第2話 森

 食べ物の心配をしなくていいのは、確かに便利な能力のおかげだ。果物なり草なりを見た瞬間に、それが食べられるかどうか、糧になるかどうかがわかる。しかし食べてみるまで味の予測がつかない。昼飯に選んだ紫色の洋梨めいた果物は、ただもうひたすら酸っぱかった。酢に漬けたレモンみたいだ。甘くてすてきな香りがしたから食べてみたのだが、これは失敗だ。こんなもの二度と食わないぞと決意しながらなんとか飲み込んだ。水と塩気のあるものが欲しくなった。

 水は革袋に入れたのが一リットルほどある。二口飲んでから、夜に備えて水を確保しておいたほうがいいなと考えた。夜になってからでは遅い。日が高いうちに泉か川を見つけたい。どうやって見つけるのかって? それはもちろん、特殊能力ってやつだ。私には飲用に適する水を発見する能力がある。具体的には金属臭がする。私は泉か川が近くにあることを疑わなかった。この能力だけはいまだに私を裏切っていない。今回も、黄色い道から数百メートル離れたところの崖に湧き水を見つけた。岩を覆っている蛍光緑の苔はあまり気分よくないが、冷たい岩清水に口をつけて飲むのは気分がよかった。口をぬぐい、革袋に水を補充する。

(ハルカ……!)

 うしろでサスミナが叫んだ。切迫した口調に驚いて振り向くと、茶色な塊が木陰に見えた。なんだと思うまもなくそいつは私の視野から外れ、胸に衝撃、私は崖に背中を打ち付けた。体勢が整わないが無理に息を整える。茶色な塊は私の目の前にあった。だらりとした舌から唾液が垂れている。犬のように見えるがずっと大きい。私は帯に差した短剣を抜いて闇雲に振るった。当たる感触がない。獣は両の前足で肩を押さえつけた。腕の自由が効かなくなった。獣の黄色い眼が近寄ってくる。とっさに目をつぶる。と、閉じた瞼に液体が飛んできて、肩の重みが消えた。

「え?」

 目をこすった。手の甲が血で汚れた。目の前の獣は立ったまま固まっている。ごぶり、とくぐもった音がして、獣の首が折れ曲がった。獣の喉首に噛み付いていたのは、もう一頭の別な獣だった。もう一頭のその獣は明るい金毛のたてがみと鋭い牙を持っていた。明らかに肉食獣だと思える。獣はたてがみをぶるんと振って小さな灰茶の目をこちらに向けた。左頬に傷がある。

「危なかったね、一人で森を行こうなんて無理なこと考えるもんじゃない」

 サスミナが喋ってるわけじゃない。私のひとりごとでもない。獣が灰茶の目で見つめている。

「わからない? ぼくだよ、ライナル」

「ライナル……? えーと、宿でいっしょにごはん食べた?」

「そ、そのライナル。人間の格好しないと信じてくれない?」

 血に汚れた前足を大型猫めいたしぐさで舐めながら、ライナルを名乗る獣は笑った。獣のくせに笑った。


 人間になるところを見られたくないとライナルがいうので、倒れた獣の傍らで待った。これからのことを考えるとこいつも食い物扱いにしたほうがいいだろうか。食えるのは確かだ。皮のはぎ方は知らないけど。味も知らないけど。短剣を握りしめていたのを思い出し、獣の太ももに刺してみた。かなりの抵抗があった。硬い。硬すぎる。

