シーン4

 紗央梨のミアータの後ろに止まった警察の車は、サイレンは鳴らさずにはいたが、まだ回転灯を止めることはなかった。室内の二人の男性警官はしげしげと彼女らを見ていた。二人ともサングラスを着用しており、助手席側の若い警官は、紗央梨らと目が合うと、笑顔で返してくれた。運転席側の警官は、やや年配で固めの表情であった。


 紗央梨と美紀は彼らと目が合うとすぐに振り戻り、すかさず紗央梨は運転席に座り、美紀は後ろの台からおりて、助手席にちょこんと正座で座った。


「私らは何も悪いことをしていないよね?!」


 美紀は少し焦った声で紗央梨に聞いてきた。


「うんうん、エンジントラブルで緊急停車じゃけぇ、問題ないはず。ちゃんと『BCAA』も呼んでいるし」


 紗央梨も、同じように焦っていた。カナダでの運転歴二ヶ月半、すでに警察に止められた経験が一回あるが、まだ違反チケットを切られてはいない。とはいえ、警察に止められるになれているわけではない。今回は滞在先ではなく旅行道中であるので、何も悪いことはしていないのに、紗央梨にいっそう緊張感が襲ってきた。


 紗央梨は、左サイドミラーで彼らの様子をうかがった。彼らの車は、2ヶ月前までに住んでいたノースバンクーバーの時に見かけた警察の車と同じデザインが施されている。バンクーバーとは違うデザインのパトロール車両。紗央梨は、彼らは『RCMP(王立カナダ騎馬警察)』の警官であること気づいた。


「あ、マウンティーだ」


 と紗央梨は呟く。


「マウンティー?」


 と美紀は聞き返す。


「『RCMP』の警官のこと」


「バンクーバーの警官と違うの?」


――そうか、美紀はバンクーバー市外に住んだことがないから、他の町の警察事情を知らないんだ、と紗央梨は思い出した。


「バンクーバー市の市(シティ)の警察だけど、彼らは国(カナダ国家)の警察なんよ。」


「へー、きったかさん、色々知っているね。でも、なんでそんな大そうな警察がこのあたりにきているの?」


「うんっとね......」


 紗央梨は、さらに焦った。実は、美紀の質問に答えられるほど、紗央梨も詳しく知らなかったのである。前回、警察に止められたのを留学サポートセンターのカウンセラーと話した際に、カナダの警察事情を聞いたくらいなだけなのである。


「金のない貧乏市町村は、『RCMP(国家警察)』がカバーしとるんだって」


 とりあえず、紗央梨はそのカウンセラーに聞いた最もわかりやすい方法で答えた。「名前は大そうに聞こえるけど、交通違反などを取り締まる普通の警官だよ」


 と紗央梨はもう一言を付け加えた。


 ここで、補足説明をしておく。紗央梨が言うとおり、『RCMP(王立カナダ騎馬警察)』は、カナダ国家警察で、国内警察機関中、最高レベルの組織である。日本では都道府県別の警察が運営されており、地域レベルの警察機能を提供している。その上に『警察庁』が、国家レベルの警察機能を提供している。『RCMP』はカナダのその同レベルに値する。ただ、カナダには特殊な事情がある。地域レベルの警察は市町村が運営する組織のはずなのだが、カナダで独自の警察組織をもっている自治体は、バンクーバー、トロントなどの主要都市もしくは古い歴史をもつ市町村くらいである。それ以外のほとんどの市町村自は独自の警察組織をもっていない。国家警察機構である『RCMP』は、地域レベルの警察機能をも市町村に提供しているのである。


「じゃぁ、あれが赤い制服のお巡りさん?」


 美紀は、カナダのお土産屋で見かけるぬいぐるみや人形を思いだしていた。「『マウンティー』ってしゃれた呼び名だね」


 美紀は、ゆっくりと後ろを振り向いてみた。


 それと同じくらいに、その車の運転席から、およそ三十代後半くらいの男性警官が降り立った。灰色の半袖Yシャツ、その上に黒色の防刃ベストを着込んでおり、ボトムには縦にまっすぐな黄色のストライプが印象的な黒ズボン、頭には黄色い帯を巻いた官帽をかぶっていた。大柄の体つきであり腹もかなり出てきており、それは防刃ベストを着ていてもわかるほどであった。サングラスと豊かな口髭が、彼の無表情な顔つきを際立たせていた。


