第7話 「南」「タライ」「悪の主人公」(王道ファンタジー)

 ――昏い。

 本能が訴える。ここは危険だと。

 それは仕方のないことだ。人――いや、ほとんどの生物は夜の闇を恐れる。

 だが、現実的に言えば、それは全てではない。

 狼、梟、虫、そして魔物。夜に活動を行う生物も少なからず存在する。また、適応力に優れる人間という生物も、訓練や経験で慣れていくことも不可能ではない。

 しかし、ここは違う。

 音はない。空気は止まっているかのように淀んでいる。天を遮る木々の枝葉が、夜の闇をより深い昏さへと落としている。

 ここには魔物の気配すらない。それすらも許されぬ場所なのだ。

 故に、恐ろしい。

 だが、少年はそこを駆けていた。息を切らし、恐怖を振り払うように足を前に突き出す。

「ねぇ、本当に大丈夫なの?」

 その少年に、耳元で声がかかる。か細い女の子のものだ。だが、その姿はない。

 魔法による通信だ。

 声を飛ばしている少女は、ここから離れた場所で待機している。遠隔視〈リモート・ビジョン〉により少年を追跡し、状況を把握しつつ会話を行っているのだ。

「ああ。間違いない」

 それに対して少年は短く答える。

 確かに少女が不安に思うのも仕方のない話なのだ。

 ――ここは不帰の森。

 踏み入れた者すべてに災いが降りかかるとされる神域である。

「この先、南の方向にあいつがいる」

 しかし、そんなことを気にしている余裕はない。あえて話を逸らすように少年は言って、足を速める。

 小さな体躯が暗闇の中を駆けていく。その姿はまるで風のようでもあった。

 だが、その足がしばらくして止まった。

「これ、川じゃない」

 むしろ渓谷だ。切り立った崖は深く、夜の闇の影響もあるのだろう、底を見ることもかなわない。

「引き返したほうがいいんじゃ――」

「何か船代わりに使えるもの、出せるか」

 少年は言うが早いか、少女の返事を待つことなく崖から跳んだ。

「ちょ、ちょっと。ええと、ふ、ふね? そんなもの遠隔で出せっこないから――ああもうっ」

 耳元で風が暴れる。故に少女の声はほとんど聞こえていない。元より、気にかけるつもりもないが。

 一秒ごとに速度は増す。伴って見えなかった水面も見えてくる。

「ええっ、もうっ。これ、で――ッ!」

 少女の悲鳴にも似た叫びと同時に、水面に大きな水しぶきが上がった。

「…………は、は、はぁ……。間に合った……」

「これ、タライか?」

「そうよ! 即座に送れるものなんて、そのくらいしかなかったのよ! 文句ある!?」

「いや、別に。下れるのなら問題ない」

 元より少年はそのことしか考えていない。

 どれだけ早く、この場所を抜けることができるか。そして、追いつくことができるか。

 それが全てで、自らの危険――命ですら、削ることは厭わない。

 川はまるで荒れ狂う竜のようであった。少年は一歩間違えればその奔流に飲まれ、死んでしまうであろうに、小さな人一人が乗れる程度のタライの上で、鮮やかにバランスを取り、下っていく。遠隔視で見ていた少女は悲鳴を漏らさずにはいられなかった。

 ややあって、景色が変わった。川が途切れたのだ。

「――っ、その先、滝になってる!」

 少女の忠告はほぼ同時だった。

「――――」

 少年は滝から宙に投げ出された。

 数舜ぶりに、浮遊感が彼の体を包む。

 しかし、その状況にいてもなお、少年は冷静であった。

 むしろ、視界が開けたことで、目標を探しやすくなるとすら考えていた。

「――――――――いた」

 宙にあって、少年は一点を見据える。

 森を抜けた先。獣道にも似た街道沿いに、薄っすらと光があった。ゆらゆらと微かに揺れるそれは、その場にいる人物を浮かび上がらせている。

「ここから、やる」

 地の底にあるような、冷たい声だった。少女が息を呑む音が聞こえる。

 少年は弓を構える。番える矢は三本。目標〈ターゲット〉の数を等しい。

「補助を」

「――う、うん」

 少女の詠唱が耳元で響く。姿勢制御、感覚強化、風の加護、少女の持つ支援魔法が次々にかけられていく。積み重なる魔力を感じ、自分が自分でなくなるような錯覚を覚え、少年は照準を定める。

 そして、

「――――――――」

 音もなく放った。

「……命中はこちらで確認。これで任務完了ね」

 少女の声は感情が入っていないかのように平べったかった。

 空を堕ちながら、少年は返事をする。

「まだ、終わりには遠い」

「……そう、だけど」

「殺さないといけない。あいつらは全部。そうしなければ――」

 少女による魔法があるおかげか、少年は緩やかに地面に着地する。

 そこでようやく、弓を握る手を離す。

「この世界を平和にすることなんて、できやしない」

 それは誓いであり、呪いであり、夢だ。

 そのために、彼は手を汚すことを決意したのだ。

 これから先の未来に、どれほどの苦悩が待っていると分かっていても――。


fin


「南」「タライ」「悪の主人公」(王道ファンタジー)

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