蟲の声を聞く者と蟲姫の違い

イブンが大鷲凧オルゴーを怖がるのでセリムは仕方なくゆらゆら大鷲凧オルゴーにぶら下がりイブンと並んで進んだ。丁度良い風が吹いていて良かった。


「お久しぶりですラファエさん。お久しぶりですラファエさん。お久しぶりです……」


俯き気味に歩きながらイブンが同じ台詞を繰り返す。


「そんなに緊張するのか?」


イブンがセリムを見上げた。


「そりゃあそうさ。祭事や式典でいつも輝いている辺境のタリア川の宝石。結納でもろくに話をしていないんだ」


言い終わるやイブンはまた俯いてぶつぶつを続けた。


「なあどうしてイブンは蟲の声が聞こえるんだ?僕が不完全ってどういう事だ?」


セリムの問いかけにイブンはぶつぶつをやめてまたセリムを見上げた。


「何故何人間。蟲が君をそう呼んでいる」


「そうなのか。祖国でも同じように呼ばれているよ」


その通りだから仕方ない。セリムは素直に笑い声を上げた。


「では僕が逆に問う。いつから蟲の声がする?」


「昨日の昼に蟲森を訪れた時だ」


多羽蟲ガンの幼生を蟲森へ帰しにきたあの日に初めて奇妙な感覚を得た。


「その前後に変わった事は無かったか?」


蟲や蟲森関連で考えてみる。ラステルとラファエが崖の国に踏み入れた。それからガンの死。自然に考えればそれが1番関係ありそうだ。


「前の日我が国にガンが現れた。初めて蟲が殺されたのを見た」


ラステルは殺された多羽蟲ガンは逃げてきた。苦しくて死を待っていたとそう言っていた。死後役に立たないのは無駄死と言い放った。セリムは助けてやりたかった。悼むべきだと思った。だからラステルの意見にそういう考えもあるのかと理解しても、未だ消化しきれない。


「恐ろしかったかい?聞くまでもないか」


イブンが柔らかく告げた。防護マスクで見えないが微笑んでいるだろう。


「悲しかった。死とはそういうものだ」


「それだ。おそらくそれだ」


イブンが砂地すれすれを飛行するセリムの胸をそっと拳で叩いた。


「セリム。君は人も蟲も、いや命というものに区別をつけない。心を開いている」


抽象的すぎて納得が出来ない。


「それだけ?」


かぶりを振るとイブンは前方を向いた。|番鷲

《ディーテ》の姿が砂丘に現れていた。


「君は蟲かそれに類似した体液や粘液と触れたはずだ」


「どういうことだ?」


傷を負っているのに多羽蟲ガンの体液に手を突っ込んだ事を思い出す。あれだ。あれに違いない。それからふとラステルに初めてキスをしたのはその前だと思い至る。蟲に類似した・・・・・・とわざわざイブンが付け加えた理由。体が熱くなるのを感じてセリムは深呼吸した。防護マスクで表情が伝わらなくて良かった。セリムの顔は赤いだろう。


「怪我をしている時に多羽蟲ガンの体液に触れた」


なるべくさらりと口にした。


「そうか。そっちなのか」


まるで独り言のようにイブンが呟いた。その響きは想像していた解答と違うという風に聞こえた。セリムにも正解は分からない。


「蟲の体液にそんな効果があるのか?」


「いや。感染して無事だった場合だ。ただ体液に触れただけでは何も起こらない。体の内部に蟲の体液、それもガンの体液が感染してなお異常がない。それが条件だ」


少し冷えた声だった。


「イブン君もそうやって感染したのか?」


「蟲に心を開いているかは僕の推論だ。滝の村の長一族の赤子は誕生と共にガンの体液で沐浴し死ななかった子は必ず次期長として育てられる。滝の村だけの長一族だけの秘密の習わし。生き残る子は滅多にいない」


ゴーグルの中でセリムは目を丸めた。


「そんな非道な……」


「生き残って僕ほど蟲の声を聞くことは稀らしい。おかげで幼少から煩くてかなわないよ。蟲むす……ラステルは人が嫌い。僕も人は嫌いだ」


蟲森で蟲の声が聞こえるというのがどれほど有用なのかは想像に容易い。幾多もの犠牲を払ってでも、喉から手が出るほど欲しいというのも。強い風が横から吹き付けてきた。セリムは逆らわずにくるりと大鷲凧オルゴーで少し高く舞った。蟲森が視界の端にうつる。


