第9話 「トカゲ」「古い」「指貫」

「なぁ、お前さん」

 突然響いてきたそんな声に、薫は驚いた。

「…………」

 ゆっくりと、部屋中に視線を巡らせる。しかし、当たり前ではあったが、人の姿は見えない。

 それもそのはずだ。今、この部屋に――ひいてはこの家にいるのは薫一人なのだ。数分前に両親が追加の仕事が入ったと出ていったばかりなので間違いない。

 薫の家は服の仕立て屋をしている。その仕事の一つが、お客さんから古くなった服を預かり、修繕したり仕立て直したりすることだ。

 薫は今、家の留守番兼、仕事の手伝いを任されていた。専らの仕事と言えば、古くなった洋服の簡単な修繕だ。糸のほつれている場所や、ボタンの取れている個所を見つけて縫い直す。難しい場所は仮縫いだけしておいて、あとは母親に任せる。

 子供の頃から手伝っており、もはやルーチンワークと化した作業である故に、半ば手癖のように動かしていた手はぴたりと止まっている。

「お前さんだよ、お前さん」

 再び声がする。

 もしかすると外から声がしているのかもしれない、と薫は考えたが、声は近いものだ。ましてや、自分を示しているような内容である。近くでないとおかしい。

「ほら、こっちだ」

 がさ、とすぐ近くで音がした。畳を小さくひっかくような、い草の擦れるような音だった。薫はそちらへすぐに目を向ける。

「よう。やっと気づいたか」

 そこから発せられた声を聞きながら、薫は肌が泡立つのを感じた。

「あ、あ、あ、と、とっとっとととっ」

「おうおうおう。ちょっと落ち着けって。別に取って食おうだなんて思っちゃいねえよ。というか、見りゃ分かるだろ。お前さんに危害を加えれる大きさじゃあないよ」

「と、トカゲが、喋って、る……」

 自分でもおかしなことを口走っている、と自覚しながら、それでも薫は目の前にちょこんと手を広げて座り、首をくいっと上げた姿勢のままじいっと見つめるトカゲから目を離せなかった。

 トカゲはまん丸の瞳を微動だにせず、口をパクパクと動かす。

「信じられないかもしれないが、まぁ、事実ってことで受け入れてくれ。喋るトカゲぐらいは探せば世界に何匹かはいるものだ。俺は会ったことはないが」

「あ……え……と」

「兎に角。ちょっとお前さんに頼みがあってな」

「たの、み……?」

 鸚鵡返しをする。薫は少しずつ思考が落ち着いてきているような気がしていた。

「そう。頼みだ。それが終わったら俺は帰る。別に迷惑をかけようとか、そういうつもりは全くない。なぁ、助けてくれないか」

「え、と。どんな、こと?」

「探し物がある。それをお前に見つけてほしい」

「探し物?」

 ふと冷静になればおかしな状況ではあったが、それでも薫は何とか現状を受け入れていた。おもちゃの人形のように口だけをパクパクと動かして喋るトカゲも、改めて見れば少しは可愛く思えるような気もする。

「そうだ。『指貫』だ」

「指貫?」

 繰り返しながら、薫は自分の手元を見た。そこには先ほどからずっと使っている、それそのもの――指貫がある。

「これのこと?」

 だから、薫はすぐに自分の手を突き出して、指輪のように嵌められたそれを見せつけた。

「はぁ? 何言ってるんだ。全然違う」

 だが、トカゲの返事はそんなもので、

「ええと、なんていうかな。もっと、こう、古いものだ」

 小さな手足をぴょこぴょこと動かして説明をした。

「んー? ええと、じゃあ、こんな感じ? いっぱいあるけど」

 薫は傍らに置いてあった手芸箱を開いて、指貫をいくつも取り出し、トカゲの前に並べていく。

「あ。古いのだったら、お母さんのとか、おばあちゃんが使ってたやつとかがあるよ」

「いや、そうじゃなくて」

 トカゲはもどかしそうにじたばたと手足に尻尾を動かしていた。

「兎に角、ここにあるはずなんだ。元々は俺のもので、ここに運び込まれたと聞いたから、やってきたんだ」

「そういわれても――」

 薫がそう言った時だった。

「ただいま」

 がたがたと扉の開く音とともに、聞きなれた声が家に響いた。両親が返ってきたのだ。

「よっ、と……おーい、薫、良かったら手伝ってくれ」

「荷物が多いのー」

「あ、うんー。えと、待っててね」

 トカゲとの話が途中だとは思ったが、呼ばれている以上は無視するわけにもいかず、薫は小さくそう声をかけて、扉を開けて部屋を出る。

 すぐに両親の姿は見えて、その近くに段ボールが三つほど積まれているのも確認できた。

「わわ。大量だね」

「ん。薫にも手伝ってもらうからね」

「これ、持てるか?」

「うん。よい、しょっと」

 段ボールを抱える。小柄な薫でも手を回せるほどの大きさではあったが、中身が詰まっているのだろう、予想を上回る重さに、薫はバランスを崩す。

「わ、わっ」

 そして、そのまま尻餅をついてしまった。その勢いは段ボールにも伝わり、横倒しになって中身をこぼしてしまっていた。

「大丈夫か、薫?」

「う、うん。中身は?」

「こっちは大丈夫だよ。どうせ後からクリーニングもかけるし。落ちただけだから、傷もない」

 そう言いながら、薫の父親がこぼれた服をつかみ上げようとした、その時だった。

「それだ!」

 薫のすぐ後ろで声がした。

「え?」

 首だけを回して、後ろを見やると、先ほどまで話していたトカゲがそこにいた。

「それだよそれ。俺が探していたやつ。そうかなるほどな。ここに来るという情報を聞いて急いで来たはいいが、早すぎたわけだ。なあ、お前さん、そいつを取ってくれないか」

 トカゲの声は薫にしか聞こえていないようだった。父親も、母親も、突然疑問の声を上げた薫にのみ注目している。

「あ……えと、それ。ちょっと見せて」

 言いながら、首をかしげている父親より早く、地面に落ちた服をつかみ上げる。

「ああ。間違いない。俺の『指貫』だ。懐かしい」

 声は耳元にあった。

「それじゃあ、返してもらう。助かったよ、お嬢さん」

 そして、風が吹いた。囁く吐息のように、ゆっくりと、柔らかいもの。だけど、思わず目を閉じてしまうようなもの。

 実際、薫は思わず目を閉じてしまっていた。

「な、なんだ?」

 両親も同じだったようで、不思議そうな声を上げている。

「あれ、薫。持っていた服は……?」

 風が止んで、目を開けると薫の手元にあった服は消えてしまっていた。振り返って見れば、トカゲの姿もなくなっている。

 持って行ったのだ。

 不思議なことではあったが、薫はそう思えることができた。喋るトカゲがいたのであれば、服が風に吹かれて消えても不思議ではない。

「ねぇ、お父さん。さっきの服、なんだったの?」

「え? ああ。確か袴だったかな? 古いものらしくて、先祖代々伝わっていたものだとか。蔵を整理していたら出てきたとかでな、その修繕や補正を頼まれていたんだよ」

 ああ、なるほど。と薫は心の中で得心する。

 彼はずっと自分の服を探していたのだ。それがここに運び込まれると知り、追ってきたのだ。

 しかし、『指貫』とはなんだったのだろうか。あのやり取りは――

「お父さん。違いますよ」

 薫が思案を巡らせようとした時だった。父親の背中に投げかけるように、母親が言う。

「さっきのは厳密には袴じゃないですよ。指貫です」


fin


「トカゲ」「古い」「指貫」

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