第3話
翌日――
「明日香さん、おはようございます」
午前7時50分に、僕が探偵事務所に到着すると、明日香さんの方が先に来ていた。いつもは僕の方が先に来ることが多いのだが、珍しいな。
まあ、明日香さんの部屋からは階段を1階分下りるだけだから、来ようと思えば、いつでも来れるのだが。
「おはよう、明宏君」
「明日香さん、今日は早いですね」
「なによ。私が、いつも遅いみたいじゃない」
実際に遅いけど。
「まあ、いいわ」
「コーヒーでも、入れましょうか?」
「お願い」
「そうだ、弁護士のこと、何か連絡はありましたか?」
「まだよ」
「そうですか」
連絡が来ていればと思ったが、そんなに上手くはいかないか。
「でも、鞘師警部は、北海道に居るんですよね」
「誰か、別の人に頼んでいるでしょう。鞘師警部は、そのへんは抜かりないわよ」
「それじゃあ、今日は、どうしますか?」
「今日は、出版社に行ってみましょう」
「出版社ですか?」
「橋上さんが、原稿を持ち込む予定だった出版社よ。住所は、鞘師警部に聞いてるわ」
「分かりました」
僕たちは、9時過ぎに出版社にやってきた。
大きな出版社ではないが、そこそこ有名な出版社だ。
「明日香さん、約束もなく会えますかね?」
「分からないけど、ここまで来たんだから、行くだけ行ってみましょう」
「すみません。フリーライターの橋上一男さんの、担当の方にお会いしたいのですが。特に約束とかはしていないんですが、取り次いでいただけますか?」
「お客様のお名前を伺っても、よろしいでしょうか?」
「桜井です」
「桜井様ですね。少々お待ちください」
門前払いも覚悟していたが、意外にも、あっさりと取り次いでくれた。
「今すぐ参りますので、そちらのソファーにお掛けになって、お待ちください」
10分くらい待っていると、40歳くらいの男性がやってきた。
「お待たせしました。私が、橋上の担当の
男性が、明日香さんに名刺を差し出した。
「探偵の桜井と、こちらは助手の坂井です」
明日香さんも、名刺を渡した。
「探偵さん――ですか」
緒川さんは、予想外の人物が訪ねてきて、とても驚いているみたいだ。
「こちらへどうぞ」
僕たちは、応接室に通された。
「緒川さん、お忙しいところをすみません」
と、明日香さんが頭を下げた。
「いえいえ、逆に助かりました」
「逆に?」
「ええ、もう2時間近く、会議が続いていましてね。抜け出す口実ができました」
と、緒川さんは、笑顔で言った。
「よろしいんですか?」
「どうせ、たいして意味のない会議ですから。結局は、編集長の意見で決まるんですから。私なんか居なくても大丈夫ですよ」
会議って、そんな物なのか?
「コーヒーで、いいですか?」
緒川さんは、受話器を手に、僕たちに聞いた。
「どうぞ、お構い無く」
「緒川です。第2応接室に、コーヒーを三つ」
緒川さんは、内線でコーヒーを頼んだ。
「それで、探偵さんが、どういったご用件でしょうか? ――って、聞くまでもないですよね。橋上さんが、殺された件ですよね」
「はい」
「確か、犯人は捕まったはずですよね。今さら、何でしょうか?」
「そのことなんですが、実は、犯人が別にいる可能性が出てきたんです」
「どういうことですか!?」
緒川さんは、明日香さんの言葉に驚きの声を上げた。
「しかし、警察の方からは、そんな話は聞いてませんが」
「まだ可能性の段階ですが、私たちが独自に調べた限りでは、間違いないかと」
「そうですか……」
緒川さんは、黙り込んでしまった。
「コーヒーを、お持ちしました」
先ほどの受付の女性が、コーヒーを持ってきた。
「ありがとうございます」
正直、1時間前に飲んだばかりだから、あまり飲みたい気分ではなかったが、せっかくだから飲むことにした。決して、美女が入れてくれたからではない。もったいないからだ。
「失礼します」
女性は、応接室を出ていった。
「お話は、分かりました。それで、私に聞きたいこととは何でしょうか?」
緒川さんは、コーヒーを一口飲みながら言った。
「橋上さんの書いた記事の内容を、教えていただけないでしょうか?」
と、明日香さんは聞いた。
「そのことですか――私も、詳細までは知らないんですよ」
「担当者が知らないなんてことが、あるんでしょうか?」
「通常は、そういうことは、ほとんどないんですが。今回に限っては、橋上さんは、何も教えてくれなかったんです」
「どうしてでしょうか?」
「私も当然、聞いてみたんですが、この記事は、ある人物の正体を暴く物だとしか、教えてくれなかったんですよ」
「ある人物が、誰なのかは分かりませんか?」
「すみません。私は、分からないんです。――ですが、編集長なら知っているかもしれません」
「本当ですか?」
「さすがに、編集長が知らないと、雑誌に載せることはできませんから」
「編集長に、お会いすることはできますか?」
「ちょっと、聞いてみましょう」
緒川さんが受話器を取り、内線を掛けようとしたとき、応接室のドアが開いて、一人の40歳くらいの強面の男性が入ってきた。
ずいぶん若い編集長だなぁと思ったが、緒川さんは、まだ内線を掛けていない。
いったい誰だ?