〈人の王は人が好き〉


楽しそうな嬉しそうな響き。


〈鳥が飛ぶ〉


〈テルム、テルム〉


祝福ならば祝いテルムなのか?人の王とは蟲がセリムをそう名付けたのだろうか。すっとイブンの脇へと下降するともう蟲の声は聞こえなかった。


「おかえり。また何か聞こえたかい?もう何年前だ?君を見つけて興味を持った。僕は先ほどのように臆病者だ。だからずっと見ていた」


熱のこもった声色だった。先程の蟲の声と同じ楽しそうな嬉しそうな。初対面のラステルから感じた好意と全く同じだ。


「僕は蟲を好きだと思ったことはない。祖国の民を誇りに思う」


正直に伝えた。イブンはゆっくりと頭を横に動かした。


「でも蟲を対等に扱う。恐れすぎたり無下にもしない。尊重するべき相手として接する。ラステルや僕のような人間に会う前から。ずっと話をしたかった。セリム。君の目に映る世界を聞きたかった」


人が嫌いなイブン。彼が言うにはラステルも。ラステルは出会ったばかりのセリムに蟲森の民は蟲が大嫌いだと悲しげに言った。


「ならどうしてラステルとは話さなかった。同じだろう?」


互いに孤独を埋めあえたはずだ。そうであったならラステルはセリムと出会わなかったかもしれない。セリムの腕の中におさまらなかっただろう。それは良くないが幼少期のラステルの寂しさを想像すると胸が痛む。イブンも同様であっただろう。


「違う!」


先程の穏やかさとは打って変わってイブンの声は微かに震えていた。


「僕は蟲の声が聞こえる。でも意思疎通ができるわけではない。君も感じているはずだ」


セリムの問いかけに多羽蟲ガンが応えた事はない。そういう事なのだろうか?ラステルは蟲の気持ちが分かる。会話をしているのかと聞いたら何となく通じ合うだけだと言っていた。言葉を交わしているのではなく何と無く感覚で理解し合っていると。セリムが蟲の声を聞いたと告げたときの驚愕とかすかな羨望の瞳を思い出す。


「そうだな。でも……」


「感染が弱いのか受け入れる器が小さいのか分からないが、僕と同じくらい蟲の声を聞けば分かる」


セリムの言葉を遮るようにイブンが声を出した。


「蟲はラステルを人の形をしたガン・・・・・・・・だと思っている。だから愛しているんだ。子供で仲間。僕達を人間だと認識して心開いているのとは根本的に違う。蟲に姫と呼ばれている人間。表面上はどうだか知らないが人が嫌い。うっかり傷つけでもしたら何が起こるか分からない」


しばらくセリムは言葉を失った。


イブンの蟲娘の意味。


蟲姫。


比喩でも何でもなくまさしくラステルは蟲姫。


--蟲愛づる姫の瞳は深紅に染まり蟲遣わす。王は裁きを与え大地を真紅で埋める。テルムは若草の祈り歌を捧げよ。


蟲が愛する姫ラステルの瞳が深紅憎しみに染まる

蟲遣わす王ガンは裁きを与え

大地を真紅憎しみで埋める


ペジテの伝承はこうなるのではないか?


そしておそらく若草の祈り歌蟲姫の歌。ラステルの歌はガンを呼んだ。意志を伝えられていた。


テルムは祈りではないはずだ。蟲は告げた。テルムが産まれると。だからテルムは何か別の固有名詞。アシタカはテルムの子孫だと言った。本当にそうだろうか?テルムは人と蟲姫と蟲を繋ぐ何か。架け橋。


かつてラステルのような娘がいた。だからクロディア大陸に残る蟲波の伝承や蟲への畏怖や警告の言い伝えがある。だがこの大陸の人間は滅んでいない。アスベルの故郷、海の向こうの異大陸は失われたがセリム達は生きている。蟲の怒りを鎮めたテルム。蟲姫がもたらしたクロディア大陸の未来。


「セリム?恐ろしいと思うだろう?」


イブンの恐怖とセリムが気がついた畏怖は違う。全身に鳥肌が立つ。動揺で大鷲凧オルゴーが暴れて大きく揺れた。何とか立て直してイブンと並ぶ。


「光栄すぎる伴侶を得て畏れ多いさ。人と蟲を繋ぐ絆を持つ者。それは化物ではなく偉人だよイブン」


ラステルに告げた時は感覚による言葉だったが、今は違う。確信して言える。ラステルはセリムには勿体無いほど尊い娘になる。セリムのオルゴー誇りはあまりに偉大すぎるかもしれない。


「そうか。君と話していると僕も人が好きになれそうだ。やはり不思議な人だ」


番鷲ディーテの操縦窓から機関室にいるラステルの愛くるしい笑顔が見えた。セリムはラステルに相応しい誇り高き男であるべきだと一人胸の奥で、誰へでもなく自分に誓いを立てた。それから大鷲凧オルゴーの上に一旦乗って大地へ着陸するとラステルに向かって大きく手を振った。

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