第1話

明宏あきひろ君? ちょっと、明宏君?」

 うーん……。

 遠くから、僕を呼ぶ声が聞こえる。

 うーん……。

「明宏君?」

「うーん……? 明日香しゃん。もう、食べれましぇん……」

「何を寝ぼけたことを言ってるのよ。食べれましぇんじゃないわよ。この前も言ったけど、仕事中に居眠りをするなんて、本当にいいご身分ね」

 時刻は、午後1時30分。いつの間にか、事務所の自分の席で眠っていたみたいだ。

「す、すみません。昨日、夜中までサッカーの日本代表の試合を見てたんで……。がんばれ日本って。3対1で、日本が勝ちましたよ」

 僕の名前は、坂井さかい明宏。25歳。身長は170センチ――ではなく、本当は169センチだが、そこは男としてのプライドがある(どんなプライドだ?)。だから、170センチと言い張っている。

 職業は、探偵助手だ。公式に、探偵などという職種があるのかは知らないが、「探偵です」と、堂々と名乗るほどのスキルを、あいにく持ち合わせてはいない。

「まずは、自分ががんばってから言いなさい。明宏君はね、探偵として、緊張感に欠けるのよ。だから、3日前も、地震に気づかず居眠りできるのよ」

 と、呆れているのは、桜井明日香さくらいあすかさん。

 僕と違って、れっきとしたプロ(正しい表現かは、分からないが)の探偵である。

 ここ、明日香探偵事務所の所長でもあり、僕の雇い主である。

 そして、僕の好きな人でもある(片思いだけど)。

 僕が助手になったきっかけは、僕が事件に巻き込まれたときに、明日香さんに助けられたことが、きっかけである。理由はよく分からないが、事件後に助手にならないかと、誘われたのだ。明日香さんに好意を持っていた僕には、その申し出を断る理由などなかった。

 明日香さんは、何故か年齢を教えてくれないが、兄が30代前半で、妹が21歳ということは分かっている。たぶん、僕よりも少し上の27~28歳くらいではないかと、探偵助手として推理しているのだが、もしかしたら30歳くらいかもしれないと思うことも、なきにしもあらずである。

 しかし、たとえ30代だとしても、僕の明日香さんへの愛情は変わらないのだ(残念ながら、付き合っているわけではないが……)。

 そして、明日香さんは、身長168センチくらいだと言っているが、これについては、僕は信用していない。

 なぜなら、ハイヒールを履いているわけでもないのに、どこからどう見ても、僕よりも高いからである。

 しかし、そのことを指摘しようとすると、殺気のようなものを感じるので、言わないようにしている。

 明日香探偵事務所は3階建ての小さなビルで、1階は駐車場、2階が探偵事務所で、3階に明日香さんの住む部屋がある。ちなみにビルは、不動産屋の明日香さんのお父さんの所有する物件で、かなりの格安で借りている。

「春眠暁を覚えずと言うじゃないですか?」

 と、僕は、とんちんかんなことを言った。

「もう、6月よ」

「わぁ! 明宏さん、難しい言葉を知ってるんですね! 天才ですね! 凄い!」

 紹介が遅れたが、実はこの場にはもう一人、事務所のソファーに座っている人物がいる。

 僕のことを天才だと言った女の子は、桜井明日菜さくらいあすなちゃん。明日香さんの妹だ。

 明日菜ちゃんは21歳で、身長は174センチと、僕よりも5センチも高い(うらやましい限りだ)。明日菜ちゃんの身長と比べると、明日香さんは171~172センチくらいか?

 まあ、この話は、もう止めておこう。

 明日菜ちゃんは、アスナという芸名で、モデルやタレント活動をしている。

 先ほどの一言で、気づかれた方もいるかもしれないが、明日菜ちゃんは、俗に言う、おバカキャラとして大ブレイクした。

「いやいや、天才だなんてそんな――」

 真に受けて照れる僕も、そうとうなおバカだ。

「こんな頭の良い人が、私の、お義兄さんになるなんて嬉しいなぁ」

「っていうか、明日菜! あなた、いつまで居るの? 仕事が有るんでしょ!」

 うん?

 最後の方、明日菜ちゃんと明日香さんの声が重なって、なんて言ったのか聞き取れなかったな。なんて言ったんだろう?

