滝の村のイブン
空いていた隣の席に座った人が予想外過ぎてセリムの手元は狂った。
「テト!」
叫びながらぶれた船体を立て直す。
「私ラファエさんの所にいるってパズーに伝えて」
全身防護服に身を包んでいるテトが高らかに宣言した。ゴーグルの向こうの目元は真っ直ぐにシュナの森を見つめていて、チラリともセリムを見ない。
「何だって⁈」
また叫びながら今度は操縦には影響が出ないように両腕に力を込める。セリムとテトの間に立ったのはラファエだった。蟲森を出立したときと同じ格好。
「こんな物まであるのね。外界って」
涼しい顔だが何処と無く楽しそうに目の前の光景に防護マスクを向けるラファエの声。それには感嘆が混じっていた。
「全部聞いた。一晩ラファエと話し合って決めたの。私ラステルとセリムの代わりになる」
「和平を取り付けたと父に話すわ」
異論は認めないと言うようにゴーグル越しにセリムを睨むテト。表情の見えないお面のような防護マスクをセリムへ向けるラファエ。セリムの脇、ラファエとの間に今度はラステルが立った。
「説得は無駄よ」
ラステルが肩を竦めた。
「崖の国と和平を結んだけれどラステルがペジテ大工房へ攫われた。崖の国の王子が救出へ向かってくれている。そうよねセリムさん?友好の証拠として予定外の物をもらえて有難いわ」
ラファエは右手を空に掲げるように顔の前へ腕を上げた。手袋の上、人差し指に向かい合う双頭竜の刻印指輪をはめていた。
「裏切らない証として王子の親友の嫁が村に残る。つまり人質ね」
テトの言葉に納得しかけるが首を振って考え直す。中途半端な人質で筋が通っているのかいないのか分からない。
「姉様とテトで村へ戻るって」
ラステルは賛成らしい。何処と無く嬉しそうだ。
「ハクはいるか?」
「ここに!」
一瞬座席の後方を見るとハクが防護服を着込んでいた。
「先程のは撤回。お前はテトの護衛だ」
途端にラファエの掌がセリムの兜の前面部を叩いた。
「駄目よ。そんな鍛えられた大男は。女は貴重だから絶対殺したりしない。そしてこの指輪とテトが身につけている髪飾り。揃いの紋章。父も流石に無下にはしないわ」
揃いの紋章ということはラステルがラファエに渡した髪飾りをテトが受け取ったということだ。向かい合う双頭竜の紋章。ラファエにはラファエの考えがあるのだろう。しかしラファエは嘘や事の運び方が下手だ。大丈夫なのだろうか。
「私お父さんに渡す手紙を書き直す。正直に話してテトを守ってもらうわ。私を見捨てずに蟲森で育てた男よ。私の自慢の父」
「ヴァルなら父とも対等に渡れる。テトは私が死んでも守る」
セリムの居ない間に何かあったのか三人の結束は固そうだ。
「これパズーに渡して」
テトが何か投げた。セリムは左手でそれを掴む。開いた掌にあったのはパズーがテトに残した髪飾りだった。
「分かった。1日でも早くパズーを連れて戻る」
セリムは大きく息を吐いた。
「セリムさ……。セリム。俺だけ話が見えない」
ハクがラステルと反対側のセリムの座席横に立った。
「ハクはラステルの護衛のままだ。いいかハクとりあえず全部一度黙って聞いてくれ」
シュナの森の終わりが見えてドドリア砂漠が顔を出してきた。
「ラファエさんとラステルは蟲森で暮らす民だ」
はい?とハクは素っ頓狂な声をあげた。セリムは無視して続けた。
「彼等は外界を求めているがラファエさんとテトが説得する。本当は僕の役目だった。だが僕はペジテ大工房へ行かないとならない。近々手を結んだ二つの大国がペジテ大工房を襲撃する。ドメキア王国とベルセルグ皇国という天敵同士が手を組んだ。本気だ」
「それがセ……」
「一先ず最後まで聞け。ペジテ大工房で戦争が始まったら最北のグルド帝国が宿敵ドメキア王国へ攻め入るだろう。王が僕に出征させるはずだった洞窟の国ボブルとグルド第ニ帝国の国境線争いはおそらく一旦休戦になる」
ハクが唸る。セリムは続けた。
「つまり本当なら僕はもう少し崖の国でのんびりしていられた。先にグルド帝国がエルバ連合を相手にしないといいんだが。そのあたりは未知数だ。アシタカの見立てではドメキア王国を先に攻め落とすはずだと」