「お前たちが探偵か?」
と、その男性が鋭い目付きで、明日香さんと僕を睨み付けてきた。その形相は、まるで暴力団かと思ったが、
「刑事さん、どうされたんですか?」
と言う、緒川さんの声に、
「えっ? 刑事さん?」
と、僕は明日香さんと顔を見合わせた。
「橋上さんのことで、聞き込みに来られた刑事さんです」
「俺は、警視庁の大嶋だ」
大嶋?
この人が、鞘師警部が言っていた、大嶋警視か。
「大嶋警視ですね。私は探偵の、桜井明日香です」
と、明日香さんが、名刺を差し出した。
大嶋警視は名刺を受け取ると、無言のまま見ることもせずに、右手で握りつぶし投げ捨てた。
なんて失礼な人だ。これが本当に、警視なのか?
僕は、投げ捨てられた名刺を拾うと、ズボンのポケットに入れた。
「探偵だかなんだか知らんが、民間人が警察の捜査の妨害をするとは、いい度胸をしているじゃないか」
大嶋警視は、ドスの利いた声で、僕たちを睨み付けた。その迫力に、僕は思わず気を失いそうになった。
しかし、そんな脅しに負ける明日香さんではない。
「大嶋警視、失礼ですが、私たちは、捜査妨害などしているつもりは、一切ありません。私たちは、依頼人の為に、調査を行っているだけです」
明日香さんは、毅然とした態度で告げた。
「それが、俺たちにとっては、目障りなんだよ。鞘師のバカが、何を言ったのかは知らんが、犯人は、伊川以外に考えられない」
「果たして、そうでしょうか」
「これ以上、警察の邪魔をするなら、公務執行妨害で逮捕してもいいんだぜ」
逮捕!?
「あ、明日香さん、もう、そのくらいにしておいた方が……」
「明宏君、そんなの、ただの脅しよ」
そうかもしれないが、警察を敵に回すのは……
「ただの脅しと取るなら、それで結構。後で泣きついても、知らんがな」
そこへ、60代くらいの男性が、やってきた。
「緒川! いったい、何の騒ぎだ?」
「社長! あ、あの、刑事さんが――」
どうやら、この出版社の社長のようだ。
「これは、大嶋さん。いつも、お世話になっております。何か、緒川が失礼なことでも?」
社長は、大嶋警視と面識があるようだ。
「いや、失礼なのは、この探偵だ。お宅の社員に、あることないこと吹き込んで、我々警察の捜査を妨害しようとしているようだ」
「探偵? あなた方ですか? いったい、誰の許可を得て、ここに入り込んだ!」
社長は、僕たちを怒鳴り付けた。
しかし、大嶋警視の迫力の後では、恐怖心は全然なかったが。
「勝手に入り込んだわけではありません。ちゃんと、受付を通しました」
明日香さんは、ここでも怯まない。
本当に、頼もしい限りだ。
「とにかく、出ていってくれ。不法侵入で、訴えるぞ」
不法侵入?
