親娘の再会

 機関室に入るや否やイブンはセリムが紹介する前にラファエの側に近寄った。


「よくご無事で。心配していました」


 ラファエは目を見開いて首を斜めに傾けた。


「その声もしやイブン様?」


 ラステルが「え?」と驚きの声を上げた。


「気づいていただけるとは嬉しいです」


 防護マスク越しに熱の含まれた声がした。ラファエの隣にいるテトがラステルの上着の裾を掴んで耳打ちしている。イブンが誰なのかを聞いたのだろう。イブンが防護マスクと顔出し帽を脱いだ。照れたような微笑みを浮かべている。


「ハク。テト。彼はイブン。ラファエさんの婚約者だ。わざわざ迎えに来てくれたそうだ」


「どういうことですかイブン様?」


 ラファエは防護マスクを外して少し彼から離れた。信じられないといった様子のラファエにイブンは傷ついたのを隠すように苦笑を浮かべた。ラファエもまた自身の無意識の後ずさりに気がついて申し訳無さそうに俯いた。


「ラファエさんとラステルさんが不在というのを耳にして。あの。その。噂でですね」


 精一杯という様子の笑顔のイブン。眉尻が切なそうに下がっている。


「イブンは蟲の声が聞こえるんだ」


 セリム以外の一同の目が点になった。


「セリム。勝手に話さないでくれ!ああ、もうお終いだ」

「イブン様はラステルと同じなのですか?」

「蟲の声とは何ですかセリム様!」

「どういうことセリム?ラステルと同じってどういうことラファエ?」

「セリムに聞こえた蟲の声と同じものが聞こえるのイブン様?」


 その場の者が一斉に話し出したのでセリムは両手を大きく振って「順番に」と告げた。


「お終いとはどういうことですか?イブン様」


 ラファエが珍しくしおらしい仕草でイブンを見つめた。今度は一歩イブンへ歩み寄る。


「恐ろしいでしょう。こんな男」


 深くため息を吐いてイブンは悲しそうに俯いた。


「蟲に聞いてラファエさんが蟲森からいなくなったと知り探していたそうだ。それから昨日僕を見つけて、手がかりだと思って1人で研究塔まで探りにきた。恐ろしいのに震える体を抑えてな。それで僕と会った」


 セリムはラファエにイブンの誠実さを伝えたかった。一度しか会ったことのない婚約者なら政略結婚だろう。


「セリム。また勝手に」


 睨まれるかと思ったがイブンは切なそうに微笑むだけだった。


「イブン様本当ですか?」


 涼しい顔や激昂ばかり作るラファエの端正な顔には珍しく親しみの滲んだ困惑が浮かんだ。


「だいたい合っています。ラステルさんと蟲の卵がいなくなって蟲が騒いでいました。グリークにラファエさんはラステルさんと共に少し外出していると聞いてとても心配だったのです」


 さらさらとイブンの黒髪が肩の上で揺れた。ラファエから目を逸らして気まずそうに、悲しげにしている。ラファエは逆に感激したように目を潤ませていた。


「私、形だけの伴侶になるかと思っていましたの。結納の際にイブン様は口も開いてくださらなかったから」


 少し震えた声でラファエがぽそりと呟いた。


「イブンはラファエさんをタリア川の至宝と呼んだよ」


 セリムが告げるとイブンが目を白黒させ、ラファエはほんのり頬を赤らめた。


「イブン様二人で話があります。今後の私達にとても重要なことです」


 ラファエがちらりとセリムに視線を送った。


「それを聞いてもなお私と親しくするおつもりがあれば喜んで受け入れます。ちょうど傷心の身。貴方の勇気と真心にすでに胸がいっぱいです」


 ラファエがセリムに向けた熱っぽい表情で何故あれほどまでにラステルに怒っていたのか、セリムに苛立ちを抱えていたのかが今頃理解できた。セリムはどうやら慕われていたらしい。だが思い返してみても瞼に浮かぶのはラファエの険しい顔つきばかりだった。