 美紀は前に振り戻り、体を引きつらせて、再び紗央梨に話しかけた。


「全然、赤くないじゃん」


「いや、それは儀式用だって、普通はあんな格好だよ。ノーバン(ノースバンクーバー)の警官もあんなんだったよ。」


 紗央梨が述べるとおり、日本のメディア等やお土産の人形で有名な『赤い制服に鍔の広い尖がり帽子』は式典のみであり、普段見かけているのは“あんな格好”である。


 警官はゆっくりと歩きながら、紗央梨のクルマにちかづいてきた。紗央梨は、その様子をサイドミラーから彼の動きを把握していた。紗央梨には、サングラスの向こうの彼の目はすでにこのサイドミラー越しで紗央梨の表情を把握しているように思えた。それほど、彼のサングラスの正面は、まっすぐに紗央梨の方に向いていた。


「こっちへ来とるー」


 紗央梨は声を殺しながら、美紀へ伝えた。紗央梨の両手は、ステアリングを強くギュッと握っていた。


「ここは、平静をよそそうよ! 怪しまれないように!」


 と、美紀も囁くように答えた。だが、彼女は、いつものようにシートにあぐらをかいている感じではなく、さらに背筋を伸ばし正座をしていた。紗央梨はその姿を見て、逆に唖然とした。


――なん、そんなところで背筋伸ばして、正座しとんのよ、美紀! 美紀の方が、いつもと違うじゃん!?


 紗央梨は、サイドミラー越しで彼がほぼ後部左フェンダーの横くらいに来ているのに気づいた。紗央梨は、ゆっくりと振り返り、その警官に顔を見せた。かなり大きい。彼女はその警官を間近に見て、驚いた。幌を後部にしまい込んだままなので、屋根はない紗央梨は、そのまま見上げるように警官と顔を合わせていた。


「はぁい」


 と紗央梨は、引きつるように愛想笑いしながら、警官に声をかけた。美紀も、同じように堅苦しい笑顔を警官に振りまいた。


 警官は、屋根を開いたまま小さいオープンツーシーターの二人のアジア系女性を見下ろすように最初の挨拶をした。


「Hi, Girls. How're you?」


「グッド!  サンキューサー」


と紗央梨は片言ながら答えた。美紀は、「そーそー(まぁまぁ)」って苦笑いながら、答える。


 警官は、彼女らが英語が第一言語でないことを悟り、ゆっくりとした英語で、この『Miata(ミアータ)』に何かあったのか、と聞いてきた。紗央梨は、とりあえずことの状況を説明し、BCAAのカードをみせて警官に渡して、レッカーを待っていると伝えた。美紀は、相変わらず助手席でニコニコしながら背筋伸ばして正座していた。


 警官は、紗央梨のミアータを舐めるように見わたし、この車はあなたのか?と紗央梨に訊いた。紗央梨は、「イエス」と答えた。すると、彼は紗央梨の自動車免許証をみせるように要求し、美紀にもなにかID(身分証明書)をもっているかと聞いてきた。


