終少女
カツラギ
本文
「終少女」
世界終了まで、七日間。
それをぼくが悟ってから、はじめての朝がきた。
ぼくにわかっている、大切なことはたった二つ。
だんだんと、世界は外側から消滅していくこと。それと、狭まっていくその中心にいるのがぼくの彼女、加茂川ネルカであるということだけだ。
世界がこうなった理由だとか、その原理であるとか、そういったことについて答えることは難しい。悟るといった感覚的なことを他人に説明するのは困難なことだし、ぼくにとって、そのことは運命としか言いようのないことで、そして何よりどうでもいいことだった。
だれも気づかない密やかな滅びが、流行病のようにこっそりと浸透していく。そのことに気づいているのはぼくだけで、そのことに気づけるのも、多分ぼくだけなのだ。
ぼくは、自分が特別な人間だなんて意識を持っていたわけじゃないけれど、いざこの状況に放り込まれてみると、やっぱり、思ってしまう。でも、それに関して一つだけわかっておいてほしいことがある。ぼくは勘違いをしていないし、思い上がってもいない。特別なのは、ぼくじゃなくて加茂川ネルカなのだ。この宇宙も、太陽系も、月も地球もユーラシア大陸も、加茂川ネルカの前には小さい。小さくて小さくて、ぼくも、きっと小さいのだろう。七日間が経って、あらゆるものの全ての最後に立っていられるのは、たぶん、加茂川ネルカなのだ。全宇宙をかけてのサバイバルの終わりは、彼女に集約される。サバイバルと言うには、やや語弊がある気がするけどね。
こんな日には色々と思う。思うことがある。ないわけがない。だって、寝て起きて、いつも通りの一日を迎えようとしたときにいきなり閃きがきたのだ。びっくりした。寝起きのまま、布団を抱いてる状態でベッドの脇へと転がって落ちて腰を打つくらいにびっくりしたのだ。そしてそれは、単なる中学生のぼくでさえ確信を持って信じさせちまうほどの天啓だったのだ。これを受けたのが大統領とか総理大臣とか大総統だとか、ボタンをぽちっと押したら軽く地球を滅ぼせちゃうような人じゃなくてよかったと思う。自分がおかしくなったとさえ疑わないほど、まっすぐな確信は、たやすく何もかもを行わせる。ミサイルがシュバババババババボーンと降り注いでアジアもヨーロッパも北米も南米もアフリカもオセアニアも北極も南極もみんなみんな爆撃されるよりは、力のない一端の男子中学生に役割を回したほうが、いくらかマシだと脚本を考えた奴は思ったのだろう。ビンゴ! 正解だったね。
けれども、いきなり世界終滅のカウントダウンが分かるようになったって困る。なにせ、ぼくにはどうにもできないレベルの物事だ。腕立てとか腹筋とかマラソンとか、歌とか芸術とかではなんともならない。国語のテストの点数が良かったからって制限時間が延びたりはしないし、善行を積んでも同様だ。
となれば、ぼくに残された選択肢はあまり多くはない。どれを選ぶかはもう決まっている。
もしもそれが叶うのならば、ぼくは、たとえ何もかもが消えてしまっても構わない。加茂川ネルカによって、ありとあらゆるものがデリートされていって、やがてぼくさえも無に帰するのだとしても構わないし、逃げも隠れもしないし、もちろん驚きだってしない。
ただ最後の瞬間に、好きな人といられれば、それでいい。
それだけでいい。
けれども、それが存外難しい。好き、というのは意外に難しいのだ。好きだと思うことができる人と、好かれていると思うことができる人は、ぜんぜん違う。アイラブユーとユーラブミーは必ずイコールってわけじゃない。もしかすると、好きになることと、好かれることというのは、一緒でないことのほうが多いのかもしれない。それはとても悲しいことだけれど、やっぱり、身の回りのいろんなものを見ていると、そうなのかって思ってしまう。ぼくにしてもそうだ。加茂川ネルカのことを、ぼくは好きだし、好きで好きでたまらないし、それを言葉にしても足りないほどだけど伝えるには言葉くらいしかなくて何度も彼女に告げてみるけれど、彼女の答えはいつも決まって「ふうん」だった。「ふうん、わかった」
加茂川ネルカは誰から見ても上の空にしか見えない。ぼくから見てもそうだし、数学の吉松は口うるさく注意するし、担任の中原もあきらめながら一応注意するし、クラスの男子からも女子からも一目置かれているし、ついでに距離も置かれていて、いつの間にか誰も寄せ付けない拒絶バリアみたいなものを展開している。教室ではいつも上の空でいて、上のほうの空を窓から眺めていて、意識をぽやややややっと空に飛ばしている。空は青かったり暗かったり時として紫色だったりしていても関係なく飛ばしている。けれどもそれは、ぼくの意識と目線を通しているからそう思うのであって、彼女が何を考えているのかはわからない。案外ぼくと同じように、終わってしまう世界に憂えているのかもしれないし、それに気づいていなくて単に帰り道で食べる道草とおやつをどうしようか迷っていたり迷っていなかったりするだけなのかもしれない。