「姉様!あの!」


 ラステルもセリム同様気がついたようだ。ラファエの手を握り首を横に振っている。ラファエがラステルの耳元で何かを告げた。途端にラステルの大きな若草の瞳がうるんだ。


「さあこれより先は蟲森の民の問題。日が沈む前に進まねば蟲森の蟲達が活発になります。駆け落ち夫婦は早く去りなさい。アシタカさんとパズーさんを待たせてはいけないわ」


 話が見えないとイブンが一同を見渡した。


「イブン。僕は君を信頼する。我が崖の国の娘を頼む。研究塔の本は好きに持っていって構わない。これを」


 戸惑っているイブンにセリムは手袋を脱いで自分の王家の指輪を握らせた。


「ラファエさんとほとんど揃いだ。あの塔で誰かに会ったら見せろ。我が誇り高き民なら受け入れる。違う民ならまあ逃げろ」


「セリムさんその指輪は」


 ラファエが顔をしかめた。


「僕にはこっちがある。兜もな」


 セリムは婚姻指輪をラファエに見えるようにした後に兜を軽く拳で叩いた。


「私、みんなにも頼んでおきます。セリム少しだけ蟲森へ行きましょう。テトこれを」


 ラステルが傍観していたテトのゴーグルと防護マスクを外した。それからラステルの防護マスク、蟲森の民のマスクをテトに被せた。


「ハク。留守を頼む」


「はい。あの……」


「何だ?」


 言い淀んだハクがイブンを疑惑の目で見つめる。


「僕の人を見る目を疑うか?」


「いえ。いや。いいえ。仰せのままに」


 腑に落ちないようだがハクは引き下がった。


「ラステルさん今の蟲森へ踏み入れるのはやめておいた方が良い」


 イブンが恐々とラステルに近寄った。


「逆よ。騒いでいたのなら私行かないと。そんな予感がするんです」


 ラステルはテトから脱がした防護マスクとゴーグルを身につけた。セリムはラステルの手を握った。


「行こう。遅くなると日が落ちる」


 セリムは砂地へ続く扉を開いた。


「僕だけ話が全く見えないんですが」


 イブンは首を傾げながら顔出し帽と防護マスクを身につけた。


「未来の伴侶が懇切丁寧に教えてくれる。君は必ずそれを受け入れるだろう」


 ますます訳がわからないといったイブンにセリムはニッと歯を見せて笑った。今度会えた時は酒の肴に気の強い妻の愚痴をこぼし合う。そんな未来を想像してみると実に愉快だった。


***


 蟲森に一歩踏み入れると怒涛のように蟲の声が響いてきた。思わず身が竦む。イブンも同じように体を小さくした。


〈おかえり〉


〈おかえり〉


〈おかえり〉


 蟲の声が反響してセリムの胸を占拠していく。ざあっと風が舞うのを感じた瞬間、四方八方に多羽蟲ガンのが姿を現した。テトが大きな悲鳴をあげた。途端に多羽蟲ガンが羽をばたつかせてギギギギギギと威嚇の鳴き声を蟲森に響かせる。他の蟲達も集まってきてセリム達は蟲の大群に囲まれた。


「テト。落ち着いて。敵意はないわ。瞳の色を見て。静かな緑でしょう?」


 ラステルがテトの肩を抱きしめた。セリムもテトの手を握り締めた。ラファエとイブンが身を寄せ合っている。


「恐れることはない。こちらから手を出さなければ襲ってはこない」


 確信はない。でもこれ以上テトを怯えさせられないので多分とは言えなかった。握り締めたテトの手袋越しに震えが伝わってくる。無理もない。生まれて初めて蟲を見たのだ。巨大な昆虫。テトにとってはただの御伽噺に出てくる化物。今この状況はセリムも恐ろかった。


