出発の朝

出立に際して残す手紙を認めしたた終わったセリムはグッと背伸びをした。もう一度確認する。


ジークに宛てたこれからの行き先と目的。そして蟲森の民についてとラステルの秘密。ユパには必要だと判断した事だけ伝えて欲しいと書いた。明瞭かつ語弊がないかを黙読する。ペジテ大工房に迫る戦争の気配。ドメキア王国とベルセルグ皇国の陰謀を調べて止める。蟲森の民への和平交渉とラステルの秘密を探しに行くという目的。


セリムは悩んで家族全員に一言ずつ短い手紙を書いてから全部一緒にジーク宛の封筒にしまった。


アスベル先生には研究塔とセリムの研究内容。それから可能であればリノへの戦術や研究の指南。内容を確認した後に最後に一行付け足した。憎むだけではなく心を開いてみてください。蟲をとは書かなかった。アスベル先生は察してくれるだろうか。


トトリ師匠への仕事放棄の謝罪。風詠として育ててもらった御礼。これだけは自然と涙が溢れてきた。病に伏せっていた父や忙しい兄、途中で旅に出たアスベル先生の代わりにセリムを我が子ように可愛がってくれた男。孫と呼んでくれた師。セリムに風の加護を与えてくれた。


「セリム。大丈夫?」


先に手紙を書き終わっていたラステルが立ってセリムの横にきた。彼女の細い指がセリムの目尻の涙を拭う。


「ああ。それにしても不思議だな。蟲森の民と文字も同じだ」


「そうね。だからセリムの事蟲森の民だと思っていたんだもの。ずっと」


怪我した蠍蟲ソーサに薬を塗ってみたのはもう何年前のことだろう。6年か7年かそのくらい昔。


「もっと早くラステルを見つけたかったよ」


「声をかける勇気がなかった。でも見つけてもらおうって少し隠れるのをやめていたの。そしたら見つけてもらった」


照れたようにラステルは微笑んだ。


「隠れんぼは得意なのにな。ちっとも出てこなかったな」


今度は真っ赤になってラステルがそっぽを向いた。セリムは可笑しくてラステルの腕を引いて反対の手でラステルの顔をこちらへ誘導した。


「あんまりジロジロ見るからよ」


掴まれないように纏められた髪。少し尖った耳から下げた深い青色の宝石が揺れた。瞳の色とよく似合っている。崖の国の護衛兵の服に身を包むラステルを本当はもっと相応しく着飾りたい。セリムは軽くラステルにキスして立ち上がった。用意した荷物を抱えてラステルの手を引く。


「行こう。食堂で水と食料確保。それから屋上で武器を選定してオルゴーで飛ぶ。飛行船は向かい崖の東の倉庫。簒奪さんだつして出発だ。まずは蟲森の深淵」


「はい!」


セリムは手紙を机に並べた。ラステルは腰に巻いたポーチに手紙をしまう。手を繋いで廊下へ出ると食堂へ足早に向かう。早朝でまだ誰もいないと思っていたが食堂の扉の前にクイとケチャが仁王立ちしていた。セリムの出奔の検討はついているのだろう。


「セリム!」


「姉さん方。済まない。押し通る」


ラステルの肩を抱いてセリムは拳を握った。クイとケチャは顔を見合わせて笑うと道を開けた。その頬は濡れている。二人がそっと扉を開けると机の上に箱が置いてあった。それから水筒がいくつか。セリムは机に駆け寄ってから二人の姉を交互に見つめた。


「あの!私がセリムのこと必ず守ります!」


誰よりも先に口を開いたラステルがセリムの横に立って深々と頭を下げた。


「クイ姉さん、ケチャ姉さん。必ず戻ります。その時は夫婦揃って叱ってください。ご厚意有り難く頂戴します」


セリムもラステルの横に立って頭を下げた。


「ラステルさん。いくつか料理のレシピを書いて入れてあります。無骨者ですがセリムをよろしくお願いします」


クイが掌で涙を拭いながらラステルを見つめた。ラステルがゆっくりと頷く。


「セリム。きちんとした式典を行わないといけない。だから帰ってくるのよ。二人で」


ケチャが涙を拭かずに歯を見せて笑った。


「必ず。ありがとうございます」


セリムが言い終わる前にクイとケチャが扉を閉めた。


「行こう」


「うん」


ラステルがセリムの荷物と水筒を抱えた。セリムは机の箱を持つ。何か話すと泣きそうだった。ラステルも察したのか何も聞かない。そのまま無言で屋上への階段を上った。武器庫から鉈長銃なたちょうじゅうとありったけの弾丸を背負う。クロスボウは迷ってやめた。防護マスクやゴーグルと念の為に風笛