加茂川ネルカはよくわからない。
一言でいうと、そういうこと。
加茂川ネルカはだいたいにおいて、ぼくに興味がない素振りをする。照れ隠しなのかもしれないし、本当に興味がないのかもしれない。たぶん後者な気がするけれどそれでもぼくは加茂川ネルカが好きでいられるからどうでもいい。ぼくの好きという感情のベクトル、ラブっているベクトルは加茂川ネルカに一直線だ。どストレートにまっすぐに貫いて、加茂川ネルカに届いている。
好きという感情は一方通行だ。その一方通行による食い違いがよく起こっている。ある人の矢印は他の誰かに向いていて、それだけに意識を縛られちゃうから、自分に向けられている矢印には気づけない。この世界では、誰かが誰かに愛されている。そんなすばらしいことが起こっている。なのに、大体の人はそのことに気づけない。
ぼくが終わる世界に気づけたのは、そういうことがわかっていたからなのかもしれない。ぼくは大人じゃないし、自立もできないしご飯も作れないし、たった一人じゃいられない。
けれども、世界の真理を悟っている。
この世の中心にたどり着くのは、愛なのだ。
終わってゆく世界の中で、最後まで残るぼくには、それがわかる。
残り七日。
宇宙が消えた。
シリウスの光を見ることが二度となくなり、遠く輝くオリオンも姿を消して、NASAはお役御免となったし、エイリアンやプレデターやE.T.と会える可能性がゼロとなった世界で、小さな島国の小さな県の小さな町で、ぼくは加茂川ネルカとアイスクリームを食べていた。
道草だった。誰から見ても紛うことなき道草をして、コンビニに立ち寄って、二人でアイスクリームを買って、黙々と食べていた。ぼくがモナカアイスで、加茂川ネルカがソフトクリームだった。店に張り出してあるメニューにバニラは二つあって、片方は少し値段が高めで、加茂川ネルカはその高めのほうを頼み、無表情でソフトクリームをなめている。
ぼくは時々、横目で加茂川ネルカのことを見る。
「なに。今日のはリッチバニラだからあげないよ。つーかバニラだけは絶対あげないって。バニラなめんな」
ただ見ていただけなのに、ここまで言われるのはなんでだろう。無抵抗ノーガード主義のぼくは、加茂川ネルカの発言を黙って聞いて、黙ったままモナカを口に入れた。
宇宙が消えた世界は、あまり変わらなかった。彼女にとって宇宙はあんまり重要じゃないのかもしれない。無重力遊泳していた宇宙飛行士の行方が少しだけ気になったが、小説や漫画に対しての突っ込みと同じで、一分も経てば霧が消えるように記憶のかけらにも残らなかった。
最後のモナカを胃に落とすと、加茂川ネルカの家の前まで来てしまっていた。
今日は月曜日で、休み明けで、二人とも体力が減っているので、そのまま帰ることにした。
「んじゃーね、また明日」
残り六日。
先に言っておくと、加茂川ネルカは一度も「好きだ」という言葉を口にしたことがない。ぼくは何度もためらいもなく言っているし、言いまくってるせいでうるさがられるけど、加茂川ネルカのほうからぼくへは一度たりともないのだ。一方通行な愛の宣言をするぼくは、傍目から見るとストーカーに見えなくもないかもしれない。そのことに、今朝気づいた。
朝、通学路の途中にある加茂川ネルカの家に寄ってチャイムを鳴らし眠たげにしている彼女の背中を押すようにして登校している途中で尋ねてみた。
「なあ、前々から思ってたんだけどさ、好きって言って」
「え、やだよ」
「どうして? なんかそう言ってほしい」
「普通それ逆じゃん。女が男に『言って言って超言って』とかって要求するでしょ、普通」
「好きだよ、好き好き大好き超愛してる」
「わかってるって。それは」
ぼくに返事をした彼女の声はとてもめんどくさそうなトーンだった。ぼくのポジションから彼女の表情は見ることができない。ぼくは彼女に密着しつつ、背中をぐいぐい押しているので、見えるのは彼女の背中だけなのだ。きっと、眠たさでのんめりとしているんだろう。
そうやって話をしながら歩いていると、彼女がかばんを落としたので、拾ってやる。
と、しゃがんだぼくに向けて。彼女が体重をかけてきた。
「うりゃーボディプレスー。力ないねー、筋トレしなよ筋トレ」
「そっちのが身長高いし重いから無理無理無理」
重い、のところで蹴りを食らった。ローファーのヒールはかなり固くて、膝小僧をがつんとやられたときに情けない声をあげてしまった。それを聞いて彼女はふすーと笑った。それを聞いて、ぼくもぷすすーと笑って、二人で笑ったまま学校に行った。学校に着いて教室前で別れて授業を受けて国語を理科を社会を音楽を体育を道徳を受け終わって放課後に合流して一緒に帰ってまた好きって言ってもらえないか尋ねたら右のほっぺに優しくて痛くないビンタを食らった。それは、手のひらを押し付けたとでも言うべき、あたたかい平手打ちだった。
