シーン5
「ぷはー!」
美紀は、しあわせそうに、水がたっぷり入った五〇〇ミリリットルのペットボトルをぐいぐいと飲み上げていた。その口元から少しほどこぼれ落ち、彼女の顎から首元をたどって胸元へたどり着いていた。その反動の息をふきあげた。その飲みっぷりは、誰が見ても、非常にうまそうに見えた。
「いやー、うまいねーきったかさん!」
単なるぬるい水ではあるが、彼女はその味わい深さを噛みしめ、紗央梨に同意を求めていた。紗央梨も、同じサイズの水がはいったペットボトルの水を両手に持ち、少しずつ味わいながら飲んでいた。
「ほうじゃね……」
紗央梨は、美紀の話しかけに、少し顔を引きつらせて微笑み返した。
「はぁー、しかも、涼しい。エアコンって、ありがたいー」
美紀は、前面から漂ってくる冷たい空気を顔面いっぱいに味わっており、その気持ちよさに顔を思いっきり緩ませていた。
「ほうじゃね……」
紗央梨は、非常に申し訳なさそうに、前の様子をうかがった。
二人の前には、中央に小さな窓が開いた分厚い透明ガラスパネルが遮っており、その向う側には先ほどの警官二人が彼女らを背にしながら座っていた。さらに彼女らの横のドア窓には鉄格子がはめ込まれており、座り込んでいるシートは無慈悲なくらいブラック無地の分厚いビニール生地で覆われていた。その冷たさが、逆に彼女らに快適を与えていた。そう、紗央梨と美紀は、先ほどの警官らが乗っていた警察車両の後部座席に座っているのである。未だ、この車両は緊急点滅灯をつけたままで、ハイウェイの路肩に停車していた。その前方には、ハザードランプを点滅させている紗央梨の深緑のミアータが停車していた。
端から見ると、彼女らがハイウェイで何かやらかして、RCMP(王立カナダ騎馬警察)に拘束されているように見える。もちろん、何かをやらかしているのだが、別に拘束されているわけではなく、乗り込んできたと言った方がよいであろう。
美紀が、出っ腹の警官に水を捨てたことを非難し水がほしいっとせがんでいたら、彼は自分らの警察車両の後ろへ彼女ら二人を案内し、トランクを開けて中身をみせた。トランク内には色々と武器らしい物、工具箱等がはいっていたが、その上に五〇〇ミリリットルの水がはいったペットボトル二〇本くらい、まだパッケージに梱包された状態で、どんと中央に置かれていたのである。出っ腹の警官は、その梱包をほどいて、そのうち一本ずつ彼女らに渡した。美紀は、その警官の意外な行動に、歓喜にあふれていた。
紗央梨はこの水一本だけで満足で、にこやかに警官らにお礼を述べていたが、隣の美紀は小悪魔的な笑顔を振りまき、
「そんなにたくさんあるんだったら、もう二本ちょうだい!」
と右手の二本指を立てながら、さらに、日本語で彼にせがんでいた。
出っ腹の警官は顔色を一つも変えずにすんなりと、もう二本を美紀に渡した。彼女は、屈託のない笑顔満開でそれを受け取り、諸手を挙げて喜んでいた。
「やったー、これで今日一日の水をゲットだぜ!」
美紀は、はしゃいでいたが、それだけにとどまらなかった。
「あの『チャリ吉』くん、エアコン効いていないし、すごいホットなんだよ。この中でレッカーを待たせて!」
彼女は警官二人に、車両の後部座席を扇子で指さし、ほとんど日本語で要求した。しかも、ミアータを彼女独自の通称で呼びながら。出っ腹の警官は若い警官に合図を送り、「Okay(オッケー)」と一言だけ発し、後ろ座席ドアの開けてくれて、彼女らを中へ誘導した。
その様子をみた紗央梨は、その美紀の厚かましさに唖然とさせられたが、立て続けにその要求がすんなり通っているところに、まったくことばも出てこなかった。とりあえず、相棒が非常に申し訳ないことをしたと思い、紗央梨は警官らにも顔を合わせることができずにいた。押し通しきった美紀にも、紗央梨はあらためて感服していた。
