赤四輪
そうたろうの抜け毛が多くなってきました。
くしでとくとごそっと抜けるの。くるくるって丸めてお父さんの着物にくっつけとくの。去年は五個もくっつけてさすがに怒られたので、今年は四つくらいにしておこうと思います。
お庭にそうたろうの毛が飛んでることがあって面白いです。
きつねさんが面白がって追いかけてたけど、そのうちにそうたろうに追いかけまわされてました。
ふようの木にも引っかかってて、クリスマスツリーみたいになっててきれいでした。
お母さんが全部取ってたけどね。
そうたろうの毛を集めて小さいそうたろうのキーホルダー作れそうだから、作ってみようかな。
屋根裏部屋、秘密基地、宝箱。その場所にはたくさんの名前が付けられていたが、一つ確かなことと言えば美咲がその家の中で一番好きな場所だということだった。
二日に一度は掃除をして埃やごみ、颯太郎の毛を取っているし、康介が付けてくれた明り取り用の小さな窓はいつもピカピカに磨かれていた。あるいは、美咲個人に与えられている子供部屋よりも清潔かもしれなかった。
その日も美咲は颯太郎を連れ込んで、その屋根裏部屋で一日の大半を過ごしていた。床には本や、お菓子の袋、日記帳が転がっている。
美咲がタオルケットの上でごろりと仰向けに寝返った。
覚醒した脳みそが誰かを探している。
「お母さん……」
そう小さく呼びかけると、手のひらに颯太郎の濡れた鼻先触れた。冷たさが指先から順に脳みそまで伝わって、美咲はようやく現状を思い出した。
父は朝から仕事で、母親は午後から急用ができて外出をしている。今はこの家に自分一人だ。
そう思った時に、颯太郎のしっぽが目に入る。一人ぼっちであることを心の中で訂正した。颯太郎がいるし、狐だってこの家にいる。
狐はいつも屋根裏部屋には上がってこなかったが、上から声をかければ時折返事があった。
康介が取り付けてくれた丸い窓から西日が強く差し込んでいる。南向きの窓の下は縁側が見え、その先には庭と竹林が見えた。斜めから覗き込むようにすれば、玄関へと続く石畳も見える。来客があれば美咲にも分かるようになっていた。
ここは美咲の城だ。
三代も康介も滅多に上がっては来ない。
だが、美咲がそこに籠ることに何も言わなかった。
颯太郎の触り心地のいい尾を弄んでから、床の上をゴロゴロと転がってタオルケットから脱出する。彼も面白がるように美咲についてきていた。
ちょうどいいところに転がっていた三代の本を手に取って読み始める。内容は珍紛漢紛だったが、それでも母親の真似事をするというのは美咲にとって楽しいことに変わりはなかった。
漢字のいくつかには三代の手によってフリガナが振られてはいたが、それでもまだ美咲が読むには難しい。
三代の前の仕事の時に使っていた本であるなら尚更だった。
美咲が本を流すようにめくって行って、挿絵のあるページでぴたりと止める。相変わらず珍紛漢紛なそれを眺めて上機嫌だった。
伸びるのが早い西日が美咲の足先を焼いていく。
ふと母親が出かけてから何時間ほどたったのだろうかと美咲が顔を上げた。
すぐにでも帰ってくるのか、暗くなるまでかかるのか、彼女はそれすら知らなかった。
屋根裏の小窓から玄関先の方を覗くが人の姿はない。
その時、インターホンの音が家中に鳴り響いた。
誰もいないその家に、電子音が悲しく続く。
美咲が顔を上げた。
窓から見ていた時には誰も通って行かなかったような気がするが、インターホンは確かに鳴っていた。
わずかに違和感を覚えながら、美咲が体を起こす。
しっぽを振る颯太郎を抱えて、梯子のようになっている屋根裏部屋の階段を下りた。
焦れたようにもう一度インターホンの音がする。
「はぁーい」
と、美咲が大きな声で返事をした。
足早に玄関の方へかけていく颯太郎を追って、美咲も走り出す。
角を曲がったところに、白い姿が見えた。
「あ、狐」
玄関前の廊下にその白い姿を現して、狐が一匹鎮座していた。九本の手が広がって、美咲を通すまいとしているようだった。
立ちはだかるようにしている彼を美咲が不思議そうに見つめる。颯太郎は嬉しそうにしっぽを振っていた。
狐が細い目を開ける。夕日よりも赤い光が美咲を見た。
「やめておけ」
「お客さんでしょ?」
夕日の強い光を受けて、黒く伸びた影が狐の足元までやってきていた。ゆらゆらと揺れるそれを、彼が踏みつけるようにしている。
「出るな」
狐が強い口調で言った。
美咲が何かを悟ったように息を吐く。
口元はわずかに笑っていた。
「人間じゃないのね」
「……三代か康介が帰ってくるまでは部屋か屋根裏部屋でおとなしくしてるんだな」
狐の尾が屋根裏部屋への階段を指す。
「どうせこの家には入ってこれやしない」
「……本当に? 前の家の時は入ってきていたよ?」
「入ってこないようにこの家に引っ越したんだよ。早くいけ。怖い思いしたくないんならな。俺はここで見ていてやるから」
「狐は一緒に来てくれないの?」
「その犬がいるから大丈夫だろ。俺よりも頼りになるぞ」
「そうかしら?」
美咲が狐に飛び掛かろうとしている颯太郎を手で制した。
「この子は何にも知らない赤ちゃんだよ?」
鼻先を触った手がそのままぁれの頭へと回る。その場で座り込んだ彼を誉めるように撫でると、美咲の手はぶらりと力なく落ちた。
再びインターホンが鳴る。
「颯太郎が見ている世界には美咲とお父さんとお母さんと、狐さんしかいないんだよ。みんなが見ている世界みたいな、黒いものや、腕がいっぱいあるのや、首を絞めてくるものはどこにもいないんだよ。
颯太郎はどうして今インターホンが鳴ってるのかもわからない。この影だって見えてない」
美咲が足元を指さした。揺れる影が先ほどよりも大きくなったような気がする。
「颯太郎はこんな時美咲のそばにいてくれるしかできないんだ。美咲は怖いよ。颯太郎は死んじゃうかもしれない」
「死にやしないよ」
と狐が影を踏みながら言った。
白い顔が美咲の方を振り向く。
「死にそうなのはお前の方だ。だが、俺が死なせやしない。だから、おとなしく屋根裏へあがれ。三代が帰ってくるまで下りてくるなよ」
「狐さんは来てくれないの?」
美咲の心細そうな声に
「俺は行けないんだ」
と狐が苦しそうに答えていた。
インターホンがまた鳴る。
扉をたたくような音が混ざり始めたのを聞いて、美咲は颯太郎を連れ立って屋根裏へと上がって行った。
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