チラリと確認するとテトも驚いたような目でセリムを見た。世界情勢をラファエからは聞いていないようだ。
「だがドメキア王国の次はどこだ?ベルセルグ皇国か洞窟の国ボブル。ドメキアから奪った戦闘機群は有益だ。地理的な条件でボブルだろう。ちょうど飢饉で弱っているしな」
ハクの喉が鳴った。
「崖の国も巻き込まれる。それでセリム様は先にペジテ大工房の支援をと?たった一人で?」
「少し違う。まず僕は一人じゃない。ラステルが付いてきてくれた。アシタカがいる」
「セリムは一人で世界のために戦おうとしているアシタカさんを支えるつもりなの」
ラステルが口を挟んだ。思わず左手を舵から離してセリムはラステルの手を取った。ラステルは握り返してくれた。
「ドメキア王国にペジテ大工房の味方がいる可能性が高い。アシタカと共に接触する。勃発する前に戦を止める。上手くいくとどうだ。無駄な血が流れない。崖の国の民は戦争が起こりそうだとも知らずに暮らせる」
「可能性が高い?たった二人で何が出来ると言うんです!」
機関室内が震えそうなほど大きな声でハクが叫んだ。
「ペジテ大工房への密告者は丸腰どころか全裸で現れたそうだ。ペジテ大工房の要塞の前に」
「そんな馬鹿な者が……」
「いたんだ。ならそれ以下のことで怯むのは恥だ。どうせ国の為に命を賭けるなら僕はこの道を選ぶ。相手を殺す戦場、敵国を叩き潰す戦争。同じ命を賭けるのならば希望の光を追い求める」
ハクは突然腹を抱えて笑い始めた。
「直感に後悔はありません。主がここまでのお方とは。そんな恐ろしい世界情勢を知らずにいて恥ずかしい。セリム様に着いて行きますよどこまでも」
「様はいらないって。ハクはラステルを頼む。正直心配だったんだ」
ハクがラステルへと視線を向けた。ラステルが慌ててセリムの手を離した。少し頬を赤らめていて可愛い。
「自分の身は自分で守る。だからハクさんセリムをよろしくお願いします」
ラステルが微笑むとハクは頬を赤らめた。こちらは可愛くも何ともない。おまけにラステルから目を逸らさないのも気に食わない。
「いえ!主に従います!ラ、ラステルさんは、そ、そ、その為に駆け落ち騒動を演しつ、出したんですか?」
「その方が崖の国の方々に不安が無いかなと思って。どうしようセリム。罵声は覚悟していたけど私がペジテのお姫様なんてことに。大嘘が崖の国に広まってしまって。帰国できたらどう説明しよう」
ラステルが不安げに俯いた。
「あら簡単よ。アシタカさんにペジテ大工房の姫って肩書きを貰えばいい。協力料よ。嘘は本当にすれば良いのよ」
ラファエがさらりと告げた。ラステルがキョトンとしたあと口元を綻ばせた。
「テト。蟲森の民と絆を繋ぐはずだった二人が誇り高い道を選んだ。私も同じ道を行く。昨夜話した通りよ。崖の国へ進撃させたりしない。貴方の協力を絶対に無駄にはさせない」
ラファエの発言にテトは神妙な顔つきで頷いた。
「進撃⁈」
ハクがまた驚いたように変な声で叫んだ。
「父が崖の国を共通の敵として村々をまとめようとしている。その前に父を説得します。必ず」
「私も伝える。如何に崖の国が大きくて難攻不落か。崖で暮らすのにどれだけの苦労があるのか。悪いところも沢山あるんだから。それから崖の国はとっても友好的だって。争うよりも手を繋ぐ方が価値があるって!」
悪いところが沢山あるというのは王子として耳が痛かった。険しい環境で国民に苦労させているという自覚は強くある。テトは目元しか見えないしラファエはマスクで完全に表情が分からない。それでも二人が笑っているというのは伝わってきた。
「気合い十分だが研究塔までは早くて半日はかかる。寝室で休んでいたらどうだ?ハクは操縦説明をする。この機体は初めてだろう」
セリムに対して返ってきたのは反対ばかりだった。
「私も飛行を覚える。オルゴーとは違うでしょう?」
「テトに蟲森での歩き方を説明するのよ。あと道具の使い方も」
「長時間着ていたことがないから私防護服に慣れないと」