意味が分からない。でも、それでぼくは満足した。加茂川ネルカの普通じゃないところが、ぼくは好きだ。彼女を見送って、ぼくは一人歩いて帰っていく。
そういえば、ぼくと加茂川ネルカが付き合うようのになったのは、どのくらい前からだっただろうか。彼女とぼくは、あまりに長い時間を一緒にいたから昔のことを思い出せなくなっていることにぼくは気づいた。
ぼくが最初に彼女を見たのは、どこかの公園の砂場だったと思う。はっきりとした思い出じゃないけれど、薄ぼんやりとした記憶が残っている。ぼくも彼女も、もっともっと小さくて、小学校にも通っていないくらい幼かった。
ぼくの手が届かない鉄棒に、加茂川ネルカは手が届いた。身長が高かったってわけじゃない。ぼくが見ている前で、鉄棒を支える支柱をよじ登って、加茂川ネルカはぐるぐる回った。憧れて、すごいと思って、彼女のことを意識した瞬間だった。
そんなことを思い出していると、自然に足は公園のほうを向いていた。太陽はオレンジ色の赤みを強めている。空に沈みかけているのに、光は鋭くなっているみたいに感じた。
公園の中には人が少なく、ぱらぱらと、子どもたちがいなくなっていく。そうか、帰宅する時間か。家で夕飯が待っているのだろうか。それとも腹を空かせて待ちわびるのだろうか。そんな頃が、ぼくにも、あったんだな。
走ってくる子どもたちをかわして、公園の中へと足を進める。あの鉄棒のわきへ立ってみると、思ったよりもずっと低くなっていた。
あの頃、手が届かなかったのに、今ではぼくも手が届く。そしてこの鉄棒は、ぼくにはもう小さすぎる。
こうやって色々変わってきたのか。ぼくの身体も心も環境も。
加茂川ネルカは……変わってきたのだろうか。今この瞬間も変わっていて、そしてこれからも変わっていくのだろうか。
もう、あと五日しか残されていなくても?
残りは五日になり、そして四日になった。
二日間、特になにもなかった。
土曜日と日曜日、ぼく達の最後の休日はつつがなく進行したのだった。
目覚まし時計が壊れるってこともなかったし、朝食の牛乳の賞味期限も切れていなかったし、靴の破れもなく、制服のほつれもなく、授業も順風満帆に終わった。
無くなったものはたくさんあった。
まずアフリカ大陸が消えた。テレビのニュースでも、インターネットでも、元々存在しなかったように、静かに消えた。世界地図は、青い部分が大きくなっていた。
次にフランス料理が消えた。昨日まであった洋菓子店はさりげなく和菓子屋に変わっていた。フランスパンは変わらずあったけれど、近所のスーパーに常備してあるラスクは、大手メーカーのチョコレートに取って代わられ、ついに見かけることがなかった。加茂川ネルカを中心とした円は、順調に狭まってきている。
本屋から推理小説がなくなり、グレープフルーツとはっさくが姿を消し、ぼくの本棚の宇宙関連の書籍は見当たらず、少年チャンピオンが憂き目を見た。
順調に、少しずつなくなっている。
そういえば町で見かける人も、気持ち少なくなっているような気がした。
自分が気がつかない間に身体の肉も骨も血も涙もデリートされてしまうのって、どんな感じなんだろう。
デリート、とぼくは口にする。
まだぼくは、ぼくの目の前でなにかが消える瞬間に出会ってはいない。それはどういうことなのか。
たくさんのものが溢れるこの世界を、好きなものから順番に選んでいく。選んだものから自分の近くに置いていって、およそ自分の知っているものすべてを分け終わって、ぐるりと見渡してみると、輪っかができている。その出来上がった輪っかというのは誰しもが持っていて、そして今、世界は加茂川ネルカを中心とした輪っかによって、だんだんと小さくなっている。
それは彼女の興味のあること、あるいはものから残されていくことで。
それは彼女の興味のないこと、あるいはものから消えていくことなのだ。
ぼくと加茂川ネルカは同一人物じゃないし、好きなアイスの好みも違う。得意な授業も違えば、苦手なものも違う。だから円は一緒にはならない。
ぼくはこれまで加茂川ネルカと同じものを見ようとしてきた。同じものを見て、同じ音を聞いて、同じ温度を感じ、同じ場所にいようとしてきた。だからぼくと彼女の輪っかはよく似ているだろう。
けれども、決して一緒じゃない。一致しない。似せようとして、似てはいるけれど、必ず違うのだ。
果たしてどこまでが同じで、どこからが違うのか。
ぼくは四日前、いきなり悟りを開いて世界の残り時間というものを知ったけれど、それは、ひょっとしたら、ぼくにとっての残り時間なのか。
ぼくは最後に残ることを知っている。
けれどもそれは本当なのか?
