第15話 「におい」



 吐いた息が白く濁って、溶けるように消えていった。

 熱を吐いたからなのだろうか。入れ替わりに吸い込んだ空気は、鼻の奥がぴりぴりとしびれるような感じがした。

 かじかむ指先を誤魔化すように、コートのポケットの底に擦り付ける。手首から下がるコンビニのビニール袋ががさりと音を立てた。

「寒いね」

「……ああ」

 ぽつり、ぽつりと、道しるべを作るような街灯だけが、静謐な夜の中に浮かんでいた。だけどそちらへ向かうことはない。ベンチに腰を掛け、それを眺めるだけ。

 夜の公園には、自分たちのほかに誰もいない。寒さとは別の、耳が痛くなるほどの夜の音。それを崩すのが勿体なくて、それ以上に言葉はなく、ゆっくりと息だけを吐く。

「…………はぁー……」

「…………」

 寒さは少しずつ体に染み込んできているようだった。どれほど厚着をしていても、すり抜けてくるのは冬が冬だからなんだろう。マフラーを少しだけ上げる。自分の吐いた息を、外に逃がさないようにしたつもりだった。それでも堪え切れず、思わずぶるりと体が震えた。

「……ふふっ」

 隣で小さな鈴のように、笑い声が聞こえた。

「寒いね」

「ああ」

 短いやり取りを繰り返す。だけど、そこにある感情はその前までとは違っている気がした。

「それ、いい加減冷めちゃうよ」

「……そうだな」

 がさり、と確かめるように手首を動かすだけでビニール袋を鳴らす。

「食べないの?」

「……あんまり、腹減ってない」

「はんぶんこしよ」

「……分かったよ」

 くすり、と笑ったような声を無視して、ポケットから手を抜く。一気に冷えるような気がしていたが、それなりに温まっていたのだろう、それほど寒さは感じなかった。

 ビニール袋で音を奏でながら、中から紙袋を取り出す。まだほんのり熱を残している肉まん。紙袋の表面は少しだけ湿っていて、あと数分もすればすっかり冷え切っていたに違いなかった。テープをはがして開く。

「あたし、何もつけないでいいよ」

「……はいはい」

 半分にちぎって、紙袋に入れたまま渡す。ビニール袋の演奏はもう終わらせる。太ももで敷くようにして除けておく。

「いただきます」

「……いただきます」

 紙袋を持ったまま器用に手を合わせる姿に引っ張られ、思わず繰り返した。

「ん。おいしい」

 寒さのせいなのだろうか。正直、あまり味は分からなかった。きっといつも通りの味なのだろう。

 ただ、口に入れた際に感じたにおいだけが、印象的だった。

「なんだか、いいね」

 小さくリスみたいに齧って、咀嚼して、飲み込んで、ようやくそんなことを言ってくる。

「こうやって、食べるの。買い食い」

「……そうか?」

 あまり実感が沸かない。買い食いなんて、別に珍しいものでもない。

「そうだよ。ん」

 そう言いながらおいしそうに頬張る姿は、その言葉が心からだと示しているようだった。

 ぱくり、と。それを横目に一口、二口、と運ぶ。あっという間に肉まんはなくなった。手持ち無沙汰になった手が少しだけ物寂しくなった気がして、寒さを感じる前に再びポケットに戻していた。

「ごちそうさまでした。食べるの早いよ」

「……まぁ、な」

 手を合わせて、小さくお辞儀をしている。そして満足そうに、ほっと息を吐いた。先ほどまでより、白い雲は少しだけ大きくなっているような気がした。

「…………」

「…………」

 思い出したように、静けさが戻ってくる。刺すような寒気も、それに続こうとする。だけど、暖かなカロリーを得たばかりだからか、ほんの少しだけ和らいでいるようなでもあった。

「あたし、買い食いってしたことなかったんだ」

「……そうか」

「もちろん、こうして、誰かと……男の子と、一緒に、なんてこと自体、なかったんだけど。えへへ」

 それには何も答えなかった。

「だから、いいよね、こういうの」

「……」

「静かな感じも。寒い感じも。一緒に、肉まんを食べるのも」

「……そうか」

「ん」

 小さく喉を鳴らして、彼女は、口を真一文字に結んだまま、大きく息を吸っていた。そして、ぷはあっと、広げた。

「えへへ。ちょっとだけ、におうね。にんにく」

「……ムードはないな」

 だから、忘れたようにして、食べないでいた。何となく寄ったコンビニで、何となく買っただけのものだった。

「でもね。それがいいの」

「……そうなのか?」

「ん。だって、忘れないよ」

 続きを待つ間、邪魔をしないように息を吸って、吐く。冷たさが、舌に、鼻に、残っていく。

「冬を感じて、肉まんを食べて。そのたびに、きっと、この時のこと、思い出せると思うから」

「ああ。確かに」

 冬の味と、冬のにおいがしていた。

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