 紗央梨は、美紀に


「美紀、パスポート出しんさい」


 日本語(広島弁)で伝える。美紀はあわててシート後ろに置いてあったバッグを取り出し、パスポートを取り出した。


 紗央梨は、すぐに財布からBC州の自動車免許証を提示して、警官に渡した。その後すぐに、彼女は美紀からパスポートを受け取り、顔写真ページをひらき、


「ディシズ・ハーアイディ、サー(こちらが彼女の身分証明書です)」


 と警官に渡した。


 彼は、しげしげと紗央梨の免許証と美紀のパスポートをチェックしながら、彼女らの顔を見つめていた。美紀のパスポートと顔を見比べた後、日本人か?と聞いてきた。


「イエス! アイム・ジャパニーズ」


 と、元気よく美紀が答える


 紗央梨は、微笑みながら、


「イエス、ミートゥー、サー」


と答えた。それから、紗央梨は、彼の質問をききとりながら、簡単な単語をできるだけ使い、旅行中、バンクーバーに住んでいる等など、答えた。


 彼は、これは返しておくといって、ひょいっと腕を紗央梨の頭上をまたぐように延ばし、美紀のパスポートを彼女に返してきた。美紀は、まるで賞状を授与されるかのように、両手でそのパスポートを受け取った。受け渡すとき、彼は「Thanks(ありがとう)」と口癖のように呟いた。美紀はそのことばを聞くと、先ほどの堅苦しさがどこへいったかのようなさわやかな笑顔で、


「ユアウェルカム(どういたしまして)」


 と、返した。紗央梨は、その笑顔を見逃さなかった。美紀の笑顔は、紗央梨の心臓に指でつつくかのような刺激をあたえ、一瞬、こわばった緊張を忘れさせてくれた。ほんの少しだけど、気持ちが和らいでいくのを彼女は感じていた。このときの警官の反応、顔の表情が気になり、紗央梨はまた彼の方を見なおす。だが、彼の顔は先ほどと同じ変化は泣く無表情であった。しかも、まだ紗央梨の免許証は、彼の手に捕まれたままで、返す様子がなかった。再び、紗央梨は緊張を高まらせていった。


 彼は、紗央梨のこわばる様子に気づいたのか、心配ないから、もう少しまってくれ、チェックしたらすぐ返すと、優しい口調で紗央梨に語りかけた。もちろん、英語で。彼のしゃべる意味は、紗央梨はなんとなく理解したのだが、やはり彼の顔が無表情なので、不安と緊張がなかなか落ちることがなかった。紗央梨は苦笑いを浮かべ、少し待つことを承諾をする。


 警官はそれを聞くと、また「Thanks(ありがとう)」と言って、その場から離れた。ただ、そのまま後ろへ下がって戻っていくのかと思われたのだが、彼は前へ歩みはじめミアータのボディを念入りに確認しながら、ミアータの前方をぐるっと歩きまわり、助手席側のそばを通り過ぎるように、自分の車へ戻っていった。紗央梨と美紀は、彼を追い掛けるように彼の様子を見ていた。彼がパトロールカーの運転席に戻りドアを閉めて、同僚と会話しはじめたのを確認すると、二人同時に安堵の溜息をつき、肩をなで下ろしていた。


「きったかさん、きったかさん」


 と美紀が声を抑え気味で、紗央梨の右二の腕を扇子の先でつつくように声をかけてきた。


「なにか、バンクーバーで悪いことしたの?」


「まさか!  ないない!  美紀じゃないんやから!」


 紗央梨も、声のトーンを押させつつ、全力で否定した。


 美紀は、紗央梨の最後のことばが気になり、


「ちょっと、私も悪いことしていないよ。私のパスポートは、すぐに返ってきたんだよ」


と、反論し、ちょっとふてくされた。そして、聞き返した。


「そんなに、悪いことをしているように見える?」


 紗央梨は、美紀を頭から足先までよくよく見て、


「そうだね、うちよりは、罵倒したい人間が多いのは間違いようじゃけど……」


 微笑み返した。


 美紀はことばにつまる。彼女自身も、全くないとは言えないのは事実なのだ。


「バンクーバーでだれか男を泣かしたんじゃろ?」


 紗央梨が聞いた。


「そんなことはない!」


 美紀は、声を抑えることをわすれて、張り上げた。「アルとは、付き合っていないよ!!」


「アルって?」


 すっとぼけた風に紗央梨は訊いてきた。


 美紀は、紗央梨の微笑みを目の前にすると、わずかに頬を赤くしことばを濁しはじめた。紗央梨は、ルームシェアをするまでの美紀のことはあまり知らないでいるし、彼女の男関係をそこまで根掘り葉掘り聞くような人間ではなかった。美紀にとっては、そこが紗央梨の性格を居心地がよく思う点の一つだった。ただ、紗央梨がいざってやんわりと聞き出しにかかると、美紀もその抵抗を弱める傾向があった。


