赤五輪

 今日はすごく寝坊してしまいました。いつもなら、そうたろうが起こしてくれるのに、今日はきつねさんと遊んでたみたいで、起こしてくれませんでした。

 美咲もお姉さんのねんれいだからそろそろ自分で起きれないといけないのかなぁって思うんだけど、目覚まし時計って知らないうちに止まってるんだもんな。美咲は目覚まし時計向きじゃないんだなって。

 お父さんは美咲の知らないうちに起きてるし、お母さんは美咲が起きたら朝ごはん作ってるし、そうたろうは美咲のこと起こしてくれるし、ってことは、お父さんより早く起きなきゃいけないってことじゃん。

 お父さんより早い時間に起きたことないけど、太陽が出る前に起きてるのかなぁ?

きつねさんが早起きならお父さんが何時に起きてるか見ててもらおうかなって思いました。

 今度お父さんにどうしてそんなに早く起きれるのか聞いてみようと思います。




  時計は七時半を回っていた。朝から何度も鳴り続けている目覚まし時計を乱暴にたたいて、三代は頭だけを布団から出した。窓を開けているのか冷えた空気が頬を苛む。

 ゆっくりと思い足音が近づいてきている。隣の布団に目をやるがそこはもぬけの殻だった。

 夫がいない理由を考えるが、眠気に侵され痺れた思考は何も生みだしてはくれない。次第に三代の目が閉じられていった。

 明るい障子越しに狐の影を見た。




「三代、起きて」


 康介が三代を揺り起こす。うつ伏せのまま規則正しい寝息を立てる三代に反応はなかった。

 手の先だけが布団からはみ出て、目覚まし時計の方へ伸びている。

 康介がもう一度揺り起こすが、意識はどこかへ行ったままだ。


「三代。具合悪いの?」


 と尋ねる。答えがないのは重々承知だった。

 どうしたものかと思って、まずは毛布をはがす。髪の毛との摩擦で、静電気がぱちぱちと音を立てた。

 冬の三代は寝汚い。

 そんなことは彼女との生活でこれ以上ないほどにわかっていた。もとより、起きる理由がなければ昼過ぎまで寝ているような人なのだ。美咲の世話と庭の手入れで春先から秋ごろまでは這うようにして出てきていたが、雑草との戦いがなくなった途端にだらしない生活を謳歌していた。


