風の子リノへの約束

崖の国へ帰還すると既にトトリが風凧で巡回していた。風学者が逆突風の予報を出したのだろう。


「トトリ師匠。」


「セリム。来賓を置いてまた蟲森遊びか。流石に感心せんぞ。」


「はい。」


セリムは謝らなかった。まだ蟲との交信に胸がざわついて取り繕えなかった。トトリが不審そうに首を傾げたが発煙筒を高々と頭の上に掲げた。


「避難指示だ。収穫祭に無兆候型とは厄介だのう。それともセリムは砂漠で兆候を見たかのお?」


セリムは首を横に振った。蟲が教えてくれたとは口が裂けても言えない。今口を開くと言葉が溢れて溢れてしまいそうだった。


「ダルトンとテパが観測に当たる。」


トトリが指差した方にダルトンとテパの風凧と防護服姿の2人がいた。テパが今にも吹き飛ばされそうにガタガタと風凧を揺らしている。


「なら僕もこのまま巡回します。」


発煙筒をズボンに巻いた筒入れから引っ張り出すと発煙筒の栓を抜いた。しばらくトトリと並走しそれからセリムは海側へ、トトリは風車塔へと旋回した。風の様子からまだ時間はありそうだ。セリムは大きく国を巡回した。収穫祭だが速やかな避難が行われている。祭宴に溺れきらずに当番をきちんと組んでいたのだろう。後でユパが褒めるだろう。勤労で襲来する毒胞子にもめげない力強い国民達。


「置いて行くのか……。」


一人、呟く。国民を束ねるジークとユパがいる。統治にセリムは必要ない。しかしどうだ。この逆突風。風学者の予報を後押しし、逆突風のさらなる研究の為には風詠が絶対的に必要だ。太陽の元に解放された昼間の安全を担う風車塔。その要。空を巡り、逆突風の兆候を探り、避難指示を出し、時に救命活動をする風詠。セリムを含めて僅かに7名しかいない。


城塔と風車塔から鐘の音が響き渡る。セリムの持っていた発煙筒はもう役目を終えて煙は消えていた。セリムは急降下して分断された崖を繋ぐ大橋の下をくぐった。発煙筒を捨てて大橋と風車塔前の交通路を確認する。もうすっかり誰もいない。東へ移動して段々畑に保護囲いがされていくのを確かめる。防護服姿の国民達が必死に手足を動かしている。


「まだ余裕がある!丁寧に!」


返事はない。それが崖の国の掟だ。助けが必要ならば声を上げる。問題ないなら手持ちの仕事に集中する。セリムはそのまま上昇して山岳地帯へと移動した。家畜はもういない。速やかに崖下の飼育所への避難が完了したようだ。そこから少し北西へ飛んだ。ダルトンが堂々と空中静止している。その隣でテパが必死に片手操縦に励んでいる。


「テパ落ち着け。風をよく詠め。いつも通りだ。」


「はい師匠。」


セリムは黙ってダルトンの横についた。


「セリム様。また蟲森遊びとは感心せん。来賓はどうした。」


「トトリ師匠にも叱られました。ペジテの使者はパズーに任せてあります。」


「またですか。まあいい。セリム様から見てどうです?テパの様子。」


今にも吹き飛ばされて海へ墜落しそうなテパの風凧。セリムは肩を竦めた。


「だな。ほらセリム様に笑われるぞテパ。力を抜け。深呼吸だ。」

「はい!」


自分の修行時代を思い出してセリムは微笑んだ。


「目が笑っているぞセリム様。セリム様もさっさとあそこの風の子を連れていってやりされ。セリム様の弟子期間はとっくに終わっていますから呑気に蟲森なんぞで遊んでいられては困ります。」


ダルトンが指をさしたのは風車塔だった。セリムは目を凝らした。風車の羽根に人影が見える。まだ小さい。子供だ。


「しょっちゅういます。セリム様がいつ気がつくかと思っていたんですがね。トトリと賭けをしていたんですがもう引き分けにする。」


「あれはもしかしてリノですか?」


新たな風詠に近い子供達の中で一番好奇心が強いのはリノだ。遠過ぎて分からないがおそらくそうだ。


「特にこの頃は蟲森遊びが盛んでしたしセリム様だけですよ。気がつかないのは。リノをそろそろ相飛行させてやろうという話があってですね。今日はセリム様の手が割と空いている、丁度良いでしょう。砂漠での嫁探しも終わったようですし責務を果たしなされ。」