をラステルの抱える荷物に突っ込む。


「こんなに飛べる?」


「くくりつける。残りは頑張って持ってて」


セリムは縄で可能な限り荷物をオルゴーに結んだ。ラステルに安全装置をつける。


「いつもみたいに」


「はい!」


セリムはオルゴーを固定する装置の停止器具を解放すると軽く押して城壁からオルゴーを落とした。同時に飛び乗る。


「もっとゆっくりお話してみたい。セリムの姉様方」


「帰国したら説教と一緒にな。二人ともおっかないぞ」


セリムの前でラステルが愉快そうに肩を揺らした。あまり風がない。空路を選びながらオルゴーをゆっくり旋回させた。生まれ故郷を目に焼き付けておきたい。荷物で空気抵抗が大きいせいでオルゴーは大暴れするかと思ったが予想に反して大人しく言う事をきく。


「セリム」


「なんだい?」


「少し散歩に行くだけよ」


「ん?」


「いつものように蟲森へ遊びに行って気まぐれに少し遠出した。それだけのことよ」


互いに正面を見ているので表情は見えないがラステルは泣き笑いしているだろう。声が震えている。セリムは大声で笑った。


「そうだな。楽しい新婚旅行だ!」


早い風の道を発見してセリムはオルゴーを傾けた。ラステルの無理矢理な前向きさが好きだ。それが行き先を明るく照らす。オルゴーを東へ飛ばした。風車塔の裏手の山岳地帯。それよりもさらに東の平地に建造された倉庫。そこには人だかりが出来ていた。


「困ったな」


「姉様方と同じだと思う」


ラステルの言う通り倉庫の扉は開かれていた。セリムは人垣の頭上にオルゴーを飛ばして倉庫へと入った。セリムが奪う予定の旧式飛行船ではなく隣の亜旧式飛行船の周りにクワトロと機械技師が集まっていた。セリムはオルゴーを空きスペースに停泊させて飛び降りた。


「ようセリム。こっちの飛行船が餞別せんべつだ。貸してやる。返却しにくるように。皆の者荷物を運び入れろ」


機械技師が何人か集まってきてセリムとラステルから荷物を奪っていった。それからオルゴーも運ばれていく。それを確認していたクワトロが突然セリムに殴りかかってきた。思わず避けてクワトロの背後に回ると腕をねじり上げた。


「全くいつの間にか兄を兄と思わぬその態度。昔は雛鳥みたいに後ろをついて回っていたくせに」


「すみません兄さん」


クワトロは力を抜いてなすがままだった。セリムはそっと腕の力を抜いた。その隙をついてクワトロがセリムの鳩尾に肘鉄を食らわせようとした。しかしセリムはまた避ける。その間にクワトロはさっと身を翻してラステルの肩を抱いて柔らかい頬に口づけした。


「兄さん!なんてことを!」


セリムは思わず叫んだ。


「麗しき妹よ。次に会えた時は共に崖の国を散策しましょう。もちろん夜の柔らかな寝具のなか……っ痛!」


セリムがクワトロを睨んで拳を握ると、今度は口にキスしようとしたクワトロの脛にラステルが軽く蹴りを入れた。セリムの拳は行き場を無くす。


「お兄様。お遊びがすぎます」


「良い。もう一度お兄様と呼んで……っ痛!」


今度はセリムがクワトロの脛を蹴った。


「痛いって!何でお前は本気なんだ!全く。ヴァルボッサ例のものを。」


ヴァルボッサがクワトロの隣に出てきた。両腕に何枚か鎖帷子くさびかたびらを乗せている。


「軽い方は可愛い妹へだ。時間が無かったから他のは元々あるものだ。宝飾と武器もいくつか積んでおいた。それからほら寝ずに作ってやったぞ」


クワトロがセリムに向かって握りしめた右手を差し出した。クワトロはセリムをジッと見つめる。セリムは黙って両掌を揃えて差し出した。開かれたクワトロの拳から指輪が4つ溢れた。


