帰郷した蟲と蟲の歌

アシタカとパズーが出発した数時間前



***



セリムが一歩ホルフル蟲森に踏み入れると、刺さるような視線を感じた。周囲を見渡しても誰もいない。もう何年も何度もこの蟲森に踏み入れているが人と出会った事はない。気配も感じた事がない。


殺気はない。どちらかというと興味による好奇の視線。


セリムが蟲森で偶然見かけた人間はラステルだけだ。ラステル達蟲森の民は蟲森の奥深く、毒の濃い地域の地下に住むという。セリムの踏み込む辺りには出てこない。だからラステルは生身の身体で思う存分散策を楽しんでいたらしい。ラステルもアスベルとセリム以外の外界人を蟲森で見たことがないと言っていた。


この突き刺さる視線は何だろう。それも一つではない。複数。


セリムは片手で握っていた筒を両手で包んだ。蟲達が気がついて様子を見ているのだろうか?しかし何度もこの蟲森を訪れてこんな視線を感じたことはない。普段は同じ種族同士で集まって互いを知らんぷりしているのに、いざとなると群れる。不思議な生物達。


ラステルもその群れの一部か。


一度ラステルと別れてしまった後、ガンがラステルの元へ導くように現れた事を思い出す。玉蟲ボーを抱きしめ、蠍蟲ソーサにリボンを結び、多羽蟲ガンに心配される女の子。思い当たることは沢山あるのに、化物と言われても未だにピンとこない。


昨日、アシタカとラファエから聞かされたペジテの伝承とラステルの秘密。ラステルはただぼんやりと聞いていた。蟲森に捨てられていた赤子。生身でも毒胞子の影響を受けず、時に蟲の群れの一部のように行動し、蟲の怒りに同調して赤く変化する瞳。言われてみれば普段の瑞々しい若草色の目の色は蟲と同じ色だ。蟲と語り合うラステルをアシタカは、そしてラファエもきっと知らない。セリムだけが信頼されているのだと自負している。


「何と無く人と違い過ぎるとは理解していた。やっぱり化物なのね。」そうラステルが告げた時、その場で抱きしめてあげたかった。頼りなさげで寂しげな微笑。アシタカとラファエがいなかったら遠慮なくそうしていただろう。セリムはせめてと思ってラステルの手を握っていた。ラステルの手は冬の水のように冷たくなって震えていた。そしてうっすらと目元に滲んだ涙。でもラステルは泣かなかった。


ラステルはラステルだ。優しくてよく笑う。手先は器用で絵が上手く歌が得意。意外に大胆ではきはき意見は述べるし、けっこう頑固者。



-蟲愛づる姫の瞳は深紅に染まり蟲遣わす。王は裁きを与え大地を真紅で埋める。テルムは若草の祈り歌を捧げよ。


祈り歌というのはラステルがガンを呼んだ時の歌かもしれない。あれを歌と呼んで良いか分からないが。ラステルはあの歌のようなものを、村の誰にも教えていないと言う。若草は蟲が怒っていない時の瞳の色。アシタカが隠すテルムとは何なのだろう。


-憤怒は蟲の瞳を染め真紅が大地を覆う。蟲の王により。


蟲を遣わすのは姫ではなく王ではないか?セリムの考察では蟲の王はガンだ。森の監視者。何度か他の蟲を諌めるような姿を見かけたことがある。蟲遣わす王。この方がしっくりくる。


-紅の炎が燃え上がり大地が震える。風の友人は根を越えて絆を繋ぐ。その者鳥の人。


崖の国の伝承。紅は蟲の怒りの比喩。鳥の人が絆を繋いだのなら鳥の人は何処へ消えてしまったというのだろう。人と蟲。分断されて拒絶し合う、いや人が一方的に拒否する種族との絆を繋ぐ人。それは化物ではなく偉人だ。ラステルはそういう尊い存在なのではないだろうか。


「セリムがそう言ってくれれば私は化物でもいい。」


昨夜の散策。大橋の上でラステルは泣きそうなのを必死に堪えるように口元を震わせて、にこりと微笑んだ。


満天の星空の下、暗い夜色に光る白い肌。珍しく解かれた長い髪がサラサラと風に揺れていた。消え入りそうで儚く美しい姿がまぶたの裏に焼き付いて離れない。そっと重ねた唇の熱が、触れた頬の滑らかさが今もセリムの胸を焦がす。これまで防護服に阻まれて触れ合えなかった分、何度でも触れたいと思ってしまう。