ゴーグルの向こうの皺深い目元の皺が更に深くなった。セリムは苦笑いしか出来なかった。


「嫁探しなんて……。オルゴーでこの乱流を相飛行してみせろということですね?」


「如何にも!」


テパ同様新たなる挑戦という訳だ。セリムは大きく息を吸って、ゆっくりと吐いた。


「テパ。僕も頑張るから頑張れ。仕事が終わったら収穫祭だ。君の好きなクリームチーズをテトから貰っておくよ!」


「セリム様話しかけないでください……。」


くるりんと風にひっくり返されてテパが降下した。それから体制を整えて戻ってきた。片手操縦で。ダルトンとセリムは顔を見合わせて笑った。


「集中出来ません。」


テトは必死に片手のままで風凧を制御しようと全体を震わせている。


「気合十分だな。では僕も行ってきますダルトンさん。」


「しっかりお願いしますよ。」


ダルトンが敬礼した。手を挙げてからセリムは風車塔へと向かった。羽根の一つに乗って回っている子供の前で止まる。配給の汎用防護服に身を包み、一眼ゴーグルを装着していて誰かはすぐに分からない。それでもセリムは名を叫んだ。」


「リノ!」


「セリム兄ちゃん!」


声はやはりリノだった。


「飛べ!そしたら拾ってやる!その意味分かるな?」


セリムはオルゴーの向きを変えて風車塔と体を平行にした。それからリノの位置から下がり風車塔から少し離れた。


「本当に⁈すぐ行きます!」


迷いない答えにセリムは声を出して笑った。大胆さは風詠に必要な素質の一つ。今セリムが吐いた台詞はかつてトトリが自分に投げた言葉と同じだ。トトリも師から同じように言われただろう。


「来い!」


リノが勢いよく飛び降りた。セリムはオルゴーをリノに向かって飛ばした。左腕でリノの腹を抱え引き寄せる。一歩間違えればリノを死なせるがそれが風詠。風凧の操縦だけはどんなことがあっても果たす。墜落しかけてもリノを拾えなければセリムは風詠失格。そう遠くないうちにセリムは風の神に鉄槌を下されて海に食われる。だからリノは死ぬわけがなかった。


「よく頑張ったリノ。」


「こんなの朝飯前ですよ。セリム兄ちゃんが僕を拾えないわけない。」


「リノ。これからはセリム師匠と呼べ。僅かな期間しか教えられないが一番大切な事を話そう。」


幼い丸い瞳がゴーグルの奥でさらに丸くなった。


「セリム師匠?本当に⁈風詠になれるの⁈」


「ははっ!子供達でお前が筆頭だったろう。」


「セリム師匠宜しくお願いします!あれ?僅かな期間って?」


セリムはゆっくりオルゴーで飛行しながらリノを自分の前に降ろした。空気抵抗が増えてオルゴーが早くも暴走したそうにウズウズと揺れる。乱流が激しくなってきた。逆突風が迫ってきている。


「両柄をしっかり掴め。」


質問にはわざと答えなかった。時期に知る。素直にリノが両柄を握ったの確認するとセリムは保護具をリノの体に巻きつけた。


「よし。屈んでオルゴーに腹這いだ。僕の間。そう。リノ絶対に手を離すなよ」


「はい!」


共に一番風の抵抗を受けない姿勢になろうかと考えたが、やめた。セリムはそのまま立ったまま急上昇した。うわっと小さな声が足元から聞こえてきた。もう日が頭上に高々と上がる。祭宴に相応しい良い天気だ。セリムが初めて逆突風と対峙した時は嵐の中だった。雷雨という厄災と共にやってきたさらに大きな厄災。


「僕もリノと同じ事をした。それでトトリ師匠に風凧に乗せてもらった。まだ賢鷲グレーテが誕生する前だな」


「そうなんだ」


リノの声は嬉しそうだった。セリムはトトリが話してくれた事を告げているに過ぎない。自分が言われて嬉しかったことを。その間にセリムという人間がリノに残せるものを考えていた。何を伝えよう。