 まあ、別にいいか。どうせいつものように、たいしたことじゃないだろう。

「今日はオフだから、大丈夫だって言ったじゃない」

 と、明日菜ちゃんは、かわいい笑顔を見せた。明日菜ちゃんは、午前10時頃から来ていて、昼食も一緒に食べた。

 明日香さんと明日菜ちゃんは、まさに美人姉妹(どちらかというと、かわいい系かもしれないが)だ。

「やあ、今日はにぎやかだな」

 そんなとき、明日香探偵事務所に、一人の男性がやってきた。

鞘師さやし警部、どうしたんですか?」

 と、僕は聞いた。

 鞘師警部は、警視庁の警部だ。35歳で身長185センチの、イケメン警部だ。

 鞘師警部の父親は、明日香さんと明日菜ちゃんの父親の大学時代の後輩で、僕たちにもとても優しくしてくれる。お互いに捜査協力をしたことも、何度もある。

 ただ、僕は、明日香さんに気があるんじゃないかと疑っている。

 もし、そうなら、僕にとっては、強力なライバルだ。こんな、高身長イケメンエリートに、どうすれば勝てるんだ?

 ちょっと話がそれてしまった。話を戻そう。

「ちょっと、名探偵の知恵を拝借したいと思ってね」

「なんでしょうか?」

 と、明日香さんは聞いた。

 名探偵の部分は、否定しないんだ。まあ、確かに名探偵だけど。

「お姉ちゃん、私、帰るね。お仕事のお邪魔しちゃ悪いし」

 そう言うと、明日菜ちゃんは席を立った。

「悪いね、明日菜ちゃん」

「いえ、鞘師さん。お仕事がんばってください」

 明日菜ちゃんは帰っていった。

「警部、それで私の知恵を借りたいとは、何か事件でしょうか?」

「ああ。事件以外のことで、名探偵の手を煩わせることはないよ」

「どんな事件でしょうか?」


 鞘師警部は、僕の入れたコーヒーを一口飲むと、事件について語り始めた。

「実は、3日ほど前に、とあるマンションで、フリーライターの橋上一男はしがみかずおさん、61歳が殺害されたんだ」

 鞘師警部はそう言うと、一枚の写真を僕たちに見せた。

 これが、橋上さんか。

 年齢のわりには、髪の毛も黒々としている。もちろん、染めているだけかもしれないが。体型は、かなり太めだ。

 3日前といえば、金曜日か――僕が居眠りをしていて地震に気づかなかったと、明日香さんに呆れられた日だ。

 そんな事件あったかな?

「警部、その事件なら、新聞で読みました。鈍器のような物で殴られたとか。でも、犯人は、すぐに逮捕されたんですよね?」

「さすが、明日香ちゃん。よく知ってるね」

 僕は知らなかったが、黙っておこう。また、明日香さんに怒られる。僕は口を挟まずに、静かに聞いていよう。

「その事件が、どうしたんですか?」

「うん。その逮捕された犯人なんだが、伊川恭治いがわきょうじ、29歳。ラーメン屋の従業員で、第一発見者で通報者だ」

 鞘師警部は、もう一枚の写真を取り出した。

 僕は、凶悪そうな顔を想像していたが、とても優しそうな目をした人だ。もちろん、優しそうな顔をした殺人犯だって、いるんだろうが。

「第一発見者が、犯人だったということですか」

 よくあるパターンか(実際によくあるかは、分からないが)。

「しかし、本人は否認している」

「その伊川さんを、犯人だと断定した理由はなんですか?」

「一番の理由は、凶器に伊川の指紋が付着していたことだ」

「凶器は、なんですか?」

「被害者宅の玄関に置かれていた、ブロンズ像だ。かなりの重さがある。それで、頭を後ろから一撃だったようだ」

 鞘師警部はそう言うと、コーヒーのスプーンを凶器に見立て、振り下ろしてみせた。

「これが、ブロンズ像の写真だ」

 鞘師警部は、三枚目の写真を取り出した。

 こ、これは!

 それは、裸婦が立っているブロンズ像だった。これを、玄関に飾っておくのは、僕だったら恥ずかしくて、とても置けない。

「被害者宅にあったということは、衝動的な犯行ということでしょうか?」

 明日香さんは、裸の像であることには、特に気にすることもなく、淡々と話を進めていく。

「いや、本部では、計画的犯行だと見ている」

「何故でしょうか?」

 計画的犯行なら、凶器を用意していると思うが。

「橋上さんは、毎日12時ちょうどに、マンションの近くのラーメン屋に出前を頼んでいたんだ」

 60歳を過ぎて、毎日ラーメンか。健康に悪そうだ。それで、あんなに太ってたんだな。

「この日も、いつものように、12時に電話があった。そして12時15分に、伊川が出前を届けるところが防犯カメラに写っていた。それと12時7分に、誰かが非常階段側からやって来て、12時12分に非常階段側へ向かう姿が写っていたんだ」

「非常階段ですか?その人物が、犯人という可能性はないんですか?」

 明日香さんの指摘はもっともだ。僕だって、そう思う。

「実は、防犯カメラの設置角度が悪くて、被害者の部屋の前は、足元が少し写っているだけなんだ。距離的にも、どんな靴を履いているのかも分からない」

 それは、防犯カメラの意味がないんじゃないか?