「よかったねー、きったかさん。こうやって水を飲みながら、ひんやりとしたところで、レッカーを待ててー」
表情がたるみっぱなしの美紀は、左手にペットボトル、右手に扇子をゆっくりと仰いでいた。
「うん、そうじゃね……」
――ありがとうっと、紗央梨はこころの奥底で美紀にお礼を付け加えていた。
「まったく! おっさんも、トランクにいっぱい水をもっているなんて、罪におけないなー」
美紀が言う。
――どんな罪なんじゃろっと、紗央梨は、内心呟く。
紗央梨も、まさかRCMPの警察車両に乗せられるとは、夢にまで思ってもいなかった。日本でもパトカーの後ろに乗ったこともないのに、カナダに来て載せてもらえるとは、と驚きを隠せない表情でまじまじと車内の様子を眺めていた。
前席運転席側に出っ腹の警官、助手席側に若い警官が座っており、ダッシュボード中央の無線機から、ときおり通信が流れいた。二人の警官は、おしゃべりを時々していたが、紗央梨と美紀の英語能力ではほとんど聞き取ることができなかった。とりあえず、彼女らは、彼らが忙しい勤務時間中であるのは把握できていた。紗央梨も、あぐらをかいている美紀も、自分らのためにここでいっしょに待ってくれている二人の警官に非常にありがたい気持ちでいっぱいであった。
紗央梨は、運転席の出っ腹の警官を後ろ姿を防弾ガラス越しに眺めながら、
――この人はすんごい無表情だけど、ほんとは気が小さくて優しいおじさんなんじゃろうな。
彼女は、彼の後頭部から広い肩にから、大きな安心を感じはじめていた。
紗央梨は、黒ビニールバックシートに寄りかかり、鉄格子窓の向こうにみえるハイウェイを眺めていた。彼女らがミアータを路肩に停車してから、横を過ぎ去る車両の数は変化もなく、スムーズは交通量であったが、紗央梨は、その通行車両に乗っている人らとよく目が合う事に気づいた。――どうも、横を通り過ぎる車のスピードが遅くなっているような。彼女は、あらためて周囲を見回した。
――うちら、警察に捕まっているようにみえるんじゃろうな......。
紗央梨は、あらためて恥ずかしさを覚えた。
出っ腹の警官が、後部座席に声をかけてきた。あのミアータは、バンクーバーで手に入れたのか、と聞いてきた。紗央梨は、「イエス」と答えた。彼女は、『「知り合い」から貰った』と答えようとしたが、『知り合い』の英訳が思い付かず、
「マイ フレンド ゲイヴィツ ミー (わたしの友だちがくれた)」と答えた。
紗央梨は、彼の質問が業務的ではなく個人的なものであると、なんとなく感じていた。彼はゆっくり頷き、静かに語り始めた。そのうちのほとんどを彼女のリスニング力では聞き取ることができなかったが、
「That's a nice car (あれはいいクルマだ)」
とぼそっと呟いたのだけは、彼女の耳に入った。
紗央梨は、「サンキュー(ありがとう)」って、囁くようにそれに答えた。
若い警官も笑顔を見せながら、後部座席の方へ向いて、なぜPEI(プリンスエドワード島)へ、あのクルマで向かっているんだ、と聞いてきた。
「えっと...…」
と紗央梨は、頭の中で英訳を考えている間をおき、それに答えようとした。すると、彼女のスマートフォンが鳴りだし、紗央梨はあわててそれをとりだした。警官らも紗央梨に注目した。美紀も、体を乗り出して、紗央梨の方へよってきた。
スクリーンに表示されていた電話番号は見覚えのないのであったが、紗央梨は息を一飲みして、電話に応答した。電話は、『CAAサスカチュワン』からの自動音声案内であった。ロードサービスの作業員が、十五分以内にここへ到着するという知らせだった。
紗央梨はその知らせをきくと、希望の笑みを浮かべ、美紀の肩を揺らし、
「一五分以内にレッカーがくるって!うちら、ここから解放されるよ!」
と伝えた。
