第14話 「成人式」
「行かないの?」
コーヒーメーカーから溢れてくる香りへ乗せるようにしてさりげなく、先生は言った。
「どこにですか」
対して、私は自覚的に素っ気なく答えた。
「成人式」
がた、とコーヒーメーカーからサーバーを取り出しながら、先生は当然のように言った。まるでワインをくゆらせたように水面が揺らいだのだろう。どこか落ち着く香りが辺りへと漂う。
「行かないの?」
そして、サーバーから二人分のマグカップにコーヒーを注ぎながら、先生はもう一度同じトーンで言った。
「行きませんよ」
「そう。他の子はみんな行ってるんじゃない?」
「別に誰が行ってようと関係ないです。私が成人式なんて無駄だって思っているんですから。無駄なものに時間を割きたくなんてないです」
確かに、同級生のみんなは成人式を楽しみにしているようだった。「どんな振袖を着よう」だとか、「エステに行かないと」だとか、「ヘアメイクにネイルに決めること多すぎ」だとか、思い思いに自分から踏み込んだ多忙さに浸っているようだった。
そうしたテンションの作り方自体は嫌いじゃない。自分だって授業の予習と復習やレポート作成、アルバイトに家のことなど、積み重なったタスクをどうやりくりするか考えて実行するのは達成感がある。
ただ、成人式においてはそういった話の前だ。
「無駄って、どういうところをそう感じるんだい?」
「成人式そのものが、です」
タイミングを見計らったかのような先生の発言に、私は短く答えた。
「つまり、きみは成人式の存在意義を問うているわけだね」
目の前にコーヒーの注がれたマグカップが置かれる。出されたのはそれだけで、砂糖もミルクも添えられていない。いつものことだ。
「そもそも、です」
黒く澄んだコーヒーの水面を見つめ、頭の中に積もっていた言葉を切り崩す。
「二十歳になって、社会的に成人と認められる年齢になる。それはわかります。ただ、成人式に行けばお酒の飲酒許可証を貰えるとか、年金の納入手続きを行えるとか、選挙権が手に入るとか、そういったものはありません。逆に言えば、成人式に出なくても二十歳から二十一歳、二十二歳と歳も取れますし、お酒も飲めて年金も支払えて選挙権もあります」
「選挙権は十八からだけどね」
「ものの例えです。それに」
わたしは言葉を続ける。
「結局、時間なんて人が定めたものでしかないんです」
「大きな話になったね」
先生はコーヒーを一口飲んでから、面白そうに言った。
「一日が二十四時間なのも、単に地球の自転と公転を分かりやすく計算しやすい周期で表しただけの理由です。例えば、半分の十二時間が適切だったとするなら、地球の自転と公転速度が今のままでも一日は十二時間だったかもしれません。その場合は、一秒は今の二倍の長さになるでしょう。また、地球の自転と公転速度が速かったり遅かったりしていたとしても、二十四時間が適切だと考えられたのであれば、同じように今より長い一秒が定義されていたかもしれません」
「つまり、きみは全ての物事は人の定義の上に立っている、と」
「全てとは言いません。多くの物事、程度です」
「水が百度で沸騰するもの、計算が楽になるからでしかない。人間が十進法を使うのは、手の指の数が五本ずつだから。そういうことだね」
「そうです」
わたしは頷いた。
「でも、それがどう話に関係するんだい?」
「定義はあくまでも定義で、本質とは別物です。時間を本質的に考えれば、連続したものです。絶え間なく流れていて、区切りはありません。十二月三十一日の二十四時を超えて、一月一日の零時に変わっても、時間そのものの流れはそのままで、何も変わってなんていません。区切られているように感じるのは、暦としてそう定めているだけに過ぎません。それなのに、元旦を迎えた瞬間にありがたがって、気分を切り替えようとか、去年と今年は違う年にしよう、だなんて考えるのは、都合が良すぎるように感じます。結局は一秒前と何も状況は変わっていないんですから。成人式だって、同じです。成人式に出たからといって、何も変わりません。なのに、みんなは成人式に出たことで、まるで自分が大人になったかのような錯覚を抱いている。わたしは、わたしじゃない誰かが勝手に定めたものに、思考停止するように従うのは嫌なんです」
「なるほど」
先生はコーヒーを口に運んだ。
「だから、わざわざ休みの日だというのに、こうして大学の研究室にまでやってきたわけだね」
「ここに来る方が、わたしには有意義です」
「ふうん。そう」
先生はなんでもないように言った。
「まあ、きみがそう感じたのなら、そうするといいよ」
「はい」
わたしは短く答えた。そして、鑑のようなコーヒーの水面を見た。
きっと先生はわたしに対する多くの言葉を持っているだろう。わたしが並び立てた持論が子供じみた話であることも理解していることだろう。わたしだって、そんなことはわかり切っている。
それでも、それを先生は指摘しないでいてくれる。それがまだ、わたしには心地いい。
「コーヒー、飲んだら? ぼくはおかわりするよ」
見れば、先生のマグカップは空になっていた。わたしの前に置かれたマグカップからは、もう湯気が立っていない。
「それとも、淹れなおそうか?」
「いえ。これでいいです」
「そう」
先生は席を立つ。
「ああそうだ」
そこで、先生は思い出したかのように、言った。
「その振袖。似合ってるよ」
わたしは、ようやくぬるくなったコーヒーに口をつけた。
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