「語学学校で知り合ったカナダ人(カナディアン)……」


 と美紀は、ぼそっと答えた。「酔った勢いというか、なすがままに…」


――こういうこが男受けいいんだねって、紗央梨は妙に納得してしまった。


 結局の所、美紀の話では、彼女とそのアルは、彼女が通う語学学校のパーティーで、意気投合して、一夜限りの関係を結んだということだ。ただ、そのアルが、講師であることは、紗央梨はおぼろげながら推測できた。


 語学学校にいるカナダ人は、九十九パーセントの確率で『生徒(スチューデント)』であるはずもない。それに、紗央梨は、留学コンサルタントから、ナンパ目的で講師になっているカナディアンも少なくないと聞いたことがあった。


「ていうか、あいつ、他の女にも色々手を出していたんだから!」


 それがわかったのが、二日後らしい。男の見極めが早いらしいが、残念なことに、そのほとんどが『事後』である。とりあえず、美紀はその男をほったらかしたらしい。


「それから、誰ともないんじゃね」


 と紗央梨がしれっと訊き、美紀を横目で見た。

 美紀は、茶目っ気たっぷりな苦笑いをしていた。


 その顔をみた紗央梨は、呆気にとられ、まだ美紀には秘め事があることを把握し、


「あるんじゃー……」


 ぼそっと呟いた。さしあたって、彼女は、あまりこれ以上深く突っこまないことにしようと決心した。


「そんなことより、きったかさんは、どうなのよ!」


 と美紀は、矛先を紗央梨に返した。

「え、うちは何もないよ」


 と、紗央梨は軽く否定した。


「前の彼と別れて、一年近くなんでしょ。その間に何かあったでしょ!」


「ないない!」


 紗央梨の返答は、素早かった。逆に、美紀は拍子抜けした様子だった。


「考えるまもなく、否定したね」


 美紀は、じっと紗央梨の顔を見つめて、大きく溜息をつき、


「あー! つまんないよー、きったかさんー!」


 と、落胆のことばを吐いた。紗央梨に顔に嘘が見当たらないことが、美紀には、非常に期待外れだったようだ。彼女は、気を落ち着かせ、扇子をパタパタと仰ぎながら、南東の空を見つめていた。


 紗央梨は、苦笑いしながら小さな溜息をつき、北東の空を見つめた。


 実際の所、元彼と別れてからカナダに渡る間に、一人だけ気になる男性が現れていたのだが、カナダに行きたい欲望が大きく、そんなにその彼に気持ちがいかなかったのを、彼女は思いだしていた。彼の声が優しくて好きだったとことが、紗央梨の気持ちに残っているが、彼と付き合わなかったことに対しては、未練はほとんどなかった。ただ、彼の方が紗央梨に気があることを気づいていた節があったのだが、無視してそのまま渡加してきたのに、彼女はすこし罪悪感を感じていた。


 紗央梨は、後ろの警官が気になり、左サイドミラーをみた。先ほどの無表情な出っ腹な警官が車から降りてきていた。彼は、ゆっくりとこちらに向かってきた。


 彼がサイドミラーに映らなくなったとき、彼はすでに紗央梨の真横に来て、突っ立っていた。紗央梨と美紀は、また表情をこわばらせて、息をのみ、彼を見上げていた。待ってくれてありがとう、と彼は軽く礼をし、預かっていた紗央梨の免許証を返した。紗央梨は、それを受け取り、違反切符みたいなのがないことを確認すると、


「ノープロブレム」


 といって、かすかに胸を撫で下ろしていた。


 すると、彼は『CAA』はいつくるのかと、紗央梨に訊いた。彼女は、たぶん一時間後くらいだと答えると、彼は、そのレッカー車がくるまで、後ろの警察車両をそのままにして、そこで待っていると告げた。