その朗報に対して、美紀のリアクションは薄かった。
「いやー、ここ快適だし、あっちに戻りたくないー」
と不服そうに呟いた。
「じゃ、このまま牢屋までつれてってもらいんさい」
紗央梨は、美紀を軽く突き放す。もちろん、本気ではないことは二人とも暗黙の了解済みである。
出っ腹の警官が、紗央梨に『CAA』から電話か、と聞いた。紗央梨は、イエスと肯定した。彼は、あれだなっと言って、中央分離帯の向こう側の反対側車線を指さした。
ハイウェイの反対車線側に、ピックアップトラックを改造した白と青のツートンのCAAサスカチュワンのレッカー車が颯爽と現れてきた。
「おお!!」
美紀は、喜びの声を上げた。
「あれが、引っ張ってくれるんじゃね」
紗央梨もその車両を見つけ、期待を込めたことばを呟く。
そのレッカーの運転手が明らかにこっちを見て、手を振って合図を送っていた。そのまま、レッカーはスピードを落とさずに、彼女らがいる場所から通り過ぎ、後方の地平線へ去って行った。紗央梨と美紀は、きょとんとしながら、警察車両の後部ウィンドウから、そのレッカー車が去って行くのを見届けた。
「あれー?」
美紀は、呆気にとられていた。
「去っちゃったね…...」
紗央梨も、惚けた声を呟いた。
前座席で、ミラー越しでその様子に見ていた若い警官は
「Five minuits more (もう五分)」
と呟いた。単純に、反対車線とこちら側との間に、思いっきり走行不能な中央分離帯が横たわっているので、『CAAサスカチュワン』のレッカーは、Uターンできる場所まで通り過ぎただけである。ただ、その場所は数キロメートル後方にあり、警官らはそのことを知っていたので、落ち着いていたのである。
紗央梨と美紀は、後部ウィンドウから食い入るように、レッカー車が消えた方角を見つめていた。数分後、先ほどのレッカー車が現れた。二人は手を取り合って、その登場を喜んでいた。
「やったやった、来たよ! きったかさん」
「うん、そうじゃね! 美紀!」
レッカー車は、スピードを落とし、四人が乗っている警察車両を通り過ぎて、紗央梨の深緑のミアータの真ん前に停車した。
それと合わせたように、二人の警官は車両から降り、レッカー車の方へ向かっていった。レッカー車から四、五十くらいの白人系の男性作業員が一人、作業革手袋をはめながら降りてきて、二人の警官を見つけると微笑みながら挨拶を交わしていた。
「きったかさん、わたしたちもいこう!」
と美紀は声を高めながら、紗央梨の肩を揺らす。
「うん、行こう!」
と二人はそれぞれの後部ドアを開こうとする。
が、開かない。
「あれ?」
カチャカチャと二人は、後部ドアの内ハンドルを引っ張るが、どうも空回りしている様子で、一向にドアを解除することができない。警察車両の後部座席は、犯罪者や容疑者を収容するところで、通常は内側からは開かないようになっている。
「ちょっとぉ! おっさん!」
『エクスキューズミー サー(すいません)! 」
と二人は大声で警官らを呼ぶ。車内の後部座席と前部座席の間には、小さい窓が開いているとはいえ分厚いガラス内壁が遮っている。また、遮音性は抜群の頑丈な車体を持つ警察車両である。また、この警察車両からミアータまで十数メートルはなれている。これの要因は、彼女らの声を彼らに伝えることを十分に絶つことができた。美紀はガラス壁をどんどんとたたくが、もちろん、向こうの警官らに聞こえていない様子。紗央梨はサイド窓を開けようとするが、そんなスイッチもハンドルもなく、鉄格子ともにきっちりと固定されていた。彼女は、鉄格子を引っ張ってもびくともしない。二人は、どんどん車内であわてていった。
警官二人と『CAA』の作業員は、レッカー車とミアータの間ぐらいのところで、談笑をし始めた。いかにも、三人は顔見知りだったらしく、数分ほど会話をつづけていた。その間、彼女らはどうにかして後部座席から脱出しようと、もがきまくっていた。