「ラステルさん、ガンが何を言っているか分かるか?」


 イブンの声は冷静で穏やかだった。だがどこか棘のある声色。


「いえ。ただ戸惑っているのは分かります」


 ラステルの声にも動揺が滲んでいた。


「どこへ行っていた。心配した。おかえり。怪我はないか?病気はないか?まあそんなところだ」


 今度ははっきりとイブンの声に恐れが含まれているのを感じた。


「まあ。皆ありがとう。私はとても元気よ」


 ラステルがテトから離れてキヒラタの上に登って叫んだ。


「ここにいる方々のおかげなの。どうか私がこの森を去っても彼等を丁重に扱って。また会いにくるから。お願い。みんなを守って」


 ラステルが大きく手を広げてぐるりと体を一周させるとガンは次第に静かになった。 


〈姫は人が嫌い。なのに姫はこの人たちが好き〉


 またセリムに蟲の声が聞こえてきた。


「また少し出かけてくるの。でも大丈夫よ。そこの兜を被った人をいつも見ていたでしょう?彼と一緒だから大丈夫」


 セリムは思わずテトの手を離してラステルの横に登った。


「崖の国のセリム。ラステルを妻に迎えた。西へ旅行してくる。無事に帰ってくると約束しよう」


 ギギギギギギギ


 ギギギギギギギ


 蟲達がまた威嚇のように鳴き声を上げた。しかし多羽蟲ガン達だけは静かにしている。そしてセリムを凝視している。他の蟲達はみんなラステルを見ているのに多羽蟲ガンはセリムに若草の三つ目を向けている。


「セリム。彼達は大きな声で威嚇してくる人間怖いと言っている。武器をたくさん持っているとね」


 キヒラタに登ってきてセリムの隣に立ったイブンがセリムに囁いた。ラファエとテトが手を繋いでキヒラタに登ってくるとイブンにぴったりとくっついた。


「それでみんな怖いと感じているのね」


 ラステルがセリムと腕を組んだ。


「ほら。みんな大丈夫よ」


 だが蟲の鳴き声は激しくなるばかりだった。セリムはそっとラステルの腕を下ろさせた。それから背中に負っていた鉈長銃なたちょうじゅうをはずして足元に置いた。その後は腰ベルトに挿した短剣。次に腰に下げた鞭。最後に兜を脱ぎイブンに渡す。それからセリムは両手を高く掲げて一歩踏み出した。


「崖の国のセリム。ラステルを妻に迎えた。西へ旅行してくる。無事に帰ってくると約束しよう」


 セリムは先程よりも出来るだけ穏やかな声を出した。次第に蟲の鳴き声はおさまり蟲森は静まり返る。セリムは「やった」と小さく拳を握ってイブンへ視線を投げた。


「よくそこまでできるなセリム」


イブンのはっきりと呆れた声で呟いた。


「どうだ?信じてもらえたか?イブン」


「へんてこりんな人間だ。人間か?みんな近寄るなって言っている」


 イブンのため息交じりの声にセリムは落胆した。何故かラステルが笑い出した。


「みんな大丈夫だったら!本当よ!」


〈テルム、テルム〉


 セリムのゴーグルの前に多羽蟲ガンの幼生が1匹現れた。ひょこひょこと上下に羽ばたいてセリムの頭の周りを飛行する。


〈テテテテテ〉


〈子どもよやめなさい〉


〈テ、テ、テ、テルム、テ、テ、テ、テルム〉


「イブン聞こえるか?」


「ああ。この間からテルムと歌って、一体何なんだろう」


イブンの疑問にラステルが首を傾げた。


「テルム?アシタカさんの祖先でしょう?セリムとイブン様に蟲がテルムって言っているの?」


「いや多分ガンの幼生達だけだ」


ザワザワ、パキパキと言う音がして蟲達がセリムの正面に道を開いた。左右に様々な蟲が並んぶ蟲の道。セリムは思わず一歩踏み出した。体がガクンと傾いた。


「セリム!」


苔だらけの蟲森の大地への転落はそんなに痛くなかった。キヒラタから落ちたセリムをラステルがキヒラタの上から覗き込んでもう一度「セリム」と名前を呼んだ。セリムはひらひらと手を振って正面の道を眺めた。