この一週間ずっと頭の片隅にあった考えが首をもたげてくる。
今、ぼくが考えていることは、全部ぼくの妄想じゃないのか?
色んなものが消えているのは、きっとぼくの脳が見せてしまっている幻覚で、本当は人も消えていないしグレープフルーツもはっさくも単なる品切れで見当たらなかっただけで本屋はたまたまフェアの展開のために一時的にどかしているだけなのかもしれない。ぼくの本棚に太陽系やハッブル宇宙望遠鏡のことが書いてある本が見つからないのは納戸か物置にしまったことを忘れているだけで、少年チャンピオンは合併号だったのかもしれない。
だから、ぼくがこんなあり得そうもない非現実的な現実を誰にも話していないから誰も問題にしていないだけで、ぼくは単なる精神病にすぎなくて、きれいな床ときれいなシーツの真っ白な病院に入院しなければならないんじゃないのか?
だれかに話すべきなんじゃないのか。
そう思ったので、加茂川ネルカに話をした。ダイレクト。すると彼女は直球に「ああ、そうっぽいね。よくわかんないけど」と返事をした。
「よかった、妄想じゃなかった!」「あー、それでここ数日ヘンな顔してむっつり考え込んでたっぽかった? 似合わないよー、シリアス。もっと気楽にしてたほうが、らしい」「らしい?」「きみらしい。バカらしいとも言うかもしんない」
てへ、と笑う加茂川ネルカ。らしい、か。ぼくらしい。ぼくらしさって、なんなんだろう。
そのとき、考えが浮かんだ。すぐ実行した。蹴られた。
「痛ぁっ! おい、ちょっと、いきなりなにすんの」
「え、いや、ほら。もしも、ぼくの印象が変わった場合、どうなんのかなー……って」
「それでほっぺ引っ張ったわけ? しかも二度も」
「二・度・も」のリズムに合わせて三回蹴られる。足裏だったから、蹴られるというより、踏まれる、というのが正しい。学校が休みだったから彼女は私服だったし、その足元も普段のローファーじゃなくて動きやすそうな運動靴だったが、靴のかかと部分でグリグリねじ込まれるようにして踏まれたからすごく痛い。けれども仕方ない。これも予想のうちだから、しょうがない。
ふん、とそっぽを向いて先に歩き出す加茂川ネルカ。その背中を追いかけながら、ぼくは正しいのか、考える。合ってるのかわからないし、知りようもないけれど、こうするしかない。
嫌いなものから消えてしまうかもしれない。さっきのあの瞬間に、ぼくは消えていたかもしれなかった。それでも実行せずにはいられなかった。
彼女ならこの程度で、ぼくを本当に嫌ったりはしないはず。そういう打算もあった。
それくらいには、彼女のことを知っている。……知ったつもりで、いる。
でも、もしも消えていたとしても、ぼくは後悔しなかっただろう。
なによりも恐ろしいことは他にある。
嫌いなもの、興味がないものから消えるということ。
それなら、ぼくが消えたあとに残っているものが、彼女にとってぼくより大切なものということになる。
ぼくは、それが何より恐ろしい。
誰よりも加茂川ネルカが好きだ。恥ずかしさはあっても、迷いはない。繰り返して言う。ぼくは、加茂川ネルカを愛している。
だからこそ、ぼくよりも愛されているものがあって、加茂川ネルカがそれをぼく以上に大切に思っていることが、怖い。
怖くて怖くてたまらなくなる。
この気持ちは、独占欲かもしれない。彼女を、加茂川ネルカを独り占めしたいっていう、醜い感情なんだろう。
ぼくは、加茂川ネルカを愛している。
でも、それ以上に、ただ一緒にいたいのだ。
残り三日。
どうやって彼女に対して興味を引けばいいのかがわからない。
いつも通りに接していても、それはいつも通りでしかないだろうし、かといってそれ以上のやり方を、ぼくは知らない。ぼくはぼくにできる最大限のことを、常にやり続けてきたのだから。
ぼくにはこれ以上の方法がわからない。
自分にできることを最大限にやっていても、足りない。
ぼくのできる最高のパフォーマンス。ぼくが放てる最上の言葉。けれども、足りない。不足しているものがなんなのか分からないけれど、絶対に、なにかが足りない。それを見つけることが出来れば、ぼくは、ぼくの愛は、もうひと回り素敵になれる。彼女を、もっともっと好きになって、これ以上好きになって、もう好きになれないってくらいに好きになれるのに……。