「リノ。何故風詠を目指す?」


「楽しいからです!」


思いがけない返事にセリムは口元が綻んだ。かつてセリムが口にしたのとは真逆だった。「皆の楽しみを守るためです。」セリムはそうトトリに答えた。結果どうだろう。オルゴーという翼を手に入れて崖の国を去ろうとしている。あの日セリムは本当はリノと同じように口に出したかった。風を支配するのが楽しくて仕方がなかった。いや、今もだ。


オルゴーが暴れだしそうになるのを柄舵を両腕で握りしめてセリムは崖の国の中心で西へ機体を向けて静止した。大橋の少し東側。保護網架けられた場所。万が一逆突風で墜落しても何とか網には引っかかるようにしなければならない。今日は一人ではない。大事な未来を担う子供だ。守らねばならない。


「そうか。でも苦労は多い」


「苦しい先には楽しみがある。収穫祭みたいに。そうですよね?」


挑発的な声にセリムはまた笑った。今度は大きく声を出して。


「立場がないな。リノ。聞きたいことはあるか?今なら二人だ。好き勝手に質問してくれて構わない」


「セリム様は結婚するの?」


リナの発言にセリムはむせた。オルゴーだけは何とか維持する。


「おい。それを聞くのか?今?」


「だって何でも聞いていいって言いました。」


不満げな声にセリムは大きくため息を吐いた。


「どうだろうな」


「あの砂漠の女の人?ラステルさん!模造風凧を僕と練習した」


「そうなれれば良いんだがな」


この先二人がどうなるか。割と楽観的なセリムでも簡単にラステルと結婚すると口には出来なかった。ペジテに待ち受ける陰謀。戦場への出征。ラステルの手を握り続けていても良いのだろうか。彼女は幸せになれるのだろうか。セリムにその資格があるのだろうか。


「ふーん。セリム兄ちゃんじゃなかったらセリム師匠にも怖いものがあるんですね」


「そうかもな。背負うとはそういう事だ」


風の渦が複雑になる。手と足で微調整しながら翼を操作する。空気抵抗が増えた分いつもとは風の捕まえ方が変わる。通常の風での相飛行は楽々と出来るが嵐風の中ではそんな簡単にはいかないと身に染みる。トトリやダルトンのようなベテランにはまだまだ技術が届かないと思い知らされる。


「僕が風詠になったらオルゴーをくれます?」


「なんだって?」


素っ頓狂な声を上げたセリムに対してリノは大笑いした。


「だからオルゴーをください!立派な風詠になります!僕も砂漠や蟲森を見てみたいです!」


まるでセリムの写しのような好奇心。ダルトンとトトリが賭けの対象にしたのも頷ける。セリムに似ているリノにセリムがいつ気がついて弟子にするかと温かく愉快に待っていたに違いない。セリムは自分の世界に夢中で視野が狭かったようだ。まだまだ幼いと思い知る。


「見るだけか?」


「分かりません。だって見たこともない。外は怖いですか?」


「リノ。他者の領域を侵すには覚悟がいる。」


セリムは王子として産まれ、育てられそれなりに教養や身を守る術を与えられた。幸運にもアスベルという先生に出会い外の世界についても学んだ。賢い子だがリノにはそれが不足している。風詠ではなくセリムの背を追うのならば何もかもが足りない。リノは黙っている。セリムは続けた。


「あらゆる想定がいる。皆は蟲森遊びと呼ぶが危険を承知の上だ。それでも欲しいものがある。闇雲に他者の領域に踏み込めばそれなりの代償を払うことになるぞ。無知は時に罪だ。」


「僕は知りたいです。崖の国は良い国です。僕もそう思うし大人もそう言う。でも僕はもっと広い世界を見てみたい。比較していないのに納得出来ない。何かもっとあるかもしれないのに。」


迷いない返事だった。より良い国、より良い世界。リノが求める明るい希望の世界。鮮やかな未来。セリムはそれを叶えてやりたい。だが時間が圧倒的に足りない。


「体を鍛え勉学に勤しみ嫌いな事でも身につけろ。リノ。アスベル先生に頼んでおく。まずは研究塔へ行け。姿が見えなくなってもきっと伝える。僕の生き様。僕の残す全てを感じて大きくなれ。そうすればリノにいつかオルゴーを譲れる日が来るはずだ。その時までリノの成長を楽しみにしている。」


