勇者かもしれない

佐々宝砂

第1話 頬傷


 雨音がうるさかった。蛙のような声も聞こえた。しかしあれは蛙ではない。蛙のような声をしているだけでなく姿もまた蛙に似た生き物かもしれない、しかし、私がかつて知っていた蛙ではない。私は蛙が好きなわけでも嫌いなわけでもなかったが、蛙のことを思い出して胸が痛くなった。ときどきこんなことがある。たいていひどく下らないことを思い出す。ポケットに突っ込んだスマホの熱とか、引き出しの奥に入れたまま一度も使わなかったハンカチとか、なんでそんなことを今になって思い出すのかわからない。

 しばらく眠る努力をしてみたが、眠れそうになかったのでベッドに起き上がった。安宿だがベッドの寝心地は悪くなかった。ナミバ虫がいなかっただけでも見つけものだ。私はナミバ虫を見たことがない。やられたことは何度もある。ナミバ虫は人血を主食とする。刺すのではなく斬って舐めるのだという。ナミバ虫にやられると、あまり鋭利でない刃でひっかいたような長さ数センチ程度の傷ができ、猛烈な痛痒さが襲ってくる。掻かなければいられないような痛痒さだが、掻けば傷が開き、傷が開けば痛みが増す。ナミバ虫は厄介だ。しかしこの世界の厄介はナミバ虫だけではない。

「眠らないの?」

 この世界の厄介のひとつがくすくす笑った。笑い声だから笑っているのだと思うが、こいつはナミバ虫と同じで私に姿を見せたことがない。名をサスミナという。

「あんたこそ眠らないのか」

「あたしは下等動物と違って眠らなくていいの」

「…前から疑問なんだが、夜のあいだ何をしてるんだ? 眠らないと退屈じゃないか?」

「夜のあたしは忙しいのよ。今夜はハルカがヒマそうだからいてあげたの」

「別にヒマじゃない」

「ふふふ。嘘ばっかり」

 サスミナの冷たい吐息が私の首筋を撫でた。背筋が総毛立つような冷たさだ。この冷たい息に男も女も魅了されるのだという。私には理解できない。サスミナはリーリールウ、私が元いた国の言葉で言えば淫魔だが、私には効果を及ぼさない。これは私の特殊能力のひとつである。心底どうでもいい能力だ。サスミナはもちろん私の能力をよく知っている。

「ねえハルカ」

 比較的真面目な声音でサスミナが言った。

「なんだよ」

「ほんとの話、寝たほうがいいよ。明日はスクードラーの国境を越えるんだよ。野宿だよ」

「わかってる」

「じゃあ寝ようよ」

「雨の音がうるさくて寝られないんだよ」

「あたしが寝かしつけてあげようか」

「ほっといてくれ。…寝る」

 サスミナがいると覚しき方向に手を振り、ベッドに寝転がって薄い布団をかぶった。と、何かが頬をひっかいた。畜生、ナミバ虫だ。布団を丸めて虚空に投げた。なにするのお!とサスミナの声がしたような気がするが、気にしない。サスミナが言ったように、とっとと寝たほうがいい。


 食堂には数人が座っていた。おかみと主人は忙しげに立ち働いている。私はおかみに挨拶をして席についた。挨拶の返事はなかった。挨拶の必要性があるのかどうかよくわからない。よくわからないことばかりだ。朝食も、よくわからない団子汁だった。肉と穀物を混ぜた団子のようだ。鍋にたくさん入った団子汁を各自勝手に椀によそって食べる。団子は温かいが、ピッチャーで提供される飲み物は生ぬるい。きんと冷えた飲み物が恋しくなる。無論そんなものはこの世界にない。少なくとも、いまこの部屋にはない。よくわからない食い物とよくわからない飲み物ばかりだ。しかし、食えるし飲めるから、食って飲む。

「よく食べるね」

 不意に声をかけられた。顔をあげると、金髪の男がいた。夏みかんみたいな鮮やかな髪の色だ。灰茶の目は小さくて奥まっている。左頬には刀傷のように見える傷があった。

「ここ、座っていいかな」

 男は、顎をしゃくって私の向かいの席を示した。

「どうぞ」

「じゃあ遠慮なく」

 男は腰掛けて自分の団子汁をよそいながら、こちらを遠慮なくじろじろと見た。

「ほんとうに遠慮ないな」

 男はにやにや笑ってさらにこちらを凝視する。こちらを…いや。私を見ているのではない。こいつは。もしかしたら見えているのか。

「面白いものを連れているね。リーリーか。いや違う。リールウでもない。こりゃ珍しいなあ、リーリールウだね」

「見えているなら、あまり見ないほうがいい」

 一応、忠告してやった。リーリールウの餌食になった男女を私は何人か見てきた。どちらかといえば腹が膨れる女の末路の方が悲惨な気がするが、プレス機にかけたミイラみたいになる男の末路もよろしくないと思う。

「いや。ぼくなら大丈夫だ。そいつはぼくに何もできない」

 耳元で、蝿の羽音のような小さな唸りが聞こえた。サスミナだ。

(悔しいけど、こいつのいうことは本当みたい)

 本当に小さな唸り声だったが、金髪の男には聞こえたらしい。にやりと笑った。


 男はライナルと名乗った。ライナのあとの舌を丸めたR音がうまく発音できない。ライナが正しいのかもしれない。どうせきちんとした発音はできないので適当に発音した。

「ハルック、君は聞いたことない訛りがあるね」

「ハルックじゃなくてハルカ」

「その名前も変わってる。どこの出なのかな」

「なぜそんなことを訊く」

「リーリールウを連れてる人に興味があるんだよ」

「こいつはボディーガードがわりだ。多少は役立つ」

(多少ってなによ)

 サスミナの声がか細い。私は団子汁の残りをすすりこんで席を立ち、おかみを呼んだ。宿賃は鉱石で支払う。釣りのコインが溜まってきたが、まだその価値がよくわからない。

 身支度を済ませて宿を出る。よく晴れていた。今夜は野宿になるらしいから天気がいいのはありがたかった。宿の前には黄ばんだ石で舗装された道。海岸で目覚めてからずっとこの黄色い道をたどってきた。ここまではひらけた草原だったが、ここから先の道は森の中に続いている。森…どんな生き物がいるんだろうか。全くいないということはないだろう。蚊や蜂のような虫。蛇。あるいは見たことも聞いたこともないような獣。私は頬の傷をなでた。ナミバ虫がいなけりゃいいんだが。

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