自分の部屋にある本棚を見た。ボッコちゃんがある。甲賀忍法帖がある。煙か土か食い物がある。みんな残っている。ぼくの本当に好きな本は残っていた。でも九十九十九がない。ステーシーズがない。マフィアとルアーがない。幸福論がない。それらの本はぼくが知らない間に消されたということだ、加茂川ネルカに。
ぼくは自分の好きな本しか本棚に残さない。だからここにあるのは、ぼくと彼女の好みが一致した本だった。それはつまり、ここにない本は加茂川ネルカから興味無しの烙印を押された本だということを意味していた。
二人の人間がいて、好きなものがすべて合致するわけない。そんなことはわかっている。だけどぼくは、やっぱり悲しかった。
ぼくがどれだけ加茂川ネルカのことを愛しても、彼女の好きなものを好きになっても、それはぼくの方からの一方的な愛だ。彼女とぼくが同じになるわけじゃない。
愛して愛して、愛しぬけば、彼女と一体になれると思っていた。
そんなわけはなかったのだ。ぼくはそのことを知って、一段と愛についての考えを深めた。
もっと、もっと強く加茂川ネルカを好きになるために。
残り二日。
今日は天気が良い。さすがの彼女も、朝と昼と夜に関しては忘れることはなかったようだ。そして、それ以外の大半が、いなくなった。
クラスメートも半数くらいに数を減らし、他クラスの生徒や他の学年にいたっては、ほとんど消滅しているような有様だった。でも、学校は存在していて、ぼくたちはそこへ通っていた。灰色のコンクリート塀に挟まれた通学路には、ぼくと加茂川ネルカの姿しかない。
ちゃんと太陽が昇っている。でも、町はとても静かだ。
車の音がしない。朝練習をしてる生徒の活気のある声がしない。住宅から漏れ聞こえてくる掃除機の音や、テレビの喧騒や、犬の鳴き声、そういった普段あるものがなくなった終末感が、町全体に漂っていた。
音がしなくなるだけで、こんなにも町の印象が変わる。死んだような町。実際、この町は死にかけている。その息吹が、聞こえなくなってきている。まだ聞こえるのは風の音くらいだった。
誰も見かけることなく、ぼくたちは学校へたどり着いた。
春も夏も秋も冬もあいまいになるような、ゆるい朝日を全身に浴びて、思う。授業を聞く、なんて作業に意味なんてない。板書をノートに写すことをやめて、もう一度、この一週間で繰り返してきた言葉に火を灯す。
加茂川ネルカを中心とした円によって、この世界は消滅していっている。その外側から、順番に。そうぼくは考えていた。
けれど、逆にこうも言えるのかもしれない。彼女と彼女に近しいものが、世界に置いていかれているんじゃないか、と。彼女によって世界が動いているのではなく、世界によって、彼女とそれに関連するものが除け者にされようとしているんじゃないか。
言ってしまえば言葉遊びだ。卵が先か鶏が先か。その諺よりもあやふやで、視点によって評価が変わってしまう。でも、そうなのかもしれない。
ぼくは最後まで彼女と一緒にいたいと願った。ここ一週間ずっと、最後のときにそばにいられるよう誰よりも強く祈ったはずだ。この感情は、ありふれていて傲慢で自己矛盾に満ちていて、きっとぼくよりも大人な人間が見れば、鼻で笑ったりできる類の感情なのかもしれない。
ぼくは激情のような愛情を抱えている。それと同時に、冷静で落ち着き払ったぼくをも抱え込んでいる。
ぶくぶく太っていく醜い独占欲と、そこに澱を押し付けて、ひたすらに純化した美しい愛情。昇華された愛情には、必ず元になった欲情がある。美しい感情と醜悪な欲情。その二つが、ぼくのなかに鎮座している。愛は決してそれだけになることはなく、光あるところの影のごとく、必ず同時にしか存在できない。
渦を巻いた感情に振り回されて乗り回されて乗り回して落ち着かせて支配したぼくは、学校を抜け出すことにした。加茂川ネルカの手を取って、教師が唖然としているなか、手を繋いで、歩いて教室を抜け出した。廊下を渡ると、彼女のローファーが固い音を立てた。ぼくのスニーカーは埃と砂とで擦れる音を響かせ、ぼくの耳には、ぼくたち以外の足音は聞こえなかった。
