不気味な男と死を選ぶ娘

 抱きしめ合いたかった人ではなく、何故か目玉だらけの兜の男の腕の中。兜に顔全体が隠れていて顔が分からない。兜に顔が触れそうで、ラステルは精一杯腕を伸ばして男を押してのけようとしていたが腰が折れそうなほどキツく掴まれている。


 パズーとシュナ達と共にいて、気がついたら倒れそうなセリムの前にいた。また蟲に"飲み込まれてしまった"というのは即座に理解できた。だがこの不気味な男は誰?飛行機でラステルを捕まえたこの男は誰なのか。


「よーう。殺戮さつりく女王。やっぱりなんか幼いな。ひっく」


 男は全体的に酷く酒臭くてラステルは顔を背けた。飛行機を操縦しているのは後方の別席にいる泥みたいな塊のようだ。人のような形をしていて顔らしきところに赤く小さな丸が三つ。男も連れも普通ではない。男の空いている手がラステルの口を覆った。潰されるのではないかというくらい力が強くて痛い。


「んん!んんん!」


「いやぁ見物に来ただけだがいいもん見つけた。大人しくしてねぇと死ぬ方がマシな目に合うからな!ふふふ。あはははははは!」


 耳障りなギャギャギャギャギャという音に男の高笑い。耳が潰れそうだ。


「んんん!」


「あとで可愛がってやるから大人しくしてろよお!その顔、愉快だなぁ」


 危険だ。この男は人生で一番危険な人物だ。雰囲気がおかしい。ラステルは周囲を目だけで探った。その瞬間男の手がラステルの口元から離れ、頬をぶたれた。


 その一瞬の隙に男の腰に下げられていた短刀を奪い取った。


「おうおう威勢がいいねえ。お前プーパじゃねぇのか?俺のとは顔が違えしなあ。でも良く似ている。あははははは!」


「プーパ?」


「声も似てるなあ!ふふふふふ。あはははははは!さあ良い子だ戻ってこいよお?」


 男が両手を降参というように挙げた。声で余裕があるとすぐ分かる。このまま何処へ行くのか分からないが、連れて行かれたら何をされるか分かったもんじゃない。ラステルは短剣を男に向けたまま操縦席から外へ踏み出してすぐに身を投げた。こんな男に蹂躙じゅうりんされることなど許したくない。


「おいおいおいおい。流石にそれは予想してねえ!パストゥム捕まえろ!」


 男が叫ぶ前にパストゥムと呼ばれた塊の腕は伸びてきていたがラステルは体をよじって避けた。飛行機が遠ざかっていく。また空中落下かとラステルの涙が上空へと吸い込まれていった。今度こそ死ぬのだとラステルは広がる景色を見渡した。


 純白の絨毯のようだった大地は薄汚れ、ペジテ大工房からは巨大な銃口が伸びている。しかしもう大地は赤くない。黄色味の強い橙色の灯りが、地を這う蟲たちがペジテ大工房に背中を向けて歩いている。飛行できる蟲は海や山の方角へと飛んでいっている。


 ラステルの知らない間に憎しみが憎しみを呼んだ、何の意味も無い争いが終わったのだ。結局この争いは何だったのだろう?


「セリム……」


 きっとセリムだとラステルに自然と笑みが浮かんできた。ずっと胸の奥に響いていたセリムの想い。どんな命をも尊ぶ気高い想い。人の争いは知らないが蟲の憎しみはセリムが溶かした。それだけははっきりと感じる。


--ラステル・レストニア。崖の国の王子セリムの妃。今日からそう名乗れ。その身を風の神が守ってくれる。


 わずか数日だけの妻だったけれど、彼と結ばれることが出来て幸せだった。こんなにも身に余る名誉を手に入れて死ねる女は今のこの世界で私だけだ。


 飛行機が折り返してきてラステルへ向かってきた。ラステルはそっと左薬指の指輪を撫でてから短剣を強く握りしめた。あの男から逃げないと死よりも恐ろしい目に合う。本能がそう告げている。ラステルの誇りが失われてしまう。


「セリム……ごめんね……」


 ラステルは震える手を強く、強く握りしめて喉元に短剣を突きつけた。それからさっと目を閉じた。


 まぶたの裏には永遠を誓いあった日の、セリムのはちきれんばかりの笑顔が映った。


 

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