愛別離苦の夫婦
深紅に燃え盛る瞳がセリムを睨みつける。降り注ぐ雪と同様、真っ白な肌。浮かび上がる唐紅の激情。取り囲む蟲とは違う憎しみに抗おうとしている燃え盛る闘志と悲痛。
「駄目だセリム。ラステルさんは置いて行こう。彼女だけは安全だ!」
アシタカに掴まれた腕をセリムは振り払った。いつからそこにいた?爆発音は何だったのだ?アシタカが恐怖を浮かべてセリムとラステルを見比べる。セリムは小さく首を横に振ってアシタカの肩を突き飛ばした。
セリムは再びラステルへ視線を向けた。置いて行け?ラステルを取り返しに来た。僕の宝、誇り、そしてホルフルの民の家族。置いて行け?ふざけているのか⁈
「ラステル!お願いだ!僕を見てくれ!セリムだ!」
そう叫ぶとラステルがじっとセリムを見つめた。返事も表情の変化もない。ただ真っ赤に変化した目だけが火炎のように揺らぐ。そこに一瞬若草が現れすぐに消えた。大好きな妻の瑞々しい緑の命の微かな光。まだ違う、奪われてたまるか。ラステルは蟲ではない!たとえ蟲と心繋げて、蟲に蟲だと思われていても人なのだ!
「ラステル・レストニア!我が愛しい妻よ!お願いだ!帰ってきてくれ!」
セリムはラステルに一歩近寄った。しかし
「行くぞ!今は退こうセリム!」
セリムは無理やりアシタカの両腕を振りほどいた。アシタカが「止めろ!」と叫んだがセリムは一歩踏み出す。今は退く?今しかない。これが最後だ。
互いに守るためにぶつかり合った蟲と人の死体の山。
「ラステル!」
無意識に銃を捨て、鞭を棄て、鉈を放り投げた。兜を脱ぎ後ろへと投げる。足りないというのならティダ・ベルセルグと同じく全裸にだってなる。ゆっくりとラステルに向かって歩き出した。生き様?これがレストニア王族の、いや崖の国レストニアの生き様だ。
--心臓に剣を突きつけられても真心を忘れるな
--憎しみで殺すよりも許して刺されろ
崖の民の誇り。崖の国の王子としての矜持。愛する者に対するならば尚更だ。セリムは両手を挙げて足を進めた。
「ラステル。帰ってこい」
身を守るものはもう何もない。
ギギギギギギ
ギギギギギギ
鳴き声の大合唱に耳が貫かれた。痛みで耳を押さえたかったがセリムは手を挙げたままラステルに近寄った。
一匹の
あの時の疑問が鮮明に蘇る。
--何故草食の蟲に牙がある?
--襲うためだ
--何のために?
--守る為だ
--誰を誰から?
これから先、ラステルが人として生きるには過酷だとレークスは言っていた。
「守るために牙を向ければ、また牙に噛み砕かれる。引いてくれ。その人は僕が守る人だ。ラステルはセリムが守る相手だ!お前達ではなく僕が守る!」
暗闇の中でセリムは
〈テルム〉
胸の奥に音が飛び込んできた。直接響く声。新鮮な風がセリムの頬を撫でる。視界が開けた。セリムを噛み砕こうとしていた
瞳は瑞々しい若草の色。
セリムが大好きなラステルの瞳と同じ色。
全身から力が抜けて、雪の積もる大地にセリムはへたり込んだ。
〈テ、テ、テ、テルム〉
歌うように声が頭の中で反響する。喜びに満ちたその歌にセリムは力が戻るのを感じた。ラステルと目と目が合った。ああ、帰ってきた。セリムの愛しいラステルが帰ってきた。
「セリム!」
ラステルが駆け出して寄ってくる。新芽の色をしたいつものラステルがセリムを求めて走ってくる。ラステルを取り囲んでいた
「ラステル!」
まだ力が入らなくてセリムはその場で座り込んだまま大きく腕を広げた。
「蟲姫……か……」
セリムは小さく呟いた。とんでもない妻を娶ってしまった。しかし一粒の後悔もない。なんと誇らしい妻なのか。人同士でさえ醜く争い互いに食い合った結果この惨劇。人だけで傷つけ合うならまだしも無関係な蟲まで利用した。蟲同士でさえ一時は反目し合った。なのに、ラステルは本来は意思疎通の出来ない人と蟲を繋ぐ。セリムが背負いたい誇りを胸に燃やして一歩も引かなかった。
ラステルこそがセリムの守るべき
〈テルム、テルム〉
いつの間にかセリムの頭上に手の大きさ程の
「お前が助けてくれたのか?」
返事はない。しかし親愛が伝わってくる。
「テルムが産まれるんだっけか?」
やはり返事はない。それでも思慕だと分かる。
「セリム!」
両手を広げたラステルがすぐそこまで来ている。
「ラステル!」
やっと力が入りセリムは立ち上がった。それから必死に大地を蹴り、
白く滑らかな白い腕がセリムを求めている。
それなのに互いの手が宙を切った。
突如現れた飛行機がセリムとラステルの間を切り裂くように横切る。飛行機の腹に逆さ立ちする男が両腕を伸ばしていた。その腕がラステルの腹を抱えるように掴む。
「ついに見つけたぞ!殺戮兵器蟲の女王!」
高笑いが響いた。無数の目がある兜に包まれて顔が見えない。兜の目が次々とセリムを睨んだ。いや笑っているような視線。誰だ?誰だ!
「ラステル!」
「セリム!」
伸ばしあった手がみるみる遠ざかった。セリムは飛行機とは反対方向に一目散に走り出した。痛む腹部を手で押さえ、
ギャギャギャギャギャ
ギャギャギャギャギャ
規則的な機械音が飛行機から発せられた。飛び立っていた多羽蟲ガンが三つ目を黄色く変色させて、くるくると落下する。
遠ざかる飛行機。
その時、周囲の風の流れが変わる予感にゾワリと全身の毛が逆立った。
これから突風が吹き付けてくる。新雪が舞い上がり視界が遮られればラステルの行き先が分からなくなる。
予報は当たった。
風詠の天候予報は外れない。ましてや風については外れる事がない。
本来は希望を得るための能力。それが絶望をもたらす。やっと手にかけた
「畜生っ!」
吠えるようにセリムは叫んだ。
不気味な機械音が遠ざかっていく。
猛吹雪で一面が純白に変わった。
初めて唇を重ね、通じ合った互いの想い。誓いを立てて
数日前に噛み締めた幸福が手から溢れ落ちてゆく。
「ラステル……」
あまりの落差にセリムは両膝をついて慟哭した。意識が掠れていく。ラステルは僕が守るべき……ひ……。
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