一度やってみたかったシチュエーション。学校から彼女を連れて脱出。男の子なら、だいたい同意してくれると思うこの状況に、思春期の中学生のぼくもやっぱり興奮していた。なにかができる無意味な確信があった。それは単なる勘違いなんだとわかっていても、そう信じたかった。むずむずと胸の奥がうずいてくる。押し付けられた感情が反発しているのだ。冷静であろうとするぼくと、直情であろうとするぼく。二人が合体してぼくになっている。パワーバランスは割りと繊細らしい。
行く宛てもないので、とりあえず電車に乗ろうとした。けれども、駅からは隣近所と新幹線の二択しかなかった。加茂川ネルカは、電車に乗る機会があまりなかったらしい。路線図は空白だらけだった。新しい発見をしたぼくは、駅前に不法駐車されている自転車の一つの鍵をピッキングして開け、加茂川ネルカを後ろにする形で二人乗りをしようと目論んだ。
生憎ぼくはプロのピッキング犯ではないので、簡単な鍵を開けることぐらいしかできない。鍵穴に突っ込めるくらいの細さの針金を用意して、少しずつ侵入させ、奥にあるボタンみたいなところを押しながら、上下にある鍵穴に形を合わせればできる。そして開けたのはいいけれど、肝心の自転車がパンクしていた。しかも後ろのほうに荷台もなく、これでは二人乗りなんてできそうになかった。はじめる前に気づけよ、自分。
「まー、とりあえず、私どうすればいいの? 寝ちゃうよ」
催促に焦りを感じたぼくは、手早く三つの鍵を開け、一度またいでみて一番体に合う自転車を選んだ。サビが少し目立つものの、進むには問題なさそうだったので、それにする。
後部座席に制服の上着を敷いてクッション代わりにしてから、加茂川ネルカを呼ぶ。二人してまたがって、助走で勢いをつけた自転車で、ぼくたちは走り出した。
リミットは、ゆっくりと近づいている。
残り一日。
ぼくの好きなものは、昨日から今日にかけてたくさん消えた。加茂川ネルカが興味がなくても、ぼくにとって大事だったものが跡形もなくなった。数え切れないほど。それでもぼくは彼女を好きでいられた。他の何をもなくしたとしても、彼女を好きでいられた。
色んなものに分散していたぼくのベクトルが、すべて彼女に向けられていく。空いてしまった心の隙間に、彼女への愛が充足されていく。もはや気持ちに揺るぎようはなかった。
どこに行こうか、行き先も決まらないままぼくは自転車をこぎ、彼女は気まぐれにナビをした。舗装された道路の上を、二人の重量に潰れたタイヤが滑っていく。その重さを足に感じてぼくはペダルを回し、加茂川ネルカはキャッキャキャッキャ笑う。何がそんなに楽しいのかわからない。ぼくは彼女のほうを振り向いた。ぼくも笑った。はは、こいつぁやべえや。
なんと、彼女の後ろ側の景色がごっそり消えていた。灰色に塗りつぶされた空間が、じんわりぼく達に近づいている。
いよいよ境界線が見えてきた。全てを消し去るデリートライン。じっくりと時間をかけてなぶる様に、サヨナラが近づいてくる。まだ遠くに見えるそれは、灰色の壁が高く高く空を突き抜けて、どこまでも高くそびえているように見えた。
ぼくは笑いを顔に貼り付けたまま前を見て、絶句した。前のほうにも灰色の壁ができている。周囲を見渡すと、ぼく達はぐるりと灰色の壁に囲まれていた。丸い空間のなか、中心からずいぶんずれた場所に位置しているようだった。灰色の暗幕が町を飲み込んでいく。飲み込まれたらもう、帰ってこない。
空が丸く切り取られ、円柱状に世界は残されていた。外側がどうなっているのか、考えたくもない。
加茂川ネルカが笑う。さっきみたいに大笑いじゃなくなったけれど、小さく、くすくすと笑っている。ぼくは、彼女のことを理解しているつもりでいたけれど、ここに来て、彼女のことが怖くなっていた。この状況で、可笑しくて笑えるその感性がわからなかった。けれどそこにもまた惹かれた。
灰色の壁が、境界面が近づいてくる。ぼくは考える。
