第635話

 妙だとすぐに感じた。それは、黄色い声が聞こえてこなかったということに対してである。今までは、路地の入り口にそっと女が立っていて、目ざとく裏通りにやってくる男にめくばせをしていた。


 しかしこの通路にはその気配がない。

 あるいはそうすることで、あえて男たちの気を引くのかもしれないが、固定客のいそうなチヨ婆ならともかくとして、若い新入りの娘がそんな大胆な手を打つだろうか。


 ふむ、と、朝倉はあえてその路地裏に深入りせず、じっとほの暗い通路の先を覗き込んだ。


 人影は――見えない。

 そもそも無人のように見える。


 料理屋だというのに、こちらの通路は衛生面の管理対象外なのだろう、いやに雑然と、木箱やらブリキの板やらが積み上げられている。


 ふと、そんな中。


「――なんだあれは?」


 朝倉の目に留まったものがあった。ブリキの板の陰に隠れている、丸い銅製の蓋であった。そしてそれには妙に見覚えがある。


「下水道の入り口?」


 ふとそのとき、脳裏に彼女の師であるパラケルススの言葉がよみがえった。

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