ふと、『CAA』の作業員が、ミアータの持ち主のことを聞いたらしく、出っ腹の警官が紗央梨を指さそうと振り返った。もうひとりの警官も振り返った。後部座席から、ガラスパネルに顔をへばりついて、助けを求めている美紀と目が合った。紗央梨も、ドアをガタガタ揺らしている所だった。このとき、ようやく、彼女らの助けを呼ぶ叫び声が、車両からかすかに漏れて、彼らにたどり着いた。すっかり、警官らは後部座席ドアを解除していなかったのを思いだしたのである。
若い警官は、しまったという表情を露わにして、急いで自分らの車両に戻った。出っ腹の警官は、それを見送りながら、無表情ではあるが「Sorry(すまない)」と呟いていた。
ようやく後部座席から解放された二人は、ミアータのそばへむかった。その間、美紀は若い警官に日本語でずっとぼやいていた。彼はずっと謝っていた。カナダ人は、結構『Sorry(ごめん)』という単語を多用する。
紗央梨は、出っ腹の警官と作業員の元まで急ぎ足でたどり着き、『BCAA(BC州自動車協会)メンバーカード』をとりだし、声をかけた。
作業員は、この深緑の古いミアータのオーナーが日本人の若い女性であること、BC州からドライブ旅行中であること、に少し驚きを隠せずにいた。紗央梨の身元を確認すると、作業員はミアータの窓を閉めるようにと、紗央梨に指示した。紗央梨は、ミアータの車内に戻り、イグニッションキーをオンにし、パワーウインドウのスイッチを押して、窓を閉めた。同時に、美紀も助手席からシート後ろに上半身潜り込ませリアスクリーンのファスナーを引っ張り、開いていた後ろ窓を閉めていった。
二人が作業を終えミアータから出てくると、『CAA』の作業員は、黙々とミアータをレッカーに取り付ける作業を行った。その動きは、非常にてきぱきとしていた。紗央梨と美紀、二人の警官は、日差しも気にせずに、その様子を黙って見届けていた。
五分ほどで、ミアータは後部をつり上げられるようにレッカー車に引っ張り上げられ、前輪に補助輪がつけられていった。作業員は、図太い長いケーブルに繋がられた補助灯をミアータのフェンダーに取り付け、作業を完了させた。
「さすが早いねー」
と美紀は、感心していた。
警官二人はミアータがレッカーに固定されるのを見届けると、紗央梨と美紀に、彼らの役目は終わったのでここをさる、と伝えた。
紗央梨は、頭を深々と下げて、
「サンキューソーマッチ!(大変ありがとうございます)」
声を高らかに、彼らにお礼を送った。
美紀は、「サンキュー、サンキュー」いつもの感じで、軽めに、手を大きく振って、感謝を述べていた。
若い警官は微笑み手を振りながら、
「Have a nice trip(よい旅を!)」
と声をかけながら、自分らの車両に戻っていった。
出っ腹の警官は、振り返る前にやや微笑みを返し、無言でゆっくりと運転席へ戻っていった。
彼らの警察車両は緊急点滅灯を消し、エンジンを始動させて、ゆっくりとハイウェイへ戻っていった。美紀は大きく手を振りながら、紗央梨はじっと姿勢よく、彼らの車両を見送っていた。
日差しはいまだに鋭く厳しいが、このときふいていたそよ風はささやかな優しさを彼女らに与えていた。
「ねぇ、きったかさん」
警察車両が地平線に消えて見えなくなると、美紀が聞いてきた。
「なあに?」
紗央梨が返事をする。
「わたしたちは、どうやって、ここ(ハイウェイ)から去るの?」
美紀は、基本的でシンプルな疑問を紗央梨に投げかけた。
紗央梨は、その質問にことばをつまらせ、きょっとんとした表情で美紀を見つめ返した。
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