この円が全ての方向から等速に近づいているとするなら、やがて一点に収束するはずだ。そこの点にいるなら、周囲を見回しても、どこの壁も一定の距離に見えるはず。でも、ぼくのいるここからじゃ、壁の遠さはばらばらだった。右が最も近い。ということは、左の方角へ逃げればまだ時間が稼げる。
空の青色も薄まってきた。
ゆっくりとした世界の終わりを背に、どこまで逃げられるのか。タイムリミットは目に見えている。
逃げられるところまで、逃げてやる。
加茂川ネルカがいれば、ぼくはそれでよかった。
逃げた先は、川辺の原っぱだった。
たぶん、ぼくの視力で確認できる限り、壁から等しく距離をとった先はここになる。けれども、どうしてここなんだろう。
この世界は加茂川ネルカにとって、興味のあるものが残されている。そこにぼくが含まれていて、ぼく以外の誰も見受けられないことにぼくは安心したけれど、この場所には見覚えがなかった。
川の向かいの堤防沿いに、小さな広場がある。河川に沿うようになっている土手の細長いグラウンド。よく小学生の野球チームが野球の練習試合に使用している。今となっては、その光景を見ることはできないけれど。
「なあ、なんでここが最後の場所なのか、さっぱりわからないんだけど」
「いやあ、私もわっかんないなあ。なんでここなんだろ。なんかあったっけ。オモイデ的な何か」
どうやら当の本人にもわかっていないらしい。
まあいいか、と投げやりに言って、ぼくは自転車を留める。彼女と一緒に堤防の斜面を下り、川の水面を眺めて、草の上に寝転んだ。丈の短い雑草は思ったより青臭くなくて、遠くから吹いてくる風に匂いをつけていた。
胸いっぱいに草の匂いを吸い込んで、空に向かって吐き出すと、心が落ち着いてくる。見上げた空は青色で、だんだんと灰色になりつつあった。そういえば、太陽が見当たらないけれど、この明るさの光源は何なのか気になった。太陽は、まだなくなっていないのか?
「まあ、いいか」
そうつぶやくと、そう思えてくるような気がする。少しの時間が経つと、そんな疑問を抱えていたことさえ、忘れてしまった。
何の気なしにぼくは隣の加茂川ネルカに尋ねてみる。彼女の手を取る。いつもなら振りほどかれる手が繋がれたまま、緑の上に落ちる。手の甲に当たる葉っぱがくすぐったい。どうやらそれはぼくだけじゃなかったようで、加茂川ネルカの表情にも小さく笑みが浮かんでいる。
女の子って、本当によくわからない不思議な生き物だ。
「ぼくと居てさ、退屈じゃなかったか」
「退屈だったよ」
ごく当たり前のことを聞くな、と言わんばかりにそっけなく答えた。この辺りの遠慮のなさは、たとえ世界終末であっても変わらない。
「なあ、ぼくはきみのこと、好きだぜ」
「なに? 急にキザったらしい言い方して。知ってるよ」
「知ってるけど、もう一回言っておきたかった。なんつーか、もう最後みたいだし」
「まあ、そうかもしんないね」
「うわ、他人事。わかってるかもしんないけど、ぼくはきみより先にいなくなるってのに、案外あっさりしてるんだ」
「あっさりしてるように見える?」
「うん。塩ラーメンよりあっさり」
「わたし醤油派。鶏ガラよりも和風スープのほうが好き」
「いやラーメンの話でなくて」
ラーメン旨いじゃん、と口を尖らせる加茂川ネルカ。ぷう、と頬をふくらませた姿はリスみたいだ。
ぼくは加茂川ネルカのことが好きだ。愛している。そこに迷いはない。けれども、時には好きだと言ってほしいこともある。ぼくも絶対無敵じゃないのだ。愛の言葉をささやいて欲しいときだって、たまにはあっていいだろう。
「まあ、結局最後にいたのはぼくってことで。感想あれば一言どうぞ」
「来世ではもっと私に尽くすように。かしずけ」
「終わりって場面にそれですか。ひどい」
ひどくないよ、愛だよ。加茂川ネルカは冗談を言って小さく笑う。
「さあ、どうだかね」
「好き好き大好き寵愛してる」
「寵愛されるのはきみの方でしょ。好きだねー、きみも」
「好き好き大好き超愛してる、本当に世界の中心で世界で一番きみを愛してるよ」
「たとえ、君のために世界を失おうとも――」
加茂川ネルカがつぶやく。そのテンポに合わせて、二人の声が重なった。
「世界のために、君を失いたくはない」
「ぴったりだったね。でもこんなときにバイロン?」