「俺は少し頭の整理をさせてください」
結局副操縦先にはラステルが座り、操縦席の後ろでラファエがテトに指南を始め、ハクは寝室へ引っ込んだ。崖の国だけではなく女は強いようだ。
***
日が傾き始めた頃にドドリア砂漠を抜けた。ホルフル蟲森周囲の砂岩場には
「一刻も早く発たないと帰国が間に合わない」
アシタカの台詞が蘇る。帰国期限があったのだろう。あまりに青ざめていた顔からただならぬ気配を感じた。無事間に合うと良いのだが。セリムが慌てたところで崖の国にはもう手段がない。アシタカを信じるしかなかった。
研究塔前の砂地に飛行機の車輪跡が残っていた。狭いところによく着陸させたなと感心する。オルゴーを屋上に着陸させて二階の消毒部屋へと向かう。見下ろした先の砂地にある車輪跡に三種類の足跡が混じっていた。三種類。セリムの知らない誰かがこの研究塔へ訪れたということだ。セリムは
セリムの検鏡机後ろの椅子に人が座っていた。セリムの見知らぬ服装で、かつてガンがセリムへ落とした蟲森の深淵へ行けるマスクを付けている。その人は背もたれに寄りかかってくつろいで本を広げていた。セリムの製作した蟲森の本。ホルフル蟲森の蟲図鑑と背表紙が読めた。
「我が名はセリム!この塔の主。貴方は?」
思い切って部屋の中へと踏み込むとセリムは叫んだ。斜め左下に銃口を下げて攻撃意思が無いことを伝える。ビクリと体を跳ねた侵入者はマスクを被った顔をセリムの方へ向けた。
「イブン。今は失われた滝の村のイブン。分かるかい?」
穏やかで柔らかな男の声。滝の村は蟲に
「ええ。蟲の怒りをかった村」
「辛辣だな。この本はとても興味深い。おかげで退屈しなかった」
セリム自作の本を掲げてから男はそっと本を検鏡机へ置いた。
〈テルム、テ、テ、テ、テールム〉
昨日の蟲森と同じ音が歌のようにセリムの頭に響いてきた。部屋を見渡すが蟲はいない。この声はどこから聞こえてくるのだろう。セリムはすぐ男へ視線を戻した。
「やはり。聞こえるんだね」
男が防護マスクを外して検鏡机へ置いた。その下の灰色の顔出し帽を頭から脱ぐ。黒く長い髪がサラサラと肩に落ちた。色白で黒目がちの鹿に似た青年。若い。セリムとそう変わらない年だろう。一筋も敵意を感じさせない佇まいで微笑を浮かべている。
「あなたにも声が聞こえるんですか?テルムを知っていますか?蟲の声なんですか?どうして聞こえるのか知っていますか?」
セリムも兜を脱いでゴーグルを外して首にかけた。それから目出し帽も脱いだ。
「そんなに一度に聞かれても答えられないよ」
イブンは歌うようにゆっくりとした口調だ。豪傑を美とする崖の国にはこのような男はいない。厳かとか神聖さを感じさせる優雅さだ。
「すまない」
だんだんと体の緊張が解けていく。
「そういう性分なんだろう。ずっと見てきたけれど不思議な人だ」
微笑みが苦笑に変化した。
「ずっと?」
「ソーサを助けたろう?それからだ」
セリムは目を丸めた。ラステルがセリムに興味を持った時、もう一人セリムを見つけた者がいた。その事実には驚きしかない。
「ええ。それが?」
「それが?面白いね。普通は息の根が止まるのをまってソーサの殻を剥ぎ取るよ」
想像すると可哀想だった。もがき苦しみながら見下されて死ぬというのは悲惨で酷い。
「あのタリア川の娘をどこへやった?」
イブンは初めて顔をしかめて笑顔以外の表情をした。セリムは首を横に振った。
「連れ出しただろう。それは知っている。蟲がまだかまだかと待っている」
懇願のように両手を組むとイブンは一歩セリムに近寄った
「やはりあの声は蟲なんだな?」
「あの声!今は聞こえないのか?」
イブンは怪訝そうだった。
「聞こえない。さっき一度歌うようにテルムと響いてきた。テルムとは何だ?」
「不完全なのか。テルムは僕にも分からない。最近ずっとガンの幼生がテルムが産まれると騒いでいた。そして今はあちこちでテルムと歌っている。何故か
嘘はついていなそうだ。イブンは本当に疑問だというように頬に手を当てて首を傾げている。
「彼女は妻となった。共に行く」