帰国したら収穫祭だ。今度は心の底からの笑顔を見たい。いや真の笑顔にしてみせる。共に美味しい食事を摂り、踊る。ラステルは花のように笑うだろう。想像するだけで幸せな気分になれる。これから先も共にと切に願うが、おそらく一筋縄ではいかない。収穫祭は貴重な思い出に、支えになるだろう。


感傷に浸っていると視線が更に増えた気がした。防護服の下でぞわぞわと産毛が逆立っている。一緒に来ると言ったラステルの申し出を断らない方が良かったのだろうか。けれどもセリムには一人で確認したい事があった。握っていた筒をそっと足元の苔に置く。それからなるべく静かに蓋を開いた。


ラファエが最悪の場合、崖の国を蟲に襲わせて蟲森に沈めようという陰謀の為に持ち出したガンの卵。指二本分程の筒から、のそのそと小さなガンが出てきた。薄緑の若々しい透明の羽をのそのそと動かしている。まだ飛べないのだろう。筒の中で成長し過ぎて圧迫死しなくて良かった。狭い場所に閉じ込められて暗闇で揺られて、さぞ心細かっただろう。と自分に置き換えて想像してみる。


ギギギギギ


ギギギ


ギギギギギギギギギ


途端に鳴り響いた蟲の鳴き声にセリムは身を屈めて腰元の鞭の柄を握りしめた。ぐるりと体を回転させて蟲森を見渡す。背の高い胞子植物や蟲森樹の高いところにガンが何匹も止まっていた。新緑の三つ目が一様にセリムを凝視するようにこちらへ向いている。足元にはわらわらと蟻蟲が集まってきた。遠くには蠍蟲の尾がゆらゆらとしている。


〈友は〉


不意に声が聞こえた。外からではない。内からだ。頭の中に直接響いてくる。高くも低くもない聞いたこともない少し反響する声。


〈---〉


音が言葉として理解出来ない。しかしその音に乗る感情が警戒だというのが押し寄せてくる。警戒と不信。セリムは更に注意深く体を捻って周囲に目を凝らした。足を動かせばまとわりつく蟻蟲を潰してしまう。掌程の大きさの、セリムが知る蟲森で一番小さな蟲。簡単に踏み潰してしまいそうだ。そんなことをすればセリムの頭は何かしらの蟲に噛み砕かれるだろう。アスベル先生にそう何度も教えられた。蟲を殺すならば一匹だけの時に、一瞬で声を出させずにが鉄則らしい。膝下まで上がってきた蟻蟲はそれ以上は登ってこずに下りていく。まるで何かを確かめるように行ったり来たり。


どこだ?どれだ?どのガンだ?セリムは無意識にガンだと決めつけ、それを自覚して鳥肌を立てた。考えたわけではない。胸の奥に穴があって、そこにピッタリの形があるように嵌った。そういう身に覚えのない理解の仕方。


「友は?ラステルのことか?」


セリムは大声で叫んだ。返事はない。不気味な低い蟲の鳴き声だけが蟲森に響き渡る。斜め右後ろの方から小振りなガンが横切っていった。羽が触れないくらいの距離を低空飛行して、顔だけをこちらに向けてそのまま去っていく。ラステルと全く同じ色の三つ目に防護服姿のセリムが映った。甘ったるい感情がセリムへ波として襲ってきた。高鳴る胸の鼓動。目眩がする程の幸福感。触れたい激動。ラステルといる時と同じ気持ち。


ガンの体の横には大きなバツ印の傷があった。一度別れたセリムをラステルの元へ誘ったガンだ。蟲森の深淵へ行く為のマスクをセリムに持ってきたガンだ。ラステルと繋がりがあるのだろうか。体に傷のあるガンを知らないと言っていたラステル。彼女がセリムに嘘をつくはずない。一方的にラステルを知っているのだろうか?