 紗央梨は、さすがにこの車のエンジントラブルで、彼らの時間を無駄にして貰うのも悪いので、心配ないです、わたしたちでできますって、答えた。彼は、紗央梨たちの意志に関係なく、これが任務だからといい、説明をした。紗央梨の英語力では、全てを理解できなかったが、どうも、整備修理が必要な車が公道を走ってはいけないらしく、それが走らずに処理されるところまで見届けるのも、パトロールの仕事らしい、と彼女は把握した。


――お疲れ様です……


 と、紗央梨は警官たちの苦労を思い立った。


 すると、美紀は、手を上げて、


「エクキューズミー」


 と横で伝っている警官に声をかけた。


「キャン・ウィ・クローズ・ディス・ルーフ?(屋根をしめていい?)」


 美紀は、暑そうな顔を露わにして、懇願した。パトロールカーが後ろに駐まって以来、彼女らは幌を締めるタイミングを失って、ずっと日光の浴びつづけていた。彼は少し間を開けて、もちろんだっと承諾をした。でも、まだ、無表情であった。


「さんきゅー」


 と美紀は喜びを表しながら、紗央梨へ、「きったかさん、しめるからそっちもって!」と反対側幌の角を持つようにお願いをした。


 すると、警官が長く太い手を伸ばし、幌の先中央にあるハンドル部分をつかみ、ひょいっと持ち上げ、非常に手慣れた手つきで、一気にフロントウィンドウ枠まで幌を延ばしていった。


 紗央梨と美紀は、一気に日陰ができたことに呆気にとられ、少し間を開けて、


「サンキュー……」


 と幌を閉めてくれた警官に礼をいった。紗央梨と美紀は、手際よく幌を固定するフックをフロントウィンドウ上枠内側にきっちりとロックさせていった。


 幌をしめきると、美紀はシートに背中を寄りかからせて、扇子を仰いでいた。


「ようやく、紫外線から解放された!」


 美紀は、おもいっきり緊張を解放させて、リラックスモードに入っていた。


 紗央梨は、窓の外をみると、先ほどの警官は、ゆっくりと自分の車へ戻っていっていた。


 紗央梨は、その後ろ姿を見ながら、


――あの人、このミアータの扱いに慣れている


 と感じていた。


 紗央梨は、サイドミラーで、警官らの動きを追っていた。車両の中に戻った警官は、同僚の警官と少し会話して、自分の携帯電話を取りだし、電話をし始めていた。こちらを見ながら、何か会話をしていた。その光景をみて、紗央梨は別にイヤな予感はしなかった。この人らはただ善意で残っているだけなんだと感じ、安心していた。


 だが、彼女らが快適になったかというと、そうではない。結局の所、振り出しに戻ったおいうのが正解だろう。陽も高くなり、気温も当初より若干上がっていた。日本の猛暑よりはずいぶんマシだとは言え、ハイウェイ上の熱波は、今の彼女らにはすでに不快レベルであった。先ほどまでは警察との遭遇で気を張り詰めていたおかげで、タダ彼女らは今までの暑さを忘れていただけである。


 乾燥した空気も相まって、彼女らの喉の渇きを早く感じるようになっていた。


「きったかさん、水もっている?」


 と、美紀の声が弱々しくなっていた。


「さっき、うちのを全部の飲み干したじゃないの? 美紀のがあるじゃろ?」


 先ほど、美紀が愛(罵倒)を叫んだあとに飲み干したのが、紗央梨の飲みかけであった。


「うーん、私のは随分前に飲み干したよー。」


 美紀は、シートとドアの隙間に置いてあった、空のペットボトルをみせた。一リットルサイズの大きめの空ボトルで、今朝の出発する前に購入した物だった。


「がっつきすぎだよ」


 紗央梨は呆れていた。


「お肌の美しさを保つためにも、一日二リットルは飲まないといけないじゃん。しかも、この乾燥だよ。定期的に充分な水分を摂らないと!」


 美紀の美容への努力は、紗央梨は敬服していた。すでにお肌の曲がり頃を超えた紗央梨より、お肌の曲がり頃前の美紀の方が、美しさの努力のかけ方がおびただしい物をあった。


――一日二リットルかぁ、うちもそれくらい飲まんといけんじゃろうな……と紗央梨は考えはじめたが、まだ今は昼前である。まだ、一日が半分も終わっていない。一日活動時間を考えれば、まだ三分の一を超えたくらいのところで、摂取するべき量の半分の水を飲み干している美紀である。


