第8話 「海」「醜い」「火鉢」

 バスが見えなくなるまで目で送って、ようやく少女は振り返った。

 ほんのりと冷たい風が頬を撫ぜる。ゆっくりと、追いかけるように、首元に手をやって流れる髪を抑える。

「……」

 想像していた世界と、現実の景色が重なる。

 少女の正面に広がるのは、海だった。

 風のせいだろうか、波が高く白く濁って見えていた。海水浴場であるのに人の気配はなく、寂しさと冷たさが漂っている。

 想像と現実。

 違いはどこにあるのだろうか。きっとどこにもないし、どこにでもあるのだろう。

 少女は長い息を吐いて、足を進めた。そのまま防波堤の切れ間から階段を下りて、砂浜を踏む。ざく、と心をひっかくような音がした。

 砂浜は決して広くはない。ひと月、ふた月前であれば、すぐに人でいっぱいになりそうなほどだ。ざくざくと進んだ少女はあっという間に波打ち際まで来ていた。

「――――」

 そこで、立ち止まった。寄せてくる波が、つま先に伸びて、届かないまま引き返していく。

 少女はしばらくそのまま立っていた。寄せては返す波に付き添うように、じいっと。

「ねぇ、きみ」

 そんな少女に声がかかったのは、数分が経過してからだった。

「……」

「きみだよ、きみ」

 声の主を探して、少女は回れ右をする。少し離れた海の家の軒先に人影があった。

「海。ずっと見てるけど、入らないの?」

 離れている上、波の音もあるというのに、よく通る声だった。

「……入りませんよ」

「そっか。ずっと見ていたし、足ぐらいつけたいのかと思ったよ」

 少女は目を少し伏せてしまう。確かに、その気持ちがあった。

「……時季外れですし、冷たいですから。それに、濡れたあとが大変ですし」

「確かに」

 少女はスニーカーにスキニーのジーンズという格好で、足回りをコーディネートをしていた。だからこそ、見ればわかるでしょう、と思ってしまう。

「まぁ、うちは海の店だからね。きみが海に入るのなら、タオルぐらいは貸そうかなと思っていたんだよ。ま、必要ないならそれはそれで」

「……」

 なんとなく得心がいく。確かに彼は海の家の前に立っていたし、声をかけてきたのも自分が困ることを想定した上でのことであれば、納得だ。

 そう思えば、つっけんどんな態度をとってしまったことは、やや反省するべきかもしれない。そんな風に少女は考えるが、それでも、これ以上話すつもりにはなれなかった。

 だから、そのままその場から離れるように、歩き出した。

「あら。帰るのかい?」

 距離が近くなったせいだろう、男性の声はさっきより大きく聞こえた。

「――はい。もう、十分ですから」

 少女はそれだけを鋭く言って、足を進める。

「きみさ、」

 それなのに、男性は話を続けるつもりのようだった。海の家の正面に立って、少女をまっすぐに見て口を開いている。

「海は好き?」

「え?」

「だから、海は好き?」

 思いがけない質問に、少女は足を止めた。

 海の家は、もう目の前になっていた。男性も、来ているシャツの柄がわかる程の距離にいる。

「……はい」

 男性の射貫くような視線を逃れられず、少女はそう答えていた。

「じゃあ、今年の夏も泳ぎに来たのかな」

 だが、その言葉で少女はどきりと、体を貫かれるような気持ちになった。

 思わず視線を落としてしまう。呼吸が上手くできないような錯覚に陥る。

 男性は気づかないのか、そのまま言葉を続けていく。

「でも、見覚えはないから、来てないのかな。おれ、あんまり頭はいいほうじゃないけど、記憶力はそれなりにあってね。うちに来たお客さんは大体覚えてるんだ。それにきみみたいな綺麗な子だったら、間違いなく忘れないんだけどね」

「……」

「ん?」

「……綺麗なんかじゃ、ないです」

 ふと零れた言葉は、少女が思っていた以上に感情がこもってしまっていた。そのせいだろう、男性は黙ってしまう。

「……私、綺麗なんかじゃないんですよ。全然。全然全然! だから、今年は、海にも来れなくて」

 決壊したように、少女は言葉を吐き出していた。

「こんな体、見せられない。好きだった水着も、着られないし」

 気が付けば、少女の手は下に伸びていた。その先にある、自分のふくらはぎへと、感覚を届かせるように。

「怪我、したんです。部活で。それで、大きな手術をすることになって。傷跡が、はっきりと、残ってるんです」

 違和感が形となって、確実にそこにある。

「そうか、ごめん。デリカシーのないことを聞いたね」

「……いえ、それじゃあ」

 短く切って、少女は歩き出す。これ以上は、話すつもりになれなかった。

 だが、

「ねぇ。また来なよ」

 男性はそう少女の背中に投げかける。

「海が好きなんだよね。おれもだよ」

 少女は立ち止まっていた。ゆっくりと、視線を戻す。

「……」

「海はさ、夏だけじゃない。一年中、少しずつだけど変わっていくし、その季節ごとの楽しみ方がある。それに何も泳ぐ必要なんてない。おれはさ、そういうのを見るのが好きなんだ。だから、ほら」

 言いながら、男性は海の家の軒先を指差した。

「火鉢。まだ季節的には早いけど、これからの季節では使えるからね。寒い中で見る海もいいものさ」

「……」

「きみも、そんな風に思ったから、今日ここに来たんだろ?」

「……」

 少女は答えなかった。そして、そのまま踵を返して、砂浜の外へ向かう。

 男性はそれ以上何も言ってこないよいうだった。十数分ぶりのコンクリートに足をつけて、階段を上る。靴底についた砂が、名残惜しそうに鳴いている。

 上まで昇りきって、少女はようやく振り返った。

 ついさっきまで見ていた海が広がっている。変わらないはずなのに、表情を変えている、今だから見れる景色。

「――また、」

 確かに、そうなのかもしれない。

 言葉の合間に、少女はそう考える。

「きます」

 男性の返事はなかった。もともと、つぶやくように言ったものだった。聞こえていないのかもしれない。

 でも、それはそれでいい。別に、彼に宣言をする必要はない。

 自分がそう思ったのなら、それでいい。

「――――」

 大きく息を吸う。

 少しだけ冷たい空気が体を満たしていく。それがどこか心地良かった。


fin


「海」「醜い」「火鉢」

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