ガンを目で追っていると、セリムの上半身まで蟻蟲が登ってくる気配がした。あっと思ったときには蟻蟲が一匹、目の前で上体を起こして威嚇体制をとった。ここまでか、とセリムは蟻蟲を払い落とそうと腕を振りかぶった。蟻蟲の口が予想外に大きく開き、殻と連続する無数の小さな牙が現れる。


牙?蟲蟻の行列を観察していても、蟻蟲同士喧嘩のように暴れていても見たことがない。何故草食の蟲に牙がある?ずっと思い至らなかった疑問にセリムは手を止めた。襲うためだ。何のために?守る為だ。誰を誰から?内側から響いて無理やり押し入ってくる思考。それに対する疑問に混乱する。セリムを襲おうとしている蟲蟻は動かなかった。それからそっと口を閉じて、今度は匂いを嗅ぐようにセリムの顎まわりに顔部分を寄せた。


いつの間にか蟲の鳴き声が止んで蟲森は静まり返っている。


〈おかえり〉


また反響音がした。蟲森はしんとしている。


セリムの顔から蟻蟲が飛び降りた。それから他の蟻蟲と共にさあっとセリムから離れていく。恐怖が怒涛のように押し寄せて全身から力が抜けた。セリムはその場に腰を落とした。ガンの幼生をラステル不在で蟲森へ返したらどうなるかという好奇心をひどく後悔した。アスベル先生の「一匹殺すだけで何が起こるか分からない」という教えの本質がようやく見えた。ラファエは何という暴挙を犯そうとしていたのだろう。蟲森で暮らすなら蟲の性質をよく理解しているはずだ。昨晩アシタカの隣で萎れていたラファエはどこまで己の蛮行を悔い改めたのだろう。


〈偉い飛べた〉


小さなガンの幼生がセリムの周りを旋回した。セリムが蟲森に返しにきた奴。オルゴーでセリムが飛ぶように縦横無尽に宙を舞い踊る。楽しくて仕方がないというように。


〈---〉


〈--った〉


静かな蟲森に、内側から響く柔らかな音。恐ろしさが消えていく。セリムはそっと右手を差し出した。ガンの幼生が蝶が止まるようにセリムの指に止まる。厚い皮手袋が無ければどんな感触なのだろう。まだ殻は柔らかそうだ。


「僕も飛ぶのが好きだ。ごめんな怖い思いをさせて。」


ガンの幼生はセリムの言葉など聞いていない。指を離れたり止まったり、手首をぐるりと回ってみせたりせわしなく飛ぶ。初めて模造風凧に乗った時の事を思い出した。擦り傷を作って朝から晩までずっと飛行訓練をしていた幼かった自分。楽しくて仕方がなかった。煌めく希望の未来。何処へでも飛んで行けるとわくわくした。


セリムを縛る国という鎖。それを打ち破って飛び出す理由が、他国の陰謀調査。結局セリムは自由には飛べない。そういう風に育てられた。人の上に立ち、導くように。1人でも多くの者を幸福をもたらすように。それが王族に生まれた使命。疎ましく思うどころか誇りであるが、時々どこまでも飛び去ってしまいたいという衝動に駆られる。


研究を隠れ蓑に好奇心に思いっきり溺れてきた。ペジテへ行くのも王族の使命と大義名分を掲げることで、自由を目指すだけなのかもしれない。セリムは結局我儘で放蕩なだけだ。それでも完全に自由であったことは一度もない。やはり誰かのために。皆の生活のために。傷つく者が1人でも減るように。それがレストニア王族に刻まれてきた役目。セリムはその鎖が自身の矜持である事を受け入れている。幼かった自分の無邪気さがとても懐かしい。


「お前のこれからの世界が自由だと良いな。」


伝わらないだろうが、セリムは手の甲に止まったガンの幼生に囁いた。まだまだ自在に操れない幼弱な羽を一生懸命震わせている。蟲愛づる姫か。今なら少しだけラステルの気持ちが分かる気がする。


昨日ガンが一匹崖の国で葬られた。今後もやむなく殺すことはあるかもしれない。けれども自分達と同じで、群れを想い、生を喜ぶ生物。レストニアで命尽きたガンをセリムは急に思い出して懺悔の涙を一筋零した。ラステルは逃げてきたと言っていた。意思疎通が図れたら救出してやれたのだろうか。点滅する黄色い三つ目が脳裏によぎった。


〈王は---人が好き〉


「王?蟲の王か?どこにいる?」


セリムは立ち上がった。静寂が横たわる蟲森。そうだ。蟲の声が聞こえる。何故それを普通の事のように受け入れていた?どうして疑問に思わなかった?妙だ。セリムは変になっている。