「兄さんこれ」


二つは王家の指輪だった。一つは台座の刻印が向かい合う双頭竜。竜を囲むようにクワトロ・レストニアと刻まれている。ラファエとの約束の品だ。もう一方は正真正銘共食いする双頭竜の刻印。少し小振りでラステル・レストニアと名前が彫られている。


残り二つは王家の婚姻指輪だった。二匹の竜が互いの尾を食らう指輪。習わし通りその背には崖の国レストニアと刻まれていた。そして掟破りの装飾。尾に並んだ青と緑の2種類の宝石。内側にセリムとラステルの名前が彫られている。


「よくこんな短時間で」


「指輪は元々お前がいつ婚姻しても良いように幾つか作成してあったからな。細工はヤムライハと娘が徹夜で頑張ってくれた」


ヴァルボッサがセリムの腕に楔帷子くさびかたびらを乗せた。クワトロがニヤリと口角を上げてセリムの脛を蹴った。逃げないで受けるとクワトロは少し目を丸めてからセリムを抱き寄せた。


「愚弟からろくな説明がないが検討はつく。出征より不穏ないざこざがあるんだろう。まさか嫁を連れて行くとは思わなかったが。昨日の二人の宣言は痺れた。立派になったな」


他の者に聞こえないようにクワトロはとても小さい声で囁いた。セリムは返事の代わりに軽く頷く。胸が熱い。


「互いを大事にしろ。崖に戦火が降り注いできたら俺とユパで守る。お前の分は男どもに頑張らせるさ。頼る相手がいないと皆も奮起するだろう」


「父上に手紙を残しました。すみません。兄さんが出征しないように頑張ってきます」


トントンとセリムの背中を優しく叩くとクワトロはセリムから離れた。


「まさか嫁取りではなく婿入りとは驚いたがペジテのような大きな都市では仕方ない。ひとまず結納の品も揃えたし、さあ皆で見送りだ!急な整備ご苦労であった!」


少し演技臭くクワトロが機械技師たちに告げる。するとどっとセリムとラステルを機械技師の若手達が取り囲んだ。


「セリム様!パズーの次は自分で!」

「ラステル姫!複数人の留学支援も是非検討ください!」

「セリム様だけずるいですよ!こっそり帰ってきて色々ペジテのこと教えてください!」


その後ろでクワトロがまたわざとらしく口を開く。


「ペジテの深窓の姫君を攫ったりするから外交問題にまで発展してしまって。追いかけてきたペジテの王子と話を纏めてレストニア王に許可なくペジテへ婿入り。おまけにペジテ文化交流の道を開くとは。」


クワトロの発言を理解してセリムはそれらしく照れ笑いを浮かべておいた。おそらく王族で口裏合わせしたに違いない。当面セリム不在の不安よりも文化交流という希望で誤魔化そうというわけだ。


「セリム様!我ら工房技師は味方ですよ!クワトロ様がきっとジーク様とユパ様を説得してくれます」


機械技師一同がセリムとラステルに万歳を三唱する。ペジテ大工房の名は機械技師の桃源郷。求心力として効果覿面てきめんのようだ。


「ラステル姫!また是非いらしてください!」


姫と呼ばれたラステルは何とか頑張って微笑んでいる。どちらかというと苦笑い。


「王が来る前に出発してもらおう」


クワトロに促されてセリムとラステルは亜旧式飛行船に足を進めた。振り返ると泣きそうでセリムは軽く手を振るとさっと飛行船に乗り込んだ。機関室にはハク胡座をかいていた。