「三代、起きて」


 今度は上掛けまではがして康介が揺する。ようやく枕に押し付けたような声で「うん……」と反応があり、彼の仕事が報われ始めた。

 迷子になっていた手が毛布を探し始めて、あたりをふわふわとたたく。

 声にならない声で何かを唸っているが、それは康介への恨み言か、それともほかのことか。

 気を抜けばまた元の場所へ急降下していく意識を繋ぎとめるために障子をあけ放つと、室内に日光をいっぱいに取り込む。

 颯太郎の唸り声に似たものを上げて頭を振る三代に康介は思わず笑った。


「今日のご飯は私が作るからね。できたら起こしに来るから、それまで寝てなよ」


 寝ぐせでうねった髪の毛を撫でつけて康介が三代に言う。頭が緩く縦に動いていた。

 康介が出ていってしばらくすると、床を伝って子供の足音と犬の足音が聞こえる。

 今日は家族全員で寝坊か、と三代が思った。

 朝日を浴びた背中は暖かいが、冬の室温は寝起きには応える。三代がうつ伏せのまま腕だけで毛布を探していた。

 しばらく彷徨って、見つけ出したものを引き寄せて、体に巻き付けるようにする。頭がしっかりとし始めたのに伴って、三代がうっすらと目を開けた。

 朝日に刺されて目が焼けるようだった。目の奥がぎゅっと痛んで思わず目を閉じてしまう。涙がジワリと浮かんだ。

 瞼の裏に焼き付く残像に、動物の形を見る。

 部屋の中に気配が確かにあった。 


「きつね」


「……なんだ、気が付いていたのか」


「そこまで耄碌してないよ」


 枕に顔を押し付けたまま三代が不機嫌そうに答える。頭はまだしっかりしていない。思わぬことまでしゃべってしまいそうだった。

 そんな三代を見抜いているのか、狐がくすくすと笑っているのが分かる。

 いやな生き物だ。

 三代が枕に顔を押し付けたまま黙ってしまったので、また深いところへ落ちてしまったのかと思って狐がしっぽを揺らす。

 敷居をまたぐのを見計らっていたのか、三代が狐の方を見た。


「なんでまだここにいるのよ」


 顔にかかった前髪の隙間から、眠気にとろけた黒い瞳が狐のことを睨んでいる。その表情は美咲が恨めしそうにするときにそっくりだ。声はわずかに震えている。


「離れていってもよかったのに」


「離れる理由がないしな。それに、ここは俺の土地だぞ」


「そんなに好き?」


「……何が?」


 三代が言おうとしている言葉が何となくわかってしまって、狐がわずかに怯む。


「美咲のことよ」


 思い上がりも甚だしい。人間の子供など狐にとってはただのうるさい生き物でしかなかったし、彼が美咲を気にかけるのにはもっと違う理由があった。

 三代は親の欲目で美咲がこれ以上ないくらいかわいく見えているだけに違いない。きつねにはそんなことまで分かっていた。 


「そんなに好きなのね」


 狐は何も答えなかった。答えずとも、三代がすべてを見抜いているのを知っていた。


「あの子はいい子よね。だから、時々それが憎らしくなる」


 思いがけぬ独白に、狐の尾がざわついた。表情のない彼に変わって感情を表に出そうとでもするかのように、せわしなく動く。手の甲同士がぶつかるごち、という音が聞こえた。


「身内じゃなかったら案外殺しちゃってたかもしれない。でも、私はあの子のお母さんだから、そんなことは絶対にしないし、させないわ」


 狐を見る目がぬらりと光った。硬い表情の中に何かを匂わせる。母親の気持ちなど、狐にはわからなかった。


「……誰にも」


 低くなった声が、唸るように言った。体がわずかに起き上がろうとしていた。


「何に変えてもあの子のことを守ってあげるのよ。私がそう決めた」


「人間なんかに何ができるよ」


「何でも」


 三代がすぐに答えた。


「人間だから何でもできるわ」


 その真意は。

 生きている者と、そうでない者の狭間を見ている彼女は何を知っているというのだろう。胸の奥底に何か恐ろしい秘術を抱えて彼女は生きているらしい。

 夏の夜のことを思い出して、狐は薄ら寒い気持ちになった。

 彼女は母親として美咲のそばにいるのではない。

 あの天真爛漫な娘は普通の子供として生かしてはもらえないのだ。それは、美咲の血のせいか、それとも目の前の恐ろしい母親のせいなのか。 


「ねぇ、狐。あの日話したこと覚えているかしら」


「ああ」


「私、気持ちはあの時と全く変わってないわ。だから、あんたに言うけど――」


 視線は狐よりもずっと後ろにある。


「どうか、あの子の前から姿を消してよ。そうでないなら、もっと強くなって」


「どっちもいやだね」


 三代の眉間にしわが寄る。今までトロンとしていた瞳が突然に黒い色を取り戻した。

 狐の尾たちがざわざわと揺れる。


「あれは強くなる。普通に生きていたとしてもな。だから、俺は何もしない。俺は化生の者だから、そうでないものに手を出すのはやめてるんだ。碌なことはないからな」


「そんなはずないわ。あの子も私たちと同じよ」


「同じなものか」


 あの子供は三代とは全く違う道を歩むだろう。

自分がそれを一番望んでいるくせに、血は争えないというのを否定するのが三代は嫌なのだろう。自分は争いから抜け出せなかったから。

 美咲が抜け出すことができるのならば、自分の努力が足りなかったということになってしまう。

 きっと三代はそれが許せなかったのだろう。

 自分は何よりも努力したというのを否定したくないのだ。

 だから、不幸な自分と不幸な娘を天秤にかける。 


「あの子はお前みたいに弱くないよ」


 狐が首を振りながら言った。尾は戸惑ったように後ろにのけぞった。


「そんなものか」


 三代があっけらかんと言った。目元はまたトロンととろけている。小さな子供のような舌足らずの呟きに狐が一歩後ろに引いた。

 顔にかかった髪の毛を指でのけて、三代が狐を見やる。


「美咲のことが好きで好きで仕方がないというのならそれでもいいわ。歓迎しましょう。でも、あの子についていくというのなら彼女の弱い命が尽きるまで一緒にいる覚悟でいなさいね。それこそ、あの子が眠りについてもずっとあんたは傍にいなきゃだめよ。

それが約束できないっていうのなら、彼女のそばにはとどまらないで。彼女の周りに死なないものを置いておくのはやめて」


「どっちも約束できないっていうなら?」


「私、あなたを殺すわ。絶対に」


「人間風情に、何ができるかね」


「人間だから、何でもできるのよ」


 三代はまだ何か秘策を持っている。しかも、考えるのも恐ろしいような。自分も周りも地面にたたきつけてすりつぶす気に違いない。

 美咲を守るためならば、そんなことだって平気でできる女なのだ。

 だから、美咲の母親にはなれないのだろう。


「覚えておきなさい。私の決心が固まったなら、その時が来たのなら、あんたは自分の存在を後悔することになるわ」


 白い指先が狐を指さした。何か字を書くように、指先は細かく揺れていく。


「化生の者に生まれたことを後悔すればいいのよ」


「俺が選んだわけでもないのに?」


「美咲だって私の娘に生まれてくることを選んだんじゃないわ」


 間違ったことは言っていない。今の自分を選んでいるものなど誰もいないのだ。故に、自分よりいい境遇の者が憎くて仕方がないのが人間だ。


「でも、あの子は私の娘に生まれたことを恨みこそすれ、後悔なんてことはしないでしょうね」


 誰よりも周りを憎んで、誰よりも娘を好きでいようといている女がそんなことを宣っている。


「だって、私はいい母親ですもの」


 三代がニンマリと笑んでいた。その顔の下にある決心を狐は拾えずにいたのだった。

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