〈テルム---好き〉


ガンの幼生がぐるりとセリムの頭を旋回した。


「お前……か?」


返事はない。ガンの幼生がセリムのゴーグルの前を跳ねるように飛ぶ。愉快そうな飛行。


「テルムとは誰だ?人か?蟲か?好きとは何が好きなんだ?」


返事はない。ガンの幼生はセリムに背を向けて蟲森の奥へと飛んでいく。セリムは思わず追いかけた。


〈人の王は人が好き〉


歌うように響く声。ガンの幼生は不慣れな羽でふらふらしながらも楽しそうに飛んでいく。鼻歌のように音が響いてくる。楽しげで嬉しいといった感情の波とともに。


「人の王?王とは人なのか?テルムとは何だ?教えてくれ。」


〈姫は人が嫌い〉


「なあ待ってくれ!ラステルの事か?ラステルを知っているだろう!」


〈しかし--した。王は---る。もうすぐテルム---〉



もうすぐテルムが産まれる


セリムの胸の奥にある穴に収まった唯一の音の意味。


「それはどういう意-……。」


途端、鼓膜を突き破るような蟲の鳴き声が響いた。それから大音量の羽音も木霊する。体を竦めていると地震で足元が揺れた。ぐんっと盛り上がる苔にセリムは体制を崩した。一気に高くなった足元から転落しそうで、セリムは鞭を1番近い枝へ引っ掛けた。無事ぶら下がると目の前に百足を巨大にしたような蟲の姿があった。セリムは咄嗟に大百足蟲と名をつけた。これが王か?鋭い眼光がセリムを射抜く。睨むように八つの緑の目がギラギラと光っている。


〈風が生まれる〉


ガンの幼生を見失った。しかし同じ声だ。内側に押し寄せ響く声。脳内に直接飛び込んでくる波。どうしてこんなことが起こっているのだろう?


衝撃がセリムを襲った。背中を何かに掴まれ鞭が繋がる枝が折れ、体が浮いた。バサバサという羽音に身体を掴んでいる鈍色の足。後ろを向くと小ぶりなガン。バツ印のついたガンはセリムを捕まえたまま急上昇した。風を切るように飛び蟲森の外、砂漠との境の岩場まであっという間に到着した。そしてセリムは研究塔の前に放り投げられた。


慌てて体を起こしてガンの方へと向き合う。もうガンは背を向けてゆっくりと蟲森へ戻ろうとしてきた。


「待ってくれ!」


セリムは駆け出してガンを追った。くるりとこちら側に振り向いたガンが大きな声で鳴いた。


ギギギギギギギ


ギギギギギギギ


「教えてくれ!テルムとは何だ?お願いだ!教えてくれ!」


セリムが叫んだ瞬間に蟲森がザワザワと揺れた。蟲の群れが姿を現わす。蟻蟲を筆頭に蠍蟲、玉蟲、それに兜蟲に蜘蛛蟲とセリムが蟲森で見かけたことのあるあらゆる蟲や一度も見たことのない蟲がびっしりと並ぶ。鳴き声が低音の重奏となってセリムに押し寄せてくる。


〈風が行く〉


〈鳥よ飛べ〉


繰り返し警告のように声が響く。


「また来ても良いか!」


返事はない。繰り返し飛べ、飛べという音が胸に響いてくるだけだった。蟲は相変わらずギギギギギと鳴き声を繰り返し、幾多もの緑の瞳がセリムをとらえて離さない。セリムは後退りしながら研究塔の方へと下がった。それから一目散に外階段を駆け上がり塔の上から蟲森の入口方面へ視線を向けた。もう蟲はいなかった。鳴き声も音も失われ静かさだけが残されていた。


セリムはオルゴーで研究塔を飛び出した。


やはりラステルでなくとも蟲と心通わせられるのか?


セリムが確かめたかったのはそれだった。かつてセリムが助けたことを蠍蟲は忘れて居なかった。ラステルに包帯をリボンに結んでもらって何年もセリムを見ていたという蠍蟲。ガンの幼生をセリムが蟲森に帰せばきっとまた同じようにいつか心繋げられるかもしれないと思っていた。想像以上の収穫と多すぎる疑問。恐怖と歓喜と高揚がぐしゃぐしゃに絡まってオルゴーの操作がおぼつかなかった。


誰かに話したい。今までは誰もいなかったがセリムにはもうラステルがいる。少し慎重になるべきだろうがアシタカもいる。


シュナの森上空まできて気がついた。逆突風の兆候が見られる。風のうねりを感じる。


風が行くとはこれのことか。


オルゴーのエンジンを入れてセリムは風を裂いて崖の国へ急いだ。

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