そんな、むちゃくちゃな。
「分かりました。今日のところは、これで失礼します。明宏君、行くわよ」
「は、はい」
僕たちは、応接室を出た。
「これに懲りたら、もう二度と、警察の捜査を妨害しようなどと考えるのは、やめるんだな――それから、社長さん。社員に、ちゃんと言っておけ。警察以外の人間に、余計なことを話すんじゃないとな」
「はい、分かりました」
僕たちは、出版社を後にした。
「明日香さん、これからどうしますか?」
「そうね……一度、事務所に戻りましょうか」
僕たちは車に乗り込むと、僕の運転で事務所へ向かった。
「それにしても、大嶋警視って、怖い人でしたね」
僕は、大嶋警視の顔を思い出すと、恐怖で体が震えるような気がした。
「それから、あの社長の態度ですよ。大嶋警視に、頭が上がらないっていう感じでしたね」
「ねえ、明宏君」
「明日香さん、どうかしましたか?」
「大嶋警視って、どうして、あそこに居たのかしら?」
「えっ? どういうことですか?」
「大嶋警視の様子からいって、偶然に居合わせたっていう感じでは、なかったと思うの」
確かに、言われてみれば、そうかもしれない。
「出版社の誰かが、教えた――っていうことですか?」
「もしくは、大嶋警視か部下の誰かが、私たちを見張っていたのか――」
「見張って? どうして警察が、僕たちを見張るんですか?」
「この事件、まだ私たちの知らない何かが、あるのかもしれないわね」
このとき、僕たちの車の後をつけている黒い車が居ることに、僕は気づいていなかった――
僕たちは、明日香探偵事務所に戻ってきた。
大きな収穫もないまま、こんなに早く戻ってくることになるとは……
「明日香さん、どうしますか? このまま、大嶋警視の脅しに屈するんですか?」
「明宏君、ちょっと落ち着きなさいよ」
「でも――」
「今は、鞘師警部からの連絡を待ちましょう」
「でも、鞘師警部は、北海道ですよね?」
「北海道かぁ――意外と、遠くないかもね」
どういう意味だろう?
確かに今の時代、東京から北海道なんて、飛行機であっという間だけど。
こ、これは、まさか……
僕と、北海道に行きたいというアピールなのか――?
いやいやいやいや……
今は、事件の調査中だ。それに、好きでもない男と北海道旅行なんて、あり得ないだろう。
「明宏君、大丈夫? 顔が赤いみたいだけど?」
「えっ? あ、いや、大嶋警視のことで、腹が立って興奮し過ぎました――ハハッ」
いけないいけない、違う意味で興奮していたみたいだ。
その後、特に何もないまま、時間だけが過ぎていった――
もう、午後1時か。昼食を食べたら、また眠たくなってきた。
そのとき、明日香さんのスマートフォンが鳴った。
「誰かしら? 知らない番号だわ」
「鞘師警部ですかね?」
「鞘師警部だったら、自分の携帯で掛けてくるわよ――もしもし?」
僕は、明日香さんの横で、聞き耳を立てた。
「探偵の桜井明日香さんでしょうか?」
「はい、そうですけど――」
「私、先ほどお会いした、緒川です」
「緒川さんですか――どうかされましたか?」
「例の、橋上さんの記事ですが、名前は、
46歳か――防犯カメラで見た印象よりも、かなり若いな。
「緒川さん、ありがとうございます。でも、どうしてそれを? 社長さんと大嶋警視に、止められているはずでは?」
「大きな声では言えませんが――私も編集長も、社長と大嶋さんが嫌いなもんで」
「なるほど」
「これから、詳しい住所をそちらにメールで送ります。名刺に書かれているアドレスで、よろしいですね?」
「はい。ありがとうございます」
電話を切って間もなく、緒川さんからメールが送られてきた。
「明宏君、今から行くわよ」
「明日香さん、また、大嶋警視に邪魔をされるなんてことは、ないですよね?」
「そのときは、そのときよ。さあ、行くわよ」
僕たちは、事務所を出た。
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