第19話 かまちょな彼女と「ほなな」

 ――「シゲ。あたし明日帰るわ」

 母がそう言ってきたのは昨日の寝る前のことだった。


 翌日、俺は母を見送るためにアパート先の道路へと出ていた。

 駐車場から出してきた車を横付けし、母が降りてくる。

「しっかし本当に毎回いきなりだよな」

「それは今に始まったことやないやろ」

「まあな。事故には気を付けろよ」

「アホタレ。誰にもの言うてんねん」

「おかあさん……」

 そのとき、見送りに来てくれていた千寿が俺の後ろから声をかける。彼女にも母の帰りは今朝知らせたのだが、そこからずっとしゅんとしたままだ。

 千寿がおずおずと母に近寄る。

「本当に帰っちゃうんですか」

「せやな」

「……」

「なんや、千寿ちゃん。今生の別れでもなし、そんな悲しそうな顔せんといてや」

 今にも泣きだしそうな千寿を母が優しく抱きしめた。

「また遊びにくるからな」

「……はい」

「シゲのこと嫌いになってもまた会ってな」

「……はい」

「はいそこ縁起でもないこと言わない。そしてそっちも普通に返事しない」

 俺が指摘するも外野の声など届いていない。

 完全に蚊帳の外だ。

 ち、ちくしょう、昨日から仲良過ぎだろっ。

 てか、母さんのやつ俺だってまだハグしたことないのに……っ。

 俺がNTRのような敗北感を味わっていると、母と目が合う。

 にやり。

 ほくそ笑みやがった。

「あ~、千寿ちゃんは柔らかいなぁ」

「く、くすぐったいです」

「それにええ匂いや。やっぱ女の子やねぇ」

「ぐぬぬ……っ」

 爪が掌に食い込みそうなほど拳を握りしめる。

 母に本気でライバル心を燃やす息子。

 そこに親子の絆などなかった。

 俺の醜態に満足したのだろうか、母が千寿をそっと引き離してから彼女の肩に手を置く。

「あ、そや、千寿ちゃん気を付けや。こいつ変なとこひとりで抱え込むことあるからな」

 ぎくり。

 不意打ちだったその言葉に俺は顔が引きつる。

「もしかしたら今もなんか腹の内にあるかもしれんで」

 ちらりと横目でこちらを見てくる。

 思い当たる節がないわけではない。

 学生時代、完璧に隠していたはずの俺のエロ本を、翌日何事もなかったかのように机の上に置き直していた猛者だ。

 さすがといったところだろう。

「き、気を付けます」

「よっしゃ。ええ子や」

 千寿の頭を撫でてから、母がこちらへと向き直った。

「シゲ」

「な、何だよ……」

 その表情が真剣なものへと変わった。

 そして俺の耳元に口を近づけて俺だけに聞こえるように、

「千寿ちゃん、守ったりや」

 そう言った。

「母さん……」

「ん」

 おもむろに拳が突き出される。

 俺も自分のそれをこつりと合わせた。

 これは藤沢家で大切な約束をするときの習慣だ。

 昨日の観光で千寿のことを聞いたのか、それもと何かを察したのかはわからないが、この人なりにだいぶ千寿のことを気にかけてくれているらしい。

「シゲ、もし約束を破ったらな――」

「うおっ」

 次の瞬間、母が俺の首に片腕を巻き付け、小脇に抱えるようにロックしてくる。

「お前との縁切って千寿ちゃん養子にいれるからな」

「は……? 何言って――いだだだだだだだっ」

 ギリギリギリ。

 腕に力が込められ、万力のように締め付けれられる。

 どうやら本気らしい。

「わ、わかった。わかったから放せって!」

「よっしゃ」

 言質を取った母の腕の力が緩んだので、俺は咄嗟に脱出する。

「殺す気かよ!」

 華麗にスルー。母は何事もなかったかのように車へと乗りこみ、運転手側の窓から顔を覗かせてくる。

 そして。


「ほなな」


 一言残してから車が勢いよく発進した。

 エンジン音を響かせて走っていく。

 その影は小さくなり、そして消えていった。

「行っちゃったね」

 寂しそうにぽつりと呟く。

「だな」

 千寿は家に帰ろうとしなかった。

 俺はそれに付き合うことにした。

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