第4話

 路地裏にうずくまっている女の人は、青い大きな目が特徴的だった。彼女の足下には水がだらだらと広がっていて、それが異臭を放っている。破水しているんだろう。ハリー君がびくっとしたように怯えたのは、映像の鮮明さゆえか。六年なら大したことも無い。その頃妊娠していた人は、玄さんが覚えていた。お隣のビルにいる四人のうちの一人で、彼は覚えた事を忘れられないのだと言う。そんな彼でも、流石に生まれた時の事は覚えていないらしいけれど。

「くっ……うぁ、あああああああっ」

 ずるり、と音がして。

 子供が、生まれる。

 胎盤や何やらの後産の手助けをしてくれる人はいない。と言うか、人通り自体が無かった。夏の真昼間、物陰に忍んでわずかな涼を取る事に人々は夢中だった。清潔な水が極端に少ない貧民街の事だ、脱水症状に至るかもしれない中で面倒事に巻き込まれたがる人もいないだろう。六年前の夏。僕はドクトル・A8の書物に夢中だった頃だろう。ラベルちゃんは呆れて、でも手に入る限りの論文や著書を探してくれた。

 さて、目の前の光景は、後産に身体をうねらせる女性がいるばかりだ。どろ、びちゃ、赤い血が路地に流れて染みを作る。その中で子供は泣いていた。ハリー君は、泣いていた。

「うる、っせえんだよ!」

 女性が赤ん坊の頬を引っ叩く。

「てめーの所為で客取れなかったんだよ、クソが、てめーの所為でッ……あああああッ!」

 びしゃびしゃと女性の腹の奥から血が流れる。

 ひとしきり血塗れになりながらも出すものを出し終えたらしい彼女は、子供を置いてよろよろと立ち去って行く。子供は泣きっぱなしだった。その声も枯れかけた時、

「おい、ここだ! ここに……ああ、なんて姿で!」

 壮年の男性が路地裏に駆け寄ってくる。その後ろを同年代と思しき女性が。言うまでもなく、その二人はハリー君の義両親だった。彼らは上等のジャケットで血まみれの子供を抱きかかえ、病院のある街の方へと走って行く。貧民街でも比較的浅い場所だったから、入って来られたんだろう。きっと子供の尋常でない泣き声を聞いて、居てもたってもいられずに。

 僕はハリー君を見る。

 呆然としていた。

「ハリー君」

 ラベルちゃんが呼びかける。彼は身体をびくっとさせて、義両親の手を強く握ったようだった。二人も目に涙を浮かべている。流石に、こんな生まれ方をしていたのは想定外だったんだろう。へその緒すら付いたまま、望まれない子供なのは解っていただろうに。だけど彼は、彼らは、どこかで夢を見ていた。止むに止まれぬ事情があったのだと、信じたがっていた。

 そしてそれは崩壊する。イクォールが珍しく無言で漂っていた。言葉が見付からないのだろう。僕だって見付からない。自分の親もこうだったんだろうな、なんて、考えるだけで。

 望まれない子供はいらない。だから捨てる。どんなに生存能力が低い状態でも。いらない。僕はいらない子供だった。ラベルちゃんはどうだったんだろう。やっぱり訊いた事は、ない。

「君の親は、誰かな?」

 ラベルちゃんの言葉にハリー君は号泣し、うずくまった身体は優しき老夫婦に抱きしめられていた。


 契約通りの支払いが行われ、冬はどうにか電気の通ったまま越せそうかな、なんて思いながら僕は買い出しに出た街を抜けて貧民街に入る。普通ならここで襲われたりするのが基本なんだけれど、大人達も子供達も重くないか? とか、荷物を持とうか? とか声を掛けてくれる。ラベルちゃんの教育の賜物だ、とは思っても、彼女が十七年と言う人生で何をこの街に対してやって来たのだろうかと謎に思う事は多い。彼女はいったい何者なのだろう。一緒に暮らして十年、まだまだ分からないことだらけだ。こればっかりはかのドクトル・A8の著書にも記されていないだろう。

「おや、タイム君」

 聞き惚れるようなボーイソプラノに振り返ると、歩いて来たのはやっぱりノアさんだった。

「今回の仕事は後味が悪かったようですね」

「ラベルちゃんから聞いたんですか?」

「いえ、イクォールから。久し振りに彼女が『巣』に篭っているようなので」

 やっぱりですか、と苦笑したノアさんに、僕も苦笑する。ラベルちゃんは気の向かない仕事だった時には『巣』に篭ることが数日あるのだ。夕飯は日持ちのするものにしよう、と僕は紙袋を抱え直す。リンゴのパイでも作ったら食べてくれそうかな。甘いものは別腹なのが女の子らしいから。僕としてはちゃんとカロリー計算されたものを食べて欲しい。とは言え僕もものぐさで、肉と野菜を交互に出してれば良いだろうと言う献立なのだけれど。

 ビルに帰ったら荷物を冷蔵庫やセラーに運んで、僕は階段を使ってビルの最上階に向かう。

 そこには古着や湿気た本やクッションが大量に積まれていて、その真ん中にはラベルちゃんが寝息を立てて眠っていた。

 ラベルちゃんの『巣』。一体いつからあるか解らないほどの着古された服が山積みになっていた。クッションも拾い物を適当に洗ったのだろう、汚れが目立つ。

 その中で眠るラベルちゃんは、白雪姫みたいだった。

 喉に詰まったリンゴの欠片。

 胸に詰まった痛い過去。

「白雪姫とは逆だけど……」

 僕はラベルちゃんの枕元にリンゴを一つ置く。

「起きたら食べてね、ラベルちゃん」

 彼女について知らないことはたくさんある。どうしてこの街の母親になりたいのか、どうやってノアさんやヴァルさんみたいな人と知り合ったのか。この『巣』を一番の安眠場所としているのは何故なのか。僕と隣の寝室じゃないのがちょっと寂しいなんてことは無い。と思う。

 ラベルちゃんがどうしてこの貧民街にいるのかも解らない。でもそれは僕だって同じだ。物心つくかつかないかの頃にこの街に捨てられた。友達は猫が一匹。今は土の下で眠っている。気が付くと、僕自身にも知らないことだらけで苦笑してしまう。僕は、一体どうしてここに居るんだろう? 彼女は、一体どうしてここに居るんだろう? 僕達は、どうして都合よく、出会ってしまったんだろう?

 それを問うのは怖いから、まだまだ前途は多難だ。

「おやすみ、ラベルちゃん」

 僕は言って、階段を下りた。

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