「美紀、やっぱりがっつきすぎだよ、まだ昼前だよ」


「だって、この痛いほどの暑さだし、ここでストップして、エアコン無しでしょ。『チャリ吉』くんのシートって、革じゃん。触れるところが、すごく蒸せて、べたついてくるんだよね。ほら」


 美紀は、背中をみせた。背中の部分だけが、シャツが汗で湿って少し色褪せてみえ、ブラジャーの線が透けて見えていた。


「……ほうじゃね。汗かいちゃったよね」


 紗央梨も、美紀の方へ背中をみせてみた。その点は紗央梨も同じであり、シャツの背中に汗染みが広がっており下着の線が浮き出ていた。二人は、背中だけでなく、お尻と太もももシートに面するところが、かなり蒸せており、そこらへんだけ余計に汗を滲ませているのである。また、紗央梨は太ももの下にタオルを敷いているのだが、それも湿ってきているのも確かだった。


 今は、全ての窓を解放させているので、空気が籠もっていないのだが、これがもし締め切っていれば、どれだけ汗臭くなっているんだろうって、紗央梨は不安を感じた。


「だから、水をそろそろ補給しないと、お肌の水分が欲しいよー」


 美紀は、またねだりはじめた。


「じゃけど、あんまり水をとりすぎると、トイレ近くなっちゃよー」


 と、紗央梨は微笑みながら、彼女らしくない屁理屈を述べる。


 美紀は、無言で無気力げに紗央梨の方を振り向く。しばらく紗央梨を見つめて考えていた彼女であったが、ニタって笑い、


「大丈夫よ、隠れるところいっぱいありそうだし」


 と言い、大草原の方を振り向き、遠く野方を眺めた。


――あー、美紀なら臆せずにやりそう。


 紗央梨は、美紀が言う『隠れるところ』が何のためにいるのか察知し、冗談抜きで『その事態』になれば、美紀はそのためにためらいもなく行動するだろうってことを思い知った。また、彼女は、まだそういう事態になっていないことに、ほっとしていた。


「水でも、お茶でも、何でもいい! 喉渇いたー。喉渇いたー」


 と、美紀はぼやきが続く。「レッカーの人、もってきてくれないかな?」


「そこまで、用意よかったら、ええね」


 苦笑いしながら美紀のことばに耳を傾ける紗央梨であったが、彼女もやはり喉が渇きはじめていた。


 すると、後ろの方で、ドアを閉める音がした。二人は、口を紡ぎ、幌後ろ窓から、後方を見やった。


 先ほどの警官ととなりの助手席に座っていた若い警官がクルマの外へ出てきていたのである。二人はゆっくりとちかづいてきた。ただ、先ほど紗央梨と話をしていた出っ腹の警官が水が入った、大きめのペットボトルを手にしていた。


 紗央梨と美紀は、それを見つけると、両者ともに期待に込めた笑みが漏れはじめてきた。


「きっと、私たちの願いがつうじたのよ!」


 と、美紀は声を下げて、喜びながらいった。


「そうじゃね!」


 二人は、彼らの親切心に大いに期待を寄せていた。


 そういう二人の期待心をよそに、若い警官は助手席横を通り過ぎて、ミアータの右前で立ち止まって、このクルマをじーとみていた。出っ腹の警官が、左から紗央梨の横に立ち止まると、


「Could you open the hood? (ボンネットを開けてくれるか?)」


 と、たずねた。


「オッケイ」


 すこし手間取りながら、紗央梨はボンネットのオープンレバーを引いた。警官は、若い方へ指示をすると、彼はボンネットを開けてはじめた。開けるとき、その若い警官は、「It's so light! (めっちゃ軽い!)」


