口を塞げなかった。
「まあ。私って何なのかしら……」
「この子達はみんな知ってくれた。蟲じゃなくてほとんど人だって」
今まではラステルがガンの幼生を撫でてきたのに、セリムが優しくガンの幼生を撫でている。不思議な光景だった。
「ほとんど?」
「人と
ラステルはセリムの腕の中のガンの幼生を見つめた。タリア川のような深い青色の三つ目から僅かに安心と心配が伝わってくる。
「私、前より蟲の気持ちが分からないわ」
「……そうか。こいつは更に出来損ないになった
ガンの幼生の触覚がピンっと立った。セリムの腕の中で暴れ出して、セリムがガンの幼生を離した。
「嫌だってさ。みんなまとめてホルフルアピスの子。大きくなったらホルフルアピスだって。僕達とは思考回路が随分違うんだよなあ」
そうだと言わんばかりにガンの幼生が頭部を揺らした。
「アピス?そう、ならアピ君と呼ぶわ。私にもラステルという名があるのよ、そのくらいの名なら良いかしら?」
提案を受け入れたようでラステルの頭にガンの幼生が乗った。
「あはは!ラステル、へんちくりんな冠だな。っおい変なもの飛ばすなよ!」
セリムにガンの幼生が唾のような液体を飛ばした。セリムが顔についた液体を服で拭う。ラステルは心の底からの笑顔になった。
「とても光栄だわ」
ラステルは頭上に手を伸ばしてさわさわとガンの幼生の産毛を撫でた。
「向こうに風の道がある。みんな楽しくお帰り。また遊ぼう。約束する」
セリムが指をさした方角へ次々とガンの幼生達が飛んでいった。
「セリム、綺麗ね」
くるくると回転しながら飛んでいくガンの子達の産毛が煌めいている。その先には更に沢山の幼生達が飛び跳ねていた。セリムが先に風に乗せてやった幼生達の産毛は青や緑だけかと思ったら違う。
七色が世界を染め上げていた。
「ああ、美しいな」
セリムの優しく穏やかな微笑みこそ美しいとラステルは力強く繋いでいる手をさらに強く握りしめた。セリムがラステルを見上げた。
「君も綺麗だ。素敵な冠だね」
自分が口にしたお世辞に笑いを堪えるようにくすくすと笑って、セリムは空いている手でラステルの頭を引き寄せた。唇が重なる寸前で振動とザザザザザという激しい音がしてセリムが起き上がった。苦悶で顔を歪めながらセリムがラステルの肩を抱き寄せる。ラステルはセリムと繋いだ手を離して立ち上がると体の前に拳を握って身構えた。
「これだけ迷惑かけて何してんだよ!大馬鹿野郎共が!」
音の主はティダとヴィトニルが運んでいた飛行機だった。着陸した飛行機からティダが飛び降りてゆっくりと歩いてくる。その後ろからパズーとアシタカが飛行機から降りて勢い良く走ってきた。
「セリム!ラステル!セリムーー!」
全面が見えるマスクの奥でパズーがぐしゃぐしゃの泣き顔をして叫んで走ってくる。アシタカがそれを見て走るのを止めた。パズーは滑るように
「怖かったあ。それに痛いんだよあいつ!何度も蹴りやがって!」
パズーはラステルに飛びかかり、立ち上がっていたセリム共々腕に包み込んだ。
「何もかも訳が分からないよ!早く帰ろう。僕達の崖の国へ」
「僕にも色々と分からないことだらけだ」
「私も何があったかさっぱり分からないわ」
三人揃って分からないと口にして抱きしめ合った。
「みんなから話を聞いてまとめよう。最後は子供達が嫌だ嫌だの遊びたいって大合唱して騒ぐから蟲は全部しぶしぶ帰っていった。きっと今回の混沌はただの始まりだ」
「しぶしぶ?始まり?」
セリムの言葉にパズーが顔を強張らせた。ラステルも不安に襲われた。ラステルを連れ去ろうとした不気味な男。必ずまたラステルの前に現れるだろう。セリムが空を指差した。パズーが体を話して顔を上げた。ラステルも空を見上げた。
七色に美しく輝いている世界。
「きっと平気よ。激動の先には希望がある。セリムと私は絶対に何があっても諦めないわ」
ラステルはパズーの肩をそっと叩いた。パズーが虹色の空を見ながら益々泣き出した。今度は感激した様子で泣き笑いしている。向こうの方でアシタカが悲しげだが決意を込めたような力強い視線で空を見上げて微笑んでいた。その奥をティダが愉快そうに高笑いしながら歩いてくる。
「なあラステル……」
「セリム・レストニア。崖の国の王子よもう一度問います」
ラステルはセリムの言葉を遮った。
「人ではない蟲かもしれない、出来損ないの
途中でセリムがラステルの口を口で塞いだ。
「ラステル・レストニア。我が妻よ。病める時も困難に襲われても我が隣から離れるな。崖の国のセリムの
平穏な人生は手に入らないだろうとセリムの目が訴えている。
「ええ勿論よセリム!」
--共に生きて欲しい。
セリムではない誰かの声が胸の奥に響いた。きっと蟲の声だとラステルはセリムを強く抱きしめた。何度飲み込まれようと、ラステルはこの腕の中に帰ってくる。
必ず。
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