第11話 「空」「黒」「ガラス戸」

 まるで、時計の針が止まったかのような静けさだった。

 ぎぃ、とあたしの足音だけが響く。

 空気も停滞しているようだった。歩いても、いや、体を動かさなくとも、肌に風を感じることはない。空気の中にあたし自身が浮いているような気分になる。

「――――、」

 漏れ出た息も、自分のものであるはずなのに、どこか他人事のような感覚がした。

 ――まだ、寝ぼけているのだろうか。

 自然とそう考える。ついさっき目を覚ましたばかりなのだから、当然だ。

 部屋の中は真っ暗。だから時計の針は見えないし、窓や大きなガラス戸も雨戸をかぶせて締め切っているから、外を確かめることもできない。それでも、この静けさなのだから、まだ夜は明けていないのだろうと思う。

 ああ、そういえば――

 そこで、ふと思い出した。

 雨戸を閉めていたのは、台風が来ると聞いたからではなかったか。

 すっかり忘れていた。というよりは、思い至らなかった。

「――――――そっか」

 声が、水面に広がる波のように、理解と云う概念を体に伝えていく。

 足先まで届いたそれは、初めから気づいていたかのように、体に溶けていった。あたしはまどろみの夢のようなそれを、逃さないように捕まえて、反芻する。

 ――静かだから、忘れていた。

 思えば、当然のことだ。

 この時間が停止したかのような静寂の中にあって、暴力的なまでに騒々しい台風を連想できるわけがない。こうして台風と云う前提があるからこそ存在するもの――外の景色を黒に塗り潰す雨戸を見て、ようやく気付ける程度である。

 しかし、それはそうとして、静かだ。

 足は自然とガラス戸へと向いていた。ぎぃぎぃと音らしい音が足元から聞こえてくる。

「――――」

 半開きだった襖を潜り抜け、あたしはガラス戸へ手を伸ばす。

 どうしてこんなに静かなのだろう。

 台風は、もう行ってしまったのだろうか。

 それとも、台風の目に入っているのだろうか。

 体を動かすのは、そんな好奇心だ。

 指先に、何かが触れた。ガラス戸の木枠だと、遅れて理解する。あたしは柔らかく、この静寂に寄り添うように静かに、戸を開ける。そしてそのまま、小さく開いた隙間から、奥の雨戸を同じようにして開いた。

「――――え」

 外は、黒だった。

 黒に染まっていた、や、暗闇に落ちていた、といった形容は間違いだった。紛れもなくそこにあったのはただの黒で、言うなれば、雨戸の向こうに黒色の壁があるような状態だった。

 台風は?

 夜は?

 外は?

 疑問が頭を駆けて、暴れまわる。だが、その答えが出る術はない。

 だから、あたしはその黒に向かって、手を伸ばしていた。実際に確かめてみるしかないと、直感的にそう感じていたからだ。

「あ――――」

 その時、何かに手を引かれるような感覚があった。

 人ではない。引いては生物ではない。意志や目的を持ったものでは全くなくて、まるで引力がそこにあるような感触だった。

「――あ」

 バランスが崩れ、あたしは転ぶように自然とその黒の中に落ちていった。

 そのままずっと。ゆっくりと。ゆるやかに。

 そして、次第に全てが黒に包まれ、何も見えなくなって――――


 ――ぴぴ、ぴぴ。

 電子音が鳴っていた。

 耳元のスマートフォンからだ。あたしはゆっくりと、布団を払いのけながらそこへ手を伸ばす。

「――――あ……」

 画面を見ずにアラームを止めながら、溶けていくような幻をあたしは追いかける。

「そっか……夢か……」

 もぞもぞと体の感覚を確かめるように動いて、目を擦る。ぼやける視界をほんの少しだけ整えて、枕もとの眼鏡で最終調整。ベッドからナマコのように這い出ると、ようやく背伸びをして人に成る。

 辺りはまるでまだ深夜であるかのように昏かった。しかし、起きる時間なのだと、ベッドの上のスマートフォンが表している。

 あたしはふらつく足を進める。半開きの襖を抜け、ガラス戸を音を立てながら開き、その奥にある雨戸を開ける。

「――――ん」

 そこにあったのは、黒なんかではない、明るい、白の世界だった。

 台風一過の空だからなのだろう。まだ早い時間の空は僅かに白みがかっていて、とても眩しい。清々し過ぎて、本当は台風なんて来なかったのではないかとすら思わされる。

「あ、でも」

 思い返す。

 真っ暗で、静寂に満ち満ちた、あの夢を。

「本当に、台風なんてなかったのかも、ね」

 あたしは誰にともなく呟いた。


fin


「空」「黒」「ガラス戸」

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