「なにやってるの、ハルック」

 木陰からライナルが現れた。夏みかんみたいな色の髪、奥まった灰茶の目、頬の傷、確かに宿で会ったやつと同じだ。

「これ食えるよなあと思って」

「どうせならもっとおいしいもの食べようよ、もうお昼ごはん食べた?」

「んー。一応食べたけど、まずかった。なんかしらんけど紫の実を食べたらすっばくてすっぱくて」

「カクトの実かな? 変なもの食べないで一緒にごはん食べようよ」

 ライナルは私の横に座り、背嚢から包みを取り出した。燻製肉とビスケットだ。

「ほら、君にもあげるよ」

 手渡されたビスケットはかなり厚めで、思ったより柔らかい。スパイスをきかせてあるようで甘い香りが漂う。

「じゃあ、ありがたくもらう。ありがとう」

 頬張ると口の中でビスケットがほろりとほぐれる。甘みと油分が心にしみた。おいしくて夢中で食べた。人間の食べ物だなあという気がした。

 しかしおなかが落ち着くと、少し気分が変わった。ありがたくビスケットをちょうだいしてしまったが、これで態度を軟化させるとなんとなく餌付けされたような気分じゃないか。

「ありがとう。ビスケットおいしかった。助けてくれたのもありがとう。お礼は言うよ」

 一応頭を下げて、荷物を持って立ち上がる。

「どこ行くの」

「森を抜ける」

「ひとりで? 無理だよ。さっきみたいに野犬が出るよ」

「野犬って、この森って犬がいるの? っていうかこれ、犬?」

「犬だよ。でも犬の他にもいろいろいると思う。大蛇もいるよ。ぼくがいると便利だと思うよ。一緒に行こうよ」

 ライナルはいやに熱心に私をひきとめた。

「なんでそんなに一緒に行きたがるのさ」

「いや一人だと大変でしょ」

「それだけが理由じゃないだろ」

 ライナルは片頬だけ釣り上げて、ちょっと変な笑い方をした。

「そうだね。ちゃんと話そうか。でもとりあえず座ってよ」

「わかった」

 腰を下ろして、立膝をついた。いつでも動けるように。ライナルはあぐらをかいている。

「ぼくはね、獣人なんだ。それはわかったと思うけど。この国には少ない数だけど獣人が暮らしてる。でもたいていは犬か猪の獣人なんだ。ぼくはぼくの仲間を母親しか知らない。そして母さんは死んでしまった。仲間を探しなさいと言い残してね。でもね。獣人同士でも、人に姿を変えてるときはそれとわからないんだ」

「で、あんたは何の獣なの、さっきはよくわからなかった」

「獣じゃなくて、獣人」

「はいはい」

「ぼくは猫の獣人だ。猫って知ってる?」

「そりゃまあ」

 答えてから、ふと気づいた。この世界にきてから猫を見かけたことがない。

「よく知ってるね。猫って幻の獣だよ。ぼくはぼくと母さんの他に猫も猫人も見かけたことがない」

「ここって猫がいないのか」

「ぼくの知る限りでは見かけてない。でもぼくは絶対にぼく以外に猫人がいるって信じてるし、見つけたいんだ。ぼくの生涯の伴侶を。絶対にいるはずなんだ」

「じゃあがんばって探してください。私関係ないじゃないか」

 ライナルは口角を下げた。ひどく情けない顔になった。

「だからね、人に変身してるとぼくには仲間が仲間だとわからないんだよ」

「それは残念ですなあ」

「でもね、リーリールウにはわかるんだ。獣人かそうでないかを。獣人は基本的に人にもリーリーにもリールウにも欲情しないからね。きみのリーリールウはぼくが餌食にならないってすぐわかったでしょう。だからぼくはきみのリーリールウの助けがほしいんだ。そのかわりにぼくはきみを守る。大丈夫、ぼくは強いよ」

 私は少し考えた。獣になればライナルは強いだろう。それはたぶん嘘ではない。一方、私の戦闘能力は私の短刀とサスミナだけだ。そして都はまだまだ遠い。問題はライナルが信用置けるかどうかだが。

「ね。悪くない話じゃない?」

 ライナルは私の手をとってにこにこした。猫というより犬みたいだ。

「私の目的とか知らなくていいのか」

「気にしないよ。とりあえず森を抜けるんでしょ」

「とりあえずはね」

 こいつ、バカなんじゃないかな、と思ったが言うのはやめた。

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