「お別れは済みましたか?」


ハクが立ち上がって扉を閉めた。


「ああ。ハクお前は本当についてくるのか?」


「セリム様が国を捨てるとは余程の事。国の一大事ならば先陣に立つのが護衛兵です」


割れた顎をさすりながらハクは目を細めた。頑固なのはよくよく知っている。セリムは荷物を床に降ろして握りしめていた指輪をラステルに渡した。それから護身用の短剣を腰から外して両手でハクに差し出した。


「本日より我が妻ラステルの護衛に任命する。無駄を省くためにこれより敬称敬語はいらぬ。私に何かあれば必ず崖の国と我が妻を優先し行動しろ」


「ハイッ!」


ハクは素直に短剣を受け取った。それから自身の短剣をセリムに渡す。


「ハク。ラファエさんは寝室か?」


「眠れぬようで夜が明けぬ前にはテトが連れてきまし……した」


やはりハクは一晩ここにいたのかとその間の自分の行動に罪悪感に駆られる。


「多少は好きにしろ。今は?」


「寝ているかと」


ハクが目線を逸らした。何か隠している。


「あの。ハクさんよろしくお願いします」


ラステルが伸ばした手をハクはぼんやりと眺めている。


「ラ、ラ、ラ、ラステルさん。ラファエさんの元へ案ばっ……案内します」


大広間の大道では手ラステルの手を引いたのにハクは脂汗を滲ませてどもった。時間もないとセリムは操縦席へ足を進める。女人との会話が苦手ですぐ木偶の坊になるハクには荒療治くらいが丁度良いだろう。


「すぐ飛ぶ。上昇するまで二人を頼むぞハク」


「はい」


さあ、とラステルに声をかけたハクの横を通り過ぎてラステルがセリムに近寄ってきた。


「セリム私も後で覚えるわ。これを。姉様の様子を見てくる」


言うが早いがラステルはセリムの左手の薬指に婚姻指輪、小指に自分の指から外した王家の指輪をはめた。それから自分の左手の甲をセリムに見せびらかすように胸元に掲げた。はにかんだ微笑みに思わずセリムはラステルへと手を伸ばしたが、ラステルはさっと背中を向けて立ち去ってしまった。それからラステルはハクの手首を掴んで歩き出した。


「あーあ。後でハクに操縦教えるか」


独り言をこぼしながらセリムはゴーグルを装着してからエンジンを稼働させた。機体が動き出すと操縦席の窓の向こうの機械技師達が道を開けて誘導を開始した。クワトロが倉庫の扉前で大きく手を振っている。


「名はそうだな。オルゴーに因んで番鷲つがいわしのディーテ。微速前進」


機関室には誰もいないがセリムは気合いを入れようと声を出した。


「これより番鷲ディーテを上昇させる。エンジン全開!」


小型飛行船といっても本来は二人操作。セリムはせわしなく腕を動かして準備して昇降舵を傾けた。倉庫を飛び出して番鷲ディーテがレストニアの上空に舞い上がる。大鷲凧オルゴーとは違って風の流れを分断するように船体が進む。


本来は4日後に出発するはずだった。急ぐわけでもないとセリムはゆっくりと崖の国レストニアを旋回した。大河で別れた二つの崖を繋ぐ大橋。水路の要の風車群、生命線の段々畑。悪魔の風から身を守る象徴の風車塔。そして小さいながらも堂々とした佇まいの自宅、レストニア城塔。


「父さん。兄さん。姉さん……」


城の屋上、青地に銀色の刺繍が施した国旗が翻る下にもう自力では立てないジークを背負ったユパが立っている。その脇にはクイとケチャの姿。手紙は読んだだろうか?もう一度顔を見れるだろうか?


セリムは崖の国と家族の姿を目に焼き付けようと瞬きせずに眼下に広がるぼやけた光景を見つめた。その視線の横を風凧が横切った。

賢鷲グレーテにトトリとリノが乗っている。


「カゼノカゴヲ」


トトリは手信号でそう告げると急降下していった。セリムはゴーグルを頭上にずらして袖で目元を擦った。


「これより研究塔を目指す!」


嗚咽を堪えるようにセリムは大声を出した。もう二度と戻れないかもしれない祖国に船尾を向ける。メルテ山脈とボブ山脈の間、シュナの森の上空に進路を定めるとセリムは再びゴーグルを装着した。

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