〈テルテテ、テルテル、テルム〉


歌がだんだんと大きく響いた。小振りな多羽蟲ガンの群れが道の真ん中を飛んでくる。まるで一個体のように塊になって。


〈しょうがない子ども達だ〉


ジークやユパがセリムに告げるのと同じ種類の呆れ。それがセリムの中に声として響いてくる。


「セリム大丈夫?」


ラステルがセリムの元へと降りてきた。


「見てラステル!蟲の道だ!聞いたかラステル。蟲に人間かって疑われている。そんなに僕は変か?へんてこりんだって!」


「まあ心配して損した。セリムったら楽しそう」


セリムを見下ろすラステルにセリムは目で笑ってみせた。ゴーグル越しの目でラステルも微笑んだのが分かった。小振りな多羽蟲ガンの群はセリムとラステルの少し手前まで近寄ってくると急に飛散した。ゴロゴロと何かが投げ出された。


人だ。


「あの虫笛に服……」


ラファエの服と同じ紋様の服装にズボン。それから手には長いほこのような物を握っている。ラステルが以前見せてくれた笛に似ていた。


「お父さん!」


ラステルが走り出すのと蟲の群れから現れた人が叫ぶのはほとんど同時だった。


「ラステルか⁈」


ラステルが転びそうになりながら父親と呼んだ人の元へと飛び込んだ。蟲から現れた人も立ち上がってラステルに大きく腕を広げて受け入れた。


「ヴァル……」


ラファエの声にセリムは顔を上に向けた。いつの間にかイブンと彼にピタリと寄り添うラファエとテトが立っていた。


「タリア川ほとりの村緑連に属する唄子ヴァル……挨拶しないと!」


セリムは体を起こして二人に駆け寄った。途端にヴァルがラステルを抱き締めたままほこの刃をセリムに突きつけた。セリムは両手を挙げて立ち止まった。


「お父さん!やめて」


「ラステル。いいんだ。ご挨拶が遅れた無礼を謝ります。ラステルの父上ヴァル殿。我が名はセリム。崖の国のセリムです」


防護マスクで顔は見えない。返事もない。セリムはじっとヴァルが反応するのを待った。ラステルはヴァルに抱き締められながらセリムへと顔を向けている。ゴーグルの中で困ったような目をしていた。


「崖の国?」


探るような声。セリムはゆっくりと首を縦に振った。


「砂漠を越え、連なる山と森の奥地にある小さな崖の国。父の名はジーク。兄の名はユパ。旧王と新王です。崖の国の王子セリムと申します」


「セリムは外界の人なのよ」


ラステルがヴァルの腕からするりと抜けてセリムの左脇に立った。


「私この人の妻になりました」


ラステルがあっけらかんと口にした。それは流石に急な説明だよと伝えたくてセリムはラステルの袖を引っ張った。


「何だと⁈外界?妻⁈」


案の定信じられないというヴァルの叫びが蟲森に木霊した。大人しかった蟲達がギギギギギと鳴き始めた。


〈静かに静かに大事な話をしている〉


また静かになった。ラステルが「どうしたのかしら」と呟いた。セリムは「ガンが静かにと諭してくれた」と素早く小声で告げた。


「順番が逆になって申し訳ございません。昨夜誓いを立てました。タリア川ほとりの村緑連に属する唄子ヴァルの愛娘ラステルを我が妃にと望んだのです。ご挨拶が遅れて申し訳ありません」


「待った。待ってくれ。突然蟲に襲われたと思ったらラステルがいて……。その服装は何だ?結婚?外界人?どう言う事だラステル!」


ヴァルがラステルの両肩を掴んで揺らした。


「蟲のことは知らないわ。無理と思いながらお父さんに会いたいと願っていたから叶えてくれたのかしら」


「そのような戯言を大っぴらに!」


更に大きくラステルを揺らすヴァル。


「すべて知っています」


セリムはヴァルの左腕にそっと手を乗せた。途端にヴァルはほこをセリムに向けて構えた。


「お父さんやめてってば!セリムは全部知っているの。それでも私と結婚したの」


突然ラステルが防護服を脱ぎ始めた。薄く白いワンピースだけの姿になるとラステルはヴァルとセリムの間に立った。それから左手の甲をヴァルに向けて掲げた。崖の国レストニアの婚姻指輪がラステルの左薬指でキラリと輝いた。

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