「本部の見解としては、その人物が伊川で、一度、非常階段から入り、橋上さんを殺害した後、非常階段を駆け下りて、今度はラーメンを持って正面から入り、第一発見者を装ったというのが、本部の見解だ。伊川は、何度も出前に行っていて、ブロンズ像があることも知っていた。伊川の話では、事件のあった日の1週間前から、置かれていたようだ」

「伊川さんは、お店を何時何分に出たんでしょうか?」

「それが、本人も店の人も、はっきりしないらしい。昼時で忙しくて、いちいち時計など見ていないということだ」

「動機はなんですか?」

「実は、出版社の話では、橋上さんは今日の午後に、原稿を持ち込むことになっていたそうなんだ」

「原稿?」

「ああ。出版社の話では、誰かの正体を告発する物だったそうだ。その原稿の行方は分かっていない。伊川は、知らないと言っている」

「伊川さんについての、原稿だということですか?」

「本部では、そうみている」

 告発って、そんなにヤバい内容なのか?

「いったい、どんな内容なんですか?」

「出版社の人たちは、誰も知らないそうだ。伊川には、傷害の前科があるんだが、5年前に酒に酔って、当時付き合っていた女性に、全治2週間の怪我を負わせたんだ。それをばらされるのを恐れての犯行だというのが、本部の見解だ」

「でも、伊川さんが犯人だったら、どうして自分で通報するんですか?」

 と、僕は聞いた。

「私も、そう言ったんだがな」

「警部、先ほどから、本部本部と繰り返されていますが、鞘師警部の見解とは違うということでよろしいでしょうか?」

 と、明日香さんが指摘した。

「さすが名探偵だな。その通りだよ。正確には、本部というよりは、警視殿の見解だがな」

「それでは、名刑事の見解を、お聞かせいただきましょうか」

「その前に、明宏君。コーヒーをもう一杯くれないか?」

 鞘師警部も、名刑事の部分は、否定しないんだ。


「伊川が犯人だとすると、不自然なことがあるんだ」

「私も、不自然に感じることがありますね」

 明日香さんも、鞘師警部に同意した。

「明宏君も、そうよね?」

 明日香さんに、突然話を振られた僕は、焦った。変なことを言えば、明日香さんを失望させてしまう。

「え、えーと……。その年齢で、毎日ラーメンは不自然ですね」

 僕は、さっき思ったことを言った。

「たかがと言ったら、怪我をした女性に失礼だが、その程度のことをばらされるくらいで、殺すとは思えない」

「私も、そう思います。それに、出版社が取り上げるようなことじゃないですよね。それに、計画的なら、凶器の指紋が残ったままなのは不自然ですね」

 鞘師警部と明日香さんは、僕に話を振ったことなど、なかったかのように二人で話を続けた。何か、むなしくなった。もっと、がんばろう……。

「それと、さっきは言わなかったんだが、凶器の指紋は、伊川の左手の指紋だったんだ。でも、伊川は右利きなんだ」

「右利きなのに、左手の指紋ですか?」

「伊川の証言では、前日に出前したどんぶりの中に、ブロンズ像が入っていたので、左手で取ったそうだ」

 鞘師警部は、左手を上げてみせた。

「どんぶりは、どこにあったんですか?」

「下駄箱の上にあったそうだ。いつも、そこに置いてあるらしい。右手に、おかもちを持っていたため、左手で取ったそうだ。しかも、その指紋がどこに付いていたと思う?ブロンズ像の真ん中辺りだ」

「真ん中ですか?普通、殴るんだったら、端の方を持ちますよね?」

 明日香さんは、さらっと言ったが、普通は殴らないだろう。

「本部の見解では、そこだけ、拭き忘れたんだろうということだ」

「うーん……。そういうことも、あり得るかもしれませんが、それだけで逮捕したんですか?」

 もしそうだったら、とんだうっかりさんだ。

「いや、12時12分に、非常階段へ向かう姿が防犯カメラに写っていたと話したが、その1分前に、隣の部屋に住む4歳の子供が、廊下に出ていたんだ」

「目撃者ですか」

 小さな目撃者か。

「ああ、そうだ。その子供に、伊川の写真を見てもらったんだ」

「伊川さんだったと、言ったんですか?」

「いや、帽子と黒いメガネをかけていたそうだ。黒いメガネは、おそらくサングラスだろう。だから、分からなかった。ただ、背の高い人だということで、伊川で間違いないだろうということになった」

「伊川さんは、背が高いんですか?」

「190センチだ」

「190ですか、確かに高いですね」

 190か……、うらやましい……。

「それで、警部は私に、この事件を調べろということでしょうか?」

「ああ、私は立場上、本部の意向を無視して動くことは、なかなかできない。そしてこれは、伊川の両親からの依頼でもある」

「分かりました。他ならぬ、鞘師警部の頼みですからね。お断りする理由がありません。お引き受けします」

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