「こんなときだからこそだよ、こんな大仰で、でも真っ直ぐな気持ちを言葉にするのは」
灰色の境界面が、半径三メートルを割ってきた。ぼくと彼女の手の長さを足すと届く距離だった。できるだけ長く居られるようにぼくは彼女へ寄り添う。加茂川ネルカとの別れが、音もなく忍び寄っていた……。
あと、三十秒もないだろう。最後に残された猶予は。
加茂川ネルカも、ぼくも黙っていた。
手を強く握ったまま、口を結んで、灰色の空を、灰色の川を、飲み込まれた世界を、眺めていた。手から伝わる熱を、細く消える吐息を、サヨナラまでのわずかで大切な時間を感じていた。
加茂川ネルカがつぶやいた。
「まあ、次は私も読んでみるよ。舞城王太郎」
彼女がぼくの好きな作家を覚えていたことに、ぼくは驚く。
そのことについて何か言おうとしたら、灰色の景色が、世界を覆ってしまう。おい待てよ。最後にそんなの言うなよ。言葉にならない。あれだけ愛してると言った。心の底から思って言っていた。だけど、ここで言えなきゃ意味がなかった。
次の瞬間、加茂川ネルカが左手から飲み込まれていく。
加茂川ネルカが、消えていく。
その事実にぼくは呆然とした。すぐに驚愕に変わった。
いま、世界の中心が彼女からぼくへ、変わってしまっていた。自分のすべてよりも愛することを彼女がしていたのだ。誰を、なんて考えるまでもなくわかっていた。
目の前が真っ暗になりそうだった。気を失いそうなのを、必死に血流を巡らせて意識をとどめる。
何秒経った。狂った時間の感覚のせいでやけにスローモーションに見える。彼女の散らばった髪が、髪のかかった肩が消える。足の先を侵食する灰色の領域がふくらはぎを舐めるよう上っている。それを見てぼくは精神が何十倍にも膨らんで絶叫しそうになる。
彼女に看取られる。彼女を看取る。この状況で二つに大した違いはない。せいぜい数十秒。短ければ十秒を切るだろう。その差は一分もないはずだ。その一分未満に絶望する。最期を見られる。最期を見る。まるで心の準備の仕方が違う。いきなり覚悟なんてできるわけない。
三流芝居の脚本のような筋書きを地でいくこの展開に発狂しそうだった。言葉にしなくても伝わる思いがある。そんな言葉がここで実現してほしくなかった。
打つ手の無さに笑えそうだ。彼女の顔が、こっちを向いた顔がゆっくり引きずり込まれていく。灰色の空間を視線だけで止められるなら、ぼくはドライアイになって角膜が剥離を起こすようになったって目を見開いたままいてやるのに、現実に情けはなくて一瞬ごとに消えていく彼女の顔を見つめることしかできない。
止まれよ、時よ。おいメフィストフェレスよ、やって来いよ。早く止めてみせろよ、ぼくの魂くらいなんてくれてやるから止めろってのに。
彼女の左頬が、とてもきれいな曲線が薄汚い灰色に消されていく。もう止まらないし止められやしない。この灰色空間も時間も運命も絶望もなにもかも。
残されたワンチャンス、言葉だけなら伝えられる。そのことに気づいたとき、時間は一言分しか残されていなかった。加茂川ネルカの耳は片側しかなかったからだ。目も鼻の穴も腕も足も半分しかない。
なにを言えばいい。一言、長すぎないシンプルでまっすぐな言葉だ。
ぼくの口が動いた。意識が聴覚をカットした。ぼくが口を開けると灰色の空間が彼女の眉根まで寄ってくる。舌を動かして声帯を震わせて最初の音を発するまでには彼女の目尻まで空間が侵食してくる。次の音を言い終わるまでの間で彼女の鼻が完全に飲み込まれる。すべて言い終わったときには加茂川ネルカの口はなくて、ぼくを見るためにぼくからずらされた瞳と右耳と半分消えた眉毛で顔のパーツは構成されていた。周辺視野を使うためにぼくから外された視線は、地面の雑草を見ていた。
言い終わってほんの一瞬おいて、彼女が消えた。
目を閉じて、加茂川ネルカの姿を回想する。
ぼくは、ほんとうに、彼女のことが好きだったのだ。
世界の中心で、体の感覚がなくなるその時まで、加茂川ネルカのことが脳裏に浮かんで消えずにいた。
終少女 カツラギ @HM_bookmark
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