「さっきも言っていました。セリム師匠は何処へ行くんですか?僕を弟子にしてくれたんですよね?」


リノの声は少し震えていた。セリムは一瞬右腕を離してリノの頭をポンポンと叩いた。オルゴーが左に傾いてガタガタと揺れた。素早く腕を柄舵に戻した。


「誰にも秘密だが10日もせずに国を発つ。帰省はいつになるか分からない。それまでにリノの為に手配をしておく。リノにはありったけを教える。」


「どうして行ってしまうんですか⁈何処に⁈風詠なのに!」


「愛している。」


一度口にしてからもう一度セリムはゆっくり口を開いた。


「愛しているからだ。」


津波のような風が迫ってくる気配。これから先のセリムの未来を予告するかのような暗く激しい奔流と同様のどす黒い大波。


「リノ。生きている尊さを愛せ。人を愛せ。生き物を愛でろ。心臓に剣を突きつけられても真心を忘れるな。憎しみで殺すよりも許して刺されろ。憎悪では人は従わない。それがレストニア王族の矜持。僕はそれに従う。」


無言で前方の逆突風が運んでくる毒胞子の波を見つめるリノ。セリムの言葉の何か一つでもリノの心に残れば良い。


「風詠ならトトリ師匠から学べ。孫弟子に喜んで全てを教えてくれる。外の世界での生き方はアスベル先生から学べ。身を守らねば家族が悲しむぞ。風の神そして崖の国の庇護下ではない世界を望むのならばあらゆることを学ばねばならない。」


何となくセリムには予感がする。だから残さねばならない。


リノはセリムによく似ている。類稀な風詠の目。飛行を楽しみ誰よりも風詠への興味を持っている。避難指示の中風車の羽根に乗って逆突風を待つ好奇心と度胸はセリム以来だ。いつも模造風タ凧の訓練に付き合ってとせがんでくるのが誰よりも多いのはリノだった。そしてセリムに食ってかかった。崖の国ではまだ足りない。もっと理想を求めて外へ出たい、と。リノはセリムの軌跡をなぞるだろう。だからセリムは迷い戸惑った時に正しい指針でありたいと思う。反面教師ではなく師匠だと誇ってもらえるように。


「でも覚えていてくれリノ。いつかお前の耳に僕の噂が入った時に尊敬出来るような道を行く。離れていてもリノは弟子だ。僕の一番弟子。自由に空を飛べ。好きに生きろ。ただ愛だけは忘れるな。敵に真心を捧げよ。憎しみを受け止めて許しを選べ。それには力が必要だ。全てを鍛えろ。」


「どういう意味?僕にはセリム兄ちゃんの代わりは出来ないよ。ただ僕は外の世界を見てみたいだけだ。」


「代わりだなんてそんな事は望んでいない。僕はリノへの教えを嘘にしないような人間でいる。師匠というのは弟子を支えるんじゃない。弟子を支えに生きるんだ。」


自然と出た最後の言葉はトトリから受け取った言葉だった。セリムを形作ったのはレストニア王族の血だけではない。アスベルという大陸を失った警鐘者だけではない。トトリという風を愛した師を持ち弟子を愛した男がセリムを成長させてきた。風詠が誇り高く生き後継を残すためにトトリがセリムに示してきた背中。それをセリムもリノに残してやりたい。


「分からない。ねえ絶対に行くの?」


「そうだ。」


「帰ってくる?」


「いつか必ず。オルゴーを譲ると言っただろう?僕が嘘ついたことあるか?」


「あるよ!いつも!今日だって嘘ついて蟲森に行っていただろう!」


「ははっ!そうだな!すまないな。」


リノが立ち上がった。セリムにしがみつく。オルゴーが大きく揺れて螺旋を描いて落ちた。セリムは何とか体制を立て直した。しかし静止できるほど上手には操縦出来ない。


「だから会いに行く。必ずオルゴーを貰いにいく!待ってろよ放蕩師匠!」


ゴーグルの向こうで青い瞳がにこりと三日月形に変わった。セラムはリノの帽子を優しく撫でた。


「来るぞ。しがみついていろ。」


「はい!」


襲撃してきた逆突風に吹き飛ばされる前にセリムはオルゴーを風の波に乗せた。リノが今全身で感じている風がどうか祝福になりますようにとセリムは風の神に祈った。新しい風の子に幸あらんことを。

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