イブンがぽかんと口を開いた。それから急に眉毛を下げてセリムにさらに近寄ってきた。
「ラファエさんはどうした?」
今度はセリムが口を開けた。
「ラファエさん?」
「そうだタリア川の至宝。彼女があの蟲娘と一緒だとグリークが言うが見つからない。それで君を探していた。何年もどこの村の男かと調べていたのに分からなかったし最近見かけないから困っていた」
イブンが落ち着きなくセリムの前を右往左往した。
「そしたら昨日ガンの騒ぎ。君とガンの騒ぎで知った。外界から来ていたんだな。ますます不思議だと思った。不完全そうだが蟲の声を聞ける外界人。おまけに蟲娘が懐いている。妻?あの娘を娶ったのか?」
イブンは興奮気味のようで少し早口になった。
「そうだ。ラファエさんと共に我が国へ招待した」
「何だって?そうか。グリークが隠していたのはこれか。そうかそういうことだな。それでガンは怒っていたんだ。最悪だ。掟破りなんて」
イブンが大きくため息をついた。
「掟?」
「蟲を利用するなかれ。最も重要な掟だ」
セリムの問いかけにイブンは両手で自分の頬を撫でた。
「破ればどうなる?」
「絞首刑。死を持って償ってもらう」
とても冷たい視線だった。ゾワっと首筋の産毛が逆立った。
「利用していない。ラファエさんは僕に蟲を託した。見ていたなら知っているだろう」
「それだ。灰色だ。いやグリークの尻尾を掴んだぞ。あの狐め」
独り言のように呟くとイブンは勢いよくセリムを見つめた。
「それでラファエさんは⁈」
これまでのイブンという人物を総合判断してセリムは全身の力を抜いた。
〈テ、テ、テ、テ、テルム〉
また歌が響いてきた。
「流石にいい加減煩いな。昨夜から浮かれっぱなしなんだよガンの幼生。四六時中歌っている。もしかして蟲娘と結婚したのは昨日か?」
「そうだ」
それが関係があるのか?セリムの疑問は問いかけずとも解決した。
「祝いの歌か。蟲娘の幸福が嬉しくて仕方ないんだな」
イブンが蟲娘と口にするたびに棘を感じる。それから畏怖。この男はラステルを快くは思っていない。
「ラステルだ。名はラステル」
セリムは苛ついてつい言い放った。イブンは気がついたようで苦笑した。それから軽く頭を下げた
「すまない。僕はラステルが結構怖いんだ。話した事がないから余計になんだろうね」
「不気味な化物と避けられているのは知っている」
イブンは大きく頭を横に振った。
「僕は違う。僕が怖いのはラステルがあまりに愛されているからだ。蟲に好かれる唯一の娘。いつかそれが人に牙を向けると考えていた。彼女は人が嫌いだから」
セリムの知るラステルとは結びつかない評価。しかし昨日の蟲の声を思い出した。
〈姫は人が嫌い〉
そうなのか?ラステルのことを考えているとイブンが続けた。
「やっぱり不思議な人だ。その人嫌いが人間の嫁になった。君を尊敬するよセリム。ラファエさんも無事なんだろう。良かった。良かった……」
その場に座り込んだイブンは震えていた。本当はずっとセリムが怖かったのだろう。武装した外界人。蟲森の民には化物同然。セリムを信用して我慢してくれていたという誠実さにさらに好感を持った。
「これから連れてきます。僕は彼女を送りに来たんです」
友好的だと伝わるようにセリムはありったけの笑顔でイブンに手を差し出した。少し戸惑ってからイブンがセリムの手袋を握った。
「すぐ戻ります。待っててください」
「待ってくれ!心の準備が!」
イブンが頬を赤らめた。
「いや。その。婚約者何だが一度しか会ってなくて。ラファエさんのこと一方的にしか知らないんだ」
言い辛そうなイブンの語尾は消えそうだった。
「ならイブンを連れて行こう。君の勇姿は僕から伝える。それがいい」
細かく首を横に振るイブンにセリムは彼の顔出し帽子と防護マスクをつけた。それから自分も目出し帽を持ち上げて頭を覆うとゴーグルと兜を被った。それからイブンの細くスラリとした腕を掴んで研究室を飛び出した。
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