 と叫んでいた。もうひとりの警官と何やらボンネット越しで話を始めた。そのほとんど、彼女らには聞き取れなかったが、どうやらこのクルマのことを語っているようだった。


 美紀は、その様子を見ながら、


「私の水はー?」


 と日本語でぼやいていた。出っ腹の警官は、彼女らに何やら声をかけて、そのまま水の入ったペットボトルを握りながら、ミアータのクルマの前に向かった。


 警官は、ペットボトルを右手に握りしめながら、若い警官と話を続けていた。そろそろ、彼女らも、彼は全く水を彼女らに渡す気配がなかった。だが、彼らもその水をそこで飲むという気配も見せなかった。


 美紀は、水がこちらに来そうもないことを把握すると、がっくりと肩を落とし、ふてくされはじめた。紗央梨のほうは、ボンネットを開けさせて何をするんだろうって、不思議に思い、運転席から出てきた。美紀もそのままつられて、助手席から出てきて、様子を見ていた。警官らは、彼女らが無言で出て来るのを気づいていたが、別にとがめることをせずに、そのまま開けっ放しのエンジンルームを見ながら、彼ら同士で語り合っていた。

 

 ちなみに、通常は、警官の指示があるまで、外へ出てはいけない。


 紗央梨と美紀が、フェンダー横に立って眺めていると、出っ腹の警官が、エンジンルーム前面にあるラジエーターのキャップをはずしていった。彼は、ラジエーターの中は空っぽだというのを確認して、水がたっぷり入ったペットボトルの蓋を開け、、そのままラジエーターに水をどぼどぼって注いでいった。


 美紀は、その警官の行動に思いっきりショックを受け、呆然としはじめていた。


「……私の水……」


 美紀のこころに感情の高ぶりがこみ上げてきて、腕や指先を軽く震えさせていた。


 ラジエーターに水を入れた数秒後、エンジン下からぼたばたと水が落ちる音がしてきた。


 警官らと紗央梨は、しゃがみ込み、車体下の、ラジエーターとエンジンの間から水がぼたぼたとしたたるのを眺めていた。


――やっぱり漏れているんじゃー。簡単に治るのじゃろうか?っと、紗央梨は心配になってきた。


 出っ腹の警官は、ペットボトルの水もなくなり、ラジエーターとエンジンの間からも水が全てしたたり落ちたのを確認し、ラジエーターキャップを閉めて、紗央梨に、きっとラジエータホース破れだねっと伝えた。心配するほどじゃない、リペアショップにもっていけばすぐに治るよって、淡々としゃべっていた。もうひとりの警官は、にこやかな顔で、紗央梨たちを安心させようとして、彼女らに話しかけた。


 ボンネットが閉まる音と同時に、美紀の沈黙が破られた。


「あんたら、なに、水をすててんのよ!!」


 と、叫び散らした。日本語で。


「私、サースティで(喉渇いて)仕方がないのに、こんなことのために水を捨てちゃって! ホワッラ・ユー・ドゥイン(何してんのよ)!!」


 美紀は、三〇センチ以上の身重差があるにもかかわらず、大男の出っ腹の警官に責めよってきった。紗央梨は、止めようとしていたが、美紀の気迫に若干怖じけついて、声がでないでいた。若い警官のほうも、呆気にとられて、美紀が叫びながら横を通り過ぎていくのを、なにもせずそのまま見送っていた。とりあえず、彼女は、日本語でも英語でもむちゃくちゃな文で、どんどん水について、彼らに喚き散らしていた。


 このとき、無表情な出っ腹の警官が、はじめて、彼女らに表情をあらわした。逆ギレでもなく、ただ、美紀の気迫に、すごく困っていた。紗央梨は、美紀の行動への驚きよりも、彼の困惑顔を見て、この警官も同じ人間なんだっていう感動を強く感じていた。


「アイ・ウオント・ウォーター!!! 水ちょうだい!!」


 美紀は、ハイウェイ全体に響くくらい、叫び上げた。

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